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戦争を肯定するつもりは、ありませんが、太平洋戦争は戦争をしないでいたら、戦争犠牲者以上の餓死者に、国家分断、主権も失い植民地化に陥っていた、との定説

あの時代、戦争突入も否定もできない選択だったのでしょう
(この点、誤りがればご指摘ください)

ただ、末期の、沖縄戦や東京大空襲等の本土空襲、更には広島・長崎への原爆投下
非戦闘員である民間人に、多くの犠牲者が出ました

そこまで至ったので、敗北を認め、終戦に至ったのでしょうか?
あるいは、もっと早い時期に終戦(敗北)させ、上記の多大な非戦闘員の犠牲を回避出来ていたタイミングは、あったのでしょうか?

A 回答 (10件)

戦争は相手があるものですから、


相手が、相手の了解がない限り終わりません。

日本の内閣は何度も入れ替わりましたが、
アメリカ、中国、ソ連、イギリス、ドイツは強力な指導者が戦争を遂行しました。
少なくともアメリカとソ連は、無条件降伏以外認めなかったでしょう。

ルーズベルトは終戦目前で他界しましたが、彼は日本人嫌いで中国人びいき、
日本人の頭蓋骨は2000年以上進化が遅れている、
日本が敗北した後には、日本人は他の民族と結婚させて日本人を抹消しようと考えていた。
台湾も、沖縄も中国にくれてやる、中国軍が朝鮮から日本を侵略して欲しい、
戦後は、アメリカ、中国、ソ連、イギリスで世界を支配する夢を抱いていた。


蒋介石も毛沢東も、反日というスローガンで中国を統一していた。
日本が大陸から撤退すると、互いに殺し合うようになった。
日本が戦争を辞めると、国内は内戦になる。
コミンテルンの指示を受けた八路軍は、日本軍捕虜に共産主義教育を行っている
日本の敗戦後、共産主義革命を起こす戦士を育てるためである。

スターリンは、ゾルゲや尾崎秀実のスパイを使って、日本の戦争を泥沼化させて、戦後に教唆主義革命を起こそうと考えていた。
尾崎秀実は朝日新聞で、中国との戦争を煽り、アメリカとの戦争に世論を誘導し、近衛内閣のブレーンになり、
近衛声明で、「国民政府を相手にせず」と宣言させた。
日本と蒋介石、アメリカを泥沼の戦争に引きずり込み、疲弊した後に共産主義革命を起こし、北朝鮮のような傀儡に使用と考えていた。

チャーチルは、1945年2月に行われたヤルタ会談で、「戦争が半年でも速く終結することは意味がある」と
ルーッズベルトに降伏条件の緩和を提言した。
しかし、ルーズベルトは、そうした考えは、世界情勢に無知であり、今なお自国に有利な譲歩を得られると考える日本人に、そのような条件緩和を行うことが有効だとは思えない。」と一蹴し、あくまでも無条件降伏を要求し続けるとの姿勢を固持した
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2014/08/10 17:03

現実的に言って、「もっと早い時期に終戦交渉をしていれば…」というのはあり得ませんでした。


むしろ、1945年8月15日に終戦を迎えることができたのは大変な僥倖と言えるもので、
終戦工作を行った鈴木貫太郎首相その人の政治力、努力なくしてはあり得ませんでした。
つまり、あのタイミングで鈴木貫太郎が首相になっていなければ、戦争はもっと続きました。
本土上陸まで。
そしておそらく、列島の半分を占領されるまで。

軍部は本土を絶え間なく爆撃されても、戦艦大和が沈んでも、沖縄を失陥しても、原爆を落とされても、
終戦工作はしようとしませんでした。
なぜなら、当時の軍は官僚組織だったからです。
現在の官僚を見ていればわかる通り、彼らは絶対に自分の利権は手放しません。
絶対にです。
そして太平洋戦争当時の軍(官僚)は、
「自分たちの利権を守るためだけ」に戦争を続けていたわけです。
そもそも、国力20倍以上のアメリカを相手に戦争を仕掛けるなどと言うバカげた行為は
「海軍の仮想敵国はアメリカだったから」というだけです。
よく「アメリカに手を出さないで中国と東南アジアにのみ目を向けていたら」と言われますが、
もしそれだと、海軍が活躍できなくなるんです。
そうすると、陸軍の方が多く予算を貰えます。
そして陸軍の発言力が大きくなり、海軍は軽視されます。
そうなるのが嫌だったから、海軍はアメリカに手を出したわけです。
自分の利権(予算獲得)を守るためだけに。

終戦工作が成功したのは、
 ・鈴木貫太郎が総理大臣であったこと
 ・軍(官僚)のトップが官僚的思考が薄い阿南陸相であったこと
 ・鈴木貫太郎が昭和天皇の鶴の一声を引き出したこと
の3つです。
原爆投下は鈴木首相の終戦工作の最中、日本にとって最悪のタイミングで投下されたものでした。
連合軍の最後通牒にして、降伏条件が劇的に緩和されたポツダム宣言に対し、
軍部を黙らせるために「黙殺する…」と発言した直後、原爆は投下されたのです。
もし、軍部も足並みを揃えて終戦工作に乗り出していたら、原爆投下はありませんでした。

当時の日本はとにかく外交が下手です。
マッカーサー元帥が「日本人の精神年齢は12歳」と言っていますが、
まさに12歳児のごとく、外交交渉が稚拙だったのです。
鈴木貫太郎はその中で数少ない「大人」で、周囲の子供をあやしながら終戦工作を進めざるを得なかったわけです。

ちなみに、日本に十分な外交能力があったなら、戦争(少なくともアメリカに手は出さなかった)はしなかったでしょうし、
植民地にもなっていません。分断もありませんでした。餓死者も出さず、主権も失うことはなかったでしょう。
当時の日本は、国際連盟の常任理事国だったのですから。
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>太平洋戦争は戦争をしないでいたら、戦争犠牲者以上の餓死者に、国家分断、主権も失い植民地化に陥っていた、との定説



餓死していたなどというのは机上の空論です。人間、死ぬと分かれば何とか手を打とうとするものです。
まぁその結果が太平洋戦争だったというのであれば、そうであったのでしょう。他に手が無かったわけではなく、いくつかの選択肢の中から選んだのです。戦争は負けると思ってやり始めることはありません。どういう思考か算段かは不明でも勝てると思ったからやるものです。同じ過ちを繰り返さないためには、そこを明らかにすることが重要なのですが、後の状況分析で勝てるはずがないと言うに留まっているようであるのは心配なところです。
またここの一部の人が主張する、当時の日本は西洋の手のひらで踊らされていて、彼らの意のままに開戦させられたなどという主張も、当時の日本人が考えることもできないゾンビのような傀儡だったという主張であり、当然受け入れられるようなものではありません。彼らは単に自分たちの祖先を侮辱しているにすぎないわけです。

終結のタイミングは、一億玉砕という言葉を上にも下にも信じていた人々が居たわけで、本当に最後の最後まで戦うと思っていた人も少なくないと思います。米国も日本全土への上陸作戦を結構本気で考えていたようです。
結果としては、ロシアが北海道に侵攻するのを防ぐために早期終結を臨む米国の原爆投下により、ようやく日本が敗北を認めたわけですが、今から見ればそうなる前に手を打てなかったのかと思えるものも、一億玉砕を信じていた人々は逆に終戦に驚いたことでしょう。
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太平洋戦争ではなく、大東亜戦争ね。


これが理解出来なければ、米国のプロパガンダに踊らさせているかと。

>戦争犠牲者以上の餓死者に、国家分断、主権も失い植民地化に陥っていた、との定説
 貿易を止められ、海外の資産を凍結されたから、
 実質鎖国、自給自足する国家。
 ひもじい、江戸時代の再来に近い。

 但し、植民地化は無かったと思う。
 江戸中期以降、オランダ、スペインなど欧州や米国が日本に来て
 その統制のとれた町並み、高い生活(民度)レベルから
 「本国に勝る日本を植民地化することは無理。貿易に専念す。」と判断していたくらい。

>非戦闘員である民間人に、多くの犠牲者が出ました
 戦闘ではなく、単なるテロ行為に過ぎません。
 無条件降伏を受諾しなかった、とすれば、
 米国は上陸作戦に向けて日本全土がほぼ焼野原状態になるくらいに
 ジュータン爆撃を仕掛けたかったと思いますが、
 米国も戦闘資金が底を着いて来ていたのも事実。
 なのであと1年くらい、降伏をしなければ、
 息子を失い、国債が紙切れに変わっていくような状態に米国国民が根を上げ、
 講和条約に向けて和平交渉を持ちかけてきた可能性はあります。

 北方を攻めてきたソ連軍を日本軍は打ち負かしていたから
 ソ連も手出しを止めた可能性はあります。
 
 外務省が犯したミスジャッジが大きかったと。
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難しいところですね。

私はあの終戦の詔勅は、昭和天皇の逆クーデターだと思っています。

東京が焼け野原になったことで、昭和天皇は「もうこの戦争はだめだろ」と思っていたんですね。そもそも昭和天皇はイギリスに留学していた経験もあって親英派で、英米との戦争になる太平洋戦争は反対だったんです。戦争になる前からずっと「アメリカやイギリスとは決定的な対立になるな」としつこいほど命じていて、その度に首相やら侍従長やらが「ははーっ」とかいうくせにちっとも彼らは命令を聞かず、挙句の果てに「やっぱ戦争は避けがたいっす。開戦の詔勅をお願いします」と言い出したのです。
開戦前も「お前たちは大丈夫というけれど、本当に大丈夫なのか」と何度も念押しして、結局焼け野原です。昭和天皇は、はらわたが煮えくり返っていたみたいなんですよ。

それで、「もうこの戦争を続けるのは国民に対しても忍びない。自分はどうなってもいいから、終戦への道を探れ」といっていたわけですが、これがまた一向に進む気配がない。なにせ仲介役としてソ連を想定していたんですから、おめでたいとしかいいようがありません。
話しが横道にそれますが、ソ連は対日開戦を準備しているというのは陸軍及び海軍の情報部がつかんでいたようです。特に海軍は海外の武官からの報告で「ソ連が対日参戦を準備しているのは間違いない」とつかんでいたことが明らかになっています。
ところがどういうわけか外務省筋はこの動きをつかんでおらず、外務省主導でソ連を仲介とした停戦工作が進められていたんですね。

ところがそうこうしているうちに、原爆が使われて民間人にもとてつもない被害が出たと報告が入り、ソ連が参戦したときたわけです。8月下旬には、新潟に第3の原爆が落とされるという情報も入ったほどです。
それでとうとう昭和天皇は堪忍袋の緒が切れて、終戦の詔勅を放送したのです。天皇は日本軍の最高指揮官ですから、天皇が命令すればそれは絶対です。かくして戦争は終わりました。

日本軍のちょっとユニークなことは、この終戦放送が流れることを一部将校がクーデター騒動を起こしてまで阻止しようとしたのですが、一旦この放送が流れると、どの軍人、どの部隊も一切詔勅に逆らわなかったんですね。その後どこの場所であっても大きなトラブルが発生することなく武装解除が進みました。
日本軍という組織が、天皇に逆らっていたのか従順なのかなんだかよくわからないところではありますね。
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戦時中のターニングポイントは何か所かありました



一つは塘沽(タンクー)停戦協定です
盧溝橋事件がその後の日中戦争に発展したわけですが、盧溝橋事件の直後に国民政府との間で停戦協定が結ばれたことがありました。ここから国民政府との講和にもちこめていれば、その後の南部仏印進駐の必要はありませんし、ということはABCD包囲網も無いし、ということはアメリカと戦争する必要も無いということになります。
ですが、国民政府との講和は相当ハードルが高く、徹底抗戦を叫ぶ国民政府は恐らく華北からの撤退を要求してくるでしょうが、華北分離工作は関東軍と関東軍特務機関の独断で行われたものなので、軍中央の参謀本部からの撤退命令に関東軍が従うとは思われません。

二つ目は南京陥落後に国民政府と講和ですが、前述のように国民政府との講和はハードルが高いと思われます

国民政府との講和ができなければ太平洋戦争に突入するのは必定です。
太平洋戦争中のターニングポイントはサイパン陥落時でしょうね。
サイパンが陥落したことで絶対国防圏が破られ本土の主要都市は戦略爆撃機の攻撃範囲内になりました。この責任を取る形で東条内閣が倒れたわけですが、この時に無条件降伏する手もあったかもしれません。
ですがやはり軍部の反発は必至で、クーデターや反乱軍との間で内戦状態となり、国民がもっと悲惨な目に合う可能性は高かったと思います。
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アメリカの謀略により、日本は戦争させられたのです。


あの、終戦のタイミングまでは、アメリカ終戦、休戦を受け入れなかったでしょう。
アメリカにとって、日本は叩きのめす必要があったのです。
もしかしたら、アメリカにとって、8/15の日本の降伏は、計算違いで、もっと叩くつもりだったのかもしれません。

アメリカは、どうしても、原爆は落とさなければならなかった。
アメリカの全戦費の1/4もの膨大な予算をかけて開発した原爆を、投下人体実験をすることにより、議会に報告する義務をトルーマンは負っていたのです。

だから、情報操作を行い、原爆は本土上陸作戦によるアメリカの若者の命100万を、救ったと報道させたのです。
今でも、アメリカ人の中では、それを信じていて、正当な作戦だったとの意見が、まかり通っています。
アメリカでは、真珠湾攻撃と本土空襲、原爆投下は、報復でイコールと信じているいるのです。

アメリカは、邪魔者を陥れ、情報操作するのが得意な国です。
ある意味、世界で一番冷酷な人民の国家です。

日本国内で、終戦を早めようとの動きが、露見すれば、重臣達は皆殺しされ、陸軍の軍事政権ができていたでしょう。
それは、更に終戦を、遠ざけていたでしょう。

東京裁判も、後付裁判で、本職裁判官は殆ど居ない、無茶苦茶裁判です。
これは、どの日本人も天皇の戦争責任を語るはずないとの、深読み裁判です。
現実、象徴天皇で、思い通りに占領政策は進みました。

あの時、朝鮮戦争が起きなければ、自衛隊もなく、戦時特需もなく、所得倍増政策もなく、日本は後進国のままだったかもしれません。
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日本の勝利という事はありませんので、講和終結になります。

講和は優勢な状態でしかできないことなので、もし可能性があるとすれば南京陥落直後かシンガポール陥落直後です。しかし、南京陥落直後の講和の条件には満州国撤退を蒋介石は譲りませんから、ハルノートで満州国から撤退できなかった日本が和平交渉できたとは考えにくいです。シンガポール陥落直後もシナ事変であれだけの被害が出ておきながら、講和できる雰囲気になれたかは疑問です。可能性としてはこの二つの時しかありません。しかし、私の意見としては「ない」です。
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失礼な表現、記載、誤記等ありましたら済みません。


私は歴史や戦争に詳しい訳ではありませんが戦後育ちとして考える事はあります。
あくまでも一つの見方であって歴史では「たら、れば」論じても仕方がないのですが戦争を考えるのは戒めの意味で必要な事だと思います。

>太平洋戦争は戦争をしないでいたら、戦争犠牲者以上の餓死者に、国家分断、主権も失い植民地化に陥っていた、との定説

太平洋戦争とはアメリカとの戦争ですよね!
確かに、ルーズベルト(FDR)はしたたかですね!
明治以降、主貿易国であった米国が対日輸出を停止したことが引き金である事は開戦に踏み切った重要な要因ですが山本五十六などGNP(今のGDP)などの比較で全く歯が立たないであろう事は予測する人はしていました。
山本五十六は軍人なので開戦したからには勝たなくてはならない。
と言う事で真珠湾攻撃などの立役者として祭りたて上げられましたが映画、連合総合艦隊司令長官、山本五十六では終始、アメリカとの講和をより良い条件で模索しているように描いてあります。
少数派でしょうがそういう人が存在したことも事実でしょう。
ただ、体制としては戦局が厳しくなっても最後まで戦う、「一億総玉砕」という概念を当時の国民は植え付けられていました。

(以下の「一億総玉砕」を参照ください)
玉砕
↓↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E7%A0%95

その映画で山本五十六が思い描いたようなタイミングであれば条件のいい終戦が有ったのかもしれませんがミッドウェイ(含む)以降実質的に敗戦続きです。本当の意味でいい時期の講和は、落とし所は皆無でした。
要するに真珠湾攻撃含め無謀な米国との開戦というのが実際の所でしょう。
アメリカとの直接対決は出来るだけ避けて、東南アジアに資源を求めるのが当時の最善の策だったと思います。

第二次世界大戦以前の戦争の歴史を見れば国土を維持して負けこんでいる状態で講和を結べば、終戦すれば多大な「戦争賠償金」を請求されまた、国土の一部を割譲して戦勝国に渡したりします。

もし、無条件降伏以前に戦局が不利な状態で終戦していたら、ひょっとしたら日本は多大な賠償金に苦しみ国土も今の日本の一部を米国に差出していたかもしれません。
要するに、今ほど日本は発展していなかったかもしれません。

>もっと早い時期に終戦(敗北)させ、上記の多大な非戦闘員の犠牲を回避出来ていたタイミングは、あったのでしょうか?

前述の通り、前政府、大日本帝国という政府を維持したままでの終戦は今の日本程、発展したか?という意味では疑問です。
ある意味、無条件降伏だったから日本は今ほど発展したのだと思います。
では何故、あのタイミングだったのか?
率直に言って「二発の原爆が直接の無条件降伏を引き出した」と私は考えています。
旧ソ連とは不可侵条約を結んでいたにもかかわらず、日本の終戦8/15を認めず、戦後千島を不法占拠しています。
旧ソ連、今のロシアでは終戦日は9月らしいです。
原発は非人道的な兵器であり使うべきではない事は否定しませんが当時の日本は「一億総玉砕」をスローガンに本土決戦やむなしの状況でした。
多少の空襲はやむなしと言う考えです。
二発の原発を受けて、これが東京や大阪など主な都市に落とされたら本当に日本全体が焦土になるのは目に見えています。
その現実を受け止めて旧日本政府が無条件降伏をした。と考えます。
仮に、日本に原発が落ちなかったとしたら、「一億総玉砕」をスローガンにしていた大本営はもっとねばったでしょう。
とすれば、ソ連は北海道や東北の一部まで占領したでしょう。
その時点で降伏したら日本は昔の東西ドイツや今の朝鮮半島のようになっていたかもしれません。

その様に考えれば遅からず、速からずの絶妙なタイミングだったと言えるのかもしれません。
あくまでも史実が全てで想像の域を越えられないので私のたらればの史観です。
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米国によって日本が米国に宣戦布告するようにルーズベルト大統領に仕向けられたのです。

そのために日本を経済封鎖したのです。米国は英国を助けるためにヨーロッパ戦線に参戦したかったのです。日本が我慢したら更なる経済封鎖を米国は仕掛けたでしょう。中国からの撤退が必要であったと思いますが、国民が許さなかったと思います。

当時の国民は空襲をうけても日本は負けないと思っていたようです。当然、軍部は本土決戦をしようとしていた。早期の敗戦処理をしようとする者は軍部に暗殺されたでしょうね。
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この回答へのお礼

結局は、歴史通りの終戦のタイミングしかなかった ということでしょうか?

もっと早期の終戦(敗戦)にもって行こうとしても、無理だった?

お礼日時:2014/08/06 22:40

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