初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?
神武天皇は、国王(日本で一番偉い人)みたいなものだったのですか?

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A 回答 (7件)

実はそのことについてわからないので困っているんです。


というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたのであろう。と予測する立場があるんですね。
ですから国家や天皇の成り立ち自体はよくわかっていない中で、神話などの古伝承から国家や天皇の成り立ちを整合性を以って説明できるのでは?と目下奮闘中といった人々もいる。とのあり方が現況では一番進歩が見られるスタンスであり、逆にそのような暗中模索な状況こそが、現在の学界における日本国家成立の研究、ないし天皇支配の淵源の研究などの現状だと思います。

そして天皇(大王)を中心とした国家といった概念が表れたであろうとされるのが、いわゆる4世紀の古墳時代と呼ばれる時代であったことは、考古史料から、特に前方後円墳などの規格性の強い墓制の出現で見当がつきつつあるのですが、そこの詳しい実態は、日本はもとより、3世紀段階における日本の国情を伝えた古代中国の史書などが4世紀時点ではないためよくわからないんです。いわゆる「謎の4世紀問題」ですね。

いずれにせよ『魏志』倭人伝などの記述から、卑弥呼が活躍する前後(3世紀)にあっては「倭国大乱」と評価できる内戦状態が、その規模は別として事実あったのでしょうね。もちろんその戦闘状態は天皇の出現と無関係であるとも思えないんです。その様な中、詳しい経緯はわかりませんが、倭国大乱と呼ばれる混沌とした戦乱の世にあって、統一的国家としてのヤマト政権を樹立するだけの武力ないし交渉力が、4世紀段階における天皇(大王)の祖先にあったことは疑う余地はないのかな?と思いますし、考古史料などが語る結果から帰納法的に糸を手繰りつつ明らかにしようと試みている、3世紀から4世紀にどのような経緯で歴史がつながるのか?といった問題は、識者はもとより僕に限らず古代史に興味を持つ者が一番知りたい部分なのです。

ですから率直に申し上げれば「初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?」という質問については「こっちが知りたい部分です」といった頼りない回答になり、せっかくのご質問に明確にお答えできないことを心苦しく思いながらも、現状をご理解いただければありがたいと思う次第です。
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神武天皇の実在は疑問視されています。


実在したとなれば、120歳ぐらいまで
生きていた、という計算になってしまう
からです。

他の方が詳しく説明されているように、
神武天皇は後の天皇が創作したものです。
人間を創った神、というのは人間が創作
したものである、と同じことです。

むしろ、天皇という呼称をどうして使った
のか、ということの方が重要です。

それは中国との対等性を主張するためでした。
天皇という呼称は、中国の皇帝よりも偉そうな
名前なので、中国は激怒し、日本討伐の話まで
出たほどです。
中国とは地続きであった朝鮮は、こういうことが
出来ず、ず~と中国の属国状態を続け、挙げ句の果てに
文化の独自性や国家の活力を失っていきました。
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 天孫から皇祖へ ~ 架空の祖先を創造し、暦日まで逆算した ~
 
 旧約聖書の神は、みずからに似せて、アダム(人祖)を創造しました。
 わが国の《日本書紀》も、神の孫(天孫)が地上に降臨して、六代目
にあたる“天孫の曾孫”が初代天皇(皇祖)に即位したと記しています。
 
…… 神武天皇が兄弟や子にいわく「天孫降臨は一七九二四七十余歳前」
と明記される。(略)かくも壮大な年代は(略)世界史上に例がない。
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19920211 天孫降臨余歳の元旦
 
<PRE>
 天孫降臨 BC-179/3148/1029(儀鳳暦)BC-17931570524(元嘉暦)
 世界創造 BC-000/3760/1006(ユダヤ暦)
 神武即位 BC-000/0659/0211(グレゴリオ暦)
 天武即位 AD 000/0673/0320(ユリウス暦)
</PRE>
 
 壬申の乱に勝利した天武天皇が、その正統性を示すため、みずからの
風貌に似せた、架空の神武天皇を創作、第四十代目の再来であると示唆
したのです。天皇の記録《日本書紀》は、現代も書きつがれています。
 
 生而有岐●(山+疑)之姿(生れついての、いこよかなる姿)。
及壮雄抜神武(おとこざかりになって、ををしく、たけだけしかった)。
── 坂本 太郎・他《日本書紀(五)19950316 岩波文庫》P66,391
 
<PRE>
 アダム    BC-37601012 Hebrew BC-2810‥‥ 950 /《創世記/イスラエル独立宣言》
 神武 天皇 1 BC-07220215 Japan BC-05840409 137 /《古事記》記紀異説
        BC-07100213 Japan BC-05840409 125 /《日本書紀》庚午年元旦生れ?
────────────────────────────────
 天武 天皇40 AD 0622?‥ Japan AD 06861001 56 /生年不詳/別称“大海人皇子”
</PRE>
 
 ただし、建国記念の年月日(BC-0659/0211)を、古代中国の春秋時代
(BC-0770~0403)に置いたのは、いまとなっては荒唐無稽です。
 歴史学・年代学・考古学・天文学いずれの面でも、矛盾するからです。
 
 おなじく、イスラエル共和国の独立宣言(19480514)も、ユダヤ紀元
(BC-3760/1006)を明記しています。そのまま信じる人や、疑問を抱く
人、まったく信じない人々が共存しますが、とくに論争されていません。
 
 関連仮説
 
…… 精密な暦法計算であることを強調したと解釈されます。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …
 暦法の誤差=1792470年前の9年間(20110309)
 
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7541892.html (No.7)20120619
 四大革命 ~ 壬申・関が原・維新・玉音 ~
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6574059.html (No.4)20110307
 
…… 「天皇」が尊いのではなく「天皇の記録」に歴史的価値がある。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5023596.html (No.4)20090609
 歴史の断絶 ~ 史論・試論・私論 ~
 
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誰が初代かすらわかっていないのが現状です。

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まぁ 天皇は渡来人ですから


大陸から渡って来て 俺は強いんだぜ 的に日本人を支配していって
それがやがて天皇になったんじゃないですか?

まぁ おおざっぱですが最初なんてそんなもんです
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文字がない時代の人ですから、誰にも確かなことは分かりません。

文字がないということは文書記録が一切のこされていないということなのです。出来たというのではなくて何百年も経ってから、今から思えば、あのお方こそ初代天皇と呼ばれるに相応しいと満場一致で思われたということなのです。文字がない時代の人ですから、当時に神武だの天皇だのといった呼称があった訳でもない。しかし文字がない時代だからこそ、神武東征などの事跡が何百年も語り継がれているというのは、すごいことなのです。

西洋にはローマ教皇と呼ばれるローマ・カトリックの最高権威が存在し、今では世界中のカトリック教徒に尊敬されています。その初代ローマ教皇がペトロとされています。しかしペトロの時代にはローマには教会など存在しません。当時のキリスト教はローマ帝国から迫害された新興宗教だったに過ぎませんから。それでもペトロはイエスの一番弟子と目される人で、何百年も経ってから、あのお方こそ初代ローマ教皇と呼ばれるに相応しい、他に初代ローマ教皇と呼ぶべき人はいないとされたのです。

神武天皇だって同じようなことです。神武天皇を置いて他に初代天皇と呼ばれるべき人など存在しない。そういう人だったのです。
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 「神武天皇」は実在の人物ではありませんので回答不能です。



 それまで「大王(おおきみ)」と呼んでいたものを、天皇という呼称に変えたのは「天武朝」時代と考えられています。

 天皇という新しい呼称を用いただした理由は、それまでの中国との関係を断ち切るためです。紀元前の「漢」の時からなんと20世紀の「清」の時代まで、東アジアを中心に「冊封体制=華夷秩序」というものがありました。

 これは各地域の支配者は、その時代の中国王朝の皇帝によって「国王」に任命されて初めて正統な支配者となるという意味です。当然日本列島にあった小さな国々も早くから中国の時の王朝に朝貢をして「王」に任じられるよう努力をしていました。

 『漢委奴国王』という金印はご存じでしょう。これは当時の「奴国」の支配者が漢の皇帝に朝貢して、その見返りに、「漢の皇帝よりおまえを奴国王として任命した」という意味の印章です。その他では中国の資料に出てくる「倭の五王」も有名です

 「倭」と呼ばれた支配勢力も何度も朝貢しては「倭王」とか様々な「称号」をもらいます。この時期特にライバルであったのが新羅や高句麗等です。どんな称号をもらうかによって「国際的地位」がいわば上下関係が決まるのだから必死です。

 でいろいろあって、天智(天武の兄)の時代に、唐と新羅の連合軍に敗北したという記事があります。これから倭国の支配者たちは、「華夷秩序」からの離脱をはかります。つまり「倭国の王は唐の皇帝の臣下ではない。対等な王なのだ。」と突っ張り始めたわけです。

 そのためには「倭国」では都合が悪い・・小さな国という意味ですしね。「大王」では「皇帝」にかなわない。そこから新たな国号と新たな王の名称を必要としました。
 そこから出てきたのが「日本」と「天皇」という新たな国号と国王名です。ちなみに「天皇」の「皇」は北極星を表します。天の中心にあるという意味です。

 こうやって「中華帝国・皇帝」に対して「日本帝国・天皇」という呼称を採用することで、東アジアの伝統的国際関係・「冊封体制=華夷秩序」から離脱するために捜索されたのが天皇号です。で、その後一度も中国皇帝の臣下になることはありませんでした。そんなことが出来たのはやはり日本海・南シナ海という海の存在が大きかったでしょうね。
 何度か危機はありました。代表的なのが鎌倉時代の元朝皇帝による日本列島攻撃でした。あれは元朝皇帝の臣下となれ、という脅迫を当時の実質的な支配者であった北条氏が拒否した結果起きたものです。
 
 なお、文書資料によれば平安時代中頃から「天皇」という文字が使われなくなります。すでに中国皇帝の臣下であることと止めてしまうと特に「突っ張る」必要もなくなったからだと思われます。列島内でも使われていなかったというのが最新の解釈です。帝、お上、主上としか呼ばれていたようです。死んだら○○院と呼ばれて葬儀が行われました。○○天皇ではありません。

 死ぬと○○院と呼ばれるわけですが、すべて地名がつきます。白川、堀川、醍醐、宇多、嵯峨、鳥羽、水尾、一条、二条、三条、花山、花園、伏見、朱雀・・・すべて都(京都)の地名です。ほんの少しの例外はあります。

 天皇号が復活したのは江戸時代、それも幕末です。死後、「光格天皇」と呼ばれまつられました。「光格」は地名ではありませんよね。その人の業績を漢字二文字で表す中国風の呼び方です。「天武」「天智」とよく似ていますでしょう。実に700年ぶりの「天皇号」の復活でした。
 現在の系図ではすべて天皇ですが、光格以前はその時代には「院」と呼んでいたのです。天皇と呼び始め、記載されるようになったのは明治以降です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87% …
 上記より抜粋
・・・・・・・・・・・・・・
初代・神武天皇から第62代・村上天皇までは、崩御後の漢風諡号・追号として「○○天皇」と呼ばれていたが、第63代・冷泉天皇から第118代・後桃園天皇までは、「○○院」(例では、「冷泉院」)と呼ばれ、「○○天皇」とは呼ばれていなかった(ただし、安徳天皇と後醍醐天皇を除く)。この「天皇」号が復活するのは第119代・光格天皇のときからである。明治時代になり、すべての天皇を「○○天皇」と呼ぶように改められ、以後、「○○院」という呼称は廃された。
・・・・・・・・・・

 で、これが質問なのでしょうね。「大王」というのは「王の中の王」という意味です。つまりヤマト王権と呼ばれるものは各地の王たちの連合政権だったと思われます。その王たちの中のリーダー、連合政権の首長、という意味で「大王(おおきみ)」が生まれたのだと思います
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87

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