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心は脳が作り出していますか?
(つまり死んだら心も全て消滅する)

それとも心と脳は別であり、
人の寿命が来て脳が死んでも心は生きていますか?
(つまり死後の世界がある)

私は迷っています。

中国唐代の禅匠である
黄檗希運禅師の言葉を引用すると

感知されたものは感知するものではありえない。
われわれはいろいろなものを見ることができるが
見るものを見ることができない。
感じるものを感じることはできず、触れるものを触れることはできず、
嗅ぐものを嗅ぐことはできない。
そのように知るもの(心)を知ることはできない。
知る心はさまざまなものを対象的に知ることはできるが、
知る心を対象化して知ることはできない。
だから知るものである心を脳と同じような対象的な存在として扱い、
それを脳と関連づけて〈心は脳の働きだ〉というのは
正確な理解とはいえない。

とあります。

この考えは理解できるのですが、
であれば何故、薬物などを摂取すると
(大麻、覚せい剤、シンナー、コカイン、ヘロインなど)

心まで変わってしまうのでしょうか?
それは脳に影響を与えるから
心が変わっているのではないでしょうか?

そう考えると、心は脳が作り出したもので
死ぬとすべてが消滅する、
というほうがしっくりくる気がします。

答えの出る問いではありませんが
みなさんはどうお考えでしょうか?

よろしくお願いいたします。

A 回答 (17件中11~17件)

こんにちはです。




(自然)現象を物質や力(相互作用)に還元して見る自然科学的な立場からすれば、
  こころは脳が作った
でしょう。
否定しません。かつてこの世界にいた人間として、至極もっともで合理的な考え方だと思います。

しかし、物質をはじめとする外界の事物の存在は、こころがなければ(もしくは心をアプリオリの存在としてとして前提としなければ)確かめようがない。感覚を通じて、その感覚の発生原因である外界の事物の存在を心が推知し、認めるから、外界の事物の存在性がある。
「われ思うゆえに、われあり」ですよ。

仏教の話が出ていたので、ちょっと仏教の話。
(最近、仏教の話や宗教の話ばっかりしているな~。多くの人から、僕は仏教・宗教オタクと勘違いされているんだろうな~、きっと。僕の基本的なモノの見方は、自然科学的なモノの見方なんだけれど、ポリポリ)
仏教では、事物・対象と感覚器官、そして心、この三つが揃ったときに、はじめて認識作用が生じると考えます《三者和合》。この三者のいずれか一方が欠けても、認識は成立しません。
こうした考え方は、目の不自由な人のことを考えれば、さして不自然な考え方でありません。眼という感覚器官になんらかの不具合が発生し、視覚が成立しないだけのことです。「目の不自由な人に視覚、見る心がないから、見るという認識が発生しない」のではなく、《縁》である眼に損傷があって、見るという認識は発生しない。仏教では、このように考えます。
こうした仏教の認識論にしたがって、脳を心の感覚器官、すなわち《意根※》と考えればいいだけの話です。
死ねば、脳の機能が失われて、こころが発生しない。
薬物を利用して、脳の正常な機能が失われれば、心もその影響を受ける。
いたって自然主義的・経験論的で合理的な考えだと思いますが。。。。

なにも、心は脳が作ったと大上段に構える必要はない、と思います。
脳は、心の発生に必要な数多くの原因、仏教でいうところの縁の一つと考えればいいだけの話。縁が欠ければ、その心理現象は発生しないだけです。
No5さんの回答に
  わたしは、子供の頃死んでしまった祖父母のことを覚えていますよ。
  優しかったその心も。
とあります。
優しかった祖父母の心、心のあらわれである行動などが縁になり、今もNo5さんの心の中で、祖父母さんたちの心が生きつづいている。
その意味で、(祖父母の)心は、脳や肉体が消滅してしまっても、存在しうる。
それでいいんじゃないですかね~。

なにも、自然科学的な見方が全てではなし。自然科学は、所詮、物質と力、相互作用という切り口からの現象の見方、その体系に過ぎませんって。
自然科学のいう心と、わたしたちの《こころ》が同じものである保証は、どこにもありはしない!!



(※)
意根:仏教で考える意識の感覚器官。《意根》については、いま生起している心の前の心を意根とするもの(まぁ記憶みたいなものです)や、心臓、すなわち、《心基》を意根とする二つの見方があります。日本の仏教や大乗仏教は、《前の心》説で~す。《意根》は《無間滅の意》である、とか小難しいことをいいます。
《意根》は、記憶みたいなもんですからねぇ~、記憶の保管場所として《脳》を想定すれば、脳は《意根》であるという考え方もできるのではなかろ~か、というわけです。あくまで、個人的で場当たり的な見解。
大体、僕自身、《意根》が脳であるなど、これっぽっちも考えていないし(笑い)
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人間限定で考えるからまどわされるのではないでしょうか。


刺激を与えると動くだけの単純な神経を持った生物(植物含む)から始まってるのです。
進化すると神経が反応する条件が複雑になります。
体を動かすことであったり、温度を感知する神経が増えたりどんどん種類は増えていきます。
これらの伝達信号を発信する場所が脳ですよね。
神経の複雑化が脳の複雑化に直結するわけです。
感情や考える事も神経を動かしてるだけなんです。

脳が単純なほどただやみくもに皆同じ動き(エサを捕獲して子孫を残すだけ)ですよね。
過去の経験を元に危険回避したり、効率よく情報を記憶したり伝達するために感情というシステムができあがったり進化を続けてるわけです。

心=神経細胞と言ってしまうと語弊はありますが、まぁそんな感じですよね。

細胞が死んだ後に死後の情報を伝達する機能があれば死後の世界あるといえたのですが、ない以上はやはりないのです。

心といえど、物理的な世界だと思います。死んだ細胞が分解されていく様こそが死後の世界だと思います。
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私はこう考えます。



>知る心はさまざまなものを対象的に知ることはできるが、
>知る心を対象化して知ることはできない。
>だから知るものである心を脳と同じような対象的な存在として扱い、
>それを脳と関連づけて〈心は脳の働きだ〉というのは
>正確な理解とはいえない。

この文章で言う、「知る心」は、体の目の様な役割をしていますね。

自分の「目」を使って、自分自身の体を見ることが出来ても。
「目」そのものは、死角と成って見ることが出来ない。
見ることが出来ない、「心」と「脳」の働きを
〈心は脳の働きだ〉というのは正確では無いのでは・・・

例えて言えば、
脳をPCやゲーム機と言った、ハードウェアに例えることが出来ます。
心はRPGゲームや表計算ソフトと言った、ソフトウェアに例えることにします。

PCやゲーム機が壊れてしまっても、別のハードウェアで同じソフトウェアを起動しデータを読み込めばまた別の環境でゲームの続きやデータ処理等が行えます。

心と言うより文化や文明と表現した方がしっくり来るかもしれません。

>そう考えると、心は脳が作り出したもので
>死ぬとすべてが消滅する、
>というほうがしっくりくる気がします。

私には、死ぬと全てが消えて無くなるとは思えないのです。
心は表現することを好み、表現されたことは誰かに伝わります。
完全に伝わることは、ほぼあり得ないことですが。
表現したことが時として、何百年も残りずっと後の時代の人に伝わることもあります。

わたしは、子供の頃死んでしまった祖父母のことを覚えていますよ。
優しかったその心も。
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科学的に証明出来ないので、個人で判断して下さい。


禅の下りは、誤解ですね。それが脳に起因するしないではなく、形なき心というものが、自分の世界の真ん中で働いていると言う意味合いです。形なき心を自分で縛るな。と言う知恵です。
私個人は、脳は万能では無いと思ってます。
脳が口を利ければ、「何でもかんでも、私のせい?」と苦情を言うかも、と思ってます。
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哲学的には良くわかりませんが、科学的に考えると、


心というのは人間がその進化の過程で手に入れた思考回路のことで、
脳により維持されホルモン等のバランスによってコントロールされています。
脳に血液がいかなくなって数分でその機能はすべて失われることが、
死という常態であると理解しています。
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答えは出てます。

 生き物は死ねばそれっきりです。心とか脳とか関係なく
喰えるか食えないかの肉の塊になるだけです。 そのあとは不排ガスが出て、組織は融解し解けて腐る
ただの物質です。
そんなものに感情移入する必要がありません。
利用できるか儲かるか、それ以外に価値なんぞありませんから 人肉なんて
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脳に心があるというのはまだ証明されていないはずですよ。


心というと範囲が広すぎますが、脳という機械から意識というものが発生するメカニズムが解明されていないそうです。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2756493.html
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