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かなり前に、「江戸時代の島流しは基本的に終身刑なので、時代劇によくあるような『島帰りの凶状持ち・・・』というのは作り話である」というのを本で読みました。しかしながら、最近の時代劇の中でも『島帰り』がよく出てきます。本当のところはどうなのでしょう?詳しい方、教えてください。

A 回答 (5件)

 手許に『日本行刑史』(青蛙書房)があるんですが、江戸時代と言っても250年もありますから、初期と末期とでは刑もだいぶ違ってきたみたいですが刑期について言うと



 『遠島』に期限のないことは、『流刑』と同じです。しかし、恩赦があれば故郷に帰還して、昔ながらの生活を楽しむことができました。この希望を持って生活し得ることが、『流刑』が『死刑』よりも軽いとされる所以です。江戸時代には、日光御社参、芝上野の廟所における法要、将軍宣下等の場合に、『遠島』の者を赦免することが縷々行われていました。
 
 伊豆七島の流人達も、日夕お赦しの出ることを神かけて祈っていたそうです。

 蛇足ですが、江戸時代の流人第1号は、宇喜田秀家で戦国の武将にして和歌をも嗜んだこの文化人も、島の生活の窮迫には、大名の誇りも失い、一生の思い出に白飯を腹一杯食いたいと言ったそうです。
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確かに文献では、島流しは追放刑の分類となってはいます。



江戸所払い。これも同じ追放刑です。(永久)
これを読めば終身刑と読めますが、
私は島流しは終身刑とは読んでいません。
(確かに何年とかの正確な文献がありません)

当時、10両で死罪でしたから、犯罪内容はそれ以下の盗みなどだからです。

物価が上昇して10両の価値が極端に下がった時代、
10両以上盗まれた場合、奉行所では9両なんぼと記帳させた記録があります。死罪が多くなりすぎたのです。
※もちろん死罪にさせない為です。
(案外庶民に優しい部分もありました)

当時、死罪などの極刑を決める場合、老中や将軍に報告する義務がありました。
死罪があまりに多いので驚いた幕府が指示した可能性が大きいです。

追放刑は、基本的に終身刑(永久)です。
部類は追放刑ですが、意味が違うと思います。

これの読み違い(判断の仕方)ではないでしょうか??

皆さんの意見が最も正しいと思っています。
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江戸で流人船が出航するにはと芝の金杉と永代の2ヶ所で、金杉からの船は特赦で帰る望みもある船ですが、永代からの出航は帰ることができなかったようです。


(なお、前者の船には漢字で「流人船」、後者の船には平仮名で「るにんせん」と書かれた旗が立てられていたそうです)

参考『拷問刑罰史』名和弓雄・雄山閣
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将軍宣下などの慶事で恩赦、大赦があり、予想より早い帰還が許され、約4割の流刑者がこの恩恵を受けたそうです。



参考URL:http://hitosugi.hp.infoseek.co.jp/miyakejima.html
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 島流しについて特に詳しいわけではありませんので悪しからず。


 ぼくの知っている限り、島流し(遠島の刑)は確かに定期刑ではなく不定期刑ではあるものの、終身刑とも限らなかったようです。
 江戸時代の画家として有名な「英一蝶」は三宅島に流されます。しかし、12年で戻ることを許され、その後さらに優れた画業を成し遂げています。

参考URL:http://www.tokyo-np.co.jp/tokyo-art/20021102.html
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