戦前~戦中のジュネーブ協定について
知っている部分でもいいですから教えてください
ソ連が加入してなかったそうですが・・
加入国なども教えてください
お願いします

A 回答 (2件)

ジュネーブ条約は1864年にヨーロッパの16ヶ国が参加してジュネーブで締結された条約の総称です。

その後幾たびか改定、追加が行われ現在は国連加盟国のほとんどが加入しています(180ヶ国以上)
条約の目的は戦争時にお互いに守るべきことを取り決め、戦争が単なる人殺しの場とならないよう人道的配慮を参戦国に義務付けることです。しかし、現在のように遠隔地からロケットで攻撃する戦争でどれだけ条約の精神が守られるか疑問があります。特に第二次世界大戦以降、条約の精神は大きく破られています。(無差別空爆、赤十字船への攻撃など)ベトナム戦でも条約違反のケースが多発しています。

条約は4っつに分かれています。
1)陸上の戦い
2)海上の戦い
3)捕虜の扱い(捕虜は正当に扱われる)
4)一般市民の保護(非戦闘員、文民は保護される)
敵の捕虜となったとき、ジュネーブ条約による正当な取り扱いを求め、相手もそれに同意したのは、遠い昔の物語のような気がしますが、条約は生きています。

ジュネーブ協定は国際赤十字の歴史と活躍に深く関係しています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます
詳しくおしえていただき助かりました
赤十字に関係してたのですね

また教えてください

お礼日時:2001/05/29 04:48

 ご質問と私の知っているジュネーブ協定が違うかも知れませんが・・・。


 ジュネーブ協定とは、ベトナム休戦協定・ラオス休戦協定・カンボジア休戦協定の3協定とジュネーブ会議最終宣言等の総称です。1954年7月、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連・中国・ベトナム共和国(ホー・チ・ミン政権)・ベトナム(バオ・ダイ政権)・ラオス・カンボジアの関係9ヶ国が参加したジュネーブ極東平和会議で締結され、インドネシア戦争の休戦を実現させた協定で、インドシナ休戦協定とも言われています。
 内容は、外国軍隊の撤退・新規の部隊と軍事要員の導入禁止・新規の兵器と弾薬の搬入禁止・あらゆる軍事同盟への参加の禁止・各領土における敵対行動の再発の防止および侵略政策の利用の禁止などです。この協定にはアメリカとベトナム(バオ・ダイ政権)は不調印で、ベトナム戦争再発の一要因といわれています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます
大変参考になりました
戦後版もあったんですね

また教えてください

お礼日時:2001/05/29 04:46

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Qジュネーブ休戦協定について

昨日、塾の講義で歴史の教師が、
「1954年のジュネーブ休戦協定でフランスから、ラオス・ベトナム・タイの三国が独立した」
と言っていたのですが、このとき独立したのは、インドシナ三国(ベトナム・ラオス・カンボジア)だった気がするんすが、タイも関係あるのでしょうか?

Aベストアンサー

こんばんは。

>タイも関係あるのでしょうか?

フランス領ではありません、第二次大戦のはるか前より独立国家です。

>このとき独立したのは、インドシナ三国(ベトナム・ラオス・カンボジア)
だった気がするんすが、

厳密には違うかもしれません。
私の記憶ではラオス、カンボジアの2カ国の独立だったと思います。
ベトナムは1945年にホー=チ=ミンが独立宣言したことをもって
独立とすると教わりました。
この宣言が元でインドシナ戦争が始まり、チェンビェンフーの戦いで
大敗したフランス軍が直後のジュネ-ヴ休戦協定でインドシナから撤退、
上記2カ国が独立したと記憶しています。

記憶違いはないと思いますが…。

Qマーシャルプランとは何ですか?

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Aベストアンサー

 1947年から開始されたアメリカの対西ヨーロッパ援助計画。ヨーロッパ復興計画(ERP)といい,同年6月5日,アメリカ国務長官 G. C. マーシャルが復興援助を供与する意志のあることを表明した。
 全欧州を対象にしたが、反ソ・反共主義を前提としたため,実際には西欧諸国の経済復興と経済統合を目的としてこの計画は推進されていった。西欧諸国が作成した復興計画に基づき48年4月アメリカ議会は対外援助法を可決し,援助管理機関として経済協力局(ECA)を設立した。西欧諸国は援助受入れのためヨーロッパ経済協力機構(OEEC)を設置した。この計画が終了する52年中ごろまでの総援助額は約130億ドルに達し,その大部分はイギリス,フランス,イタリア,西ドイツ,オランダに供与された。
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(英語)
http://www.gcmarshallfdn.org/             

 1947年から開始されたアメリカの対西ヨーロッパ援助計画。ヨーロッパ復興計画(ERP)といい,同年6月5日,アメリカ国務長官 G. C. マーシャルが復興援助を供与する意志のあることを表明した。
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Qベトナム戦争の原因

近代で起きた戦争の中で、イラク戦争においてアメリカがイラクを攻撃したのは「イラクが大量破壊兵器を所持し、それを隠しているため」がアメリカの大義であり、事実上の戦争のきっかけだったじゃないですか。
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Aベストアンサー

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米・ソ両陣営は戦後、世界各所で自分を支持する政府の樹立を支援し、仲間の獲得に躍起となりました。
この一つとしてベトナムが北ベトナム(ソ連派)と南ベトナム(米国派)に分裂し、そこで例のごとくアメリカが軍を送りこみ大きな戦争になったわけです。

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Q第2次世界大戦前後の日中関係

第2次世界大戦中、日本は米国に、国際法にのっとり、宣戦布告し(連絡ミスがあったようですが)、南方で戦ったことは知っています。

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ですが、中国については、日本との関係がいまひとつ理解できません。被害者と主張している側が、なぜか戦勝国になっていることも含めて。

中国に対して、日本は一方的に(100%)、侵略行為をしたのでしょうか? 中国にも若干非があったのでしょうか。
当時の、国際世論も含め、日中の客観的な、歴史を時系列で教えてください。

どうぞ宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

1904~05年の日露戦争で、日本は旅順・大連の租借権(事実上の領有権)と、後の南満州鉄道を手にしました。このとき、イギリスは同盟国でしたし、アメリカも日本に好意的でした。旅順・大連に駐留した日本軍が「関東軍」と言われます。
1914年に第1次世界大戦が始まると、日本は対独宣戦をして、ドイツの租借地青島を陥落させ、ドイツが持っていた山東半島での利権を接収し、翌1915年にいわゆる対華21か条の要求を中国に行い、この利権の継承のほか、満州、内蒙古での権益を要求して認めさせます。このときはアメリカも支持を与えていますが、第1次大戦の戦況を気にしてのことです。1919年に結ばれたベルサイユ条約では、米英仏も同意して、ドイツ利権の日本への引渡しが中国の反対を押し切って盛り込まれます。5・4運動と呼ばれる反日デモが中国全土で起こったのは、これに抗議してのことです。
1921~22年に、アメリカの主導でワシントン会議が開かれますが、中国に関しては「主権尊重・領土保全」を定めた9カ国条約を結び、米英の圧力で日本は21か条要求で手にした利権のほとんど(旧ドイツ利権を含む)を返還します。このときに日英同盟が廃棄されますが、このときから米英は日本の対中進出を警戒するようになり、特に対米関係は緊張に向かいます。1928年に、軍閥の割拠状態にあった中国は国民党によって統一されますが、これに対し日本は山東出兵、張作霖の爆殺で介入しようとしますが、米英を恐れて政府が事態拡大を抑えています。同じく1928年には不戦条約が結ばれ、日本も参加します。
そして、1931年に満州事変を関東軍が起こし、満州を占領、32年には「満州国」を成立させます。形式上は独立国ですが、政府の要職には必ず日本人の副官をつけ、日本が実権を握りました。中国の要求で、国際連盟はリットン調査団を派遣し、その報告では満州国は日本の傀儡だと認定し、日本の撤退を勧告する一方、日本に満蒙での特殊権益を認めるべきだ、とする妥協案も示します。日本はこれを拒否し、国際連盟が報告にもとづく勧告を採択すると、日本は国際連盟を脱退し、国際社会での孤立を選択します。しかし、米英が介入を避けたので、1933年に日中軍事停戦協定が結ばれ、中国は事実上、満州をあきらめることを余儀なくされます。
1935年以降、関東軍は華北分離政策を進めて、華北への介入を強めますが、これに中国はイギリスの支援で経済改革で対抗しようとします。中国で国共合作が成立し、抗日統一戦線が作られるのはこうした状況の下でのことです。
そして、1937年に日中全面戦争が始まります。盧溝橋での日中の衝突は多分に偶発的なもので、現地では停戦協定が成立していたのにもかかわらず、日本は軍を増派して戦争を開始しました。アメリカはこれを激しく非難し、国民政府への援助を強めます。太平洋戦争の前段の日米関係の悪化は、日中戦争の開始に端を発していました。首都南京を陥落させれば、国民政府は屈服する、と日本は考えていたのですが、南京陥落に際して、国民政府は武漢、その後重慶に遷って抗戦します。日本軍の支援で成立した汪兆銘政権は、日本軍占領地域の政府で、日本軍に対する拒否権は持てず、実質は日本軍の傀儡でした。日本軍は占領地域は増やしていきますが、住民の抵抗や、八路軍(中国共産党軍が国民政府軍に編入されたときの名称)などのゲリラ戦に悩まされ、戦争は泥沼化します。このとき、日本軍による住民虐殺が起こったのも、住民と区別のつかないゲリラを掃討するためということでした。このころの中国共産党は「抗日」で民衆と深く結びついて勢力を伸ばしました。中国共産党政権が、抗日戦争を教育に使うのは、中国共産党が中国民衆の味方であることを強調したいためです。
1939年、日独提携に対抗して、アメリカが軍需物資の対日禁輸策をとったため、中国戦線を維持するには物資が不足したことが、日本の南進の動機となります。また、東南アジアからインドにかけて占領する、という作戦の動機のひとつはアメリカによる「援蒋ルート」(アメリカが国民政府に対して支援の兵器や物資を輸送した道)をさえぎる、ということでした。1941年のハル・ノートを日本陸軍がどうしても飲めなかったのは、「中国からの撤退」というところです。このように、太平洋戦争は日中戦争抜きには考えられなかったので、日米が開戦すると、当然のように米中は同盟関係となったのです。
軍事的には、日本敗北の主力をなしたのはアメリカで、日本の降伏時も中国には広大な占領地域が存在しました。しかし、中国撤退を拒否したために、開戦したのですから、中国戦線の泥沼化はその日米戦争の前提条件でした。中国が抗戦し続けたのも同様に前提条件と言えます。したがって、日本の降伏にともない、中国が戦勝国になったのは自然な流れでした。
韓国・北朝鮮はこの戦争においては、植民地として日本の一部だったため、戦勝国として認められず、サンフランシスコ講和会議にも招かれませんでした。朝鮮戦争中ですから、南北いずれにもそれを打開する政治力・外交力はなかったのでしょう。

この過程では、中国が日本固有の領土に侵攻したことは1度もありませんでした。日清戦争も、朝鮮が主戦場です。その後、日本は軍事力をてこに、中国固有の領土上での支配地・占領地を増やしていきました。中国の領土に駐兵し、ついには戦争をしかけて占領地域を拡大していきました。これが侵略でなければ、どういうことを侵略と呼ぶのか、と問いたいと思います。欧米列強の植民地拡大とどこが違うのでしょうか。他の人たちが悪いことをしていることは、自分がしている悪いことを免罪するものではありません。子どものときに悪いことをして叱られたとき、「xxちゃんもやってるよ」と言ったら、「お前が悪いことをしたのには変わりがないだろ!」とさらに叱られたことを思い出します。

中国に非があるとすれば、清朝が近代化に遅れをとり、その一因としては、自由化・民主化をつぶし、民衆の生活を省みなかったこと。1911~12年の辛亥革命で、清朝が倒れ、建前としては民主共和国である中華民国が成立しても、実質的には軍事独裁が続き、その状況をドラスティックに変えることができなかったこと。三民主義を掲げて政権を握った国民党も、政権掌握後は、現在の共産党政府と同じように、独裁と腐敗に沈む状況には、変わりがなかったこと。といったことでしょうか。いずれも国内的要因で、外国の侵略を正当化するのは、「いじめられた方にも原因がある」というようなものです。いじめられた方にどんな原因があったとしても、それはいじめることが悪いことだということを変えることにはならないと思います。

書くのに熱中していたら、とんでもなく長くなってしまいました。ここまで読んでいただいて、ありがとうございます。

1904~05年の日露戦争で、日本は旅順・大連の租借権(事実上の領有権)と、後の南満州鉄道を手にしました。このとき、イギリスは同盟国でしたし、アメリカも日本に好意的でした。旅順・大連に駐留した日本軍が「関東軍」と言われます。
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