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なぜ古代の都が大和(飛鳥京・藤原京・平城京など)に作られたのですか。
なぜ、古代の英雄は、大和を目指したのですか。
九州や出雲、河内ではなく、生駒山を越えた大和だったのですか。

A 回答 (6件)

勝った者が自分に都合の良い歴史を作っただけです。


知られている 歴史がすべてでは有りません 
権力者によって消されてしまった歴史も沢山有るはずです
例えば弥生遺跡の佐賀県吉野ケ里遺跡、縄文遺跡の青森三内丸山遺跡などはいい例です。
さきたま古墳群などは あれだけの巨大な古墳群の歴史がよく解っていませんし 未だに全容の解明はされていません。
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1. 《知性》のあり方について歴史的な順序を含めて 次のように分類しま


す。 

  -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:世界への寄り・憑り。
                 アニミスム&シャーマニスム
                 世界との未分化なる一体性。

  0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界の内への入り。
                 時間的存在の自覚。《世界‐内‐存在》。

  +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:二階(お上)から世界を寄せる。
                 ムラムラのマツリの上に立ち
                 《ヨリ》心性を束ね 《イリ》知性をも 
                 社会力学上(政治的につまりマツリゴト
                 において) 寄せる。

☆ 歴史知性の《イリ》は 崇神ミマキ《イリ》ヒコイニヱのミコトのそれか
ら採ったものです。


2. 別様に――推理を交えつつですが――説明します。簡潔を優先させて表
現します。

  ヨリなる原始心性:縄文人
 
  イリなる歴史知性:稲と鉄の到来を受けた弥生人から始まって ようやく
          その時代の終わり・つまりはそして古墳時代の始まりに
          あたる300年前後の頃からを当てる。
          これは やまとの三輪市政・イリ政権であると見る。
          崇神ミマキ《イリ》ヒコイニヱとオホタタネコとの共同
          に始まる。

  ヨセなるスーパー歴史知性:400年ごろより。
          河内にやって来た応神ホムダワケとその母・神功オキナ
          ガタラシヒメの登場による。タラシヒメは 《神を帰
          (よ)せた》と言われる。

3. なぜヤマトの纏向ないし三輪山の地だったか?
 
ミマキイリ《ひこ(日子)》とオホタタ《ねこ(根子)》との縁起共生――社
会的なる生活共同――がうまく行ったからでしょうか。

三輪山が うつくしかった(そう受け取る感受性が人びとにあった)からでし
ょうか。
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マキムク遺跡を見るに、かなり早くから商業の中継地・中心地として栄えていたように思います。

日本神話にも、神武東征で最初に大阪方面から行ったときにはコテンパンにやられているように、権力・経済力のある地域として発展している様子が伺えます。

そのようなところから出た勢力が日本を最初にまとめたので、まぁ自分たちが生まれ育った発展している場所を都にするのは当然でしょう。ちなみに大阪は、縄文海進の影響が残っていて、結構後まで水(なんたら湖って名前が付いていたはずだけど思い出せない)の下だったので、発展できるどころでは無かったです。

もし九州の勢力が日本を支配していたら、久留米あたりがその中心地となっていたでしょうね。出雲なら出雲なのでしょうが、どうも出雲は話を作られた大国であるように思えます(そこそこの勢力があったのは確かですが)。

あと神武東征(と言われるもの)は、九州の地を追い出されたから東に行ったのであって、追い出されなければ自分たちの土地を放棄するようなことはしなかったはずです。
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日本史における「謎の4世紀」と云う言葉があるくらいで


いまだに答えが出ていません。
歴史を遡ると
紀元前3~4世紀前 縄文時代
古代縄文人が列島全域に住み竪穴式住居で狩猟を行いながら小さなで生活
紀元前3世紀
中国初の始皇帝 秦の始皇帝に不老不死の薬を探してくると云って徐福が3000名で渡来する。
当時、東方に国がある事はわかっていても、詳しい状態ではなかった。
2~3世紀
魏志倭人伝に日本の事が書いてあり、邪馬台国が周囲の国々をまとめて、卑弥呼が女王になる。
中国から、そなたが王であると認める金印が2度送られている。
卑弥呼も中国へ奴隷など貢物を送って金印を送られたとされる。
中国から渡来した人物が作った国なので、中国との争いは避けたと思われる。
魏志倭人伝に、邪馬台国までの航路が詳しく書いてあるが、邪馬台国が九州なのか近畿なのか定説が出ていない。
以後、歴史書から日本の記事がない。遺跡による研究が主流となる。
中国から伝わった文明 農耕、鏡、剣、馬牛など
古来に日本にあったもの 勾玉、神道(神社)
当時、日本で生まれたもの古墳(前方後円墳、埴輪、銅鐸など)
5世紀
日本にも歴史が残ってくる。
聖徳太子(仏教伝来、法隆寺)、文字など
6世紀
長岡京遺跡、神社、お寺など遺跡も多数ある。
古事記、日本書紀が作られるが国、天皇の起源についてはおとぎ話に近い。

以上の事を頭に入れて、5世紀を想像します。
すでに、渡来人は日本列島全域に住んで、原住民を支配する社会を築いていた。
北九州、出雲、近畿、伊勢などにも大きな勢力を持つ部族が多数いた。
邪馬台国は北九州にあって、この邪馬台国をまねした国造りを行おうと考えたのが
飛鳥時代の王(神武天皇)が神武東征を行って周囲の国々を配下に収めると作り話をした。
卑弥呼をまねして明日香の山奥で奈良盆地の人民を支配する形を作ったのが初代大和朝廷
しかし、権力争いの後に都は奈良盆地へ移動して平城京
更に、権力争いの上、平地で淀川が流れる長岡京へ
長岡京で病気が流行り、最後は平安京と云う事になります。
これらを日本の国の始まりとして天皇主体の歴史書が古事記、日本書紀です。
つまり、九州や伊勢など全国に力のある部族は多々あったが
我こそは、日本(倭国)本来の流れを持つ長(天皇)であると最初に主張したのが
神武天皇(本当にいたのか、本名なのかも不明ですが)
後は、歴代の近畿の王族が奪い合い、古事記を記載することで、その地位を決めた。
後の日本もこれを日本のなりそめとするとした。
つまりは、早い者勝ちで、後々の権力の奪い合いの場所になった。
以上は、私の勝手な想像です。
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当時の人口が多く、火山が少なく、そして何より防衛がしやすかったからではないでしょうか。


奈良は(京都も)周囲から見ると山に囲まれて、まるで要塞のようです。
天然の要害ですから攻められにくいし、安心して攻め手に回ることができる。
そういう要素が多いのではないでしょうか。

また火山が少なければたまの大噴火で人口が激減するということも、ないです。
九州は先史時代の文明が噴火で滅んだことがあります。縄文時代の話ですが。

中国秦王朝も辺境の盆地に建国されました。辺境であれば強敵に挟み撃ちにされるリスクも減りますし。
オセロと同じ原理です。角は攻められにくい。
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朝鮮半島から攻められた場合、守りが堅固だったからと言われています。

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