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どうして、鎖国中にポルトガルやスペイン、ロシア、アメリカ、イギリスなどが来航したのですか?
キリスト教の布教以外の理由を知っている方がいたら教えてください!

A 回答 (5件)

鎖国中にポルトガルやスペイン、ロシア、アメリカ、


イギリスなどが来航したのですか?
   ↑
勘違いしていませんか。
彼らが来日したのは、主に戦国時代ですよ。
戦国時代は鎖国はしていません。

江戸時代には、三代家光の時代に、鎖国という
か、西洋との関係をカットしました。

幕末になって、ロシアや米国が来航するように
なりました。

それは、植民地にする、又は貿易する
目的があったからです。
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#3さんの回答が秀逸ですが、ちょっと補足します。



まず、信長・秀吉の時代は外国の船が日本に来るだけでなく、日本人も外国に行っていました。タイなどには日本人街があって、かなり大きかったようです。

で日本人は外国でなにするかというと、日本刀や銅・金そして壺や漆などの産品の販売、売春、そしてなんと一番人気は日本人武士の傭兵だったのです。この傭兵はけっこう強くて有能だったらしく、テロ事件のようなものも起きています。

ですので、日本が鎖国をした後にスペインが来たのは確かなのですが、アジアの方々の港で日本人の強さを聞いて、結局やめて帰った、というのが真相です。

また、キリスト教を日本国内で布教するのは禁止されましたが、イギリスとオランダは出島に入ることを許されていました。彼らはプロテスタント、宣教師と植民地化がワンセットなのはスペインやポルトガルといったカソリックだったので、宣教と占領の意思を持たないこの二カ国は許可が下りたのです。まあ、イギリスはのちに撤退しますが・・

江戸時代の初期にイギリスは東インド会社を設立しています。これらの施策によって、イギリスの経済は活況を呈し、空前の経済成長が始まります。
これを見たヨーロッパ諸国は、イギリスと同様の植民地支配を開始していきます。つまり帝国主義の始まりです。

これによりアフリカからアジアにかけて次々と植民地化されていったわけですが、植民地化と同時にヨーロッパ社会では「新しい土地」を探すことが使命になっており、たとえばオーストラリア大陸を最初に上陸したのは江戸時代の始まりの頃なのです。

これらの新しい土地は、ヨーロッパの学会で緯度経度などが発表され、ヨーロッパの国の領地に組み入れられていきました、これらの領地を探す為イギリスなどは北極海の航路も開発し始めます。つまりシベリアに寄ることになったわけです。これに危機感を抱いたロシア帝国は陸路を使ってシベリアを開発することに決め、コサック兵を駐屯させるようにしていったわけです。

これらの動きが幕末になると日本まで到達します。特にロシアは千島列島と北海道・樺太を測量し、日本の領地でトラブルを起こします。間宮林蔵などが北海道の地図を作ったのは「日本の領地として明確に権利がある」ことを示す為でした。
 アメリカは太平洋を渡り、捕鯨基地を探してさまよいます。小笠原諸島を最初に発見したのはアメリカで、明治政府が領有化を宣言した時も西洋人が住んでいて、そのまま日本に帰化した人もいるのです。

スペインとかポルトガル・イギリスなどはまた別の理由がありました。それは「モノを売りたい」ということです。あわよくば日本も植民地化したかったのでしょうが、ペリーが浦賀に来た時に武装した兵が展開するのを見て「日本の傭兵は強い」ということを思い出したわけです。ですから、すぐに商売に切り替えました。
 当時は植民地化が完了して、ものを売りつける「需要」が飽和していったからです。イギリスがアヘンを中国に売りつけたのも、アヘンなら中毒者が需要を作りだしてくれるからです。そうすることでイギリス・インド・中国の三角貿易も半永久的に続けられたわけです。

これらの経済的な圧力によって、徳川幕府は各国と不平等条約を結ぶことになり、それが明治維新につながっていった、ということです。
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鎖国なんて軍事力があって、成り立つのです。


チベットは鎖国をしてましたが、軍事力が無かったので、
中国に攻められ手もなく簡単に支配されました。
鎖国するから誰も来るなと言ったって、軍事力がなければ、無力なのです。

信長、秀吉やの頃は鎖国なんぞしてませんよ、来る者は拒まずで、
信長は他国の文化に興味があったので話を聞きたくて受け入れただけです。
秀吉は銭儲けの為に受け入れましたが、キリスト教の思想が危ういと考え、
バテレンを追放したので、怒ったスペインは艦隊を派遣してフィリピンまで
来ましたが、引き返しました、当時の日本は鉄砲が20万丁以上、有り
最強の陸軍だったからです。(戦う集団の武士は強かったのです)
三代将軍家光の側近の誰かが、ヨーロッパ諸国はキリスト教徒を送り込み
その跡に軍隊を派遣して植民地にする手法に気が付き、鎖国政策をとったのでしょう。
当時の日本は佐渡金山と石見銀山が有り、財政的には安定してました、不足したのは
鉄と硝石なので、朝鮮と清国から輸入してましたので、軍事力は保持されてました。
農業の進歩も著しく、100年後の暴れん坊将軍吉宗の頃には一反当たりの収穫量が
1俵半から3俵近くになってました、吉宗さんは、この事に気が付いたのですが、
増量した分を全部、取り上げないで、農民と領主と幕府に均等割りにしました、
幕府の財政が一息ついたので、徳川幕府中興の祖となりました。

吉宗が生まれた頃、世界では、ヨーロッパはナポレオンが暴れたので、
兵器の開発が進み武器が強力になりました。
更に蒸気機関が発明され、季節風に関係なく船が航行出来る様になりました。
方や日本は鎖国政策で火縄銃のままです、幕末の頃は軍事力が逆転していたのです。
黒船の鋼鉄製の大砲は1500m以上、弾が飛びましたが、鋳造性の日本の
大砲は1000mも飛びませんでした。
生麦事件を起こした薩摩藩は英国の5隻の艦隊に打ち砕かれて降伏して、
20万両の賠償金を払いました。
長州は馬関戦争で弾が届かず、砲台をヨーロッパの艦隊に壊滅させられました。

インドも南米の国々はヨーロッパの艦隊が近づくと、蜘蛛の子を散らした様に
逃げ出しましたが、浦賀の役人は槍と刀を手に海岸に集まって来たので、
ペリーは上陸を諦めらしいです、指揮官なら部下に損傷させたくない、考えは
万国共通なのですね。

鎖国政策を取って、誰も近づくなと言った所で、軍事力で押しかけられたら
ひとたまりもないのです、愛とか慈悲の心なんぞ、帝国主義の侵略者には、
通用しないのです。
侵略に対抗するには経済的に豊かな基盤が必要です。

強力な軍隊の保持には、経済力がなければなりません、今の北朝鮮は
経済力がないのに、人口5千万人で100万人以上の軍隊を持ち、更に
国民の多くが餓死しているのに、ロケット開発や原爆の開発をしてます、
昭和初期の日本の姿です。
質問の主旨と離れたしまったので、この辺で・・・

東京裁判で言った、「我々を裁くなら、アヘン戦争まで遡られよ」
しつこく言わせてもらうと、歴史は繋がっていて、断片的に、その事件、事象
を切り取って部分々で論議してはいけないのです。

320万人の犠牲者をだした、あ~~~きりがないからやめます。
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その当時の先進国すなわち軍国主義の国はあちこちで租界を要求しています。


日本だけではありません。
日本は黄金の国と噂されていましたし、アヘンを売りつける目的があったのです。
米国はだけは目的がありました。
捕鯨のための寄港地ではなくて中国を市場としたかったのです。
そのためにペリーです。

大日本帝国は日清戦争を経て満州を作り上げて日中戦争に乗り出しました。
米国は堪忍袋の緒が切れました。米国が先につばをつけたのだ、と。
と、いうことです。わからないでしょう。
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他の国はともかく、アメリカについては捕鯨基地として有効な立地ということから始まったと聞いたことがあります。

当時アメリカは世界一の捕鯨国だったと思われ、太平洋の日本近海は好漁場だったようです。         いずれにしても当時の列強国が自国の版図を広げようと競い合っていたのは間違いないでしょうからその流れのなかでの事とかんがえられますが...
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