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 千利休が切腹になった原因はなんだと思いますか?

 大徳寺の三門の木造の問題などと、言われたりしますが
 理由ははっきりわかっていません。

 ですが、状況からすると、力を持ちすぎたので難癖をつけて
 粛清されたのではないか?と思います。

 「公儀のことは秀長(私)に、内々のことは宗易に」という話がありますが
 この言葉は大友宗麟へ豊臣秀長が言った話として伝わっていますが、
 豊臣政権の内情を表していると思います。

 千利休は大きな力を持っており、秀長が死んだ跡は、ますます
 力や影響力をもってきた。秀吉によって危険人物だと
 マークされたんじゃないかと思います。

 洋の東西を問わず、力を持ちすぎた家来は危険で
 多々、粛清されています。

 切腹前に。前田利家や、利休七哲のうち古田織部、細川忠興ら
 大名である弟子たちが奔走して助命しようとした、なんていうのは
 秀吉によっては、全く逆効果、利休の影響力が強いことを再認識し
 生かしておけない・・となったんじゃないでしょうか?

 諸説あり、定説もありませんが、私は力・影響力を持ちすぎて
 粛清されたんだ、というように思えるのですが
 どのように考えますか?

A 回答 (5件)

秀吉が博多の津田宗達や今井宗休を重視するのに 堺の千利休は邪魔になったから


と言うのが通説ですが



利休は茶の湯の師匠であり 当然多くの武将から慕われていた
利休の下には黙っていても多くの諸将が集まります
秀吉にとっては当然 それは危険と感じたでしょう もっとも秀吉より石田三成がそう感じていたようですが

豊臣秀長が生きていた頃は少なくとも利休は暴走しないだうと三成は考えていた
秀長は野心もないし あの徳川家康でさえ「大和殿(秀長のこと)が天下様であったなら自分が天下人になる事はなかった」と言った程の人物でした
しかし最大の庇護者である秀長を失った利休は もはや三成の標的です
三成は堺の商人とも密接でした 堺はさまざまな危険因子を孕んでいます
豊臣政権を崩壊させられるだけの力が堺にはありました

おそらく三成はそれを危惧し 秀吉に進言したのでしょう
しかし ただ 利休が危ないから追放してくれ と言ったのではさすがの秀吉だってそれだけでは切腹はさせないでしょう
三成は頭がいいので 色々難癖をつけたはずです
もはや 味方のいない利休にとってそれを押し返すだけの反論もできなかったでしょう
事実 不当に自分の作った茶碗に高値をつけて売っていた 事もあって
利休は反論らしい反論もしていません
恐らくは無駄だと思ったのでしょう 怒りに任せて処分をしようとする秀吉にはどう弁明しても無駄だと…


秀吉は晩年に「利休を死なせたくは無かった…」と言っていたそうです
怒りに任せて切腹させてしまった事を後悔していたのでしょう
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もともと世は下剋上の時代。



豊臣家臣団の中で、群を抜いて権力を持っていたのは豊臣秀長だった。
だから、秀吉もまだ安心していられた。
他の家臣達もさすがに、秀長を出し抜こうとはしていなかった様子。

それが、秀長の死によってその平穏状態が崩れた。
秀吉は千利休の権力を恐れ、
石田三成などの家臣にとっては目の上のたんこぶ。
(もともと利休は秀吉の部下ではなく、本能寺の変後に仕えたのに重宝された)
秀吉の権力を奪おうとする諸大名からすれば、
秀吉の下で束ねの役割を持つ残り一人。

方々から、その存在を疎まれてしまった結果だと思う。
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 この問題には幾つかの前例もあります。

一つは西行であり、もう一つは世阿弥です。世阿弥を例としてお話ししましょう。
 室町時代初頭、それまでは猿楽能大和四座の一つであった観世座が義満の引き立てを受けて寵愛されたことはご存知でしょう。表向きとして、義満は世阿弥のパトロンであったが、実態としては世阿弥は「現世の帝王」である義満の掌の上で踊っていたにすぎなかった。実質として能の世界では帝王ではあっても、それはあくまでも光としての帝王がいなければただの影法師でしかありません。
 彼等に興行権を与えるのも寺社などの権力の庇護がなければできないことであって、その寺社に対する庇護もお墨付きがなければ意味がないとのいささかきな臭い話にもなります。
 実際に世阿弥は義満の没後に不遇を囲います。それまで頂点にあった者が突然としてこの世から消え去ってしまった形にも等しい。
 利休についていえば、利休も世阿弥同様、現世の光(信長)による庇護がなければ、ただの木偶と同じでしかなかった。それが例え「茶道の帝王」であったとしても、現実の帝王であるサルは殊の外に「権威を認めること」を忌避もしていた。もともと出自も不明な人物が頂点に上り詰めたなら、その次にすることが何であるかと推察することも容易いはずです。自らと自らの権力を守る以外には何も考えません。そこが信長との最大の違いでもある。
 信長の特質は「楽」にあるといっても過言ではありません。逆にサルはそれを「統制しよう」とした。それは寺社のみならず、寺社の庇護下にある絵師やその他の領域にまで広がる。その中でターゲットとなったのが利休です。信長にもの申せた立場の人間に対し、サル以外はそのカリスマ性を認めそれ故に信長亡き後以外も利休の持つ可能性に託したともいえます。
 ぼくの結論からいえば、けつの穴の小さいサルが殊の他に自らを飾り立てようとした矛先が利休なる類い希な人物と死してもその背後にある信長の亡霊に向かったとの印象です。
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千利休の「辞世の句」なんですが、ネットで検索してみると、みなさん真面目に解釈なされています。


もちろんそれが王道、正しき選択なのでしょうけど、私のような門外漢はこの「辞世の句」を見てると、妙に笑い出したくなる…可笑しい気持ちになってしまうのです。

堤ぐる 我が得具足の一つ太刀 今この時ぞ 天に擲つ

「得具足」というのは「使い慣れた武具」なんだそうです。
疑問なのは「一つ太刀」と書かれていること。
太刀というのは、60センチ以上も有る刀ですから、切腹に使うには大きすぎます。
通常は脇差を使ったそうです。

つまり「わざわざ大袈裟に書く意味」を考えますと、この「一つ太刀」とは何だ?という疑問に突き当たります。
しかも「ひっさぐる」とも書いています。
「…太刀を、茶人が、ひっさぐって??」
利休は戦乱の世に生きては居ましたけど、武人ではありません。
だからこれはむしろ「暗意」と捉えるべきで、私の解釈では「太刀」というのは「男根」だと思っています。

まあ、凄まじい解釈ですが…しかし、こう解釈すると、利休は最後は「晴れ晴れとした気分」だったのではないか?と思うのです。
「やりたいことはやった、悔いはない…命は天に返さなきゃね?」
男として自由に生きたぞ!と利休は言いたかったのではないか?と、私は解釈したわけです。
そしてこの中には…「ざまあみやがれ」という気分も含まれていたんじゃないでしょうか?。

斬首ではなく「切腹」というのが意味があります。
殺されることは承知のうえで、秀吉に歯向かっていたんでしょう。
芸術家というのは、多分に「エゴイスト」でもあります。
自分の「芸」を他人にいちゃもん付けられるのが嫌いです。
そういった意味で「先に逝くぜ、ざまあみやがれ」という、なにか「皮肉」のようなものも感じるのです。

他にもまあ…想像するに「色いろ」あるんですが…まあ、それはこの場では良いでしょう。
あまりに茶化しすぎると、ファンの方に不興を買いそうなので(汗)。
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利休が力を持ちすぎたのは確かだと思います。


両輪のように機能していた秀長と利休の体制が秀長の死によって
利休サイドへ偏ってしまったということでしょう。

私はそこにもう一つ、豊臣政権内での権力抗争が絡んでいたのではないかと思うんです。
つまりこの時期は石田三成が豊臣政権内で頭角を現わしてきます。

三成にしてみれば自分が思う存分権力を振るうためには利休が邪魔だったと思います。
秀吉にしても利休が目上のたんこぶみたいに鬱陶しい。

それでも利休に変わる人材がいないうちは利休と妥協しなければ仕方がないのですが
石田三成が成長してくれば子飼いで豊臣家一筋の三成に権力を移したくなる。

煙たい利休には消えてもらいたいのだが、諸大名に人気があるから
ハイ引退!と云う訳にはいかない。

利休には死んでもらったほうが良いかなあ、、、、で、、、切腹、、、
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