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昔から変じゃないかと思ってました。
芭蕉が出雲先の海岸から佐渡島を眺めているとして、
佐渡の手前に横たわっているのは「荒海」のはずです。
なんで天の川が横たわっているのか?
天の川は南の空から北の空にかけて天空にかかっているわけで、
本州から佐渡島に流れ込んでいるように見えているんじゃないかと思います。
横たわっているんじゃなくて、立ち上っているんじゃないかなぁ・・・と。

詩心のある方、どう思われますか。

A 回答 (8件)

『横たふ』とは『横切る』の意味です。



http://www.ict.ne.jp/~sasa-mi/gifukuhi64.htm
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

「横たふ」に横切るという意味があるのでしょうか。
いずれにしても「横」が気になるのです。

お礼日時:2013/10/26 19:02

眼の前には日本海の荒海が広がっている。


そのかなたに佐渡が島が見える。
仰ぎ見ると、その佐渡が島へかけて天の川が夜空に大きく横たわっている。

つまり、天空に横たわっているんです。
普通なら地面に横たわるところを、空に横たわるとしたところが、言葉の遊びであり、詩となっているゆえんです。



>本州から佐渡島に流れ込んでいるように見えている

おっしゃるとおりでしょう。
でもそういう当たり前のことを、普通の言葉で表現しても詩にはならない。
普通の使い方をちょっとだけずらして使うのが詩です。


それに、天の川を大河とみれば、「流れる」よりもじっとしている方がいい。
小さな川は流れが速いのですが、大きな川は流れているようには見えないんです。



あるいは、こうもいえるでしょう。
川が流れるのは当たり前で、俳句の言葉として、「川」と「流(れ)る」を組み合わせるのは、無駄です。
十七音の中に世界を閉じ込めるためには、「流(れ)る」以外の言葉を使った方が世界が広がる。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

縦のものを横にとらえるから、面白いのだというのは頷けますが、変ですよね。でも、それがいいのか・・・。

天の川を佐渡への架け橋的に見ると間違いですよね。
荒海と同じく佐渡と芭蕉を隔てるものと考えたほうが面白そうです。

お礼日時:2013/10/26 19:14

漂泊の俳人芭蕉の心眼が捉えた、多時間的にして複層的な心象風景を詠ったものだけに、尋常な解釈には馴染まないでしょう。



1.7月4日夕刻(出雲崎到着時)
・18里の滄波の彼方、山肌の陰影さえくっきりと手に取るような鮮やかさで横折り伏して見える、この大いなる佐渡島への驚嘆。
・偉人たちの遠流の悲嘆の数々、国内最大の金山、様々な歴史の「荒海」として、まさに佐渡に相応しい枕詞として思い浮かぶ。

2.7月5日未明(出雲崎宿泊)
・「夜中、雨強降」(曾良日記)。激しい雨音を枕頭に聞きながら、天の川もまた降りしきっているだろうかとの連想から、夕方見た日本海と重ね合わせることで、横折り伏す佐渡とを隔て横たうこの海が天の川と重なり、また天からの雨音と海からの荒波も重なり合って強く心象にオーバーラップされていく。

3.7月6日夜(直江津)歌仙を巻く
 文月や六日も常の夜には似ず
七夕の宵夜。宿の窓から見上げた夜空に月は仄暗く、銀河は半天に懸り、星は煌めき冴えるを眺める。潮騒を耳にしながら、病んだ身にして旅愁甚だしく断腸の思い頻りの発句。

古来、順徳天皇はじめ貴人の遠流(おんる)、親鸞や世阿弥の流謫(るたく)の地にして、近来は国内最大の金鉱産地としても、まさに歴史上の大いなる枕詞「荒海」を冠するべき佐渡島。
暑湿の労に病み、痔瘻に苦しみながらの道中にある今の吾が身を、かねて彼の地に住まいし貴人・偉人へと思慕を巡らせ、折しも牽牛と織女の二星(じせい)の星迎えになぞらえてみると、前に横たわっているこの歴史越えの「荒海」こそが天の川なのだと観じられるようだ。
かくも果つることないこの天際の神秘への驚嘆と人の歴史への慄きの体験をしつつ、なお尽きせぬ断腸の旅愁に浸っている今このとき。

参考:「銀河の序」
http://www.intweb.co.jp/basyou/kty/haibun_gingan …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

単純な叙景詩的な解釈には無理があるということですね。

天の川が中天に横たわっているにしても、
芭蕉の立ち位置からすれば縦なんじゃないか、
というのが疑問だったんです。

佐渡の前に横たわっているのは荒海なんですから、
それが天の川に重なっているんでしょうけど、
天の川が「横たふ」っていうと
立体的なイメージがしづらかったのです。

お礼日時:2013/10/26 19:08

ベッドに寝ている人の足下にいて、その人のことを、ベッドに横たわっていると言って差し支えありませんね。


荒海の中に、ものともせずに佐渡が横たわっている。しかも、天の川がよく見えるような星空。恐らく月も奇麗に見えていたはず。とすれば、月光にあたって浮かび上がるようにして佐渡が見える。暗黒の海原に、佐渡の黒い島のシルエットがくっきりと見えたはず。
空に目を向ければ、そこには、暗黒の中に、くっきりと天の川が見える。佐渡が海に横たわっているように、天の川も横たわっている(これを縦という上下に見るのではなく、ベッドに横たわっている人と同様、天空に横たわっていると言って不自然ではない)。海の暗黒と空の暗黒。そこに浮かび上がった佐渡と天の川。佐渡の「渡」という文字も、天空を「渡る」天の川と対比されているがごとくである。

天界と海とを大胆に詠んだ、芭蕉先生の傑作の一つだと思います。

私ならこのように解釈します。
ご参考になればと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

ベッドに寝ている人を足元から見て横たわると表現して不自然でないのは寝ること自体を横になると言うからだと思います。

私の疑問は横たわっているのは荒海であって天の川ではないのではないかということなのです。
三次元的に同なんだということなのですが、この句は四次元的なものなのかもしれませんね。

お礼日時:2013/10/27 08:54

佐渡と出雲前にある荒海を天の川と見立て、”娑婆とその向う側”、 ”織姫と彦星” 会いに会えない状況をうたったのではないかと思います。


自分の立つ位置と佐渡の間に 天の川に匹敵するような 荒海が存在する事をほのめかしているようです。
また、それは必ずしも夜ではなく昼間の情景だったのかもしれません。

隔てている事の意味に 天の川を使ったと解釈します。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

天の川はやはり隔てるものですよね。
だから佐渡の前に横たわっていけないということなのだと思います。
現実ではそうは見えないわけですから、心象ということなのですね。

お礼日時:2013/10/27 08:56

 こんばんは、夜分に失礼します。

他の方々が文法や文脈的な説明を適切にされていますので、僕は少し変わった部分からこの句を眺めてみました。芭蕉の作品と彼が求めて已まなかったものとの関係です。
 僕の理解のポイントは二つあります。先ず『奥の細道』という作品で芭蕉の訪ねた跡を辿ってみると、その旅路はほぼ西行のそれに重なることもわかります。
 こうした事象を前提にしますと「佐渡」という場所。そして芭蕉と西行との関係を問うならば、隠れキーワードとして「後鳥羽院」の存在も頭に浮かびます。ここまでが一点目のポイントです。
 するとこの句の「どこで区切って読むか」によっても違う光景が見えてくるのではなかろうかとの話にもなります。
 「荒海や 佐渡に横たふ天の河」と「荒海や佐渡に横たふ 天の河」を比べた場合、はじめの区切り方での「芭蕉の目線」は荒海に注がれているともとれます。逆に後の区切り方をするならば天の河にあるともとれます。
 今、自ら(芭蕉)が実際に立っているこの場所(出雲先)とその先にあるはずの佐渡島との間には日本海の荒波と波頭が広がっていることで「隔たり」がある。
 と同時に「もし西行がこの地を訪れていたならばどの様な感慨を持っただろうか」と芭蕉は考えたのかもしれません。西行からすれば「歌の世界では同列にあった」としても、慕う相手(後鳥羽院)との間には現実として「身分の隔たり」もあることは確かな現実でもある。
 今、自分(芭蕉)が佇んでいるこの場所は、我が師である西行とその良き理解者でもあった後鳥羽院の流刑の地を空間的にも身分的にも隔てる地でもある。こんな感慨が彼の脳裏にあったのかもしれません。
 そして「隔たり」という言葉に着目してみますと、天の河で隔てられているのは牽牛と織女であり共に惹かれあっていたものの、それは適わぬ仲の代名詞でもあると同時に、互いの思いは変わりもしないことの喩えでもあることを想像させるに十分です。
 こうした目線でこの句を詠んでみますと、後鳥羽院と西行を隔てる日本海の荒波は恰も牽牛と織女を隔てる天の河の様にも見える、と芭蕉は詠じたのではなかろうかと勝手に推察してもいます。
 こうした解釈から、この句は叙景句というよりも、芭蕉が創作活動の原点にしていた古人との邂逅にスタンスがあるのでは?との印象を持っています。参考にならなかったらごめんなさい。
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この回答へのお礼

「荒海や佐渡に横たふ 天の河」と切ると「佐渡に横たふ荒海や 天の河」となります。
そうすると実にわかりやすくなりますね。
「佐渡と私を分かつ荒海はまるで天の川みたいだ」という解釈
それとも「や」は「切れ字」だから「荒海や」で切るべきか。

銀河の序から類推するにこの句は夜半に佐渡を望んで読んだのではなく、寝所で読んだみたいです。宵に見た月明かりに照らされた佐渡・荒海・天の川を布団の中で思い出し、旅愁と古人に思いをはせながらながら詠んだ、心象風景なんでしょうか。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/10/27 09:06

門外漢ですが、


実景描写では無いと思うのです。

荒海とは「シケ」状態だろうと思っています。
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この回答へのお礼

確かに実景ではなさそうですね。
実景では天の川は佐渡の前に横たわらないですから。

川が横たわっているとすれば、作者の視点は川よりの上でなくてはならない。
川は仰ぎ見るものではありませんからね。天の川を我々は川底から見上げているのだと意識はないでしょう。天の川を意識した時、我々は天地を逆に意識しているのではないかと思うのです。また360度天地がつながった球体の中にいると思ってもいい。
ただいずれにしても佐渡に天の川は流れ込んでいるはずなので(本州側を川上と仮定)、横たわってはいない。だから、実景ではない。

みなさんから教えられて大体、考えが固まってきました。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/10/27 09:18

 これ、天文学的にも?とされたものじゃなかったかな?



 昔、スカイウォッチャーという天文雑誌でこの話題を取り上げていたけど、結論的な物はなかったような。

 シミュレーションをしての話しです。

 横ではなく縦だよなぁって話しでしたが。

 科学館の図書コーナーで古い雑誌で残っているかなぁ。

 実際の光景ではなく、伝聞からかな。天気が悪くてそうイメージしたとか。と私は思う。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

横じゃなくて、縦ですよね。
ご賛同ありがとうございます。
芭蕉は現地には行ったんでしょうから伝聞じゃあないでしょう。
実景ではありえないのですから、
夜旅館で潮騒を聞きながらイメージしたんでしょうね。

お礼日時:2013/10/28 19:36

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