東京の荒川・隅田川の名称についての話です。
今まで、
・荒川は(明治終わりから昭和初期にかけて)人工的に掘った川
・隅田川(すべて)は今の荒川を作る前は荒川と呼んでいた
というおおざっぱな認識でした。
しかし、「墨提通り」の名が「墨田堤」から由来していて、少なくともそこは江戸時代から隅田川だったという事を知り、また明治43年の洪水の写真の中に「隅田川の上流権現堂決壊」と書いてあったのを見て、びっくりしてしまいました。荒川放水路を作るはるか前から隅田川だった部分もあるのか、名前が変わったのは一部分だけだったのかと。
という事は、どこからどこまでが名前が変わった部分なんだ、と気になってしまいました。
「昔、荒川だったが今は隅田川になった」というのはどこからどこ辺りになるのでしょうか。私の予想では、「おおむね今の足立区に流れている隅田川の範囲」が、それに当たるように思うのですが、これはあっていますでしょうか。
これについて教えてください。
また、この名称変更について、ネット上で確認できる資料もしくは、ネットでなくとも何か文献があればそれを教えていただきたいです。
よろしくお願いします。
No.3ベストアンサー
- 回答日時:
「昔」が、荒川方水路完成直前の事を指しているのなら…
「昔、荒川だったが今は隅田川になった」のは
岩淵水門から下流すべてです。
現在の隅田川全域が、荒川から隅田川への名称変更対象です。
江戸時代から考えると
・江戸:荒川・すみだ川(隅田・墨田・墨多)・浅草川・大川・宮戸川混在
・1896:河川法により「荒川」に統一
・1930:荒川法水路完成に伴い「隅田川」に変更
という変遷をたどっています。
江戸時代に隅田川と呼ばれていた流域だけに着目すると、「隅田川→荒川→隅田川」と名称変更している事になります。1896年に荒川に統一されたという点はかなり重要です。そこを押さえておかないと混乱してしまうでしょう。
隅田川の由来
http://www.edo.net/edo/asakusa/06ookawa/yurai.html
墨田川は正式にいうと荒川である。明治二十九年(1896)四月八日制定の河川法に基づき、荒川水系であるところから荒川と認定されて以来、法律上隅田川の名は存在しない。
「隅田川→荒川→隅田川」これはなるほどそうなのかと思いました。それから「すみだ川」は墨田でも隅田でもあったから、墨田区・隅田堤なんですね。でもなぜ川だけ「隅田」になったのかは不明ですが。
あとさらに調べていたら、江戸時代のすみだ川は今の足立区と葛飾区の区境も流れていた(らしい)と言う事も分かってきました。
Wikipediaの「それまでは現在の千住大橋付近までが荒川、それより下流域が隅田川と区別されていた」という記述は間違っているっぽいですね。
ありがとうございました
No.2
- 回答日時:
ざっとした歴史は以下の通りです。
川の名称がややこしいのは、現在のように上流から河口までが一つの名称で呼ばれていたことはなかったということです。
自分達の住む土地土地で名前をつけていました。
何処から何処までという基準は過去も現在もありません。
何時の時代から何時の時代までと、判るのは明治以降です
現在の多摩川も河口から、六郷川、丸子多摩川、二子玉川 玉川と地域での名称が違います。
更に、歴史を説明する際に、その時代に呼ばれていた名称と現在の名称を混在させたまま説明されることが多いことです。
(文献や筆者によってマチマチです)
特に、関東地方の川は度々流路が人工的に変更されているために、非常に判り難いです。
変更される前の流路は埋め立てられたり、他へ流れを変えられたりしていて、現在の地図からは追跡が難しいです。
又、法規上の正式名と通称が異なっていることもあり資料の検索に手間取ります。
荒川
1629年(寛永6年)秩父→寄居→大宮台地→埼玉平野と流れていた川を熊谷のあたりで入間川に流れ込むように工事した。
目的:川越と江戸を結ぶ水路(川)の流量を確保する。
入間川の合流点から下流が隅田川、秩父からの河口までの全体を荒川と幕府では認識していた。
(隅田川」の詳細は下記別記を参照して下さい)
熊谷付近で上流を失った川は、元荒川と呼ばれた。
この工事以前は、元荒川を通って越谷のあたりで古利根川に流れ込んでいた。
荒川の歴史 - 国土交通省
www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/83...
1910年(明治43年)岩淵から、河川敷の巾500mの水路を開設した。
荒川放水路と命名された
荒川の歴史 - 明治時代~荒川放水路開削工事 | 荒川下流河川事務所
www.ktr.mlit.go.jp/arage/hensensi/
荒川流域の成り立ち 荒川放水路開削以前の姿 荒川放水路周辺の現在
www.ktr.mlit.go.jp/arage/hensensi/pdf/CHP07.pdf
1965年(昭和40年)荒川放水路を含む全体を荒川と呼ぶことにした。
岩淵水門から下流の以前からの流路を、荒川支流(通称隅田川)と呼ぶこととした。
隅田川というのは、元々は、中川から鐘ヶ淵付近に流れ込む流路があり、利根川の支流だった。
利根川自身も流路を変えているので、非常にややこしいです。
現在の江戸川、中川などが元々の利根川です。
現在の、千葉県と茨城県との境を流れているのは、鬼怒川の下流部分とその他の中小河川の流路です。
江戸時代には、江戸の人間は、現在の江戸川も銚子へ向かって流れている川も全て利根川と呼んでいました。
江戸時代の文献に出て来る利根川は大半が現在の江戸川のことです。
江戸時代の江戸川は現在の神田川の中流部分で、現在も江戸川台という地名が残っています。
古隅田川 (その1)
www.geocities.jp/fukadasoft/rivers/furusumida/index.html
隅田川という名称は、江戸時代中期までは、下総側(左岸)で使われていた名称で武蔵側(右岸)では浅草川と呼ばれていた。
両国橋は武蔵と下総の二つの国に架かっている橋という意味です。
中期以降江は、吾妻橋近辺までの下流は「大川」、浅草近辺は「浅草川」、「隅田川」、上流は「荒川」「宮古川」と呼ばれていた。
隅の字も、「澄」「墨」「角」などが当てられていた。
歌で有名な都鳥も、駒形堂よりも上流を飛んでいると都鳥で、下流を飛ぶと鴎と呼ばれました。
この回答への補足
自分用のメモとして書かせていただきます。
荒川の歴史 - 国土交通省
http://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/ …
荒川 (関東) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E5%B7%9D_ …
「荒川放水路」は1965年(昭和40年)に正式に荒川の本流とされ、それに伴い岩淵水門より分かれる旧荒川全体が「隅田川」となった。それまでは現在の千住大橋付近までが荒川、それより下流域が隅田川と区別されていた。
私のもともとの疑問の結論としては、
・そもそもどこからどこまでが何川という明確・統一的な呼び名はなかった。
・今の隅田川の全部を荒川とよぶ人もいれば、千住大橋付近までを荒川と言っていた人もいたと言う感じなのかなと思いました。
>上流から河口までが一つの名称で呼ばれていたことはなかった
>自分達の住む土地土地で名前をつけていました。
なるほどー。
浅草側は浅草川とも呼んでいたと言う事を知り、統一されてはいなかったのだなと納得しました。
しかもそもそも論で、荒川は、文字通り(今の)元荒川を流れていたものを付け替えて、入間川と呼ばれていたのが荒川となったのですね。知りませんでした。少しは勉強しているつもりなのですが、まだまだ勉強の余地が沢山ありそうですね。
参考になりました。ありがとうございました
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