戦前~戦中のジュネーブ協定について
知っている部分でもいいですから教えてください
ソ連が加入してなかったそうですが・・
加入国なども教えてください
お願いします

A 回答 (2件)

ジュネーブ条約は1864年にヨーロッパの16ヶ国が参加してジュネーブで締結された条約の総称です。

その後幾たびか改定、追加が行われ現在は国連加盟国のほとんどが加入しています(180ヶ国以上)
条約の目的は戦争時にお互いに守るべきことを取り決め、戦争が単なる人殺しの場とならないよう人道的配慮を参戦国に義務付けることです。しかし、現在のように遠隔地からロケットで攻撃する戦争でどれだけ条約の精神が守られるか疑問があります。特に第二次世界大戦以降、条約の精神は大きく破られています。(無差別空爆、赤十字船への攻撃など)ベトナム戦でも条約違反のケースが多発しています。

条約は4っつに分かれています。
1)陸上の戦い
2)海上の戦い
3)捕虜の扱い(捕虜は正当に扱われる)
4)一般市民の保護(非戦闘員、文民は保護される)
敵の捕虜となったとき、ジュネーブ条約による正当な取り扱いを求め、相手もそれに同意したのは、遠い昔の物語のような気がしますが、条約は生きています。

ジュネーブ協定は国際赤十字の歴史と活躍に深く関係しています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます
詳しくおしえていただき助かりました
赤十字に関係してたのですね

また教えてください

お礼日時:2001/05/29 04:48

 ご質問と私の知っているジュネーブ協定が違うかも知れませんが・・・。


 ジュネーブ協定とは、ベトナム休戦協定・ラオス休戦協定・カンボジア休戦協定の3協定とジュネーブ会議最終宣言等の総称です。1954年7月、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連・中国・ベトナム共和国(ホー・チ・ミン政権)・ベトナム(バオ・ダイ政権)・ラオス・カンボジアの関係9ヶ国が参加したジュネーブ極東平和会議で締結され、インドネシア戦争の休戦を実現させた協定で、インドシナ休戦協定とも言われています。
 内容は、外国軍隊の撤退・新規の部隊と軍事要員の導入禁止・新規の兵器と弾薬の搬入禁止・あらゆる軍事同盟への参加の禁止・各領土における敵対行動の再発の防止および侵略政策の利用の禁止などです。この協定にはアメリカとベトナム(バオ・ダイ政権)は不調印で、ベトナム戦争再発の一要因といわれています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます
大変参考になりました
戦後版もあったんですね

また教えてください

お礼日時:2001/05/29 04:46

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Qジュネーブ旅行

2月中旬にスイスのジュネーブへ女二人で旅行に行きます。
当初の予定ではジュネーブに住んでいる友人の元を訪れるつもりだったのですがその友人の都合がつかなくなり急遽会えなくなってしまいました。
ガイドブックなどを見てもジュネーブにはそれほど良さそうな観光場所がないようなので友人に会えないならば今回はジュネーブに行くことをやめることも検討したのですが既に飛行機やホテルも予約済みで返金されないということなのでキャンセルはせず結局旅行には行くことになりそうです。

ジュネーブに滞在するのは丸2日と半日でホテルはコルナヴァン駅から徒歩すぐのところです。
せっかくジュネーブまで行ってやることがないというのは寂しいのでどこかオススメの観光場所があればぜひ教えてください。
もしくはジュネーブから日帰りで行ける他のオススメ都市などもあればそちらも教えていただけると助かります。

ちなみにジュネーブのあとはイタリアのミラノに行くことも決まっているのでミラノ以外でオススメを教えてください。

Aベストアンサー

コルナヴァン駅近くのホテルですか。高くなかったですか?
値段によってはキャンセルしてはもったいないですね。

ジュネーヴ市内にも見所はありますが、フランス領シャモニーや
モンブランの展望台Aiguille du Midiに行く基点が何故かスイスのジュネーヴです。
天気が良ければ1日はシャモニーとモンブラン観光、もう1日はジュネーヴ市内や
電車で40分位の距離にあるローザンヌ、ローザンヌと湖をはさんだ対岸の
フランス領Evian(同名のミネラルウォーターを採取している町です)あたりがお勧めです。

ジュネーヴ~シャモニーへは、シャモニー観光局の英語サイトが役立つと思います。
http://www.chamonix.com/access,9,en.html
モンブランで恐らく最も有名な展望台Aiguille du Midiに関してはこちら
http://www.chamonix.com/aiguille-du-midi-map,180,en.html

ジュネーヴ市内はレマン湖が途切れるところにある旧市街地、
Jet d'eau(レマン湖に凄い高さの噴水がある光景みたことないですか?)、
国連関連施設あたりが観光地と言うことになっています。
ジュネーヴ観光局(英語)
http://www.geneve-tourisme.ch/en/home/
スイス観光局日本語サイト ジュネーヴ
http://www.myswiss.jp/jp.cfm/area/offer-Destinations-10Geneve-211965.html

ローザンヌはフランス語圏のスイスの中ではそこそこ大きな街です。
なかなか風光明美でOuchyまでMetroと言う名のケーブルカーみたいなのに乗って、
Evian行きの船着き場に行きます。
ローザンヌ観光局が少しだけ日本語のサイトを作ってくれています
http://www2.lausanne-tourisme.ch/lt/languages/japanese/index.htm
スイス観光局の日本語サイト
http://www.myswiss.jp/jp.cfm/area/offer-Destinations-09Lake_Geneva_Region-309565.html
Evian行きの船情報
http://www.cgn.ch/en-gb/accueil.aspx

スイス連邦鉄道のサイトでジュネーヴから各地への鉄道時刻表が検索できます。
http://www.sbb.ch/en/home.html

楽しんできてください。

コルナヴァン駅近くのホテルですか。高くなかったですか?
値段によってはキャンセルしてはもったいないですね。

ジュネーヴ市内にも見所はありますが、フランス領シャモニーや
モンブランの展望台Aiguille du Midiに行く基点が何故かスイスのジュネーヴです。
天気が良ければ1日はシャモニーとモンブラン観光、もう1日はジュネーヴ市内や
電車で40分位の距離にあるローザンヌ、ローザンヌと湖をはさんだ対岸の
フランス領Evian(同名のミネラルウォーターを採取している町です)あたりがお勧めです。

ジュネー...続きを読む

Qジュネーブ休戦協定について

昨日、塾の講義で歴史の教師が、
「1954年のジュネーブ休戦協定でフランスから、ラオス・ベトナム・タイの三国が独立した」
と言っていたのですが、このとき独立したのは、インドシナ三国(ベトナム・ラオス・カンボジア)だった気がするんすが、タイも関係あるのでしょうか?

Aベストアンサー

こんばんは。

>タイも関係あるのでしょうか?

フランス領ではありません、第二次大戦のはるか前より独立国家です。

>このとき独立したのは、インドシナ三国(ベトナム・ラオス・カンボジア)
だった気がするんすが、

厳密には違うかもしれません。
私の記憶ではラオス、カンボジアの2カ国の独立だったと思います。
ベトナムは1945年にホー=チ=ミンが独立宣言したことをもって
独立とすると教わりました。
この宣言が元でインドシナ戦争が始まり、チェンビェンフーの戦いで
大敗したフランス軍が直後のジュネ-ヴ休戦協定でインドシナから撤退、
上記2カ国が独立したと記憶しています。

記憶違いはないと思いますが…。

Qスイス、ジュネーブへ行くには?

6月にスイスのジュネーブへ行くことになりました。
ジュネーブ行きの便は約14万円~と高いのに対して、他のヨーロッパ行きですと7万円~というものがあるため、各都市から飛行機か鉄道でジュネーブに行けば、節約になるのではと検討しております。

パリ・ローマですとeasyJet社の飛行機でジュネーブに行けるか検討しております。他にも、チューリヒ・ロンドン・フランクフルトなどからジュネーブへのアクセスにつきまして、おすすめの方法をご存知の方いらっしゃいましたら、アドバイスをお願い致します。

また、ジュネーブへの渡航につきまして、何か他に良い方法がございましたら、ご教授ください。
宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

 ジュネーブにも7万円~ で行くことができますので、ご安心ください。
この3月中旬は、ちょうど運賃切り替えの端境期に当たっているため、
6月出発の料金が出揃ってないだけなんです。

 今月後半か遅くとも4月になれば、欧州系エアラインの格安航空券を
旅行代理店で取り扱いだします。参考URLに載せたエイビーロードの
航空券検索を、マメにチェックしてください。どこか1社が扱いだすと、
1週間程度で他社の値段も一気に出揃ってきます。6月は旅行の閑散期
ですので、それこそGWのあとでも余裕で手配できると思います。

 欧州系であればどのエアラインを使っても、ジュネーブへのアクセスは
さほど変わりありません。強いて言えば、ロンドン経由だと少し遠回りに
なるので時間が掛かるといった程度です。ですので、経由地でも観光して
みたいなどの希望に合わせて、エアラインを選んでも大丈夫です。

 もし、ANAのマイレージを貯めているのであればスカンジナビアか
ルフトハンザを、JALのマイレージならエールフランスかブリティッ
シュ・エアウェイズに乗るとマイルが貯められます。ただしJALの場合
格安航空券ではマイルが貯められないので、ご注意ください。

参考URL:http://www.ab-road.net/air/

 ジュネーブにも7万円~ で行くことができますので、ご安心ください。
この3月中旬は、ちょうど運賃切り替えの端境期に当たっているため、
6月出発の料金が出揃ってないだけなんです。

 今月後半か遅くとも4月になれば、欧州系エアラインの格安航空券を
旅行代理店で取り扱いだします。参考URLに載せたエイビーロードの
航空券検索を、マメにチェックしてください。どこか1社が扱いだすと、
1週間程度で他社の値段も一気に出揃ってきます。6月は旅行の閑散期
ですので、それこそGWのあとで...続きを読む

Q戦前戦中戦後。人々の暮らし

大日本帝国の人について興味あります。
司馬遼太郎の坂之上の雲は呼んだことある方いますかね?教科書にしてもいいくらいだという人もいるくらいで、どんなことが書かれていますか?当時の人の暮らしぶり、考え方など知りたいです。
戦前、戦争とは関係ない人々の普通の暮らしぶりはどんなでしたかね?何を考えどう生きていたのですかね?特に教育勅語を学んだ世代の人生観、今の若者をどう思うかを知りたいです。
戦後、メーデー、安保闘争など日本人は今のように去勢されておらず元気いっぱいでした。当時の人の考え方、暮らしぶり、将来への不安と期待など知りたいです。あ、米国の奴隷になったり、米ソ冷戦に巻き込まれて再び戦地となる不安はなかったのですかね?
各地に海外移住された方もいるときいてます。どのような思いで日本を離れたのですか?
よろしくお願いします

Aベストアンサー

戦前生まれの後期高齢者です。

まず、司馬遼太郎の著書は作者の思い込みや作り事、独特の推察などを網羅している一つの作文だとしてお読みになったほうが良いと思いますよ。

歴史は作られるって本当。

いつの間にか老舗になっていたり、何代も続いた家柄ですや、此処は勤皇の志士が隠れたところですだとか、まあ念入りに地図まで掲げて。現在はまやかしが多いけれど戦前はあくどい商売人と言えどもそう云う誇張はしなかったように思います。

戦前とは言え大正時代の人たちの生活は非常に楽天的なものだったと思います。(従兄弟大正生まれ90歳余曰く)

昭和の初期でも都会では幼稚園はスクールバス。映画もダンスホールも、フランス料理も今あるものは全て溢れ返ってました。

水洗はごく一部で近郊の百姓が肥を汲みに来て御礼の大根なりを置いていくのが都会でも普通の事でした。

また、戦前はそこそこ金を持っている連中でも借家が普通で、余程の事業家や成金、爵位のある家系以外は全て借家。

土地の有力者・・・例えば豪農や代々の庄屋などは家屋敷がありましたが。
家を買うという発想はほぼありませんでしたね。

腰弁(サラリーマン)の出社は歩くのが原則で交通費を貰って電車に乗るというような事は大正の初期までは無かったと従兄弟は申しております。

一家団欒、一家そろって食事と云うのも精々戦後の事です。
商家なら手の空いた人から食事をしますから。

一家の主のお膳は(おかずもご飯も)全て妻子とは別、同じ膳では食べません。主の食事が終わってから妻子の食事。(今ならよめはんに殺されるかも)

子供と大人の世界は完全に区別。

ネットは当然、普通の家に電話もありません。(うちの電話探ってみると最初に置かれたのは大正7年でした。)

戦後初めて白黒TVが発売された時TV一台の値段で当時40坪くらいの家が一軒買えました。

戦後宝くじは一等10万円。一枚10円。小さな家なら買えた。

終戦の年、すぐにアイスキャンデーを作って売ってました。一本1円。

不味いガムやチョコレートは昭和23年頃だったかに。

当時、バスやタクシーは電気自動車が多かった。充電はどうしていたのか??ですが。

従兄弟の戦前の中学校の教科書を見ると(電気技術書)きちんとテレビの写真と技術解説が載っています。

私たちがよく読んでいたのはヘッセ、Tマン、メリメ、シュトルム。

哲学をやっている連中はこんなの読みません。

明治の文学はほぼ濫読、南総里見八犬伝まで手を出した奴も居ます。

映画は手当たり次第。戦前の名画も戦後公開されましたから。
最初のアメリカ映画は確かユーコンの叫びだったかと。

普通の人にとっては戦前の、支那事変や日露戦争の結果に一喜一憂していたのは今と人たちの野次馬的な処と変わりはありませんし、人間の常として考えが楽なほうへと傾いていたのも事実です。

今と違って身分社会(出自によって社会的地位が決まる)ですから、例外はあるとしても(例えば爵位のある人や軍需産業などで大金を得て社会に還元したいと地方の優秀な男子や子女を養子として、或いは書生として住まわせて立身の道をつけてやるなど)、ほぼ人は生まれた時に取るべき道は決まっていた社会です。

で、各自それなりに、政治や軍事は・・・そんな難しい事は誰か偉い人がすることであって私たちには関係の無い事、其れよりも毎日の生活や楽しみが先決・・と云うのが本音だったでしょう。

メーデーや安保闘争など・・私の考えですが今の団塊の世代の初期の人たち(昭和22年生まれ以降)は肝心の小学校の教室も教員も足らず、抑留から引き上げてきた共産主義に洗脳されたような代用教員に習った結果が、戦前の身分社会の不条理に気づき労働者とブルジョワジーの対立と云う形で爆発したものだと思っています。

団塊の世代が愛用した歌声喫茶で歌われている歌って労働歌やロシア民謡などソ連に関係したものばかりですよね。

確かに農村部では(戦前は長男が後を取り、次男以下は出て行くか良くても他の農家の婿養子になるかで、軍隊が出来ると米の飯が腹いっぱい食えるとばかり召集どころか争って志願した人が多いのが現実で、後に赤紙で召集される頃は兵役忌避の脱走者も多かったようですね。

でもねぇ、戦時中食べるものが無かったとは云いますが金さえ出せば何でも買えたのです。(結局は金があるかどうかで決まるのかも)

徳川無声の戦時日記を読めば東京空襲時でも牛肉の配給(食糧は物価統制令で自由に売買が出来無い、主食の米などは各戸に割り当てで配るのを配給制と云います。違反者は投獄。外食は外食券が無いと出来なかったけれど、店は知り合いには出来る限り物を提供していた。)があったと記述されていて驚きます。

海外へ移住された方は明治以前から沢山居ますので戦前の暮らしのごく一部の現象に過ぎないと思っていてください。
これに関しては色々本が出版されているので図書館でお読み下さい。

明治中期生まれだった私の母親など若い頃毎晩ダンスホールで踊っていたと。(写真が残ってますわ)

慶応生まれの祖母なんか刺身が好きで良く無理難題を。でも結構手に入ったのですよ。

果物も、ケーキも、菓子も巷に溢れ返ってましたし戦争が始まっても暫くはまだフランス映画など上映してましたしね。

学童疎開はしてましたが食べ物に不自由だった事は有りません。
(場所によるのでしょうけれど)

戦争が始まっても一般の人の生活が急に変わる事は有りませんでした。

東京や大阪名古屋の空襲にあった人たちは大変だったでしょうけれどね。
一般の庶民にとって将来の事などは戦争の行方は心配しても身の振り方までは考えられなかったと思います。

進駐したアメリカ兵が抵抗されゲリラにでもやられるかると緊張していたのに拍子抜けと、戦後隣に住んでいた大佐が笑いながら話してくれました。

昭和20年代は内憂外憂が一般の人には全く感じられなかった時代。
20年代終わりにはアメリカ文化がど~~っと。

圧巻はジャズ。ベニーグッドマン、JATP、サッチモ、ハリージェームス、ライオネルハンプトンetc。飯を惜しんで東京へだら(普通)の夜行で14時間かけ学区をサボって聞きに行った。

新宿あたり焼け跡がまだ板囲いしてありまだ戦争浮浪児も居た時代。

昭和34年まだ国道一号線は舗装なし。トヨタのクラウンの前身トヨペットスーパーがこなれてきて試乗に行きました。

クッションは板バネ。遠出でしてバネが折れて挙母市(今の豊田市)で修理をするはめに。

閑話休題

今時ああだこうだと大げさに言われている面は何事に付けても大いにあると思います。

大正、昭和の話を書いた本は沢山出ていますが、その前に矢田捜雲の江戸から東京へや生方敏郎の明治大正見聞史の一読をお勧めします。
もう少し前の幕末の世人の暮らしや出来事などは鹿島萬兵衛の江戸の夕映をぜひお読み下さい。

教育勅語の内容は素晴らしいものですから私たちは否定しません。
まだ同級生は200人以上が健在ですし、何時もわいわい集まっていますが1年先、3年先の心配をする輩はいませんねぇ。
其れより100年先どうなっているかの議論に口角泡を飛ばすほうです。
戦前、戦中、戦後を冷ややかな目で見てきた世代ですのでなるようにしかならんと物事を割り切ってます・・が多い。(^^)/

取り留めの無い文、乱文で失礼しました。

戦前生まれの後期高齢者です。

まず、司馬遼太郎の著書は作者の思い込みや作り事、独特の推察などを網羅している一つの作文だとしてお読みになったほうが良いと思いますよ。

歴史は作られるって本当。

いつの間にか老舗になっていたり、何代も続いた家柄ですや、此処は勤皇の志士が隠れたところですだとか、まあ念入りに地図まで掲げて。現在はまやかしが多いけれど戦前はあくどい商売人と言えどもそう云う誇張はしなかったように思います。

戦前とは言え大正時代の人たちの生活は非常に楽天的なものだったと...続きを読む

Qジュネーブ空港の駅窓口は何時ごろまで開いているでしょうか。

ジュネーブ空港の駅窓口は何時ごろまで開いているでしょうか。
今月下旬にスイス旅行を計画しています。ジュネーブ空港に19時40分に到着し(従って入国は20時半頃でしょうか)、そこから列車でジュネーブに向かいますが、スイスパス(日本で購入済みです)のバリデーションをしてもらう駅窓口は、その時間帯は営業しているでしょうか。
スイス旅行のご経験豊富な方にご教示頂ければありがたく思います。

Aベストアンサー

ジュネーブ空港駅の窓口時間案内です
http://mct.sbb.ch/mct/en/reisemarkt/services/im-bahnhof/pos-services.htm?posid=250

ジュネーブ駅の窓口時間案内です
http://mct.sbb.ch/mct/en/reisemarkt/services/im-bahnhof/pos-services.htm?posid=237

バリデーションをどこの窓口でできるのか分かりませんが、通常のrail serviceでできるんじゃないかと思います。
rail servicesは24時間開いていますね。どうしても気になるなら電話しては?
http://mct.sbb.ch/mct/en/reisezeit_kontakt

Q戦中ベルリン女性5割がソ連兵に強姦されたって嘘?

第二次世界大戦末期に、ベルリン市の若い女性の50%がソ連の兵隊に
強姦されたと一部の書籍にて伝えられています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
Wikipediaには、6.7%(10万人)と書いてあり50%まではいってませんが、
さすがにこれも誇張としか思えません。10万人が強姦されたとか、そんな馬鹿な。

「南京大虐殺」では、一般市民が30万人虐殺されたとされていますが、
その類のインチキ歴史と同類のにおいを感じますが、いかがでしょう?
ベルリンの女性の5割がソ連兵に強姦されたというのは、歴史的事実でしょうか?

Aベストアンサー

独ソ戦はその規模の大きさ、死者数の多さ、両軍共に捕虜をとらなかったなど、他に類を見ない異常な戦いです。
スターリングラードの戦いでは両軍合わせて100万人近い兵士・民間人の死者が出ています。
太平洋戦争全体での日本の死者数が約300万人ですから、1都市の攻防でこれだけの人間が死んでいる独ソ戦の異常さが判ると思います。


また、戦争末期にはスラブ系のソ連軍兵士は死に絶えた為、ベルリン攻略の頃になるとソ連兵士のほとんどは非スラブ系のアジア人で構成されていました。
彼らにとって、姿かたちが異なり言葉も通じないドイツ人女性の悲鳴など鳥のさえずり程度にしか感じなかったと思います。

ソ連がベルリン攻略に動員した兵士は250万人です。
両国の憎悪の感情、兵士の数、ソ連軍の軍規などを考慮した場合、あながち誇張された数字とは思いません。


「南京大虐殺」は事件そのものが捏造ですから一緒には出来ませんね。

Q北京・フランクフルトでの乗継、及びジュネーブ

旅慣れない中年男性です。
この度、出張でエアチャイナを使用し、中部国際からジュネーブまで、北京→フランクフルトと
2度の乗り継ぎのうえ行くのですが、一人ぼっちのため年甲斐もなく不安です。
そこでいくつか質問がございます。

(1)そもそも、北京空港・フランクフルト空港での乗り継ぎにあたっての注意点はありますか?
 ちなみに、行きの北京での乗り継ぎ時間は約2時間。帰りのフランクフルトでの乗り継ぎ時間は
 約1時間15分です。

(2)エアチャイナですべて乗り継ぐ(とはいえフランクフルト→ジュネーブ間はルフトハンザのコード
 シェア便?)のですが、預け入れ荷物は乗り継ぎに関係なく、最終目的地であるジュネーブでの
 受け取りが可能でしょうか?

(3)行きフランクフルトで4時間30分、帰り北京で5時間トランジット時間があり、食事をしなくては
 ならないのですが、乗り継ぎ待ち状態で利用可能なレストランなんてありますか?

(4)行きのジュネーブ到着が23時ごろのなるのですが、その時間にタクシーは空港にいますか?

色々と関係がありそうで、無いことを質問して申し訳ございません。以上4件の質問のうち、ひとつ
でも答えをお持ちの方、ご助言ください。

旅慣れない中年男性です。
この度、出張でエアチャイナを使用し、中部国際からジュネーブまで、北京→フランクフルトと
2度の乗り継ぎのうえ行くのですが、一人ぼっちのため年甲斐もなく不安です。
そこでいくつか質問がございます。

(1)そもそも、北京空港・フランクフルト空港での乗り継ぎにあたっての注意点はありますか?
 ちなみに、行きの北京での乗り継ぎ時間は約2時間。帰りのフランクフルトでの乗り継ぎ時間は
 約1時間15分です。

(2)エアチャイナですべて乗り継ぐ(とはいえフランクフルト→ジュネー...続きを読む

Aベストアンサー

連続での回答ゆるしてください。

昨日は夕方6時頃の到着でしたが、ジュネーブ空港がかなり混雑していて、タクシー乗車待ちの行列ができていたようでした。

さて、乗継パターンを検索してみました。
往路は
CA160 NGO 09:20 -> PEK 11:55
CA931 PEK 13:55 -> FRA 17:35
CA6335 FRA 21:50 -> GVA 23:00
復路は
CA6330 GVA 16:55 -> FRA 18:15
CA932 FRA 19:35 -> PEK 11:55+1
CA159 PEK 16:55 -> NGO 21:00
ですね。

北京に昼前後に到着する飛行機は日本からの各都市に加え、フランクフルト、パリ、ロンドン、ベルリンなどからの便もあり、入国審査のところにかなり人がたまっていることになりそうです。乗り継ぎのところにも人がたまっていることもあるので、ここで30分はかかると思います。

フランクフルトのゲートはAとBのいずれかになりますが、Bゲートのシェンゲン協定加盟国向けの出発ロビーにはラウンジがないことは昨日も書きましたが、ここにはろくなレストランもありませんでした。4時間強の待ち時間があるなら、まよわずAゲートのほうへ行ってラウンジやレストランを探すのがよいと思います。Aゲートのルフトハンザ/スターアライアンスのラウンジはA26搭乗口付近にあります。AゲートとBゲートはセキュリティエリア内で行き来できますが、あるいて10分以上かかります。

フランクフルトでの夕食はビアレストランを見つけて、ビールとソーセージで一杯というのがよいでしょう。北京での昼食では国際線出発ロビーには(高いばかりで)あまりよいレストランはないので、ピザハットなどのフランチャイズ系レストランで済ませたほうがはずれが少ないように思います。中国国際航空のラウンジでは、ちょっとした点心とチャーハンや肉の炒めたものは食べられますが、大しておいしくありません。

連続での回答ゆるしてください。

昨日は夕方6時頃の到着でしたが、ジュネーブ空港がかなり混雑していて、タクシー乗車待ちの行列ができていたようでした。

さて、乗継パターンを検索してみました。
往路は
CA160 NGO 09:20 -> PEK 11:55
CA931 PEK 13:55 -> FRA 17:35
CA6335 FRA 21:50 -> GVA 23:00
復路は
CA6330 GVA 16:55 -> FRA 18:15
CA932 FRA 19:35 -> PEK 11:55+1
CA159 PEK 16:55 -> NGO 21:00
ですね。

北京に昼前後に到着する飛行機は日本からの各都市に加え、フランクフルト、パリ、ロンド...続きを読む

Q戦前の三国人ってどこの国の人を指しますか?

戦前の三国人ってどこの国の人を指しますか?

Aベストアンサー

戦前の平板社の目本大百科事典には、
三国人・・・ロシア、ドイツ、フランスの三国の人を総称して
三国人という
とあります。日清戦争後の三国干渉で、日清戦争の戦利品の遼東半島を
清国に返せと鳩利欲をかけた三国ですね。
帝国陸軍は、三国が将来、日本を攻撃すると思い
仮想敵国とし、陸軍士官学校では、
第一外国語として、ロシア語ドイツ語フランス語の
いずれかの習得を義務付けていました\(^^;)...

Qツェルマット⇒ジュネーブorベルン⇒パリへ列車で

スイス内と、スイス-パリ間の列車を調べています。

ツェルマットを出て、ジュネーブかベルンからパリへ行くのが普通かと思ったので、両方チェックしています。
ジュネーブ方面への列車の眺めは、湖岸を通るので、景色がきれいなのは知っているのですが、ツェルマットからベルンへ行く列車の車窓の眺めはどのようなものでしょうか?
スイス内の列車のルートの有名どころではなさそうなので、あまり魅力がないのかな、それとも山岳の景色が見られるのかな、と考えていますが、情報が見つかりません。

ジュネーブ、ベルンともにパリへの通り道として滞在するだけで、観光としては考えていませんので、列車からの景色がポイントとなります。

ご存知の方、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんばんは。
疑問に思うのは、なぜツエルマットからパリに行くのにジュネーブに行くのかということです。
普通はローザンヌからバロルブ経由で国境を越えてリヨン経由でパリに行くのが最もノーマルなコースです。
TGVやECの特急列車は全てこの経路で運転されています。パリに行くのにベルンに行くというのも理解でききません。全く方向が反対です。
ビスプからブリークに出て、ゴッタルドからシュピーツ、ツーン経由でベルンに出られますが、そのあとどこで国境を越えるつもりでしょう?バーゼルですか? ル・ロクルですか?
このコースは鉄道マニアの方なら大ループなんかがあってとても面白いコースですが、時間がかかりますよ。
眺めは山ばかりです。時々鉄橋もわたりますけどね。湖なんかは見えません。確かにモントルーからジュネーブの間はレマン湖沿いに走りますし、有名なシヨン城も車窓から見えます。その上このルートは重要な幹線なので、列車の本数も多く特急列車もたくさんあります。

とにかくツエルマットからビスプに出て、それからジュネーブ行きに乗って、シオンかどこかで特急に乗り換え、ローザンヌでパリ行きのTGVを利用するのが良いでしょう。ビスプ駅は特急は停まりませんからね。

こんばんは。
疑問に思うのは、なぜツエルマットからパリに行くのにジュネーブに行くのかということです。
普通はローザンヌからバロルブ経由で国境を越えてリヨン経由でパリに行くのが最もノーマルなコースです。
TGVやECの特急列車は全てこの経路で運転されています。パリに行くのにベルンに行くというのも理解でききません。全く方向が反対です。
ビスプからブリークに出て、ゴッタルドからシュピーツ、ツーン経由でベルンに出られますが、そのあとどこで国境を越えるつもりでしょう?バーゼルですか? ...続きを読む

Q戦前・戦中・戦後の食糧事情について質問です。

戦前・戦中・戦後の食糧事情について質問です。

先日、戦前生まれの叔母に会う機会があり、ふとした事から食べ物の話になりました。
叔母もそういう事があったという事情は話してくれたのですが、詳しい事についてはうろ覚えでわからないとのことでした。
そこで以下が質問です。

1、戦前〜戦後も麦飯は臭みもあり貧乏人の象徴のようなもので、弁当に麦ご飯が入っていても弁当箱のフタで中身を隠しながら食べていたそうです。「じゃあ、お米を食べればいいじゃない」というと「米は供出に出していて(戦時中は主に軍用米として供出していたと思います。戦後も多分農協にいくらか供出があったように思います)充分に食べられなかった」というのです。私は供出などは戦時中の食糧事情が最も苦しい時だけの事だと思っていたのですが、そうでもないようなのです。米だけではないと思うのですが、この供出の制度はなぜあったのでしょうか?また、どのようなものが供出対象でいつからいつまで存在したのでしょうか?

2、配給制についてですが、これも私は戦時中だけの事だと思っていたのですが、戦後もいくらかのものは配給されていたそうです。どのようなものがいつからいつまで配給されていたのでしょうか?

3、戦時中にしばしば街に住んでいる人が矢絣の着物とお米を交換して欲しいとやって来たそうです。私どものように田舎の人間で作物を幾分か作っている農家は貧しいながらも何とか食べていけたと思うのですが、都会に住んでいる人はどうやって食べていったのでしょうか?配給のものだけでは食べていけないと思いますし、食べ物と交換する着物なども有限なので餓死してしまうと思うのです。
お金のある家は闇市などからでも調達できると思うのですが、空襲で身寄りもあまりなく無一文になった人が大勢いたはずです。まさに「ほたるの墓」を時でいくような生活をしている人も沢山いたと思います。

今のようにお金さえ出せば、食べ物をいくらでも購入できる時代とは違い、昔の人は本当に苦労したと思います。
ただ、戦後生まれで農家でもない知識のない私には、上記のような事を調べてもまるでわかりませんでした。

このような事に詳しい方がいればご教示頂けたら幸いです。
また、質問項目が多数なので、私の質問にある戦前〜戦後の食糧事情や供出・配給などについて制度も含めて詳しく書かれてある書籍やサイトがあればご紹介頂ければ助かります。

戦前・戦中・戦後の食糧事情について質問です。

先日、戦前生まれの叔母に会う機会があり、ふとした事から食べ物の話になりました。
叔母もそういう事があったという事情は話してくれたのですが、詳しい事についてはうろ覚えでわからないとのことでした。
そこで以下が質問です。

1、戦前〜戦後も麦飯は臭みもあり貧乏人の象徴のようなもので、弁当に麦ご飯が入っていても弁当箱のフタで中身を隠しながら食べていたそうです。「じゃあ、お米を食べればいいじゃない」というと「米は供出に出していて(戦...続きを読む

Aベストアンサー

はじめまして。
親戚に農家の方がいるので、その方から聞いた話をさせていただきます。が、片田舎の話ですので都会の方のことはあまり分かりません。

1については、地域差がけっこう酷かったようです。十分に食べられる地域とそうでない地域があり、当方の場合は前者で、後者の地域の方がよく支援を求めてきていたそうです。中には息子が出征するから、その前の日だけでも好きなものをたらふく食べさせてあげたいから、この箪笥と何かを交換してくれと言ってきた方までいらっしゃったそうで、あっちのほうはそんなに困っているのかと驚いたと言っていたのを聞いたことがあります。供出自体は戦後しばらく続いたようですが、別段食うに困ったということはなかったそうです。
米だけではなく、様々なものを作っていたために米が少ない時でもほかに食べるものがあったからというのはかなり大きいでしょうが……。
(養蜂、豆、豚、鶏、芋、柿などだそうです)

2については、ものによっては戦後も配給が続いたそうです。

3に至っては、様々な人が食料を求めて訪ねてこられたようで、爆撃から逃れる際に持ち出したわずかな財産を手に食料を分けてほしいと入ってこられた方が大勢いらっしゃったようです。箪笥、着物、宝石類、はたまた伝家の宝刀や家宝、あげく娘さんが自分と家族がある程度食べていけるだけの食料を交換してくれといったこともあったそうです。
無一文になった身寄りのない方などは、なんでも働くから食べ物と雨露凌げる場所をということもあったそうです。
あと、農家の横暴が酷かったとおっしゃられている方がおられますが、農家の側からしてみれば、まるで食べ物がいくらでもあるかのように言い、余裕がなくて分けることができない時などは野菜を盗み、あることないことわめき散らし、心ない言葉を浴びせていくことも多々あったそうです。

とある片田舎での話ですが、『こういうこともあったんだ』ということを頭の片隅にでも置いていただけたら幸いです。

はじめまして。
親戚に農家の方がいるので、その方から聞いた話をさせていただきます。が、片田舎の話ですので都会の方のことはあまり分かりません。

1については、地域差がけっこう酷かったようです。十分に食べられる地域とそうでない地域があり、当方の場合は前者で、後者の地域の方がよく支援を求めてきていたそうです。中には息子が出征するから、その前の日だけでも好きなものをたらふく食べさせてあげたいから、この箪笥と何かを交換してくれと言ってきた方までいらっしゃったそうで、あっちのほうはそん...続きを読む


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