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北方領土はいつに何の戦争で取られたんですか?

A 回答 (10件)

第二次大戦後、ソ連が戦勝国として取りました。


いわゆる勝利品。
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1945年9月2日に日本が降伏文書に調印して第二次世界大戦が終結する以前の8月28日から9月5日の終戦のどさくさに乗じて、ソ連軍が北方領土に上陸して、不法占拠されました。

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第2次対戦中、昭和20年8月の降伏直前に、日ソ中立条約を破ったソビエトの奇襲により占領されました。

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太平洋戦争で日本がアメリカに降伏した事を見て火事場ドロボー的に不可侵条約を一方的に破棄して参戦し占領した。


日本が言っている戦争終結とソ連(現ロシア)が言っている公式な戦争終結に日付のズレがあるから、そのズレを利用している。
質問者さんの年齢が判りませんが、判りやすい例として上げれば「江川問題、空白の1日」みたいな物です。
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第二次世界大戦で日本はナチスドイツ・イタリアと日独伊三国同盟を結び、これを中心とする枢軸国陣営として戦いました。

対するのはイギリス、ソビエト連邦、アメリカ合衆国などの連合国陣営。日本は敗戦。その際に色々あって、北方四島はソ連の支配下に。そのまま現在、ロシアの支配下にあります。

北方四島の歴史などは以下を参照してください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%AF%E8%88%9E …
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%89%B2%E4%B8%B9 …
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%BE%8C …
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%9E%E6%8D%89 …
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C …

サハリンも色々ありますね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%BA%E5%A4%AA
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要点をごく簡単に言うと、日本はソ連(いまのロシア)との間で相互不可侵条約(のようなもの)を結んでいました。

第二次大戦が始まってもソ連は日本の領土には侵略してきませんでしたが、日本の敗戦色が濃厚になり、もう戦う力が残っていなくなった終戦間際に、それを見計らっていたかのように相互不可侵条約を破って侵略してきて、楽々と北方領土を手に入れたんです。
私の父は明治生まれで戦争に駆り出されましたが、米国には恨みつらみはそれほどなくても、卑怯なソ連には怒り狂っていました。
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戦争で取られたのではありません。


終戦のどさくさに紛れて、ソ連が強奪した
だけです。

○北方領土の歴史。

1945年 2月 ヤルタ会談で 米国ルーズベルトがスターリンに
日本への参戦を要請。
その代わり、千島列島を引き渡すとの密約。

1945年 8月 ソ連軍北方四島を占拠

1955年 日ソ国交正常化交渉開始
      ソ連、二島引き渡しを交渉。
      しかし、米国ダレス国務長官が、待ったを掛けた。
      引き渡しで妥協したら沖縄を返さないという「ダレスの恫喝」

1956年 日ソ共同宣言で国交回復
      ソ連は平和条約締結時に歯舞色丹を引き渡すと約束。

1960年 日米安保改定
      これを理由にソ連は二島返還を反故にし、
      日ソ間に、領土問題は存在しないとした。

その後、しばらく進展無し。

ウクライナ問題発生し、2016年 オバマ大統領が日露合意中止を
要請。

日本は、長い間、政経不可分、つまり領土問題が解決しない限り
経済協力はしない、という政策だった。
それが、拡大均衡、つまり、領土と経済強力のバランス取りながら
発展させる、という政策に変更。

その後、ゴルバチョフが領土問題の存在を認める。
海部首相のとき。
ゴルバチョフは1956年の日ソ共同宣言の有効性を
認めなかった。

その後、プーチンは、有効性を認め、現在に至る。
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怠け者を甘やかすな。


(そんなにBAが欲しいか?)

この程度の事を調べもせずに、他人にわざわざ文章を書かせて説明させるとか。
私が怠け者を甘やかすことを親切は思っていない。

「取られる」の意味が不明なので回答不能。
サンフランシスコ条約での決定事項は、日本が放棄したことのみ
北方領土の帰属は決定していない(←重要)
そして、当時のソ連はその条約の調印国ではない。
「北方領土はいつに何の戦争で取られたんです」の回答画像8
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え・・・ しっかり 勉強して


     普通になりなさい

     小学生でも知っとるわ
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昭和のころから義務教育の社会の授業で習いますよね?高校でも現代社会など地歴公民の科目で習います。

第二次世界大戦です。
日本は、ポツダム宣言、サンフランシスコ平和条約で、樺太南部と、得撫島~占守島までの千島列島の領有権を放棄することを認め、そこを戦後占領していたソ連(現ロシア)が支配しています。
日本が領有権を放棄していない地域がいわゆる北方四島で、戦後ずっとソ連(現ロシア)が占領して今日に至ります。

日本で発行されてる国別に色分けしてある地図では、樺太南部と、得撫島~占守島は白などで、ロシアの色やどの国の色にもなっていません。
日本としては、北方領土は当然日本ですが、上記の地域は日本が領有権を放棄したもののどの国に帰属するかについては根拠が無いという立場です。
しかし1945年以来、北方領土も樺太南部も、得撫島~占守島までの千島列島もロシアが実効支配しています。

江戸時代、日本は北海道や千島・樺太・カムチャッカあたりを調査します。アイヌが先住民としているのですが、日本やロシアなどが進出をはじめ徐々に支配をはじめました。
1798年近藤重蔵が択捉島に「大日本恵土呂府」の碑を立て日本領を主張し、翌年幕府の直轄地にしたあたりから本格的に支配を行いますが、同様の目的で進出しているロシアと小競り合いもあります。
ペリー来航によって開港という中、安政の五か国条約が結ばれます。1855年締結の日露和親条約によって日露の国境が確定します、択捉島以南が日本領で、樺太は国境を画定せず日露混住地に。
日本が北方4島は日本だという主張の根拠にもなっています。

明治となった1875年、日露は国境を改める樺太千島交換条約を締約します。樺太はロシア領とし国境を定めます。千島列島の得撫島~占守島までの島々をすべて日本領としました。
ここまでは平和的な国境画定でしたが、次に国境が動くのが日露戦争です。樺太の南半分が日本領となります。
ロシア的には、日本の言う北方領土は、その後の戦争、第二次世界大戦でロシアが占領したところだ、何の問題があるかというのが現況です。

第二次世界大戦時、日本は当時のソ連とは中立状態でした。
ソ連を目の敵にしていたヒトラーのドイツが1938年独ソ不可侵条約を結んだことで惑わされてしまったことや、
アメリカなどへの牽制などの目的でソ連と手を組みたいと考えたことなどが重なり1941年日ソ中立条約が締結されます。
しかし、直後にドイツがソ連に攻め込み思惑は狂ってしまいます。また、ソ連は日本からの侵攻の脅威がなくなったためシベリアの兵力を割きモスクワ防衛に当たらせ、
陥落寸前のモスクワを防衛しドイツ軍を押し返すことに成功してしまい、結果的に当時の同盟国ドイツの足を引っ張ってしまいます。

しかし大戦中も中立条約は生きていて、ソ連軍が攻めてくることはなく、1945年ともなると中立国ソ連を連合国との戦争終結の仲立ちにする試みも行われました。
ところがソ連は独ソ戦以来連合国とは密接なつながりを有し、ドイツが降伏した後は残った日本との戦いに加わることが決まっていました。1945年2月のヤルタ会談で密約が結ばれたのです。
連合国に対し、ソ連が対日参戦するための条件の一つが日露戦争でとられた樺太や千島の奪還でした。しかし、本来樺太南部以外は戦争で奪われたところではありません。
1945年4月、ソ連は、翌1946年で期限切れとなる中立条約を破棄することを日本に通達します。
そして、ソ連は8月8日、翌年での期限切れとはいえまだ有効な条約を一方的に破棄し、完全な奇襲で満州・朝鮮半島・南樺太・千島列へ侵攻を開始しました。
この条約破棄やヤルタの密約が国際法上認められないというのも北方領土に関する日本の主張の一つです。

千島ではなんと日本で終戦の日としている8月15日より後になって激戦が生じています。
ポツダム宣言受諾によって千島列島最北端の占守島でも武装解除の準備がされていました。当時の守備隊は武装解除・占領は米軍によって行われるものと考えていました。
ところが島の付近をソ連軍機が飛ぶようになり守備隊では武装解除を思いとどまります。
ソ連軍は8月18日未明から砲撃とともに占守島攻撃を開始します。日本軍守備隊は孤立しわずかな戦力ではありましたが必死に防戦し、一時はソ連軍を上陸地点まで押し返す勢いでした。
しかし守備隊の上層部からの戦闘停止命令が届き、停戦交渉を経て21日に守備隊が降伏します。その後。択捉島までが次々に占領されていきます。

ポツダム宣言受諾は8月16日ですが、降伏文書の調印によってそれが確定するのは9月2日です。実際今のロシアでも9月2日に対日戦勝記念パレードなどをやっています。
ソ連の言い分ではまだ大戦は継続中なのです。戦争で勝ち取った領土だから何の問題も無いというのです。
ロシアは近年、北方領土問題に対して強硬な態度になっていますが、それに伴い意図的に9月2日が対日戦勝日だということを強調しているのも気になります。国内世論の醸成かと。

ヤルタ会談でソ連を対日戦に引き込みたい連合国の思惑や、スターリンの日露戦争の借りを返すとか、極東における勢力拡大の野心が絡んできわめて黒に近いグレーな動きがあって、
結果、火事場泥棒的に北方領土が取られてしまいます。
また、ソ連軍は先の占守島の戦いでまごつかなければ北海道も占領していたかも知れないとも。
結局勝者による戦後の処理でいろいろなグレーや真っ黒な点も不問に付されてしまいます。敗者は色々後付けのルールまで作って裁かれるなどしたのにです。
その後、そのあたりのことの正当性について論じられることもありましたが、冷戦によって国際社会は複雑になり、いろいろなことがこじれたりうやむやになってしまいます。
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