プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

1. 或る回答を引用して 問うものです。規約違反であれば したがい
ます。

2. 前々から分からなかったのですが ひとまとまりの説明を得ました。
なお分からないのですが 疑問を呈して問い求めをすすめ得ればと考えま
す。


◆ 《彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない》~~~

3. 我々の身体は原子からできているし、宇宙はブラックホールにより
誕生したのかもしれない。

4. しかし、その原子やブラックホールが何からできているのかは永遠
に不可知だろうと思います。

5. むろん、どちらも、その大元を辿れば1次元の拡がりをもつ弦( 超
弦)であると推測されるところまで来ているようですが、では、その超弦
は何からできているのか、ということになるでしょう。

6. つまり、理由が分かったとしても、その理由に対する理由が永遠に
付きまとうわけなので、永遠に不可知と言わざるを得ません。

7. よって、

  「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさ
  せる力)に起因して我々は生まれた。( A )」

を定理として認めざるを得ない。

8. この場合、

  「我々は [ 人類の一員としての我 ] でありさえすれば摂理の要件を満
  たすに十分なのであって、 [ 自我としてのこの我 ] が存在しなければ
  ならない必然性は(摂理にとって)皆無である( B )」

7. よって、

  「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」

という命題が結論として導き出される。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

8. まづ用語です。
《不可知》は 質問者としては 《知り得ないと証明されたものごと》と
定義しますが どうもここでは 《知り得るか知り得ないかが知り得ない
ナゾ》としての非知のことを指して言っているように思われます。
その点 どうなんでしょう?

9. 《大元の大元》としてここでは《ナゾ》という言葉で統一したいと
思うのですが (7)なる命題(つまり A )は 次のようにみちびかれ
ているのでしょうか?

9-1.(編集版A‐1) ナゾはナゾであり続けるゆえ それを《人智の
及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)》と
呼び 同じくそのように説明する。

9-2.(編集版A‐2) われわれは ナゾによって・絶対的摂理によっ
て・あらゆる事象をバランスさせる力によって生まれた。

10. (8)の B なる命題について:

10-1. 《摂理の要件を満たす》とは どういうことか? すでにこ
の摂理によってわれわれは生まれて来ているのではないか? すなわち生
まれて来たときに 《[ 人類の一員としての我 ] でありさえ》しているの
ではないか?

10-2. 《 [ 自我としてのこの我 ]》が分からない。《[ 人類の一員
としての我 ]》と《自我としてのこの我》とは 別なのか? 別だとすれ
ば 《自我》について説明が欲しい。

11. (7)の C なる命題において 《我 や 彼》は どうなのか?
つまり おのおのが《[ 人類の一員としての我 ]》であるその人間のこと
か?

11-1. もしそうだとすると この命題で《彼は我であったかもしれ
ず うんぬん》というとき 一方では 《[ 人類の一員としての我 ]》どう
しとしては互いにその存在を共通のものとしていると言えると同時に 他
方ではなぜ――だからと言って――それぞれが互換が可能であるかのよう
な見方をしなければならないのか? という疑問がとうぜん起きる。

12. 果たして 命題 C は どういう意味なのか? つまり おのおの
の意志自由は互いに――社会的に相対的に――独立しているはずであり だ
からいわゆる個性があり得ると考えられるとき それらをめぐって 何を言
おうとしていると解釈すべきなのか? 

12-1. 人間は 人類として重んじられるが 一人ひとりの存在はど
うでもよいものだ――と極論して受け取らざるを得ないようにも感じるの
ですが 果たして どうなんでしょう?

質問者からの補足コメント

  • つづき。

    命題 Aにおける《摂理》をめぐって それは経験事象に片足を入れている。
    それゆえにも:
    ★★ (=あらゆる事象をバランスさせる力)
    ☆ といった説明が添えられています。つまり 《事象;バランスさせる》
    というのは あくまで経験世界におけるものごとです。

    つまり――《人智の及ばぬ》とはありますが・ですからこれは 非知では
    なくむしろ不可知のものではないかと推測されますが その――《経験的
    な力に起因して われわれは生まれた》と言っていることになるのでは?

    だとすれば これは まづい。でしょうね。《非知なるナゾ》のままにし
    ておくのが ひとつの手でしょう。派生的な見方として 摂理を持ち出す。
    か?

    でも 摂理は 扱いがやっかいです。世の中には どこにでも《自然本性
    から外れた思いや考えも そしてその行動もが起きている》からです。思
    案のしどころではないでしょうか。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/04/18 16:56
  • 生成原因ないし要するに神に《意志》はあるか?

    神とわれとのタテの関係――非思考の庭なる動態――では 神に意志がある
    と見ることは 自由。無いと見るのももちろん自由です。

    われと他のわれとのヨコの関係――思考の緑野&感性の原野――では 神な
    いしその信仰は 直接にカカハリを持ちません。

    ヨコの関係において神について話をしてもよいでしょうが それは基本的に
    神についての感想やまた思想としてのお話です。神論や信仰論〔ましてや宗
    教〕と 神や信仰とは 別です。

    つまり 人間どうしのヨコの関係では 神に意志があるとたとえ主観が見て
    いるとしても その神の意志は お呼びではないとなります。

    フクシマは 神罰だといった物語にしかなりません。

    神はわが人生の節々でその事態やそれにかかわるわれ自身をバランスさせて
    くれていると 非思考の庭なる主観において思っていても 自由でしょうね。

    No.20の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/04/24 09:30
  • 神は――非知かどうかを問う前に――あくまで超経験・超自然です。

    つまり もうそれだけでも 既知ではない。未知だと思っても 人智を超えて
    いるからには 可知ではないと知られます。

    では 不可知かと言うと 不可知だと証明されてはいないだけではなく 超経
    験で人智を超えているからには 不可知だと証明される気遣いはないとなりま
    す。これが 非知です。

    ○ 世界についての人間の認識のあり方 ~~~

      経験事象について:
         
        可知(知り得ると人は思っている)
          既知(間違いだったと分かることもある)
          未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)

        不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)

      非経験の場を想定して:
         
        非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

      補足日時:2017/04/25 21:31
  • ○ カミ(普遍神)とわれ 

    【?(非知)】:非経験の場(絶対):カミ〔有る神(梵・仏・霊);無い神(無梵)〕
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    【われ】:経験存在(相対):カミの分有(霊我・仏性・霊我;無我)



    ☆ カミの分有は 次のごとく 思考や感覚ではなく 非思考の庭なる信仰において
    ――自然本性にあってすでに――成ると想定。



    ○ われ 

    【信じる】:非思考の庭:梵我一如(仏仏一如・霊霊一如;無梵無我一如)
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    【考える】:思考の緑野:ここに 思想とすでに成った宗教のオシヘが入る
    【感じる】:感性の原野:ヒラメキ(まぼろし?)

      補足日時:2017/04/25 21:44
  • 摂理というのは 次のごとく《神とわれとのタテの関係(つまり信仰)》から派生
    した視点であり そこから導き出されたあとは 経験的な思考形式と成っている。

    摂理の内容として たとえば善因善果・悪因悪果のごとく因果応報説にまで概念化
    しているならそれは すでにヨコの関係にあって ふつうに思想の問題である。つ
    まり 神をあつかっているが 神からは離れている。思考なのだから。

    ○ 摂理とは:

      神          神          神
      |          |          |     タテ
     (非思考)      (非思考)      (非思考): の   :(信仰)
      |          |          |     関係
      |          |          |
     われー(思考・感覚)ーなんぢー(思考・感覚)ーかれ : ヨコの関係:(オシヘ・摂理)

      補足日時:2017/04/25 21:53
  • 神は:
    ★ 「既知となるか未知となるか知り得ないと思う」という思考(認識)を
    する立場
    ☆ は 《神は 超経験だ》という常識にどのような根拠でさからうのか?
    を明らかにして欲しいと思います。

    初めに《非知》なら 可知(既知&未知)や不可知とはその初めから なじ
    みません。

    という手法です。

    神は 既知だ(既知となりうる)や 未知だや あるいはそちらの定義では
    未知と同じ内容となる不可知だといった判断は いったいどこから出て来る
    のか? 不思議でなりません。

    超経験だという前提を外していますし もしそれを問わないとしても 神が
    既知だという人が 一般にその言っていることがみとめられたことはあるの
    でしょうか?

    いままでありえなかったことを どうしていま持ち出して来るのですか?

    No.36の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/04/26 18:56
  • りゅぱんさん できましたら お願いがあります。

    【Q:屁理屈と詭弁】
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9732494.html

    この質問への回答№20と№23とのやり取りについて どう思われますか?

    非知をめぐっての議論です。

    じつは そのあとわたしが応答する番なのですが 質問者からブロックされて
    しまいました。

    何かりゅぱんさんにも 言うことがあるとお思いでしたら そうなさってくだ
    さいませんか?

    ☆☆(上記質問への回答№20=ぶらじぇろーぬ) ~~~~
    水は 経験事象であり 水に溶けることも 同じくです。いまの仮定における
    地の塩は 経験事象を超えているという想定です。

    ですから 《霊なる人間が 水に溶ける》かどうかは どこかで推論や前提を
    間違えたといった問題にはかかわりがないのです。
    ~~~~~
    ☆ ここが鍵であると思います。すみません。

    No.49の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/04/29 05:50
  • (エ)★ 《不可知》というものは、《不可知と思う》のように定義せざる
    を得ない、というのは論理的に真だと思っています
    ☆ でも この不可知という用語を当てているその対象は 大元のナゾなん
    です。

    《宇宙が存在する意味》つまり要するに神のことです。神は 不可知であり
    それは 《不可知と思う》ということなんだと。

    ところが この《宇宙が存在する》なるその意味つまり神は 《人智の及ば
    ぬナゾ》なんです。

    人智の及ばぬものについて どうして《・・・と思う》ということが当ては
    まるのでしょう?

    No.65の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/04/30 19:13
  • 不可知の定義で 互いにどうしても違いが出るということ。これの
    原因が分かりました。

    経験事象と超経験とを区別することは おおむね成されていると思う
    のですが どうもこれら二つの領域が連続している・・・とそちらで
    は捉えられているのではないだろうか。ここです。

    まづ 両者には絶対のへだたりがあります。

    次に――人間の思わくとしてながら―― 絶対なる非経験の場は 経
    験世界を覆い包むと見られる。・・・ここから連続性があると思われ
    て来る。

    連続性は基本としてありません。地続きではありません。

    あると見えるのは 人間の思わくです。哲学としての神論ではなく 
    神観として広く人生観を成すような要素に成っているのかも分かりま
    せん。神への甘えです。

    摂理や自然法は 神から――人間が忖度して――派生させて得る経験
    知であり 経験世界の側から神に投影するものではないわけです。

      補足日時:2017/05/01 08:22
  • 次のくだりをおぎないます。:

    ☆☆(№73お礼欄) ~~~~
    br-1: その〔《非経験の場なるナゾ》たる絶対から 相対世界へと何らかの
    ハタラキカケがあるという〕場合には・ただし このハタラキカケが具体的に
    どういうふうにおこなわれるのか。これは 分からないとなります。
    ~~~~~~
    ☆ これは モノ(質料)の自己運動にまかせている。

    時空間なる場――宇宙の全体――の《自主的な?》ウゴキにゆだねている。

    言いかえると 摂理としての法則性がある場合とそれが分からない場合とがあ
    る・・・というズルイ見方です。

      補足日時:2017/05/03 11:04

A 回答 (84件中1~10件)

#72です。



(ア)
>連続性は基本としてありません。地続きではありません。
あると見えるのは 人間の思わくです。哲学としての神論ではなく 
神観として広く人生観を成すような要素に成っているのかも分かりま
せん。神への甘えです。

おっしゃっりたいことはよくわかります。
「絶対的摂理=経験事象 A を顕現させている法則・原因」という定義に対する批判ですね。
「法則・原因」はあるとしても、それによって、
★経験事象 A を顕現させている
とは限らない、ということなのでしょう。

私の場合、
★自然宇宙の絶対的摂理=あらゆる事象をバランスさせる力
というスタンスがあります。
卓袱台返しをするわけではなく、逆に言うと、
★あらゆる事象をバランスさせる力
が無ければ、宇宙・世界はバラバラにならざるを得ないはずなのだから、それを、
★自然宇宙の絶対的摂理
と呼ぶのは論理的であり妥当な思考だろう、ということ。
その上で、経験事象 A が
★自然宇宙の絶対的摂理
以外によって顕現しているとするのは極めて不合理なのであるから、
★「絶対的摂理=経験事象 A を顕現させている法則・原因」
のように定義したとしても何ら齟齬は生じない、という論理になるかと思います。

上の表現において、
★ならざるを得ない
★妥当な思考だろう
★何ら齟齬は生じない
などの見解が、その根拠と共に示されていると思いますが、それらは(今のところ)わたしにとって動かしがたいものであるようで、経験事象 A と、それを顕現させている法則・原因が、
☆非連続
であるといった視点をとることは、なかなかむずかしいようです。
やはり「見解の相違」という落としどころに来ているように思うのですけどね。

(イ)
>~~《物理現象⇒物理法則⇒その抽象化・純粋化》は 非連続を無
視していると見られてしまいます。
じつは それゆえにも――詭弁を弄すると映るかも知れませんが――《非
知》という想定を初めに持って来るのです。人間の思考としての投影作業
を この定義の仕方によって切ったのです。
ですから:
★ ただ、個人的には、これは「思考の停止」と位置づけます。
☆ に対しては 《非思考》を掲げるわけです。

ともおっしゃるわけですが、「思考の停止」を否定する必要はないという気もするのですけどね。
ここにきて、神と摂理の食い違い、つまり信仰と論理の問題。も生じてくるのかもしれません。
その場合、(本来の)信仰が思考停止であるとして、それは、むしろbragelloneさんにとっても本意ではないか、という印象も受けるのですが、その点についてはまた別の機会に譲るのが妥当なのでしょう。

(ウ)
>神をその限りで――シルシなる仮りの小世界における限りで―― 思考の対
象として扱っています。
けれども だからと言って:
★ 「神」がすでに思考対象として 認 識 さ れ ていることになる。
☆ ことは ありません。思考され認識されているのは あくまで神を指し
示すシルシとしての言葉であり その概念内容なのです。

ここも実によくわかるのですが、(イ)と同様、
★神と摂理の食い違い
についてつまびらかにしないまま論じるのは難しいように思います。
☆非連続
と前提するなら、たしかに
☆神は非知
と言う論理は成立するでしょうね。
この辺りの論理はおかげさまで腑に落ちました。
ただ、そうした前提が(神に対して)妥当か否か、という問題と、仮に妥当だとして、それを「絶対的摂理」にも適用することが妥当か否か、という2つが論点としてあると思われます。
わたしの場合、現時点では、とりあえず、後者については(見解の相違という形ではありますが)否定しつつ、前者については積み残しの状態と言えるでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

(ア) わたしの側に触れていただいたのは こうです。:
★ ~~~~
「法則・原因」はあるとしても、それによって、
  ★経験事象 A を顕現させている
とは限らない、ということなのでしょう。
~~~~~
☆ ここも微妙かも分かりません。

ha(連続説): 《ナゾ》がすでに《法則・原因》であるとしたら――
そういう仮説を推し出しているのなら―― 絶対的摂理なるナゾが 経
験事象のすべてを直接・間接に生じさせている。・・・とは推論される
わけです。

ha-1: おそらく直接には法則を与え あとは間接的に影響をおよぼ
している。・・・のではないかと。

br(非連続の説): 法則・原因たることは ナゾの属性であるに過ぎ
ないと見ている。つまりその《非経験の場なるナゾ》たる絶対から 
相対世界へと何らかのハタラキカケがあるという想定は派生的に得て
いる。

br-1: その場合には・ただし このハタラキカケが具体的にどうい
うふうにおこなわれるのか。これは 分からないとなります。

br-2: さらにただし 非知なるナゾは 《ナゾとわれとのタテの関
係》としてあって そこに形成される非思考の庭が いわば独立して
いる。

br-3: つまり信仰(ないし信教・良心の自由)に関する限り わが
主観は 他のわれから自由である。ゆえに ナゾからのわれへのハタ
ラキカケについては いかようにもと言えるほど自由に ヒラメキを
得たり思いついたりすることがあり得る。

br-4: そのヒラメキ主観を社会に推し出すには 経験思想に翻訳し
たものとして自己表現をおこなうことになる。われどうしのヨコの関
係は 思考・感性をとおしてのもの。

br-5: ということは たとえば ha説として:
★ ~~~
経験事象 A が
 ★自然宇宙の絶対的摂理
以外によって顕現しているとするのは極めて不合理なのであるから、
 ★「絶対的摂理 = 経験事象 A を顕現させている法則・原因」
のように定義したとしても何ら齟齬は生じない、という論理
~~~
☆ を推し出すとき br説は そこまでの表現は禁欲していること
になります。禁欲がむしろ自然だという見方です。なおまだ翻訳す
る前の段階にある主観ではないか? と問うわけです。

つづきます。(分割をありがとう)。

お礼日時:2017/05/02 18:18

ひとつ追加。



>☆ 何だかジェシカは 八年の間に 夫を裏切っていたようなんですが 

軍からも戦死扱いされていましたし、8年音信普通なら裏切りには該当しないでしょうね。
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この回答へのお礼

あぁ 早とちりでしたか。

八年後に 夫の同僚のマイクと通じたのではなく 早い段階から
そうなったと思ったわけでした。



課題がぜんぶ片づいたわけではないですが いますすめる論点が
はっきりているというわけでもない。

このスレッドとして あとは自由にということにしましょうか。

しばらく開いていて閉めることとします。

長丁場をありがとうございました。お疲れさまでした。

お礼日時:2017/05/05 20:13

#82です。



>一点の確認のみとします。
★ あらゆる事象をバランスさせる
☆ には 意志らしきものを感じるのですが どうでしょう?

「させる」は使役ですのでごもっともですが、そこは、単純な擬人化と受け止めていただければ。
あくまで意志は想定していません。

>あと 余計なことですが 宗教というものは 気がくるっています。けっきょくは 
倫理規範によるファッシズムなのではないでしょうか?

こちらは、意志丸出しですが、 [ 人類の一員としての我 ] を説くことを隠れ蓑としつつ、 [ 自我としてのこの我 ] を満足させる手法に成り下がってしまっている点が問題なのでしょうね。
おそらく、最初から、そうした意図はなかったとは思うのですが、2つの我をバランスさせるという中立的な立場に立つことが、どうしても難しかった、ということなのかもしれません。
人間、 [ 自我としてのこの我 ] を脱しきれないうちは、欲が出ますからね、他者を支配したいといった。

推理・ミステリー関係がお嫌いでなければ、ホームランドは必見ですよ~。
DVDもありますが高いですし、
月1000円で見放題の
hulu
http://www.hulu.jp/
が便利。
くだらない映画・ドラマが殆どですが、
the-tunnel
http://gokigen-plus.com/the-tunnel-season1
THE KILLING
も合わせた3作だけでも見てから解約しても良いでしょう。
といってもシーズンものなので結構長い。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

《絶対的摂理の象徴としては神》に意志はあるか?

★ 「させる」は使役ですのでごもっともですが、そこは、単純な擬人化
と受け止めていただければ。あくまで意志は想定していません。
☆ 分かりました。

ということは 実質的にはほとんど《無い神》派の場合と同じようなのだ
と受け取るかとは思います。

《有る神》派の中でも 神は質料の自己運動にまかせていると捉える場合
には やはり同じような見方になるかと思います。



★ ~~~~~~
宗教というものは・・・ 

・・・ [ 人類の一員としての我 ] を説くことを隠れ蓑としつつ、 [ 自我と
してのこの我 ] を満足させる手法に成り下がってしまっている点が問題な
のでしょうね。
~~~~~~~~
☆ ええ。とにかく 唯我独尊は やはりいただけません。キャンペーン
を張ってもいいくらいだというのが ホンネです。




★ ホームランド
☆ は アルカーイダや IS をあつかっているというのは さすがアメリカ
だという感じがしますねぇ。

じつは 一・二年前から 名探偵ポワロを見てミステリにはまりました。ミ
ス・マープルに行き あとは ミステリ専門のTVで シャーロックやあるい
は刑事フォイル(これは 現代に近いですが 第二次大戦時です)といった
作品に手を広げました。

みなシリーズものですので たいへん多くのものが作られています。

つまり ミステリでも無難な殺人ものがいいんです。ホームランドは 精神
疾患がかかわり あとの推薦してもらった作品は 《猟奇》なんですよね。

というより やはりイギリスもので 《警部モース および 続編としての
警部ルイス》にも首をつっこんでしまい 手を広げ過ぎたかと思っていると
ころなんです。

ミステリーは 最低二回見ないと しっかりと把握できないぢゃないですか。
みんなシリーズものですから―― 一話完結ですが――相当長いです。

あと どうもわたしにはイギリスものが合っているようにも感じています。
アクションやスピード感は あまり要らないんです。子供だましのような程
度がいいんです。

いまのところ こういった感じでいます。

お礼日時:2017/05/05 20:02

#81です。



>《連続説》がありうるとして それでも 神からのハタラキカケは それぞ
れ《われ》ひとりに対してであり 集団を十把一絡げで命令することは も
はや――普遍神であれば―― ないものと考えますが どうでしょう。

☆普遍神
の意味がちょっとわからなかったのですが、「絶対的摂理の象徴としては神という表現は可能である」という立場から言うと、そもそも(直接的なものとしておっしゃっているわけではないのでしょうが)
☆命令
といった要素は【まったく】想定していません。
つまり、「意志」というものは付随してないと捉えるからです。
なので、神に願い事をするのは、まさに、そうした行為自体に意味がある(そして、そのこと自体が信仰なのでしょう)のであって、神が叶えてくれる可能性はゼロであり、仮に叶えられたしても、そこには他の要素が介在したという理由があったにすぎず、だからといって神のお陰と(本気で)信じたり、逆に叶えられなかったといって恨み言を言ったりするのは、きわめて不合理。
この意味でイワシの頭も神となり得るし、また、その意味で、
☆神からのハタラキカケは それぞれ《われ》ひとりに対して
という点には同意できますね。
☆集団を十把一絡げで命令
していると捉えてしまうのは、あくまで人間側の勝手な願望にすぎない。
仮に、そのように願望することには正当性があると(人間として自然な心情だろうと主張)したいなら、その場合は、
「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」
という命題が背景にある必要があるでしょう。
なぜなら、
☆集団を十把一絡げで命令
していると捉えたいのは、人類の幸福につながると考えればこそのはずでしょうが、上のような命題が背景に無いのなら、つまり、 [ 人類の一員としての我 ] と [ 自我としてのこの我 ] の確執を放置したままであるなら、人類の幸福なるものが実現するはずもないからです。
この意味で(信仰とは異なるところの)宗教(の教えといったもの)は矛盾していると言えるでしょう。
放置しているわけではない、という反論もどこからか聞こえてきそうですが、しかし、たとえば、キリスト教とイスラム教においても、その確執から解放される手段の違いを巡ってまた確執が生じているのでしょうし、その場合の確執にしても、結局、命題 C という背景がないからこそ生じていると言わざるを得ない。
ただ、《「絶対的摂理の象徴としての神」ではない神》自体は否定しますが、そうした神を信じるという行為自体まで否定しているわけではありません。
(ご存知だと思いますが)ホームランドでブロディが長年の IS の捕虜から解放されて帰国したとき、イスラム教に改宗していたのですが、それを妻のジェシカがなじります。
私はキリスト教、あなたはイスラム教、お互いに信じることのできる神があってよかったわ。
となぜ言えないのか・・。
といったようなことになりますかね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ホームランドでブロディが
☆ テレビドラマなんですね。

▼ (ヰキぺ:ホームランド) ~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/HOMELAND_(%E3%83%8 …
§ 2 ストーリー
§ 2.1 シーズン1
・・・8年間行方不明であったアメリカ海兵隊軍曹ニコラス・ブロディが、テロ
リストのアブ・ナジールのアジトから救出されたことを告げる。

キャリーは、ブロディが転向した戦争捕虜であると信じるようになる。
~~~~~~~~
☆ この《転向》が ムスリムとなったという意味なんですね。

★ それを妻のジェシカがなじります。
☆ そこで:
★ 私はキリスト教、あなたはイスラム教、お互いに信じることのできる神があ
ってよかったわ。 / となぜ言えないのか・・。
☆ 何だかジェシカは 八年の間に 夫を裏切っていたようなんですが わたし
の考えは 配偶者であるなら 信教の自由を分かち合ってもよいとは思います。
いちおうの説明を求めるところまでは 根ほり葉ほり尋ねてもよいのではないか
と。

夫婦なら 《 [ 人類の一員としての我 ] 》である基礎をも共有する度合いがつよ
いのではないかと。

《普遍神》は いまの話のように互いの信教の自由を――説明を求めるまでにと
どめて あとは――みとめあう。それができる自由な――排他的ではない――神
という意味です。

あとは 神に意志はあるか? でしょうか。
つまり端的に 《絶対的摂理の象徴としては神》に意志はないのか?

一点の確認のみとします。
★ あらゆる事象をバランスさせる
☆ には 意志らしきものを感じるのですが どうでしょう?



あと 余計なことですが 宗教というものは 気がくるっています。けっきょくは 
倫理規範によるファッシズムなのではないでしょうか?

お礼日時:2017/05/05 17:19

#79です。



>摂理というのは 次のごとく《神とわれとのタテの関係(つまり信仰)》から派生
した視点であり そこから導き出されたあとは 経験的な思考形式と成っている。

摂理の内容として たとえば善因善果・悪因悪果のごとく因果応報説にまで概念化
しているならそれは すでにヨコの関係にあって ふつうに思想の問題である。つ
まり 神をあつかっているが 神からは離れている。思考なのだから。

ご説明ありがとうございます。
タテ・ヨコの意味は一応理解できたように思います。(たぶん)
ただ、
☆摂理というのは 次のごとく《神とわれとのタテの関係(つまり信仰)》から派生
した視点
といった前提からして、わたしの見解とはまったく異なりますね。
しかし、「神とわれ」という関係性自体について連続・非連続という見解の相違がすでにあるわけなので、むしろ、当然のことなのでしょう。
興味深い視点であることは確かですが、各論を確立する際の拠り所としては、無理が生じてしまうような印象は払拭されないままです。
一旦、この辺りでということにしておくのが妥当かもしれませんね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


分かりました。論点がこれこれここから取り上げるのがよいと明らかになっ
たかたちで 話をすすめるのが よいでしょう。



前回(№80)に挙げましたわれらがヒトコトヌシの神がみづから語ったと
いう言葉――自己紹介――は 摂理という観点をめぐっても おもしろいか
も分かりません。

▲ (日本神話:ヒトコトヌシの神の自己紹介) ~~~~

  あ(吾)は
  悪事(まがごと)も一言 
  善事(よごと)も一言
  言離(ことさか・言い放つ)の神 
  葛城の一言主の大神ぞ
  
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《言離(ことさか・言い放つ)の神》ということは 現象や人間の行動
を直接にみちびくのではなく 基本的な指針を示したりするといったことで
ある・・・のかも分かりません。

つまり 人間どうしのヨコの関係には 入って来ない。・・・
タテの関係つまり信仰にしても 神が介入する場合にも あくまでそれぞれ
一人ひとりの《われ》に対してであるのだ。・・・

だから 神が《われ-われ》を全員たばねてその頂点から全体的に何かを言っ
たりするというのは――宗教がそういう方式であったとするならそれは――
ないと思われます。普遍神なら ないと。

ユダヤ・イスラエルにとってその民族神であった場合のヤハヱ―は あくま
で内向きでその内部の秩序と団結を重んじていたので 人びと全員に《命令》
した場合があったようです。

イスラームの場合も いまも 似たり寄ったりだと思われます。


《連続説》がありうるとして それでも 神からのハタラキカケは それぞ
れ《われ》ひとりに対してであり 集団を十把一絡げで命令することは も
はや――普遍神であれば―― ないものと考えますが どうでしょう。

お礼日時:2017/05/04 19:53

#78です。



>《goo 辞書》は 全体の意味にわたって 《連続性》が前提されているよ
うです。

そうでしょうね。
わたしとしても同様のスタンスです。非連続のスタンスで述べることはありません。

>言いかえると 《摂理》の部分が・つまりこの定義では《人間に禍福や賞罰
を与える存在》という部分が 経験事象との対応を想起させるものとは思い
ます。( b )でも そうですね。

( b )の場合は、《人間に禍福や賞罰を与える存在》ではない、という意図で、
「神=絶対的摂理 ( a ) 」⇒人知を超越した絶対的能力をもち、人間に禍福や賞罰を与える存在。
「b.神=絶対的摂理の象徴 ( b ) 」⇒人知を超越した絶対的能力を端的に表現した言葉。
としたわけです。
もっと言うなら、
(a)の神は意志を持ち、(b)の神は意思を持たない。
とでもなるでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~~~
  >《goo 辞書》は 全体の意味にわたって 《連続性》が前提されて
  いるようです。

そうでしょうね。
~~~~~~~~
☆ 常識・定説を超えようとしているとは――わたしの仮説はですが――思
っています。

カントの《物自体》やヘーゲルの《世界精神》もみな 人間との連続性があ
るように思われます。あるいはつまり プラトンの《イデア》は 見方によ
っては ここ(経験世界)とイデア界とは筒抜けであるようにも見えます。

《 goo 辞書》の(3)は天皇の現人神の場合を挙げています。これなんか
の事例を挙げて 連続説に有利な話をします。

葛城山のヒトコトヌシの神は 或る日 雄略ワカタケルに出会われ こう名
乗りました。ワカタケルは 《現(うつ)し臣(人)だったので驚いた》と
言ってます。

▲ (日本神話:ヒトコトヌシ・ウツシオミ) ~~~~
http://nihonsinwa.com/page/1296.html

  吾は惡事(まがごと)と雖ども一言、
  善事(よごと)と雖ども一言、
  言離つ神、葛城の一言主の大神ぞ。

天皇ここに惶れ畏みて白さく、

  恐し、我が大神。宇都志意美に有れば覺らず

と白して、
~~~~~~~~~~~
☆ つまり 神は《目に見えない》のがふつうだったと理解できます。

▼ (大野晋古語辞典:かみの原義) ~~~~~
1. カミは唯一の存在ではなく 多数存在している。
2. カミは何か具体的な姿・形を持っているものではない。
3. カミは漂動・彷徨し ときに来臨して カミガカリ(神憑り)する。
4. カミは それぞれの場所や物・事柄を領有し 支配する働きを持って
いた。〔産土神・山つ霊・海つ霊。またそれぞれの――石なら磐座(いはく
ら) 木なら神籬(ひもろき)といった――依り代がある〕
5. カミは――雷神・猛獣・妖怪・山などのように――超人的な威力を持
つ恐ろしい存在である。
6. カミはいろいろと人格化して現われる。〔明つ神・現人神〕
~~~~~~~~~
☆ シルシというのは 神本体ではなくその《依り代》だと理解できます。

そして
【Q:神に意志はあるか】https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9728394.html
は どうでしょうか?

お礼日時:2017/05/04 19:30

#77です。



>けっきょくせいぜい《天網恢恢疎にして漏らさず》
といったふうに――半ば傍観して――見ていると思います。
つまり ヨコの関係・つまりふつうの社会的な自己表現としてはです。

>はこぶるさんであっても 実際にはストレートにはその原因‐結果の関係
を――心に思ったとしても―― 公共の発言としては おこないにくいの
ではないでしょうか?

>ということは むしろ理論として 一般の場での発言は摂理観の応用をス
トレートに出すことは 控える・・・のではないでしょうか?

この一連のご発言の意図がよくわからない状況ですね。

やはり、
☆タテ・ヨコの関係
について、理解してからでないとコメントは難しそうです。
お手数かけます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

タテ・ヨコの関係は 補足欄の 上から四番目と五番目とにありました。

○ カミ(普遍神)とわれ 

【?(非知)】:非経験の場(絶対):カミ〔有る神(梵・仏・霊);無い神(無梵)〕
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【われ】:経験存在(相対):カミの分有(霊我・仏性・霊我;無我)


☆ カミの分有は 次のごとく 思考や感覚ではなく 非思考の庭なる信仰において
――自然本性にあってすでに――成ると想定。


○ われ 

【信じる】:非思考の庭:梵我一如(仏仏一如・霊霊一如;無梵無我一如)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【考える】:思考の緑野:ここに 思想とすでに成った宗教のオシヘが入る
【感じる】:感性の原野:ヒラメキ(まぼろし?)

          *

摂理というのは 次のごとく《神とわれとのタテの関係(つまり信仰)》から派生
した視点であり そこから導き出されたあとは 経験的な思考形式と成っている。

摂理の内容として たとえば善因善果・悪因悪果のごとく因果応報説にまで概念化
しているならそれは すでにヨコの関係にあって ふつうに思想の問題である。つ
まり 神をあつかっているが 神からは離れている。思考なのだから。

○ 摂理とは:

  神          神          神
  |          |          |     タテ
 (非思考)      (非思考)      (非思考): の   :(信仰)
  |          |          |     関係
  |          |          |
 われー(思考・感覚)ーなんぢー(思考・感覚)ーかれ : ヨコの関係:(オシヘ・摂理)

            *

☆☆(№76お礼欄) ~~~
 タテの関係:では 目いっぱい甘えます。
 ヨコの関係:では 禁欲します。
~~~
☆ たとえば摂理をめぐって 起源としては《あいつは わが意志とその表現を
踏みにじった。ゆえに わたしの落ち度をも合わせて きちんとした裁定がくだ
る。と思う》
といったふうに タテの主観内において 神に目いっぱい甘えます。

ヨコの関係では つつしみます。

お礼日時:2017/05/04 16:36

#76です。



>《象徴》をおしえてください。

下記辞書の語釈から引用するなら、
「神=絶対的摂理 ( a ) 」⇒人知を超越した絶対的能力をもち、人間に禍福や賞罰を与える存在。
「b.神=絶対的摂理の象徴 ( b ) 」⇒人知を超越した絶対的能力を端的に表現した言葉。
とでもいった意味になりますかね。
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/44664/meaning/m1 …
タテの関係 ヨコの関係
の意味がもうひとつよくわからないでいる状態のままでの応答になっているのですが、ここに絡めてご説明いただければ、少しはわかるようになるかもしれません。(無保証)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

《象徴》です。ご説明をありがとうございます。
★ ~~~~
「神=絶対的摂理 ( a ) 」⇒人知を超越した絶対的能力をもち、人間に禍福
や賞罰を与える存在。

「b.神=絶対的摂理の象徴 ( b ) 」⇒人知を超越した絶対的能力を端的に表
現した言葉。
~~~~~~
☆ 微妙ですね。つまり:

( b )の場合にしても 単なるシルシとしての用法だけでもないようです。

( a )と同じように《人知を超越した絶対的能力》という――人間が経験思
考をとおして認識しうる――概念をもすでにふくむ・・・ということでしょ
うか。

つまり 《人知を超越》《絶対》を差し示すためのシルシであるだけではな
く 《能力 〔ないし ( a )のみかどうか〕能力を持つ》という意味内容
をもってそのような経験事象を想起させる内容を すでに初めの定義(想定)
でもふくませている。

言いかえると 《摂理》の部分が・つまりこの定義では《人間に禍福や賞罰
を与える存在》という部分が 経験事象との対応を想起させるものとは思い
ます。( b )でも そうですね。




そうですね。ここからは 何か疑問を表わすなら もうイチャモンに近い批
判になるのかも分かりません。

そうですね。
★ 端的に表現した言葉。
☆ いちどわたしが感じた想像では ここの部分を先取りして シルシでは
ないかと思いました。

《神という言葉は 神本体をそのまま表わすのではなく そうではなく 指
先で指し示すがごとくシルシとしてのみ用いられている。

つまり 指としてのシルシ(その概念内容)を見るのではなく 指し示す方
向を見ようとすることを表わしている》。と。



ということは――シルシ用法だけではないということは―― まさに神が 
人間世界と連続しているという想定・前提がある・・・となりましょうか。


《goo 辞書》は 全体の意味にわたって 《連続性》が前提されているよ
うです。


取りあえず ここまででしょうね。


タテ・ヨコを次に見てみます。

お礼日時:2017/05/04 16:23

>次のくだりをおぎないます。



☆☆(№73お礼欄) ~~~~
br-1: その〔《非経験の場なるナゾ》たる絶対から 相対世界へと何らかの
ハタラキカケがあるという〕場合には・ただし このハタラキカケが具体的に
どういうふうにおこなわれるのか。これは 分からないとなります。
~~~~~~
☆ これは モノ(質料)の自己運動にまかせている。
時空間なる場――宇宙の全体――の《自主的な?》ウゴキにゆだねている。
言いかえると 摂理としての法則性がある場合とそれが分からない場合とがあ
る・・・というズルイ見方です。

ズルイとは思いませんよ。
☆法則性がある場合とそれが分からない場合とがある
と思うかどうか?
というだけのことなので「見解の相違」。
☆分からない場合とがある
というのは、むしろ謙虚な捉え方だと言って良いわけですが、その可能性を想定することの合理性を納得することが難しい、ということになりそうです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

この主題は むつかしんですよね。(少なくともわたしには)。

前回触れたのですが けっきょくせいぜい《天網恢恢疎にして漏らさず》
といったふうに――半ば傍観して――見ていると思います。つまり ヨ
コの関係・つまりふつうの社会的な自己表現としてはです。


はこぶるさんであっても 実際にはストレートにはその原因‐結果の関係
を――心に思ったとしても―― 公共の発言としては おこないにくいの
ではないでしょうか?

ということは むしろ理論として 一般の場での発言は摂理観の応用をス
トレートに出すことは 控える・・・のではないでしょうか?

あるいは これはいいといった賢い手法があったなら おしえてください。


★ ~~~~~~~~
 ☆分からない場合とがある
というのは、むしろ謙虚な捉え方だと言って良いわけですが、その可能性
を想定することの合理性を納得することが難しい、ということになりそう
です。
~~~~~~
☆ ここは 分かりにくいです。応用編においても 応用編としての理論
を形成しそれにもとづくといった手続きが必要だというようなことでしょ
うか?

お礼日時:2017/05/03 20:41

#73です。



>br(非連続の説): 法則・原因たることは ナゾの属性であるに過ぎ
ないと見ている。つまりその《非経験の場なるナゾ》たる絶対から 
相対世界へと何らかのハタラキカケがあるという想定は派生的に得て
いる。

そうなのでしょう。
☆派生的に得ている
とは思われない、というのがこちらの見解なわけですが、
br-1~br-5
の解説を読んでも、それを覆すだけの納得感は得られない。
(くどいですが)「見解の相違」とならざるを得ないようです。

>br-5: ということは たとえば ha説として:
★ ~~~
経験事象 A が
 ★自然宇宙の絶対的摂理
以外によって顕現しているとするのは極めて不合理なのであるから、
 ★「絶対的摂理 = 経験事象 A を顕現させている法則・原因」
のように定義したとしても何ら齟齬は生じない、という論理
~~~
☆ を推し出すとき br説は そこまでの表現は禁欲していること
になります。禁欲がむしろ自然だという見方です。なおまだ翻訳す
る前の段階にある主観ではないか? と問うわけです。

☆禁欲
という切り口もあるわけですか。
なるほど、なるほど。
bragelloneさんは禁欲家。
わたしは甘えん坊。
こういうことになりますかね。
まあ、あえて否定するだけの根拠、あるいは必要性も見出せないようです。

>★ 「思考の停止」を否定する必要はないという気もするのですけどね。
☆ これはですね。前回はまづい表現をしたかも知れません。そうではなく 
ずばり:
タテの関係:〔非連続ならば〕非思考;〔連続ならば〕思考の停止〔と見る〕
ヨコの関係:〔連続・非連続を問わず〕 思考および感性(=共通了解)
という図式になるのではないでしょうか?

非思考≠思考の停止
ということですか。
これも、なるほど。
「非」論者としては当然のご見解と言えそうで、その場合、
★「思考の停止」を否定する必要
があることは了解しました。

>早く言った場合には 《絶対的摂理》という表現は どう言いますか《赤裸
々》すぎるように感じます。

まず、
「神=絶対的摂理 ( a ) 」なのか、「b.神=絶対的摂理の象徴 ( b ) 」なのか、
という論点がある。
さらに、
「 a は経験事象と連続( a - 1 )」か「 a は経験事象と非連続 ( a - 2 ) 」か、
「 b は経験事象と連続( b - 1 )」か「 b は経験事象と非連続 ( b - 2 ) 」か、
という論点がそれぞれの場合ごとに派生する。
わたしは、( b - 1 )という見解ですが、
そちらは、( a - 2 ) という見解。
a か b かという論点を保留したまま、1か2かを論じているのが現状ですので、
☆《赤裸々》すぎる
というご感想になるのはわかるような気がします。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~
 ★「絶対的摂理 = 経験事象 A を顕現させている法則・原因」
  のように定義したとしても何ら齟齬は生じない、という論理

☆ を推し出すとき br説は そこまでの表現は禁欲していること
になります。禁欲がむしろ自然だという見方です。なおまだ翻訳す
る前の段階にある主観ではないか? と問うわけです。

☆禁欲
という切り口もあるわけですか。
なるほど、なるほど。
bragelloneさんは禁欲家。
わたしは甘えん坊。
こういうことになりますかね。
~~~~~~~~~
☆ 舌足らずでした。
 タテの関係:では 目いっぱい甘えます。
 ヨコの関係:では 禁欲します。
☆ こういうことです。



★ ~~~~~~~~~
まず、
「神=絶対的摂理 ( a ) 」なのか、「b.神=絶対的摂理の象徴 ( b ) 」なのか、
という論点がある。
~~~~~~~~~
☆ すみませーん。《象徴》をおしえてください。

( a )にかんしては:
 神は 絶対として説明される。そこには 相対世界への介入としてのハタラ
キカケが起きていると 派生的に捉えられる。

タテの関係では この《摂理》観を目いっぱい形成したりする。(アニメなど
で 奇想天外な話になったりする場合に似ているかも知れない)。形成しなく
てよいと捉える場合もあるかも知れない。

ヨコの関係は 《摂理》としては せいぜい《天網恢恢疎にして漏らさず》と
いった程度にとどめる。

( b )にかんしては もし《象徴》が《シルシ・記号》のことだとしたら《神・
絶対・摂理》はみな 非知なるナゾのシルシであるとなります。非知もナゾも
シルシも シルシであるのですけれど。

お礼日時:2017/05/03 20:31
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