ちくのう症(蓄膿症)は「菌」が原因!?

永倉新八、原田左之助は、近藤勇との意見の違いで

新撰組から離れ靖兵隊を作りますが、どの様な意見の違いが

あったのでしょうか?

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A 回答 (4件)

新撰組局長近藤勇と組長永倉新八との決定的な亀裂は、幕閣勝海舟らの命令により新撰組が甲陽鎮撫隊と称して山梨において薩長軍と勝沼戦争を起こす前後として考えられる、上昇志向の強い近藤は悪知恵のきれる勝の口車(薩長を甲府で撃退したら大名格にしてやる!本当は江戸に置いておくのが嫌で、近藤、土方は薩長の餌食となれ!)に乗り、甲府で敗残を喫す!勝からの命令の時、永倉らは強く近藤に助言したが言うことを聞かずこれが決定的な亀裂となる、その後近藤は薩長に捕縛され板橋刑場の露と消え何日もさらし首にさらされる、一方の土方は宇都宮戦争、会津戦争、函館戦争で生涯を終える、別の生き方をした永倉は会津戦争でけじめをつけ大正時代に生涯を終えた。

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

農民出身だった近藤は、慶応3年6月に直参に取立てられ、更なる大名という野望を

抱いたのですかね?

原田左之助は、元々、武士の出だったので、武士というものに対して

近藤ほどの憧れは無かった、、ということだったのですかね?

そうすると、勝は何故 新撰組が江戸にいることを嫌い、追い出したかったのでしょうか?

お礼日時:2013/03/11 12:46

追記、勝沼の戦いで呆気なく敗退した近藤は落胆と同時に気力も失せてしまう、この時点で益々気力充実化した土方は次の目的を目指す、この差だけで近藤の心中は蝉の抜け殻になってしまった、私が近藤の立場だったら土方と同じく徹底的に巻き返しをしますな、一方の勝は龍馬の仲介によって西郷と桂が手を組んだのでむしろ目の上のタンコブである近藤、土方は邪魔者でなるべく西郷、桂、大久保、板垣達に殺されれば良いと思っていた、愛人が10人もいた勝は日本の命運を取るより女を取った、それにより幕臣の彰義隊をも全滅に追いやった、今の軍法会議に賭けられれば間違いなく勝は処刑でしょうな、最後に晩年の永倉は映画館かどこかに孫を連れて行った時、ヤクザに絡まれ目つきの鋭い永倉は刀を持ってはいなかったが威圧でヤクザを追いやったというエピソードがあります。

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この回答へのお礼

再度の回答 ありがとうございます。

近藤勇って、人柄が良かった(お人好し?)のですかね?

だから慕われた、、、のかとも、、、。


土方歳三の強かさは流石です。

勝海舟は、女好きで有名ですよね。

私は、徳川慶喜は、いまいち好きになれません。

若い時代に過酷な刻を送ったためでしょうか? 世の中、なる様にしかならない、、

って達観し過ぎた感じがします。

ありがとうございました。

お礼日時:2013/03/11 20:56

近藤は永倉たちのことを「部下だ」と思っていて、永倉たちは近藤たちに対しては「部下じゃねえ、同格だ」と思っていたんです。

だから、どのみちいつかは袂を分かつ運命であったともいえるでしょう。

新撰組は元々一枚岩だったのは近藤や土方らのグループだけで、あとは政治的な思惑で集まった人たちに過ぎません。だから芹沢鴨を始めとしてやたらと内ゲバが多いのです。
まあ民主党みたいなもんだったということですよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

民主党ですか、、、(笑)

私も、民主党は、嫌いですが、、、。

民主党みたい、、、といわれたら、新撰組がお気の毒、、、ですね。

壬生浪士から新撰組として生きたのは、たったの5年間ほど。

徳川慶喜に、武士に取り立てて貰える、、、という餌を撒かれて いい様に利用されたのですかね?

ちょっと、可哀想、、、です。

お礼日時:2013/03/11 12:58

池田屋事件でボロボロになるまで戦ったのに近藤だけどんどん地位が高くなったので




「近藤さんは局長ではあるけど俺たちはあなたの家臣じゃねぇぞあくまでも同士だ」

ということだったと思います
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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございます。

永倉も原田も食客として、長い間、盟友だと私は思ってたのですが、、、。

そんな単純なことで袂を分けたのですかねぇ∽??

回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/03/11 12:36

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Q近藤勇と土方歳三の関係について質問です。

近藤勇と土方歳三の関係について質問です。

土方歳三はなぜ近藤勇を大将とし、付いていこうと思ったのでしょうか。
近藤さんは人柄や性格が素晴らしいとよく聞きますが、彼の最期はその性格のように潔いものではなかったように思います。
近藤さんの魅力とはなんだったのでしょうか。

事実に基づくことでも推測でも何でも構いません。

私は小説やドラマなどの印象が強く、史実に関してはあまり詳しくないので、この「にわかがっ!!」と思われるかもしれません。すいません。
よろしかったら回答お願いします。

Aベストアンサー

そんな難しい話ではないんじゃないですかね。
1.近藤の方が年上である
2.近藤は二人の出身母体である試衛館(天然理心流)の4代目宗家である※土方は傍流の門下生です
この2つの理由で充分じゃないかと思いますが。
要するに浪士組に入る前から近藤は土方にとって先輩であり師匠格であったはずで、最初から上下関係があったと見るのが普通かと。

近藤の最期は、隊が包囲された時に切腹しようとしたのを土方に説得されて偽名のまま投降し、何とか逃れようとした(いち隊長であれば殺されはしない)が見破られて処刑された、という話ですよね。
彼の性格云々ではなく、油断したところを包囲されてしまった近藤(土方も居ましたが)と、既に敗北を悟った状態で戦いに出た土方の状況の違いだと思いますけどね。

Q近藤勇が流山で新政府軍に投降した時についての疑問

近藤勇が流山に逃れていた時に新政府軍に包囲され、
切腹しようとするのを土方歳三が止めて、新政府軍に
投降させたと本に書いてありました。
私の疑問は、包囲されている場所からどうやって歳三は
逃げることができたのかということです。
よく逃げることができたなと・・・
それとなぜ投降を勧めたのか、ということも疑問です。
どなたかよろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

>私の疑問は、包囲されている場所からどうやって歳三は逃げることができたのかということです
近藤勇は流山で捕まった訳ではありません。
当初は、大久保大和と名乗って、徳川家公認の治安隊であると主張しました。
近藤勇の面体を知る者がいて見破られて板橋宿で捕縛されています。
土方以下の連中は流山にいました。

徳川家公認の治安部隊の指揮官が出頭して来たとなれば、当然戦闘は一時休止となります。
流山にいた連中はその間に移動できました。
下記のサイトに説明があります。

新選組の足跡 ~流山編:近藤勇・土方歳三離別の地~ - 中年になっての ...
blogs.yahoo.co.jp/miyahamakisa/44975428.html

>それとなぜ投降を勧めたのか、ということも疑問です。
元々甲府へ行くことを目的としていましたが、モタモタしている間に難しなってしまいました。
止む無く、水戸もしくは奥州を目指す腹積もりだったようです。
奥州会津藩は最後まで抵抗しました。
単なる投降ではなく、不利な戦闘を回避して兵力を温存すべく交渉に向かっただけです。
全面降伏の投降であれば、大久保大和などという偽名を名前を名乗る必要はありません。

流山で無駄死にするよりも、水戸または奥州で陣営を立て直すべきだというのが土方の考え方であったようです。
土方自身流山を離れた後、宇都宮城奪回や松前城陥落などで戦場の指揮官として戦い続けています。
最後に榎本武揚と合流して函館の五稜郭に立てこもりましたが、籠城を好まずに打って出て戦死しています

新撰組は京都で薩長の連中を多数殺害していますから、薩長軍としては絶対に見逃せない一団でした。
一方で包囲軍の中に土佐の連中がいて、連中は、坂本竜馬、中岡慎太郎暗殺の犯人を新撰組と信じて近藤勇を仇敵と看做していましたから、報復懲罰を主張しました。
包囲軍の指揮官である薩摩藩兵、有馬藤太は、新撰組による身柄奪回襲撃を恐れて土佐の連中の主張を受け入れて近藤を切りました。
報復懲罰ですから、武家としての切腹ではなく罪人としての斬首でした。
後に、薩長の本陣の人達から、近藤勇は生かしておくべき人物であって、無駄な処刑は何事か、と激しく糾弾されています。
現に函館で抵抗した榎本武揚は明治になってから新政府の高官として働いています。

とまぁ~伝えられてはいますが、本人の供述が残っていませんから、本人達が本当のところ何を考えていたかは分かりません。
ただ、誰も戦闘のための戦闘などという無駄なことはやっていなかったということです。
何らかの目的を達成するための手段として戦闘行為を続けていただけです。
目的達成のためなら戦闘の休止、交渉、撤退などなんでもやります。
ドンパチやったり切ったはったが目的なのは、ヤクザ者の喧嘩ぐらいです。

>私の疑問は、包囲されている場所からどうやって歳三は逃げることができたのかということです
近藤勇は流山で捕まった訳ではありません。
当初は、大久保大和と名乗って、徳川家公認の治安隊であると主張しました。
近藤勇の面体を知る者がいて見破られて板橋宿で捕縛されています。
土方以下の連中は流山にいました。

徳川家公認の治安部隊の指揮官が出頭して来たとなれば、当然戦闘は一時休止となります。
流山にいた連中はその間に移動できました。
下記のサイトに説明があります。

新選組の足跡 ~流山編:...続きを読む


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