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少年の主張の作文で、テーマは「身近に死を感じて、命が軽く見られる世の中についてどう思うか、どうしてほしいか」です。

かなり長くなります。


2015年1月15日、私の曽お婆ちゃんが亡くなりました。齢九十三でした。
突然曽お婆ちゃんがなくなったと病院から連絡が来て、17日にお通夜、18日にお葬式を行うことになりました。17日の夕方、お通夜の前に、私は初めて人の遺体に触れました。数年間振りに見た曽お婆ちゃんは冷たく、硬くなっていました。死化粧を施されたその顔は、どこか微笑を含んでいるようにも見えて、胸が痛くなったのを今でも覚えています。お通夜でもお葬式でも、皆が泣いていました。お葬式中、代表の内の1人として前に立った時、それがよく分かりました。既にその遺体に実際に触れて、曽お婆ちゃんが亡くなったことを実感していたはずなのに、皆が泣いている姿を見て、今更のように悲しいという感情が溢れ出し、この人は死んでしまったんだと感じました。もし刃物に刺されたらこんな感覚なんだろうかという痛みがあり、それは火葬場で更に増したように思います。数時間の間に骨と灰だけを残し、さっきまであった、人間が"ヒト"と判断するに必要な"ヒト"の姿がありませんでした。今思うと、それを私はどんな気持ちで見ていたのだろうと思います。只々茫然としていました。骨を拾いながら、いつか自分もこうなるのだろうかと将来当たり前のように来る"死"に恐怖を感じました。
身近に"死"を感じて、私は改めて命の重みを痛感しました。そこでふと私は思いました。何故、誰かが死ぬことで悲しむ人がいるのに、軽い気持ちや冗談で何の感情もなく死ねと言える人がいるのか。いじめでなくても、普通の日常生活でも聞こえてくる言葉です。言葉の影響力は強いものだと私は思います。そこに悪意の有無は関係ありません。悪意があってもなくても、誰しも死ねという言葉に少なからず傷付くものじゃないのでしょうか。死んでほしいと言われて嬉しい人がいるのでしょうか。言っている人はほんの冗談のつもりかもしれません。けれど言われた人はそれを冗談とも、本音とも受け取れます。言われた人が傷付いて、それを冗談なのに、で済まされると思いますか?冗談を本音と受け取ったその人を馬鹿にしたままでいられますか?いるとしたら、とても自分本意な考えの持ち主だと思います。皆が皆、他人を思いやれるわけじゃないけれど、言葉をコントロールできる力を身につければ、それが言っていい言葉なのか、言ってはいけない言葉なのかが分かると思います。誰かの幼稚な言葉で傷付く人がいる。もしかしたら自分が誰かを無意識の内に傷付けているかもしれない。その事を忘れず、自分の発言に気を付けて下さい。

個人的には、体験談の後が支離滅裂で何を伝えたいのかがはっきりしていなくて、いきなり完結してしまったという印象です。これはどうしたらいいのでしょうか?

また他に何かありましたら教えて下さい。

意見は別ですが、傷つきやすい人間なので、言い方はお手柔らかにお願いします。

質問者からの補足コメント

  • 発した言葉について、悪意の有無は関係なく、軽い気持ちや冗談のつもりでも関係なく、「傷つけた、馬鹿にした」と断定できるというのは乱暴な意見ですね。

    <やっぱりここら辺はそういう意見を
    言われても当然な部分だと私自身も
    感じています。ただ、私の身の回りでそういうことを言っている人達がいたので、どうなのだろうと思った次第です。皆がそう、というわけではないのですが文章にする時にどんな言い回しをしたらいいのでしょうか?

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/06/22 16:38

A 回答 (5件)

確かに文章構成は稚拙ですし、そもそも読みづらい(聞きづらい)ですが、


何を言いたいかは分かりますので、「少年の主張」としては成立しています。
学校で評価を得たいとか大会に出場したいとかでなければ、そのままで良いと思いますよ。

逆にこの文章で点数を稼ぎたいということであれば、
一旦全部消して、内容を箇条書するところから始めたほうが良いでしょう。

今のままだと、
1.曾祖母が死んだ
2.1をきっかけに死について考えた
3.気軽に「死ね」と言ってはいけないと思った
だけですものね。

圧倒的に弱いのは2から3への流れです。
ぶっちゃけ大した理由を書いてません(苦笑)。
かなり強引に見える。
ここは違うエピソードを挿入してでも補強した方がいいでしょう。
さらに言えば、3じゃオチが弱い。もう一捻り欲しいところです。
気軽に死ねと言うな、そんなことは葬式に出なくとも分かります。
その先に何を思うかです。
もちろん実体験を通して改めて強く思った、という流れもアリですけど、
そのパターンは大オチが過剰にならざるを得ず、うそ臭くなりがちです。
それよりは違う方向へ捻ってからオチへ持っていったほうがきれいにまとまるでしょう。

例えば...
「死ね」というのが良くないことは誰でも分かっているのに何故言ってしまうのか?
テレビで言われる「死ね」は何故成立するのか?
「死ね」と言われても傷つかないケースが多々あるのは何故か?
例え相手が殺人犯だろうが「死ね」と言うべきではないのか?
などなど、深めようとすれば結構ネタは有ります。
あとは着地点をどうするか。
普通に考えれば元のところに落ち着くわけですが、そこまでを説得力のある形にできるかが勝負です。
あるいは思い切って真逆の答えを出してインパクトを狙うのもアリ。
テクニック的には冒頭部分に伏線引いておいて最後に回収する手もありです。
(ウソになっちゃうけど、曾祖母の口癖とか、葬式での親戚の一言とかを前段に書いておくとかね)
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

いつも作文などの文章を書くと、言い回しがはっきりしていなくて結局何が言いたいのかわからない文になってしまいます。それが読みずらくて文章構成が曖昧になる原因だと思っております。それが直せればいいのですが…なかなか直らず。

ですが、この回答を見て、自分の作文の改善点に気がつきました。はっきりと言って頂けて良かったです。誰もが分かっていることだけでなく、そこから様々な点に掘り下げて書き直したいと思います。

貴重なご意見、ありがとうございました

お礼日時:2015/06/22 17:03

こんにちは、女です。



実体験から自分が感じたことをテーマへと繋げ、
自分の考えや意見を述べているので、文章の構成も素晴らしいと思います。

気になった点。

文章や言葉の使い回しがだいぶしっかりしていて、
恐らく中学生以上の作文だと思います。
その場合には、自分の身内の呼称は、曾おばあちゃんでなく「曾祖母」とした方が適切だと思います。

>お通夜でもお葬式でも、
お葬式というより、葬儀、告別式という言い方のほうが、この作文に合うと思います。

>代表の内の1人として前に立った時

親族の一人として、

>傷付くものじゃないのでしょうか
「じゃ」でなくて、
「傷つくものではないのでしょうか。」
こちらの方が作文らしい言い回しかと。

>その事を忘れず、自分の発言に気を付けて下さい。

最後がみんなへの呼びかけになっているのですが、
これだと唐突に終わってしまう印象ですので、

「自分の発言に気をつけるべきだと、強く感じました。」
などと、自分の意見、自分の意思として最後を締め、
たとえば、
「私たち一人ひとりが他人への言葉の配慮、思いやりを持つこと、それが他人の命を大事にすることに繋がると思います。」などと、
「私たち」という言葉を使って、周りへの呼びかけとするのは如何でしょうか。

ご参考までに。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

実は私、中3の女子です(笑)
それはさておき…。

自分なりに気を付けて書きましたが、まだ言葉遣いに粗があるようで、丁寧な言い回しに直して頂き、ありがとうございます。

また、締め方に困っていたので大変助かりました。是非参考にさせて頂きます。

お礼日時:2015/06/22 16:53

かなり良くできた作文です。


構文がしっかりしていますし、文章力に自信をお持ちになって良いと思います。
次のように一部、表現を変えるとさらに良くなるでしょう。

a.曽お婆ちゃん→曾祖母
b.数年間振り⇒数年振り
c.お葬式中、代表の内の1人として前に立った時
⇒お葬式の際、遺族の1人としてみなさんの前に立った時
d.こんな感覚なんだろうかという痛みがあり、
⇒こんな感覚なんだろうかという痛みが走り、
e.人間が"ヒト"と判断するに必要な"ヒト"の姿
⇒人間を"ヒト"と判断するに必要な"ヒト"の姿
f.自分の発言に気を付けて下さい。
⇒自分の発言に気を付けていきたいものだと思います。

2.
>個人的には、体験談の後が支離滅裂で何を伝えたいのかがはっきりしていなくて、いきなり完結してしまったという印象です。これはどうしたらいいのでしょうか?

その心配は無用です。
「身近に"死"を感じて、私は改めて命の重みを痛感しました。」までの体験部分だけで、立派な作文になっています。
そして、そんな大事な命なのに、「命が軽く見られる世の中」なのは悲しいことだ、という発想につながり、それを、「そこでふと私は思いました。」という文で発展させている。
この構成も、なかなか優れている。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

曽お婆ちゃん、は曽祖母の方がいいとのご意見をいくつか受けましたが、私も執筆当初からどちらにするか迷っていました。
きちんとした作文にするには曽祖母の方がいいのでしょうが、もし一人ずつ発表することになったら口に出すときに曽祖母、というのはしっくりこないなぁと感じて曽お婆ちゃん、にしたのですが……。文面は曽祖母、口に出すときは曽お婆ちゃん、でいいのでしょうか?

他の意見も参考にさせて頂きます。
貴重なご意見ありがとうございます。

お礼日時:2015/06/22 16:46

発した言葉について、悪意の有無は関係なく、軽い気持ちや冗談のつもりでも関係なく、「傷つけた、馬鹿にした」と断定できるというのは乱暴な意見ですね。


裏を返せば、言葉が発された状況も事情も何も知らない他人が正しい判断を下せると言ってるようなものです。

結局、どこかで誰かが会話して傷ついたか傷つけたかというのはその人たちが自分で判断し対処することであって、細かな状況に通じていない人間が判断を下すことではないです。

そこをひとまとめにして、「悪意の有無も、どういうつもりかも関係ない、全部悪いので全部やめましょう」というのはどうも単純幼稚なまとめ方じゃないですか。

少年の主張だからといって、人に何かを指示したり人の方針を定めようとせず、自分が今まで気づいていなかったこと、間違っていたこと、軽く考えていたことをどのように修正しようと思うかという結論の言い方のほうが、穴が少なくていいんじゃないでしょうか。
この回答への補足あり
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補足コメントに向けてですが、



私は「完全に仲のいい者同士が楽しみながら言っている」という状況でもあなたの批判の範囲内なのだろうと思って「それは乱暴な意見だ」と書きましたが、

あなたの想定している状況というのはそれとは違ったものなのかもしれませんね。
たしかに状況によっては(例えばそれほど仲がいい間柄ではないのにとか)、死ねと言った者はからかい半分、冗談半分かもしれないが、受け手は傷ついたり、腹が立ったりということがあると思います。

私はそういうような「状況の限定」があれば、「どんな場合でも悪いと言いたいわけではないんだな」とは分かると思いますが、書くのはなかなか面倒くさそうですね。

また、そんな状況で問題になるのは、「死ねという言葉が命を軽く見ていはしないか」ということよりは(発言内容が別の言葉であれ)発言者のずけずけした態度というか、ひどい冗談の度合いの方が問題である気はしますが、あなたの書いた文ではお葬式についてが半分を占めているだけに、「命を軽く見るのは…」という内容を取り除くわけにはいかない、というのが悩みどころだと思います。私が勝手に思っているだけですが。

また、罵倒語として、あるいはからかいとして、あるいは冗談半分で使われた「死ね」という言葉へ、「命を軽く見ている」「命の重みを分かって欲しい」という指摘が本当に当たっているのか? という疑問が少し引っかかり、両者がつながりづらく感じます。

しかしそれを書くのをやめると、後半すべてが書き直しになってしまうのでますます大変ですね。

私が書くならば、後半に「命の重み」に関して書いていくのが少し書きづらく感じるので、そっくり別の内容に変えますがね。「命を尊重する」というのは大切なことですが、あまりにいいことすぎることは掘り下げにくい気がするからです。
私ならば、あなたの感じた「いつか自分もこうなるのだろうかと将来当たり前のように来る"死"に…」に関して、あなたの経験がどんな影響を及ぼしたのか、あなたの(人の)成長の形態、について書きたいところです。
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