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なんとはなしに、日本史の教科書を見ると、太閤検地などの見出しで田畑を測量している図を見させられます。

差出検地と太閤検地は違う、、、とか近世の始まりはどこよ論争などでも良く話題になります。

なので、検地というのが歴史上、世界で当たり前のような気になってしまうのですが、果たした日本以外ではこのような作業を支配者はやったのでしょうか?

魚鱗図冊に関しても
http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/handle/11 …
この内容を見ると、古代中国の井田制と実態としては50歩100歩で多分に理念的なもののようです。

http://en.wikipedia.org/wiki/Domesday_Book
ドゥームズデイ・ブックが近いようですが、日本のようにマメに更新していないようですしノルマンコンクエストという異常事態での出来事のようにも思えます。

他国では似たような例はないのでしょうか?

また、他国でないとしたら、なぜ日本ではそのような検地が行われたのでしょうか?その歴史的必然性のようなものがあったのでしょうか?

A 回答 (7件)

No.2、5です


補足を頂戴しました。
当初のご質問とはやや議論が拡散してしまっているようですが、当初のご質問の「日本における歴史的必然性」につきましてはご理解いただけましたでしょうか?

補足の中でご指摘のエマニュエル・トッドの解析の当否は本来のご質問趣旨とはかけ離れてしまいますので、説明は控えさせていただきます。

中国の宋族と社会、国家の関係に関しましては、下記のサイトをご参照願います。

中国農民社会における儒教の影響の実態 東北地方 ... - 国立民族学博物館
ir.minpaku.ac.jp/dspace/bitstream/10502/3086/1/KH_019_1_003....

孝から忠への展開について
ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/kiyo/AN10581825/ToyoKoten...

Title 日本儒教の特徴 Author(s) 高島, 元洋 Citation 大学院教育改革 ...
teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/bitstream/10083/35346/1/44_187-20...
抜粋
中国社会には、宗族という強力な家族制度が存在した26。宗族とは、一般的には漢民族における父系単系出自集団をいい、外婚制(exogamy)をとる。
その本質は、一個の祖先の生命が永遠に延長拡大するという思想である。日本の家においては家業・家名が相続されるが、中国の家においては、同一の気(生命体・血筋)が持続する。中国社会が、「同姓不婚」、「異姓不養」、夫婦別姓であるのも、この家族制度に理由がある。
 宗族における徳目は「孝」である。「孝」の実践は「礼」である。「礼」の旧字「禮」は、示偏と豊の字からなり、「示」は神を表わし、「豊」は豆(たかつき)の上に曲(供物)を乗せたかたちで、この字の最初の意味が神を祀る儀式にあることがわかる(武内義雄「儒教の精神」)。「礼」の本質は、「孝」の実践としての祖先祭祀である。「冠昏喪祭、礼之大者」というが(『小学』程伊川の語)、冠・昏・祭は、宗族にたいする統合儀礼であり、喪は分離儀礼であり、宗族を持続せしめる活動が「礼」にほかならない27。日本で「礼」(礼儀作法)という言葉は礼儀正しいことさらに美しいことを意味するが、ほんらいは行為に関する美意識を問題にするものではない。
 中国社会における基本単位は宗族である。なおかつ宗族の思想的な意味は、家(宗族)が国家以上に重要だということである。
したがってこのまま放置すると、社会はばらばらな宗族のアナーキーな集合になるゆえ、宗族を束ねる適切な国家組織が必要になってくる。こうして周代に封建制ができ、秦代に強固に中央集権化した郡県制ができる。
 この社会構造から対応する思想が生まれる。これが儒教である。宗族における徳目は「孝」である。「孝」の実践は「礼」である。儒教は、これらの徳の上位に「仁」を説く。「孝弟」は宗族内の徳目であるが、社会全体に関与し安寧にみちびく徳目ではない。儒教は、「孝弟」を土台にして、さらに宗族をこえる人間関係を問題にする。その徳目が「仁」である(孝弟なる者は、其れ仁を為すの本か。『論語』学而)。「仁」は、人間関係一般の徳目であり、国家や社会の理念でもある。

以上のように相当に根深いものです。
時々の為政者も苦労したことでしょう。
現在も続いています。
華僑などという、政府や国家権力は利用するも、のとしか考えていない集団も健在です。

尚、ヨーロッパにつきましては回答者No.6さんの回答にお譲りします。

蛇足
孫文が「砂のような民」と嘆いたのも分かります。
国家というよりも宋族を優先されたのでは、日本の明治維新は参考にはならなかったでしょう。
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基本的には、検地をしているような国はないようです。


検地は、もともと徴税の安定化のために実施されており、律令体制での戸籍の考え方が根底にあると考えられます。
戸籍は、日本と中国のみ現存しているようですが、諸外国は、基本的には人頭税がメインでしたので、検地の必要性がそもそもありません。
今でもほとんどの国が個々人の住民登録のみであり、家単位ではありません。検地は土地に家族ごと縛るという意味合いもあったようですが、貨幣経済が国家の制度としては遅れて発達したので、中世を通じて土地を重視していた結果検地が行われたかと思われます。
中国では、戸籍がありますが、早くから貨幣経済が国家の体制として実現しており、税収も両税法が780年にすでに成立して、土地の収穫ではなく、資産に応じた税金となり、納税も銭納を原則としています。
秀吉自体も通貨流通を促進して、シニョレッジを獲得するということまでには動いていないので、貨幣経済にシフトすることまでは考えていないようです。
また、土地に縛ることが可能であったのは、ある程度の長期政権が平和を維持できた歴史的背景もあるかも知れません。日本における政権交代は、しょせん内輪もめですが、諸外国は、多民族の侵略などがあり、うかつに土地に縛れないということもあったかもしれませんね。
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No.2です


補足を頂戴しました。
補足の中で
やや斯様な疑問が生じたのは、「近代中国史 (ちくま新書)岡本隆司著」を読んだからです。
日中の違いを
http://www.tkfd.or.jp/research/project/news.php? …

この日中の聚落構造の違い≒支配構造の違いと説明してありました。
支配者のマメさというか末端までこまいこと言うなぁと思った次第。

とありますが、
ご提示されたサイトの記載内容からだけ推測させていただけば、
やや歴史的な検討不足といいますか説明不足があるのではないのでしょうか。
議論の対象として提示されている図もあくまでも結果の数値で、制度の実態や歴史的経緯などの内容についての考察はされておられないのではないのでしょうか。
特に「権力のコントロールが村落まで行き届いていたことを意味し」とありますが、どのようにして行届いた結果となったのかについての説明がありません。

中国と日本の統治方式と村落の構成員の違いやそれに伴って生じる「検地」なる行政措置の目的や結果の利用方法が基本的にことなっています。
中国の村落というのは、血族集団が主体となって構成され今日まで受け継がれてきています。
宗族と呼ばれる社会制度です。
詳しくは下記のサイトをご参照願います
宗族 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/宗族
抜粋
中国では早くから戸(こ)と呼ばれる単位の小家族が一般化し、この戸の把握(戸籍作成)が王朝の政治経済力の源泉となったが、土地を集積して地主として成長した豪族は集積した資産の散逸を防ごうとしたこともあって同族間の結合が強く、漢・六朝の豪族勢力は、郷里における累代同居の形をとった。
・・・累代同居は中国では美風と考えられ、義門(義理堅い一族)として表彰されることがある。・・・

伝統的父系親族集団である宗族・姻戚関係の変化 ... - 国立民族学博物館
www.minpaku.ac.jp/museum/showcase/fieldnews/themetopics/han/

水郷古鎮巡りin浙江省
www.xitong.net/tourzj/rcourse3.html
抜粋
諸葛八卦村(しょかつはっけそん)
蘭渓市の北西18キロの所にあり、建徳市の大慈岩景勝地と隣接しています。村には古い建築物や民家が立ち並び、昔から文人を輩出し、中国最大の諸葛孔明の後代密集住居地です。一番の特色は村全体が諸葛孔明の九宮八卦陣で配置され、小さな池を中心に八方に小徑が延び、到る所に脇道と民家の門戸が林立していることです。盤よりも細かく、道が通じているかどうかもさっぱりわからず、よそ者はすぐに迷子になる、その巧みな配置思想は中国の建築史や文化史上の奇跡ともいえます。

「家」の再構築 : 中国における宗族組織とその復興 - 慶應義塾大学学術 ...
koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/image.php?file_...
抜粋
.... 中国における宗族の重要な特徴は,父系出自集団(patrilineal descent group)である。 日本の同族は主 .... との関係に議論の焦点が集中している。 .....

日本の村落については下記のサイトをご参照ください
惣村 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/惣村

地方自治の歴史・・・・「惣村」の歴史 - 金貸しは、国家を相手に金を貸す
www.kanekashi.com/blog/2007/05/208.html

1 農村景観の捉え方 - 学芸出版社
www.gakugei-pub.jp/judi/semina/s0407/ku003.htm

信長や秀吉が検地を必要としたのは、武家政権の確立に必要不可欠な行政措置だったことによります。
検地は信長もわずかですがやっています。
秀吉はこれを全国規模に拡大実施しました。
簡略化していますと、徴税権を武家に集約し、納税者の財産権を保護することによって、旧来の公家層の系列をひく人間や寺院が持つ徴税権を破壊して抹消してしまうことが必要でした。

江戸時代以降も検地が続けられたのは納税者である農民の財産権の確認が常に求められていたことによるものです。
農民間の係争の解決。
村落間の係争の解決。
裁断を下す領主側も、双方の論拠となる資料が必要不可欠です。

中国の政治形態というのは、共産革命以前までは、領国領地を行政区分に細分化してそこへ中央政府から官吏を派遣するという形式で運営されていました。
この官吏の登用がいわゆる科挙制度です。
いわば古代の王朝制度が継承され続けていました。
日本には歴史上科挙制度に相当するものはありませんでした。

日本は上記の惣村以来の自治組織の上に、徴税者(領主)が乗っている、という形式で統治されていました。
領主は自治組織を構成する農民の個々の財産権を保証していました。
つまり、制度上、農民と領主は相互依存の関係にありました。
徴税者側(領主)はこの自治組織の長に命令なり連絡をすればいいだけです。
中国の制度のように、一々中央から派遣された官吏が命令したり管理する必要はありませんでした。
中国の場合は命令を受け取る側は血族集団ですから、官吏とは無縁の関係です。
あくまでも一方的な力関係だけということになります。

詳しくは下記の書籍をご参照願えれば幸いです。
武士と荘園支配 服部英雄 日本史タブレット
戦国時代の村と町のかたち 仁木 宏 日本史タブレット
百姓の力 江戸時代から見える日本 渡辺尚志 柏書房

この回答への補足

武士と荘園支配 服部英雄 日本史タブレット
戦国時代の村と町のかたち 仁木 宏 日本史タブレット
百姓の力 江戸時代から見える日本 渡辺尚志 柏書房

上記の三冊をざっと読みました。

上級権力による土地の耕作権把握に関しては 戦国時代の村と町のかたち 仁木 宏 日本史タブレット
の P64 に図
長岡京市の史料で乙訓郡のものがあり、上記の書籍には年代を明確にしていませんでしたが、下記によれば
http://nagaokakyo-maibun.or.jp/iseki-sheet3kyuut …

京都の鳥羽作り道から、久我森の宮を経て大山崎町下植野を通り山崎駅へ至る。山崎津と平安京の連絡路で平安前期に開設か。「室町時代の乙訓郡条里坪付図」(九条家文書)『太平記』『山州名跡志』4時期にわたる変遷

室町時代、つまり太閤検地等の前の段階では、

「一のつほ
ふる一方所
 より
四町ひかし」

程度の把握度のようです。


※ 百姓の力の指摘で近世の前は移動農民も多かったのよねという指摘はちょっと新鮮でありました。
なんとなくのイメージは、現代におけるカルフォルニアのメキシコ系農業労働者。

====
宗族を鍵に日中の違いが説明できたとしても、欧州やイスラム圏との比較はできないような気もします。
家族の構造と上級権力による耕作権の認定(ないし確認)が関係するのであれば

エマニュエル・トッド風の分類ですと
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9E% …

直系家族 (la famille souche)
、日本、朝鮮半島、台湾、ユダヤ人社会、
基本的価値は権威と不平等である。

外婚制共同体家族 (la famille communautaire exogame)
ロシア、フィンランド、旧ユーゴスラビア、ブルガリア、ハンガリー、モンゴル、中国、インド北部、ベトナム、キューバ、フランスのリムーザン地域圏およびラングドック=ルシヨン地域圏とコートダジュール、イタリア中部(トスカーナ州やラツィオ州など)に見られる。基本的価値は権威と平等である。これから、共産主義との親和性が高い。

などなど、朝鮮はどうだとかロシアはどうだとかという話になるかと
※ まぁトッドの分析が正しいかどうかということもありますが。

ただし、日中の家族構造(宗族制度)の有無と検地とを結びつけるのは無理があるように思います。

補足日時:2014/10/12 16:11
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#1です。



「個々の土地に関する耕作権の確定まで踏み込んでいないように思います。」
踏み込んでいますよ。たとえば、
 
     イクター授与証書
スルタン   →   マムルーク

         毎年耕作契約        
マムルーク(イクター保有者)    →   耕作者
                     ←
                   徴税(納税)

という関係です。耕作契約によって耕作権を確定しなければ誰から徴税するのか、だれが納税するのかわからないでしょう。

この回答への補足

耕作契約によって耕作権を確定しなければ誰から徴税するのか、だれが納税するのかわからないでしょう。


それは、日本史の用語でいうところの地下請のレベルで十分であり
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E4%B8%8B% …

No1の補足であげさせていただいた、「松下幸之助記念財団 研究助成」での文章では耕作者の確定には明確には記述してないのです。

無論、実際に耕作がなされているのですから、耕作者は確定していたと思いますが、その確定していたであろう耕作者の情報を書面にするという為政者のマメさ(?)が太閤検地およびその後継者の行った検地の特徴ではないかと思っております。

No2の補足でも描かせていただきましたが
「なんで、日本の(戦国末期からの)為政者はこんなにマメなんだ?」
というのが根本的な疑問です。
他の国の前近代でこんなマメな国はあったんかいな?
という疑問なのです

補足日時:2014/10/04 10:33
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 稲作が主体の日本では、耕地の面積と沃度が担税力の絶好の指標でした。



 ヨーロッパの農業は牛や羊の飼育が重要で、農地の面積や位置は担税力のよい指標にはなりません。

 検地だけであれば、毎年ナイルが氾濫する古代エジプトが早かったのではないでしょうか。
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歴史的な必然性がありました。


村落という生活様式が始まったのは室町時代からです。
戦国時代末期の織豊時代には、平安時代から続く荘園制度の名残りが残ったままになっていました。
鎌倉幕府が定めた守護地頭の制度もこの荘園制度の上に作られたものです。
結果として、一つの村落あるいは耕地に対して、所有者というか徴税権や支配権を持つ人間が複数存在していました。
荘園領主、名主(みょうしゅ)、作人、下作人などと呼ばれました。
検地によって、荘園領主や名主(みょうしゅ)などと呼ばれる人の権利が全面否定されました。
土地の権利関係は実際に耕作に当たり年貢を納める名請人と年貢を受け取る領主との関係に一元化されました。
これにともない耕作地の所有者(納税者)が明確に文書化されました。

農民側からすれば、自分が耕作する土地の権利を為政者=国家が認めたこととなります。
これによって村落内の土地に対する農民どうしの権利関係が明確なものとなりました。
この結果農民は代々定住するようになりました。
それまでの農民は、簡略化して言いますと農耕技能者で、必要に応じて耕作地を移動していました。
領主が気に食わなければサッサと別の土地へ移っていきました。

つまり武家政権である豊臣氏によって平安時代から続いた社会制度が根本から破壊されて、新しい社会制度が開始されたということになります。
検地をもって中世と近世の区切りと考えるのはこのことによります。

土地の権利を農民に認めていますから、農民の手によって新規の開発が積極的に進められていきました。
増加した耕作地の所有権の確定や課税対象の確認など、領主も農民も定期的な検地を必要としていました。
何らかの理由で土地を手放したりそれを買い取ったりという権利の移動も頻繁に生じました。
権利の移動や移動後の権利の確定=納税義務の確定など、領主も農民も定期的な検地を必要としました。
結果として太閤検地以降江戸時代の半ば過ぎまでは頻繁に検地が行われました。
技術的に開墾可能な土地が払底した江戸時代半ば以降は、検地という面倒な手続きは頻繁には行われなくなりました。
検地というのはする方もされる方も必要な制度だったとお考え願います。

ヨーロッパとの違いは多々あるかとは思いますが、理由としましては
水田と畑作や牧畜との土地利用方法の違い。
日本は納税が米主体の現物納入であった納税形態の違い。
農地に対する権利の所在の違い
などが挙げられるのではないのでしょうか。


農民内部の階層化や共有地の扱い、村制度など細かい点は多々ありますが説明は省かせていただきます。

この回答への補足

A 水田と畑作や牧畜との土地利用方法の違い。
B 日本は納税が米主体の現物納入であった納税形態の違い。
C 農地に対する権利の所在の違い

というのを日欧の違いとした時に
中国の明朝では、江南は
A 水田
B 現物納品
C 未詳
でありますが、日本の太閤検地のようなことは行われなかった。
なので A,Bでの欧州に対する日本的特性をもって(個別耕作者まで特定する)検地の実施が行われたとするには無理があるように思います。

なぜ日本ではそのような検地が行われたのでしょうか?
ということに対して、

「結果として、一つの村落あるいは耕地に対して、所有者というか徴税権や支配権を持つ人間が複数存在していました。」ということは、検地を行う理由にはならないと思います。

斯様な疑問が生じたのは、「近代中国史 (ちくま新書)岡本隆司著」を読んだからです。
日中の違いを
http://www.tkfd.or.jp/research/project/news.php? …

この日中の聚落構造の違い≒支配構造の違いと説明してありました。
支配者のマメさというか末端までこまいこと言うなぁと思った次第。

その細かいことまでやるということの具体例が(太閤)検地と魚鱗図冊の違いであって、じゃぁ他の国はどうなのよと思った次第なのです。

なので、

日本<====何らかの原因の距離感===>中国・欧州
であれば、納得の行くところなのですが

日本・中国<====A,B,Cとフッタ原因の距離感===>欧州
ですと、なんで検地スタイルが日本<=>中国・欧州 で分れるの?という疑問が解決されないのであります。

補足日時:2014/10/03 22:22
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他国でもありますよ。

それも太閤検地よりずっと早く。

イスラム、マムルーク朝スルタン=ナーシル(在位1293-94、99-1309、1310-41)の3回目の治世の検地。イクター制を整理・合理化するための検地。

マムルーク朝、ナーシル、検地、イクター、イスラム的土地国有、徴税権などで検索調べてください。

イスラム王朝では、社会制度(イスラム的土地国有)上何度か検地が行われていたようです。

この回答への補足

イクター制に関しては、日本史でいうところの恩給に近いものではないかと理解しております。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%A9%E7%B5%A6_ …

徴税権の付与という意味で。

ご指摘がりましたように、探したところ
http://ci.nii.ac.jp/nrid/9000003709875
この方が突っ込んでいるようで

http://matsushita-konosuke-zaidan.or.jp/data/pro …

こういった研究予定がまとまっているようです。

「最初に(1)の各種土地の分布状況についてであるが、徴税地、政府直轄地、私有地と寄進地、リザク地(恩給)とい
う各種の土地があり」(以上引用)
というように、個々の土地に関する耕作権の確定まで踏み込んでいないように思います。

太閤検地とその後継が世界史的に「日本以外ではこのような作業を支配者はやったのでしょうか?」という疑問の中核は、耕作者個別までの把握という点でございます。

質問に際して、質問内容の至らなかった点をお詫びします。

補足日時:2014/10/03 21:54
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