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結果的に徳川方、東軍が勝ちましたが徳川家康はなぜ真田昌幸、幸村親子から足止めされてる秀忠軍を待たずに布陣したのでしょうか?足止めされてる状況が家康本陣に伝わってなかったのでしょうか?

布陣せざる得ない相当な理由があったのか、結果的に布陣している形、になったのか?その辺のことをウィキ以外の情報で教えて頂ければ助かります。

A 回答 (7件)

もっとも大きな理由は当時、東軍に所属していた他の大名、福島正則や加藤清正などが秀忠軍を待たずに自分たちで戦うことを望んだからだと思われます。


この時点での家康はあくまでも「東軍側の筆頭」であって「主君」ではありません。
東軍・西軍のいずれも「大名の連合軍」でしかなく、戦国時代もこのような軍は統制が乱れ敗北を喫する事がしばしばありましたし、ご存じの通り西軍は裏切りが大きな敗因となりました。
そして東軍方の大名にすればもし秀忠軍はじめ徳川家の軍が増えると、西軍に勝利した暁にも恩賞は殆どが彼らに奪われてしまうことは目に見えています。
それ故、東軍方についていた他の大名は自分たちの利益のために、秀忠軍の到着を待たずに決戦を行うことを望み、家康も東軍の統制が乱れる事を恐れ、彼らの意向を汲んで戦うことを余儀なくされたのでしょう。
事実、関ヶ原の合戦後、恩賞としての領地の分配はこのとき活躍した外様大名に重点を置かざるを得ず、それが江戸時代初期の幕政における大きな課題となり、彼ら大領を得た外様大名の取りつぶしが頻発することになります。
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この回答へのお礼

個人的に1番納得でき、かつ信憑性のある回答だと思いました。あれから自分でも色々調べましたがほぼ、そうゆうことだったと思われます。
詳細な解説ありがとうさまでした!!

お礼日時:2014/04/17 00:30

tenpuruo-m さん、こんばんわ。




双方ではありません。布陣についてはドイツのメッケル少佐が西軍の勝ちだといっていましたが、家康の場合はすでに謀略を毛利家に対して行っていました。小早川秀秋に対しては黒田長政を介して、裏切り工作を、毛利本家に対しては吉川広家を介して毛利本隊をくぎ付けにしました。もちろん、戦闘になればどう転ぶかわかりませんが、この謀略の成功で家康が6分は勝利すると思われます。
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この回答へのお礼

こんばんわ。追加での回答ありがとうございます!!仰るとおりだと思います。ただ、秀忠の遅参についてはは家康にしてみれば大きな誤算だったと思うのですが・・・
また教えて下さいませ!

お礼日時:2014/04/17 00:42

これは色々な説があります。



・福島正則や加藤清正が先走ってしまった、という説。

・豊臣秀頼が出陣してくるかもしれない、という
 情報が入ったから、秀忠を待っている余裕がなくなった
 、という説。
 秀頼が出陣してくれば、福島、加藤らは大義名分を
 失います。

・そもそも一回の戦争で趨勢が決まってしまうとは
 思わなかった。
 今後、何度も戦争をやる予定で、その為温存して
 おいたのだ、とする説。


福島などが先走って、結果としてそうなったのだ
という説が強いようです。<
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この回答へのお礼

そういった様々な思惑と要因あったのでしょうね。いずれにしても東軍の大将家康にしてみればいかにリスクを減らし大きな結果が生みだせるかの決断だったと思われます。
こういったことは普段の生活や仕事にも活かせる気がします。勉強になりました!!

お礼日時:2014/04/17 00:36

※ 大坂夏の陣で駿府→京都 290キロを家康は12日で進軍 ≒ 25キロ/日



13日段階での家康の皮算用

西軍 A軍 19日に大垣進出の可能性がある
西軍 B軍 19日に大垣進出可能性がある
西軍 C軍 19日に大垣進出危険性がある
東軍 D軍 19日に大垣進出の可能性がある、ただし、信濃の山中であり河川氾濫の情報も来ている、比較して西軍の移動範囲内に大河は無い

秀忠軍の到着を待つことは、大垣城を軸に西軍に逆包囲される危険性を生む。
真田による足止めというが、足止めは三日であり、それ以外では足止めがなかったのだから、最初からその程度の日程は織り込み済みだと推測される。

家康としたら、濃尾に来てみたら近畿の情勢が思いの外西軍優位に動いているので、早期決着を付ける必要が生じた。

と判断したのではと思う。


A軍
大津城開城が 同月15日
立花宗茂など 15,000
大垣まで 約100キロ

B軍
田辺城開城が 同月13日
小野木重次など 15,000
大垣まで 約140キロ

C軍
大坂城
毛利輝元 数万(かな?)ちょっと数字が拾えない
大坂から大垣まで 140キロ

D軍
上田離脱小諸出発 9月9日
秀忠 38,000
小諸から大垣まで 約260キロ
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この回答へのお礼

具体的な距離と兵力あげて頂き非常にうれしいです!
こうしてみるとより詳しく当時のことが思い描かれますものね。
西軍の本拠、大阪城はやはり支城あわせたら数万人規模は駐留させていたのでしょうか。
同時期、各地方で繰り広げられた戦い、関ヶ原を中心にいかに国内東西を分ける大きな戦争だったか伺えました!ありがとうございます!

お礼日時:2014/04/16 20:52

tenpuruo-m さん、こんばんわ。






足止めされてる状況が家康本陣に伝わってなかったのでしょうか?
わかっていました。でも、相手の意表を突くために早々に美濃に到着しました。
西軍も杭瀬川の戦いで勝利し、大意に士気を鼓舞しましたが、家康到着で恐怖心が出たようです。
西軍の鶴翼に対して東軍の魚鱗でしたが、その中核を担う、毛利、小早川勢には裏切り工作をしており、とりあえず、骨抜きにしてありました。また、石田、小西、宇喜多に対してその先陣を厚くしました。その意味では家康の勝利は動きませんでした。
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この回答へのお礼

こんにちわ!回答頂きありがとうさまです。やはり本陣家康の方にも伝わっていたんですね。
三成にしてみたら小早川もそうですが背後を衝くはずの毛利が内部分裂して全く動けなかった、というのも勝敗に大きく影響したように思います。双方、思わぬ大きな誤算が生じた戦いだったということでしょうか。

お礼日時:2014/04/16 11:01

結果として関ヶ原の戦いで終わりましたが、その後も戦が続く可能性があった、と考えます。

そうすると無傷で残る秀忠軍は非常に貴重です。たぶん、待たずに勝てると判断したのでは?
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この回答へのお礼

なるほど。そういった見方もあるのでしょうか。回答ありがとうさまです!!

お礼日時:2014/04/16 21:02

資料をみつけたので↓



http://kamurai.itspy.com/nobunaga/sekigahara.htm

秀忠軍は中仙道を通り軍を進めて関ヶ原に行くルートを取っていたのです。

名将真田が強い(軍には楽勝で秀忠軍は勝ったけど)大将が強かったために

誤算だった家康は別の手を考えてたので(西からの協力者)が賛同した段階で

手を打ったので最終的に上記のような陣になったと言われてます。

大体、協力者が現れて待ってくれとは言えないでしょうね

流れもあるし。秀忠が遅かったために軍の半分で戦うことになったから数や

質が回復すれば動かないと面目立たないのでしょう。秀忠は徳川の後継者ですから

遅れても来ると信用していたのかもしれないし。
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この回答へのお礼

回答、そして非常に解りやすい資料まで貼って頂き大変参考になりました。
流れ、確かに戦においてはそういったモノも勝敗を分ける一因になったのでしょうね!
ありがとうございました。

お礼日時:2014/04/16 10:55

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