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ヨーロッパ最古の大学はイタリアにあるボローニャ大学で1088年に創立されたと言われています。

まず一つ目の質問として、古い大学にはオックスフォード大学やパリ大学などもありますが、当時のイタリアは他国と比べて先進国というイメージもなく(あくまで私の中でです)、知的好奇心に溢れていたと言われるような有名な王様の名前も特に存じていません。そんな中で、どうしてイタリアでヨーロッパ最古の総合大学が作られることになったのでしょうか?当時のイタリアにはそれを成し遂げる文化的に成熟した基盤が成立していたということでしょうか?

二つ目の質問として、一つ目の質問と趣向が変わるので分けて考えて頂きたいのですが、なぜ古い大学の多くがヨーロッパ地域に集中し、なおかつ昔から今に至るまで現存している大学の数が際立っているのでしょうか?
アラビアにもアズハル学院等や、インドにもナーランダー大学があったことは存じています。しかしアラビアやインドは、結局世界の覇権を握るには至りませんでした。
ヨーロッパが強大になった背景には知識の共有や科学の存在があり、それを成し遂げたヨーロッパ人を生んだのは上記の総合大学です。
まだ西暦1000年前後のころはアラビアにもアズハル大学があったし、知性の殿堂は欧州以外にもあったのです。この時点では後に欧州が抜きん出る理由も差もなかったはずです(もしくはもう生まれていたのか?)。大航海時代もルネサンスもそれを担ったのは人で、その人を育てたのは教育機関あればこそです。

私は以前からヨーロッパが覇権を握った理由についてその根拠を考え、様々な理由はあるにしてもやはり教育機関がその任を負ったと考えるようになりました。
でもこれは卵が先か鶏が先かで、その教育機関は何を背景にして生まれ、なぜヨーロッパに生まれ、なぜ他国ではなかったのかと疑問を感じるようになりました。私は結果から原因を考える人間です。つまり欧州がその後圧倒的な強さを誇った以上、それには個々の事例ではなく大局的な理由があったのだと考えています。
今回の質問もそれをお聞きできればと思っているのですが、いささか主旨が曖昧になったやもしれません。
皆さんのご意見・ご回答をお待ちしています。よろしくお願いします。

A 回答 (6件)

続きです。



さて、真理の解明に命がけになる学者。その生活を支える人々。それが一時的では無く、長く、そして組織的に行われた西洋とその他の大きな違いはどこから、生まれたのでしょうか。
それは、社会学者マックスウェーバーとその亜流が唱える、「近代はキリスト教から」「宗教の合理化から近代の合理主義へ」だと思います。

ローマ帝国が滅んだ後、野蛮なゲルマン・フランクの人々は、ギリシア学問を継承しませんでした。継承したのは、マホメットにギリシア学問を勧められたイスラム教徒の学者達。これは、アルコールのアルはアラビア語という逸話で有名ですね。そして、イスラム教徒からギリシア学問を輸入したのはキリスト教のカトリック教会。学者たちの生活と研究を組織的に長期的に支えたのはカトリック教会なのです。
「宗教と科学は一致する」はオカルト。「宗教と科学は反対」は左翼思想。史実に近いのは、「中世の宗教は科学のスポンサー。でも研究内容に口出しが多いので後に科学者に嫌われる事もあった。」

また、動機と世界観についてもキリスト教の提供が大きいです。
「ただ一つの理論により、すべてが動かされている。説明できる。ニュートンのリンゴが落ちるのも法王様のリンゴが落ちるのも、ただ一つの理論で説明できるはずだ。その理論を解明することで神の真理に近づける。」
日本では、「その時、その場所、その物、その人の事情がある。理由は一つでは無いのだ。信長様と足軽某では、それぞれに事情がある。それが分かって大人だ。」

さらに、キリスト教の特徴として、「聖書の内容以外の、奇跡を滅多に認めない。」
非常に理屈っぽく、論理的な説明を求め、非論理的な呪術や魔術を弾圧してきたのがキリスト教であります。
宗教改革により、キリスト教は、ますます理屈っぽく、論理的な思考を広めていきました。

宗教改革により、さらに先鋭的なピューリタンの人々は、
神に与えられた職業に懸命に取り組み、合理的に働き、儲けても浪費せず投資にまわし、資本主義経済を作り上げ、伝染させ、後の産業革命を準備しました。北京やイスタンブールに集まった巨大な富が資本主義や産業革命につながらなかったのは、キリスト教による合理化が無かったため、というのが、日本の社会学の主流の考えであります。
実は、西洋の富強は、学問よりも、この資本主義によるものが大きいでしょう。
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この回答へのお礼

みなさん回答ありがとうございました。お礼が遅くなり申し訳ありません。
全て拝見しましたが、ここに代表して言わせていただきます。

回答者様の、聖書以外の奇跡を滅多に認めないというのはなるほどと思いました。内容も詳しく書いて頂きましたので、ベストアンサーにさせて頂こうと思います。
ありがとうございました。

お礼日時:2013/04/12 23:50

教育・研究機関の数よりも、真理を求めるその情熱や動機に注目すべきではないでしょうか?



仮に、ガリレオが日本にいたとします。そこで地動説を唱えたとしましょう。たぶん、「痴れ者じゃ、捨て置け」という扱いになるでしょう。
当時のイタリアですから、「ガリレオの地動説は観測結果との齟齬が大きくて使い物にならない。」という一応は合理的に反駁されたのです。当時の地動説の未熟さを指摘されていたのです。決して、「聖書に書いてない。却下。」と無碍に扱われただけではありません。
このように、真理とは何か?に、双方が命がけで有り、教会の教えに背く者に対しても、可能な限り、ちゃんと論理的に反論しようとする風潮は、近代初期において、世界で西洋が抜きんでていたといえましょう。

申し訳ない。続きは後ほどに。
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 かなり強い思い込みがあるようです。



 まず、大学が科学・技術の進歩に貢献したのは19世のフンボルトとベルリン大学の貢献によるもので、それまでの大学は社会にとって無用の存在であったという見方もあります。
 たとえば、イギリスでの産業革命の展開に大学はほとんど貢献していません。それどころか、現在でも工学部のある大学はごく例外です。

 つぎに、近代以前では著名な知識人や研究者になかに大学教授はほとんどいません。大學の教員は学生に雇われる家庭教師みたいなものでした。それでは不安定なので、ギルドを作って学生団体とはりあったのが教授会の起こりです。

 近代以前の大学に役割は専門職の養成で、科目は神学部、法学部、医学部、文学部(哲学科)に限られていました。

 大科学者や知識人のなかに大学教授を兼ねる者もいなかったわけではありませんが、大学教育にはあまり貢献しなかったようです。たとえばニュートン。

 大学が有能な人材を育成したことは確かですが、大学がなければヨーロッパの覇権はなかったというのは過大評価ではないでしょうか。大学卒業者のうちもっとも優秀な層は教会で高位聖職者になったことを考えると、その感が深くなります。
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先進国というイメージは無いかもしれないが、当時の北イタリアはある意味で先進的だった。

当時のヨーロッパは、領主貴族が農奴を支配するといった古い封建制が基本です。国王なんてものは領主貴族の親玉で、土地の争奪戦を調停するのが任務だっただけです。そういう時代にいち早く自由商業都市として神聖ローマ帝国から離脱していったのが北イタリアの諸都市だった訳です。農業一辺倒の時代に、北イタリアの諸都市だけが商業都市、港湾都市、工業都市として自立し、封建領主の支配を脱して自治権を獲得していきました。地中海貿易が都市の中産階級を育て、学問の力が封建領主の支配を脱する原動力になったのです。

商工業が発展し、都市の中産階級が育った先進的な地域から神聖ローマ帝国から離脱していきました。現代ではオランダ、ベルギー、ルクセンブルク、スイス、イタリアといった国になっている地域です。最後まで神聖ローマ帝国に残った、遅れた封建制度の地域が現代のドイツなのです。

今でこそドイツは工業国のイメージが強いが、それは19世紀後半に統一されて急速に産業革命を取り入れて工業化を中央集権によって進展させたからにほかならない。そのちょっと前までは無知蒙昧な農民が魔女狩りに夢中になっているような暗黒時代だったのです。

今でこそヨーロッパは先進国が多い地域と認識されているが、それはあくまで現代感覚に毒された無知蒙昧な現代日本人の思い込みに過ぎません。歴史的に見ればヨーロッパは、貧しい遅れた地域でした。

ローマ帝国は繁栄を謳歌したけど、市民の堕落と退廃が原因で、蛮族のゲルマン民族に西ローマ帝国が滅ぼされて暗黒の中世になってしまいました。ローマ市民の経済を支えた肥沃な属州を新興のイスラム勢力に奪われてしまうと、もうイタリアには食べるものがないんんです。ローマ帝国が建設した舗装された街道は、蛮族支配によって誰も保守しなくなって枯葉で埋もれて忘れ去られた。ローマ帝国が建設した上下水道は、泥で埋まって使えなくなってしまった。それが西欧の中世時代です。

大航海時代というのは糞尿まみれの貧民窟から若者が一攫千金を夢見て、未知の大海へ冒険の旅に乗り出していったという時代です。長い船旅による壊血病で大半の乗組員が死んでしまう。そうでなくても寄港地で現地の未開人に襲撃され殺されてしまう。生きて帰ってこられれば奇跡というしかない。それでも冒険者は、危険な航海をやめなかった。それは西欧が貧しかったからです。死んでも諦めないハングリー精神が結果的に成功を生んだ。

北イタリアは、東ローマ帝国が滅亡した時に亡命ギリシャ人の受け皿になりました。学者、文化人、聖職者といった知識階級は土地にしがみつく理由がないからです。知識階級の東ローマ帝国からの亡命が東ローマ帝国の衰退を早め、それを受け入れた北イタリアがルネサンスの拠点となりました。

そのルネサンスの学問的成果が大航海時代を支えた科学的ツールとなり、キリスト教の教えが海外進出を理論的に正当化する根拠となったのです。「キリスト教を海外の異民族に広めることは神の御心に適う」という論理で、アジア・アフリカ・新大陸を植民地化していった。地球平面説が信じられていた時代の船乗りは、地の果てから奈落の底に落ちてしまうと信じていたので船で遠出しようとも考えなかったが、そうした馬鹿げた迷信を粉砕したのがルネサンスで復活した地球物理学です。迷信を打ち破るには学問の力が必要だった。

サツマイモ、じゃがいも、トマト、とうもろこし、かぼちゃ、唐辛子、ピーマン、ピーナッツ、イチゴなどは全て新大陸からヨーロッパに移入されたものです。イエス・キリストは「人はパンのみにて生きるにあらず」といったけれど、では大航海時代以前欧州人はいったい何を食べていたのでしょうか。

ルネサンスも大航海時代もキリスト教の手柄です。蛮族のゲルマン民族を1000年かけて文明人に教化したのが、ローマ教会です。そのローマ教会も嘘を教えることがあると気づいて、宗教改革が起きて、近代科学が生まれた。デカルトの方法的懐疑が近代科学を生んだ方法論になった。欧州人は疑うことを知って、初めて宗教と科学を分離することに成功したのです。

日本には科学が存在しない。日本では科学が生まれなかったし、育ちもしなかった。日本の学問は古くは中国から本を取り寄せ、近代では西洋からお雇い外国人を招いたものです。疑うことを知らない日本人には学問的素養が全くない。生徒はひたすら先生の後をついて真似をするだけ。それが日本の徒弟制度で、それは現代に至っても全く進歩がない。日本で大学が生まれなかったのは徒弟制度によって師匠から弟子に技術が伝えられるだけだったからです。師匠が教えるというわけではない。師匠の背中を弟子が見て、見よう見まねでその秘伝を盗み取れという訳。茶の湯や歌舞伎、狂言、生け花、将棋、囲碁といった芸事と同じです。

ちょっとまとまりのない回答になってしまいました。とりあえずここまでにしておきます。
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http://www.cs.kyoto-wu.ac.jp/~akimoto/gakumon%20 …


4.「学問の自由」の歴史的経緯について
 田中建彦「大学の起源と学問の自由」より、以下に抜粋(全文はリンクサイトを見よ) ⇒リンク

このへん参照してください。
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http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_regions_by_ …

1000年の段階でヨーロッパではイタリアがちょっと上だが。
イタリア 450
欧州平均 425

大学の最初は、神学なので、イタリアというのは不思議でないと思うが

二つ目の質問

大学の自治の問題と絡むかと。
中央集権国家では、基本的に王なり皇帝というか王朝が高等教育機関を作ります。官僚養成のため。
逆に言えば、王朝が無くなれば、一旦その教育機関はご破算になります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB% …

、カリフが直接管理するか、カリフに代わる役人が統括して
マムルーク時代に栄えた学校や学林モスクを次々と閉鎖した

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AD%A6_ …
日本の官僚養成の国学も律令制度もういいやぁとなると消滅しています。官立だから。

欧州の大学は、学生が金を集めて教授を雇うという一種の国から独立したギルドだったので、王朝が倒れようと残る確率が上がる。

ハーバード大学はアメリカ合衆国より古いですが、イギリスにおける大学の組織論をそのままアメリカに持ってきてやっています。つまり 私立大学です。
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