アリスムカイデが“MV女優”になった原点MVをご紹介!

本能寺の焼け跡を誰がいつごろ片付けたのですか。
遺骨は埋葬されたのですか。
これらに関する記録や言い伝えはありますか。
よろしくお願いします。

A 回答 (7件)

諸説ありますが、本能寺で信長が討たれた後、明智光秀が捜索し、死体等は阿弥陀寺・清玉上人が供養したというところまでは概ね間違いがないようです。


ただし、供養した死体の中に信長の遺体があったかという点については不明です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
阿弥陀寺に死体が運び込まれたのですね。
分かりました。

お礼日時:2014/07/27 09:21

信長以外にも、本能寺では欄丸等の側近や濃姫の遺骨すらわからなかったようですよ。

安土や岐阜、小牧では発掘や研究が盛んですので、そういった地域の学芸員さんや調査や研究をされている方にお訊ねするのもいいかもしれませんね。
    • good
    • 0

お礼有り難うございました♪ヤスフェ(弥助)は、とても忠誠心が深かったようですので、頭蓋骨はヤスフェが持ち歩いたかもしれませんし、奥三河という土地は長野県と隣接するだけあってとても山深いので、その何処かに埋めたとしても見つかりにくいでしょうね。

その寺を選んだのも、もしかしたら見つかりにくさを考えてのことではと思います。それに、当時の奥三河といえば味方の家康の所領でしたので、そういう理由もあったかもしれませんね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。
なるほど、いろいろ想像していくと楽しいです。
検索してみますと、愛知県の「西山自然歴史博物館」に信長のデスマスクがあるそうです。
日本最初のものかもしれません。材料は何なのか、興味は尽きないです。

お礼日時:2014/07/28 21:05

信長のお膝元、小牧に住むものです。

焼け跡については、確か秀吉らが片付けたと思います。信長は自害する際、骨すら残さないよう、寺に火をつけて焼き尽くす様に命じています。実際にそれほどよく焼けたと言われており、命じた通りに遺骨が見つからなかったため逃げたという説もありますが、寺と共に果てました。しかし、アフリカ人の家臣、ヤスフェが首だけを愛知の長野県境近くの寺に急いで持って行き、顔型を遺していたことが近年になって解り、実際にらしき顔型が見つかっています。信長とされる西洋画の肖像画によくにています。信長は謎が多く気性の荒さも最近では覆されつつあり、比叡山焼き討ちでは僧侶も女子供も逃がしてから建物だけを焼いたという記録も発見されていますよ。小牧でも、毎日野駈けして生駒の方(側室)に会いに行ったという説などありますよ。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

その“顔型”はテレビで観たことがあります。
なぜその寺が選ばれたのか、その説明もあったような気がしますが忘れました。
それなら頭蓋骨も残っているはずだと、テレビを観たとき思いました。
そのような言い伝えがあること、参考になりました。

>信長は謎が多く気性の荒さも最近では覆されつつあり、比叡山焼き討ちでは僧侶も女子供も逃がしてから建物だけを焼いたという記録も発見されていますよ。

興味深い話です。調べてみます。

お礼日時:2014/07/27 21:57

内容自体は既出ですから、既に御確認済みかもしれませんが…



>これらに関する記録や言い伝えはありますか。

〇『史籍集覧.25/近藤瓶城編/近藤出版部/明治40.3再版』
・「新加別記第五十八 信長公阿彌陀寺由緒之記錄」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920418/219
<219~223/384>(429~437頁)

※上記内容に対する真偽等は最終437頁の記述にて御判断下さいとしか…
寺内に潜り込めさえすれば、本能寺僧衆に紛れることは可能だったかも知れませんが、
四方皆敵の中、本能寺裏の垣を破り寺内に入り何て事が出来たのか否かの疑問は残ります。

以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
『信長公阿弥陀寺由緒之記録』という名の記録(言い伝え)があるのですね。
これによれば、信長を含めてその側近たちの遺骨も阿弥陀寺にある(あった)、ということになりますね。
このような説があること、大変参考になりました。

お礼日時:2014/07/27 21:39

側近の遺骨も確か見つかってないはずです


見つかっていれば光秀は「これが信長の骨だ」と主張したはずですが
そういった記録はありません

信長の葬儀は大徳寺で行われました
木像はそこに埋葬されたようです
    • good
    • 0
この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。
とにかく骨があれば、今の世、DNA鑑定で信長の遺骨だと判定できるのではないかと、
つまらぬ空想をして質問しました。

お礼日時:2014/07/27 09:22

焼け跡は秀吉が命じて片付けさせたようです


ちなみに現在の本能寺は当時とは別の場所に移転していますね

信長の遺骨は本能寺から見つかっていません(爆死したので木っ端微塵です)
なので秀吉は信長の木像を作らせてそれを埋葬しました
    • good
    • 1
この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。

信長の遺骨ではなく、信長側近の何十人かの遺骨です。
丁重に埋葬したのでしょうか。

>秀吉は信長の木像を作らせてそれを埋葬しました

なるほど! 
どこへ埋葬したのでしょうか?

お礼日時:2014/07/26 21:41

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q本能寺について質問です。 現在、本能寺の周辺はコンビニやホテルなど最近建てられた建物が多い気がするの

本能寺について質問です。
現在、本能寺の周辺はコンビニやホテルなど最近建てられた建物が多い気がするのですが、本能寺の変があった頃には、周りに何があったのでしょうか?

Aベストアンサー

寺社とか、大名の屋敷とかですね、もう区画整理されてましたよ

Q本能寺の変の黒幕は誰だと思いますか?

本能寺の変の黒幕は誰だと思いますか?

Aベストアンサー

信憑性のある見解としては,秀吉と家康でしょうね。しかしいずれにしても、当初の計画通りには進展しなかったことが、解り難くしてしまったのだと思われます。
実際、光秀単独犯行という史実には無理があります。犯行後の行動を見ても、また事前の根回しがまったく見られないことも、光秀の性格からは考えられません。
ただ、秀吉と組むはずはありませんから、秀吉が黒幕だとすると光秀ははめられたと解釈する以外にありません。井上慶雪氏の「秀吉の陰謀」には本能寺を襲ったのは秀吉の別働隊だとしています。ただこの場合、変後の光秀の行動が疑問です。自分が行ったことではないにもかかわらず、その結果を受け入れる行動をとってしまっているからです。
家康が黒幕だとする説は、明智憲三郎氏が「本能寺の変431年目の真実」で述べていますね。この場合家康は光秀との当初の約束を破ったのでしょう。あの場合光秀は本能寺の変後堺にいた家康をいの一番に攻めるべきでしたが、そんなそぶりは微塵もありませんでした。これは何らかの約定があったからと考えることが出来るのです。家康も伊賀越えで帰城した後、光秀に対して攻撃の兵を差し向ける手順があまりにももたもたしています。なので約束どおりには動かなかったのかと・・・。
誰が見ても常識では考えられない秀吉の大返しが、すべての計画を狂わせてしまったとしかいえません。もちろん秀吉が黒幕なら、これも彼の計画に一部でしょうが・・・。

信憑性のある見解としては,秀吉と家康でしょうね。しかしいずれにしても、当初の計画通りには進展しなかったことが、解り難くしてしまったのだと思われます。
実際、光秀単独犯行という史実には無理があります。犯行後の行動を見ても、また事前の根回しがまったく見られないことも、光秀の性格からは考えられません。
ただ、秀吉と組むはずはありませんから、秀吉が黒幕だとすると光秀ははめられたと解釈する以外にありません。井上慶雪氏の「秀吉の陰謀」には本能寺を襲ったのは秀吉の別働隊だとしています。た...続きを読む

Q守谷総鎮守八坂神社がもう御朱印を貰いに来ないでくださいと言って話題になっていますが、御朱印の歴史は寺

守谷総鎮守八坂神社がもう御朱印を貰いに来ないでくださいと言って話題になっていますが、御朱印の歴史は寺だけで神社はそもそも御朱印関係ないのでご利益が薄れる以前にそもそも神社の御朱印の歴史は浅く寺の御朱印ブームに乗っかって金儲けに走ったから存在してるだけですよね?

http://blog.goshuin.net/origin/

ここに御朱印の起源が書いていて江戸時代に始まった。神社仏閣って書いてるけど、法華経(如法経)66部を配ってたのでさすがに寺だけだろうと思うのです。

寺の御朱印は江戸時代から始まったちゃんとした歴史がある。私からしたら浅い歴史だけど、神社の御朱印の歴史はないわけです。

歴史がないくせに転売は御朱印のご利益が無くなるとか頭が悪いことを神社が言っている。

そもそも神社の御朱印にご利益などない。

神社関係者はどう思っているのでしょう?

金儲けに寺の御朱印ブームをパクって、にわか御朱印ファンが御朱印が寺のものか神社の偽物の御朱印かも分からずに集めまくっている。

神社関係者は御朱印をそもそも配るのがおかしいわけでなに逆ギレしてんだ馬鹿野郎と言ってやりたい。

御朱印詐欺を始めたのは神社の方じゃないか。

神にバチ当たりと呪われるのは御朱印転売ヤーではなく神社の方である。

あと御朱印転売ヤーは寺の御朱印を集めなさい。神社の御朱印を転売するのは神社詐欺に加担している共謀罪で警察に逮捕される。

守谷総鎮守八坂神社がもう御朱印を貰いに来ないでくださいと言って話題になっていますが、御朱印の歴史は寺だけで神社はそもそも御朱印関係ないのでご利益が薄れる以前にそもそも神社の御朱印の歴史は浅く寺の御朱印ブームに乗っかって金儲けに走ったから存在してるだけですよね?

http://blog.goshuin.net/origin/

ここに御朱印の起源が書いていて江戸時代に始まった。神社仏閣って書いてるけど、法華経(如法経)66部を配ってたのでさすがに寺だけだろうと思うのです。

寺の御朱印は江戸時代から始まっ...続きを読む

Aベストアンサー

もう少し質問を絞っていただけるとありがたいのですが、宗教関係の商売なんて仏教も神道もどっちもない物とあると言って売る詐欺集団みたいなもんです。
それらにハエがたかってるだけですよ。

Q本能寺の変の真相

明智光秀の単独での犯行ではないと仮定すると

(1)秀吉共謀説

(2)家康共謀説

の2つが浮かび上がると思うのですが、
どちらの可能性のほうが高いと思いますか?

またあなたの考える本能寺の変の真相を教えていただきたいです。

Aベストアンサー

本能寺の変の陰謀論は近年活発に論じられる話ですが、秀吉黒幕説と家康黒幕説以外にも、足利義昭黒幕説、朝廷黒幕説、少々突飛なところではキリシタン宣教師暗殺説まで様々な人々の名前が挙げられていますね。

私は朝廷関与説を支持しています。ただし、朝廷側から光秀に命じたり持ちかけたのかというとそういう可能性は低いのではないかなと思います。日本人は阿吽の呼吸を重んじますから、朝廷が信長を討ってほしいなーと暗にほのめかし、頭がいい光秀がそれを忖度したような気がします。朝廷もバカじゃないですから、コトが露見したときに立場を悪くするような証拠めいたものは何も残さなかったはずです。

秀吉は、光秀を討って天下人になった(捜査の基本である「最も得をした人物を疑え」ってやつですね)ことや、晩年に秀吉の夢枕に信長が立って秀吉が怯えてパニックを起こしたエピソードなどから「怪しい」といわれますが、光秀との共謀はなかったと思います。
理由は、山崎の合戦の時に光秀側から「裏切ったな」的な言動などが一切聞こえてこないからです。もし光秀と秀吉が共謀していたなら、光秀が盟友である細川幽斎への手紙で「秀吉も俺と共謀したんだよ」といっていたと思います。

ただ、家康は怪しいですね。変の直前に光秀とは接待役で接触しているわけですし、「なにかを知っていた」のは間違いないと思います。ただ、なにを知っていたのかはわかりません。
そもそも同行していた穴山梅雪が大阪で別行動をとって落ち武者狩りで殺されたってのが出来過ぎで怪しい。甲斐出身で大阪に土地勘のない(当時なら言葉も通じなかったはず)穴山梅雪が自ら別行動を提案したとは考えにくく、家康側から「集団でいると目立って危険だから別々に行動しよう」といわれて応じたのではないかと思われます。
それにいわゆる「神君伊賀越え」の伊賀ルートも怪しい。伊賀は信長の弾圧を受けた現代でもアンチ信長が多い土地柄で、混乱した時期には信長派もその部下である光秀の配下も目が届かなくなる「エア・ポケット」になります。
しかも家康一行にその伊賀出身である服部半蔵が同行していたというのも出来過ぎで怪しい。服部半蔵が事前に伊賀でなんらかの準備をしていたとしても不思議ではありません。
そう思うと、もし伊賀で半蔵の手下が家康一行を「出迎えた」ら、その様子を穴山梅雪に見られるのは少々都合が悪いということになります。穴山梅雪も武田信玄の部下だった人ですから、何かを察するかもしれません。半蔵は忍者ですし、忍者といえば暗殺者というイメージもあります。
家康が穴山梅雪に自分の部下を警護につけるから別行動しようと持ちかけ、その警護の者が人目につかないところで襲撃すれば・・・すべてを闇に葬ることは簡単です。
結果的に家康は「最も安全で、かつ最短のルートで岡崎に帰った」ということになります。怪しい。しかし尻尾を一切出さずに「生涯最大の危機」に見せかけるところが家康の狸親父の真骨頂です。見事というほかありません。
だから、家康は絶対になにかを知っていた。しかし、そんな証拠は一切残さないあたりが家康と鉄の結束を誇る三河武士の実ににくいところです。小沢一郎氏も家康の前では小物にすぎません。

ただし、光秀は家康にそそのかされた程度でホイホイのるような軽輩な人物ではないので、家康が黒幕であるとは言い切れないと思います。

本能寺の変の陰謀論は近年活発に論じられる話ですが、秀吉黒幕説と家康黒幕説以外にも、足利義昭黒幕説、朝廷黒幕説、少々突飛なところではキリシタン宣教師暗殺説まで様々な人々の名前が挙げられていますね。

私は朝廷関与説を支持しています。ただし、朝廷側から光秀に命じたり持ちかけたのかというとそういう可能性は低いのではないかなと思います。日本人は阿吽の呼吸を重んじますから、朝廷が信長を討ってほしいなーと暗にほのめかし、頭がいい光秀がそれを忖度したような気がします。朝廷もバカじゃないで...続きを読む

Q戦国バサラ3 本能寺の変

戦国バサラ3でお市で本能寺をクリアして全キャラに本能寺ルートがでて、三成で本能寺をしたいのですが、何色ルートでいけばいいのですか?赤と青しか出てきませんけど・・・

Aベストアンサー

ふむ…おかしい。
三成【青ルート】の最後は、【大坂・夏の陣 蒼】で合ってるのですが、最後の戦いで、【大坂・夏の陣 蒼】と【金ヶ崎の退き口】の2択出現しませんでした?

だとすれば、一度、三成で【青ルート】クリアしてみて下さい。(最後:大坂・夏の陣 蒼)
その後、再度タイトルに戻り、三成を選択。(難易度は何でも良いです)

すると、ゲーム開始時に【新たなルートが選択可能になりました】と出るはずなので、再度青ルートをクリアしていきます。

すると、最終決戦で【大坂・夏の陣 蒼】と【金ヶ崎の退き口】が出現するので、【金ヶ崎の退き口】を選択すればOKです。

ちなみに…プレイヤーキャラは「石田三成」で間違いありませんよね(^_^;)

Q本能寺の変での信長生け捕り

歴史には詳しくないのですが、教えてください。

高校の時に日本史の先生が、明智光秀は信長を生け捕りにすることも考えたと思うと発言していました。光秀は信長を生け捕りにするつもりはなかったのでしょうか?
最初から討ち取るつもりだったのでしょうか?

Aベストアンサー

最初から討ち取るつもり
じゃないですかね?


プライドの高い信長は、敵に生け捕られる
くらいなら絶対に自害を選ぶ。


光秀はそのことを良く知ってるはず
なので、生け捕りが成功するとは
考えてないと思います。

Q御朱印を集めて入る方に聞きます、私も始めますが、何から始めれば解りませんまず、御朱印帳だけで神社で御

御朱印を集めて入る方に聞きます、私も始めますが、何から始めれば解りませんまず、御朱印帳だけで神社で御朱印をしてくださるのですよね、お金は以下程ですか?今までに行った神社の御朱印は行くべし!

Aベストアンサー

金龍山浅草寺から頂いた「御朱印について」御朱印の由来は参詣者がお経を書写して寺社に「お納め」することに始まっています。
本義から申しますとお経も写経もせず、あるいはお堂に入ってお参りもしないでただ御朱印だけを集めて歩くことは、本来の尊い意義を無視してしまうことになりあるべき姿から離れてしまいます。これだけは頭に入れといてください。寺社によっては「いかほどでも」とか「300円頂きます」という所がありますから、おつりを頂かないように小銭を用意してたほうがいいですね。「ありがとうございました」とお礼も忘れずに。御朱印帳はそれぞれ寺社の特色がありますから気にいったのがあれば買えばいいですね。

Q本能寺の変は謀反じゃなかった?

織田信長は6月の初旬に京で馬揃えを行い天皇に披露するよていだった
その役割を任されていたのが明智光秀です

信長は光秀の部下に「光秀は6月2日に軍勢を率いて上洛せよ」と伝えています
それを部下から伝え聞いた光秀は「信長様は間違いなく軍勢を率いて…と仰ったのだな?」と聞き返す
部下は「間違いございません」と言った
その時光秀の瞳がキラリと光った…しかし光秀はその表情を悟られまいと 一点を見つめて動かなかった…。

これが5月20日過ぎ
そして26日に光秀は上杉景勝に「御当方無二御馳走相成るべき事」と書状を送っています
上杉は最大限の援助をせよ という意味です
これは金の無心なのか 軍事面での援助なのかはわかりませんが…



いや 要するに
「軍勢を率いて上洛せよ」と信長が言ったのだから 光秀はそれに従った
つまり 謀反じゃないと言う事ですよね?

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>織田信長は6月の初旬に京で馬揃えを行い天皇に披露するよていだったその役割を任されていたのが明智光秀です。そして26日に光秀は上杉景勝に「御当方無二御馳走相成るべき事」と書状を送っています。
>>「軍勢を率いて上洛せよ」と信長が言ったのだから 光秀はそれに従ったつまり 謀反じゃないと言う事ですよね?


あなたのおっしゃる通りです。

ただし、光秀にとっては「好機」とみた可能性も捨てきれないですね。

話は少し脱線するかもしれませんが、

「信長を討ったのは光秀ではない!」

という「説」もあります。

それも、天下のNHKが2007年に「検証した」といって放映されました。

(1)光秀の居城「亀山城」からは、城下を通り、老ノ坂(おいのさか)の峠を越え、京都に入り、桂川を渡って本能寺へ着いた。
<1>このルートは、各種の史料等で、現在は「定説」となっている。
<2>しかし、このルートであると、亀山城から本能寺までは約20Kmとなる。
<3>光秀が亀山城を発進したのが、6月1日午後8:00。
<4>本能寺の変が起きたのは6月2日午前2:00。
<5>とすると、6時間で本能寺に到着しなければならない。
<6>当時の具足(鎧や兜)は、鉄砲に対する防御で、鉄板が多く使われており、約30Kgあった。
<7>城下は、ともかくとして、老ノ坂は、だらだらとした昇り坂で、馬であれば1頭ずつが縦に並んで通れるぐらい。人であれば、3~4人が横並びでも通れた。
<8>京都に入ってからは、「桂川」を馬上または徒歩で渡った。橋ははるか上流にはあるが、そこを通るとすると、時間はさらに延びる。従って、一番早く着くには桂川を馬上または徒歩で渡るしかなかった。
<9>ところが、公家の「山科言経(やましなともつね)」の書いた「言経卿記(ともつねきょうき)」によると、6月1日は「前日から雨」。
<10>当然、桂川は増水しており、馬上であっても徒歩であっても渡ることができない。はるか上流か下流の橋を「迂回」せざるを得ない。
と、なると、6時間で本能寺に着くまで、時速3~4Kmで進軍しなくてはならない。また、老ノ坂峠にしても、「ぬかるみ」だらけで、馬上の者は別として、雑兵などはとても早足で越えることはできない。
<11>従って、光秀は「本能寺の変」には間に合っていない。

(2)では、誰が信長を殺したのか。
<1>結論から先に言うと「イエズス会の宣教師たち」であった。
<2>イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスの記した「日本史」によると、
「信長が厠(かわや)から出て、手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放って背中に命中させた。(中略)。直後に、信長は小姓たちを呼び、鎌のような武器(薙刀)を振り回しながら応戦していた。しかし、鉄砲隊が放った弾が左肩に命中した。信長は直後に障子の戸を閉じて、火を放ち自害した」
と、あたかも「現場」を間近で見ていたかのような記述がされている。
<3>光秀軍が襲ったのであれば、何万もの兵がうごめく中、このような「詳細」を見ることはできなかったはず。

(3)では、なぜ、イエズス会だったのか。
<1>信長は、イエズス会の布教活動を許可し、自らも南蛮製のマントや帽子を着用していたから、イエズス会と仲は良かったはず。
<2>イエズス会の「怒り」をかったのは、やはり、ルイス・フロイスの記録によると、
「信長は、かくのごとく傲慢(ごうまん)になり、世界の創造主であるデウスのみに帰すべきものを奪わんため(中略)その霊魂は地獄に葬った」
と、ある。
<3>「かくのごとく傲慢」とは・・・。
信長の居城であった安土城跡(滋賀県安土町)に残る「廟(びょう)」のてっぺんに「盆山(ぼんさん)」と呼ばれる「岩」を乗せてあり、信長は、生前より、
「この石を神と思え、わしと思え」
と、いかにも天皇をも越えて、自分ただ一人が「神」である、と、命令していた、と、言われ、これがイエズス会にとっては、神はデウスであって、信長ではない、との反感をかった。

(4)本能寺の発掘調査が物語るもの。
<1>2007.3.3の「産経新聞」の掲載記事によると、本能寺は、北は六角通。東は西洞院通。南は蛸薬師通。西は油小路通。に囲まれた120m四方と言われていたが、信長が宿泊したと思われる場所は、北東の角にある40m四方の小さな建物で、寺と言うよりも「武家住宅」あるいは「小御殿風」であった。
<2>と、なると、信長をはじめ側近の者が「雑魚寝」をしても、せいぜい40人位。
<3>これまで、100人近い兵と共に宿泊をしていた。と言う考え方は、到底無理が生じる。
<3>従って、イエズス会の宣教師たちの少人数でも攻めることができた。

(5)イエズス会のバックボーン。
<1>イエズス会は、南蛮貿易で「火薬」の原料である「硝石」を貿易しており、十分な資力があった。
<2>従って、弓矢や鉄砲などの武器を調達することは、「たやすい」ことであった。
<3>また、イエズス会の「本山」である「南蛮寺」は、本能寺から、わずか、300mしか離れていない。

(6)では、なぜ、明智光秀が罪人なのか。
<1>光秀が到着した時には、すでに、イエズス会により信長は「暗殺」されていた。本能寺も焼け落ちていた。
<2>確かに、光秀は信長を殺そうと本能寺に向かった。
<3>これにより、光秀は「謀反の罪」を着せられた。

あなたは「信じますか?」「信じませんか?」・・・。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>織田信長は6月の初旬に京で馬揃えを行い天皇に披露するよていだったその役割を任されていたのが明智光秀です。そして26日に光秀は上杉景勝に「御当方無二御馳走相成るべき事」と書状を送っています。
>>「軍勢を率いて上洛せよ」と信長が言ったのだから 光秀はそれに従ったつまり 謀反じゃないと言う事ですよね?


あなたのおっしゃる通りです。

ただし、光秀にとっては「好機」とみた可能性も捨てきれないですね。

話は少し脱線するかもしれませんが、

...続きを読む

Q本能寺に消火器が備えてあったら、燃えなかったのに・・・

本能寺に消火器が備えてあったら、燃えなかったのに・・・

本能寺に消火器があったら、あんなにひどく寺が焼けることも、信長が焼け死ぬこともなかったと思います。
それとも、光秀の軍勢に隠されてしまったのでしょうか?

本能寺には、なぜ消火器が備えてなかったのでしょうか?
皆さんなりの解釈をお願いします。

Aベストアンサー

火をつけたのは光秀じゃなくて、信長自身じゃないかと思いますが。
光秀としては、誰だかわからない焼死体よりも、ちゃんとだれかわかるほうがいいでしょうから。

Q本能寺の変の明智光秀

どうも、見込みで事を起こして全部裏目に出たような気がするのですが・・・。

「細川親子は親戚だから味方につくだろう」
「筒井順慶は寄騎だから味方につくだろう」
「摂津の国人は京都を押さえた自分になびくだろう」
「近江の国人は信長がいなくなったら頼るものがないからなびくだろう」
「四国遠征軍が崩壊したら婿の津田信澄がこちらにつくだろう」
「事実が知れたら毛利も上杉も長曽我部もこちらについて他の織田重臣を攻撃して足止めするだろう(毛利の場合は先に秀吉に知られましたが)」
「朝廷も足利義昭も本願寺もこちらについて動くだろう」

どうも「だろう」が全部そうならなかったように見えます。
どうでしょうか?

Aベストアンサー

光秀の反乱は多分に偶然の産物であったので根回しの余裕もなかったと考えられます。
彼の場合信長に対し含むところはありましたが、直接の引き金は、敵地への領地の国替えしかも当年の収穫も取り上げられ、京都という都会から因幡、伯耆という僻地への赴任、しかも羽柴秀吉の指揮下に入るという多くの屈辱に耐えかねての反乱でしたから。

質問に揚げられた種々の思惑は頭脳によぎったでしょうが、なにより頭に血が上った末のことですから前後のわきまえもなかったでしょう。
本能寺が焼け落ちた後呆然としていて、はかばかしい指揮も出来なかったといいます。

謀反の働きかけは天皇周辺、一説秀吉の陰謀説など色々考えられますが私は秀吉陰謀説を採ります。
彼の中国大返しはかなり周到な用意がないと出来ない筈ですから。


人気Q&Aランキング