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素朴な疑問なのですが
何故、アメリカへの宣戦布告が真珠湾攻撃より遅れたのでしょうか?
文章の解読やタイプに時間がかかった、当日は日曜日だったとかありますが

日本から在米大使館への連絡が、それらの作業時間を見越したものではなかったのでしょうか?
それとも大使館側に事の重要さ・緊急性が伝わっていなかった?

A 回答 (7件)

No.5です。

 ご依頼のURLです。

http://www.millnm.net/cgi-bin/page.cgi?url=../qa …

野村・来栖両大使の葬儀出席が通告遅れの直接の理由としても、なぜその日に葬儀を催し、両大使が出席したのか、そもそも新庄氏はなぜ亡くなったのかが疑問のままです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
リンク先、読ませていただきますね。

お礼日時:2016/04/16 19:55

まぁ実は理由がよく分からないんですね。


”うわさ”を箇条書きにすると、

1、日本大使館の職員が怠けて遅れた
2、怠けてたのではなく葬儀で遅れた
3、葬儀でもなく(奇襲が成功するように)故意に遅らせた
4、実は日本からの電報(修正電報)が(故意に)遅れた(No.1さんの回答)
5、そもそも奇襲攻撃からの開戦(事後通達)が世界的に普通だった
6、しかも米国は奇襲を知っていた

『見てきたような嘘をつき』
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

> まぁ実は理由がよく分からないんですね。

その様ですね。
米国も当時の状況について戦中・戦後に両大使に対して聴取を行うなどして明らかにしなかったのかということに少々疑問が残ります。

お礼日時:2016/04/16 06:39

No.3当時です。

 私自身何が真実か知るすべもありませんが、ネット上には以下のような情報があります。

「条約」担当であり、葬儀に同席した松平康東一等書記官(*)の証言:
「…(葬儀は)短時間の予定でしたが、司式するアメリカ人の牧師が、新庄大佐の高潔な人格を賛美して、長々と告別の辞を述べるので、気が気でならず、中止してもらいたい、と思うものの、それも出来ず、気があせるばかりでした。というのは、その日の午後一時には『国交断絶のやむなきに至った』旨を野村大使に同行して、ハル国務長官に最後通告に行く予定になっていたからですが、行くにもいけない。それで、時刻を遅らせて面会する以外にはありません。アメリカ人の牧師は、新庄大佐が自作された美しい英詩を、次々に順次に朗読し、どんなに年齢と共に精神的な成長をなさったかを、ノートを取り出して読みながら述べて、口を極めて遺徳を頌めたたえるのでした。
その時『ハワイの真珠湾を日本が攻撃中』の無電が入って来ました。でも、あまりにも美しく感動的な説教が続くのが印象的でして、聴き入る上官たちに『葬儀の中止』を耳打ちするのですが、黙って終わるのを待っておられました。私は和戦交渉の担当官として、あんなに気をもんだことはありませんでした。
葬儀が終わるや否や、野村、来栖の両大使は国務省にむけ、フルスピードで自動車を走らせ、ハル国務長官に面会して、日本の最後通告を伝えたのでしたが、ハルが『無通告の奇襲攻撃』と激怒したのも当然ですが、実は事後通告となった舞台裏の事情は、アメリカ人牧師が長々と悼辞を述べたからなのでした。…」(出典『新庄健吉伝』著者稲垣鶴一郎が「原始福音」一七七号から転載したものを引用)(146ページ)

さらに、戦後十年を経た昭和30年秋、自民党参議院議員となっていた野村吉三郎から新庄健吉夫人の範子のもとに突然届いた一通の書簡には、「新庄の葬式の間に開戦となった」と記されていた。

「…開戦当時の事は尚昨日の如く頭に残りおり故大佐の葬式には米国の陸軍将校も多数参列、式の間に開戦となった次第にて当時のことは夢の如くに有之候」(書簡は写真とともに『新庄健吉 追憶記』に紹介されている)(150-151ページ)

大本営政府連絡会議の12月6日の会議において、最後通牒の「手交の時間」がワシントン時間7日午後1時と決定され、伝えられていた。
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この回答へのお礼

再度のご回答、そして引用をありがとうございました。

> ネット上には以下のような情報があります。

お手数ですが、当該情報のURLをご教示いただけますか?


No.3でも書きましたとおり、当時の状況を鑑みるにこの説はちょっと信じがたいです。
ただ、もし本当だとすると葬儀は最初から中止、若しくは、欠席すべきだったと考えます。この場合、私の質問の回答は、「両大使の状況認識の甘さが原因」ということになりますね。

お礼日時:2016/04/15 19:34

他の方が時間的推移は、見解を述べているので、私は視点を変えた回答をさせて頂きます。



まず、例え攻撃開始前に宣戦布告書を渡したとしても、数日前でなければ、同じだったと思います。
その意図は、米国は世論は開戦には反対で、ルーズベルト大統領も公約として開戦はしないという事で大統領選を勝ち抜きました。

米国としては、先にやっちゃってくれば、開戦の口実と世論を開戦に誘導できるという、意図があったわけです。 従って、ハルノートという、実質的「宣戦布告」を先に出している以上、何日攻められてもおかしくない状態だったのではないでしょうか。 
真珠湾攻撃を事前に知っていたという、謀略説が囁かれるのも、その為と言えます。

謀略があろうとなかろうと、日本としては先に手を出す必要はまったくなかったわけです。
なぜ、広大な太平洋で隔てられている、米国と開戦しなくてはいけなかったのでしょう。

米国の石油、鉄鋼などの資源の禁輸で、日本は干上がりつつありました。それでも備蓄は一年以上はありました。

であれば、矛先は米国ではなく、まず南方の資源地帯、特にオランダ領であったインドネシア、バレンバンの
油田地帯を制圧する為、オランダ、英国だけにに宣戦布告すれば良かったのではないでしょうか。
途中のフィリッピンのマッカーサーなんて無視して素通りしても、米国から手を出すという事は戦力的に不可能な戦力状態でした。 フィリッピンには米国海軍は駐留していません。

そもそも、海軍軍令部の基本構想に、真珠湾なんてありませんでした。南方資源地帯の確保が当面の優先課題であった事は、周知の事実です。

いったい誰が、真珠湾を攻めるなんて発案したのでしょう。  はい、山本五十六司令長官閣下です。
この作戦本文を忘れた、暴挙が結局日本を焦土にしてしまいました。
有名な「南に行けば、長くなる。」というせりふは、本当に言ったか言わなかった知りませんが。
あげくの果ては、巡察で飛行機ごと打ち落とされてしまいました。 

もし、南方を全て攻略し、当面の資源確保が可能となった時点で、再度米国交渉したらどうなっていたでしょうか。  米国は、資源禁輸というカードが無くなってしまった状態なわけです。

もし、その状態で米国と交渉すれば、一緒にドイツとソビエトやっちゃいません。  
ファシストと共産主義ですよ。  

世界は一変していたのではないでしょうか。

ても、歴史に、もしは無いんですよね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

ただ質問は、米国政府への最後通牒文書の提出の遅れの理由ですので、そのことについてご回答いただければ幸いです。

お礼日時:2016/04/15 16:47

野村大使による通告文の手渡しが遅れた理由は、当時諜報員として米国に派遣され、12月4日に急性肺炎により死去した陸軍主計大佐・新庄健吉(享年45歳・クリスチャン)の葬儀がワシントンDC市内のバプテスト教会で執り行われ、野村・来栖両大使がそれに出席したが、牧師のメッセージが予想をはるかに越えて長時間に渡り、中座できなかったためです。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
「新庄健吉」という名前を初めて知りました。
検索しましたところ、Wikipedia「新庄健吉」の項目にて

> その葬儀は現地時間で午後[4]から行われ、来栖・野村大使らは葬儀が終ってから国務省に向ったと
> 言うのである。ハル国務長官に最後通牒を手渡したのは午後2時20分、1時間20分の遅れだった。

と書かれておりました。
ですが、本国から提出期限をきめられている「最後通牒」の文書提出を、たかが(といっては失礼かもしれませんが)一諜報員の葬儀のために遅らせるなどありうるのでしょうか?

また以下の様にも記述されております。

> この説には、発表当初から疑問の声が挙がっていたが、
> その後[5]明らかになった、当日葬儀を取り仕切った葬儀社「ハインズ・カンパニー(The S.H. Hines Company)」の資料によると、
> そもそも会葬者芳名帳に、野村・来栖両大使の名前がないことが判明している。

お礼日時:2016/04/15 16:43

在米大使館で暗号を解読し、英語の公式文書にするのに手間取ったからだと思います。


確か、米国時間で午後2時に米国側に宣戦布告文を手渡すように日本政府は指示していたはずですが、
作成に手間取った結果、3時頃になったように記憶しています(あやふやですいません)。

しかし、アメリカ側は日本の正式な宣戦布告の前にすでに宣戦布告の事実と公式文書の中身を知っていました。
日本政府から在米日本大使館に打電された暗号を解読していたからです。
日本の大使館員よりアメリカの方が解読するのが早かったんですね。

以上は、ハルの回顧録を読んで覚えている事柄です。
ハルはこう回想しています。
「野村は段取りが悪い。日本政府が指示した2時という時間には意味がある。真珠湾攻撃の開始時間である。だから、作成に手間取ってはならないし、手間取ったとしても、作成できた部分だけでも取りあえず持ってくるべきである」。
敵国の外相の指摘にはうなずかざるをえません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

> 在米大使館で暗号を解読し、英語の公式文書にするのに手間取ったからだと思います。

その作業の手間による遅れが何故発生したのでしょうか? というのが質問の趣旨です。

お礼日時:2016/04/15 09:31

参考まで



「真珠湾攻撃、遅れた最後通告~大使館怠り説を覆す?外務省の故意か」
http://emuzu-2.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/po …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。参考にさせていたさきます。

ただ、できましたら「定説」の方の詳細をご教示いただければ幸いです。

お礼日時:2016/04/15 12:03

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