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歴史にもしもはないと言いますが、歴史にもしもはないと考えてはいけないのでしょうか?歴史にもしもは確かにないです。しかし歴史にもしもを考えてはいけないとは誰も言っていないはず。そもそも先のこの言葉も誰が言ったか分からない故事成語のようなものです。

・もしも真珠湾攻撃をしたあと、日本が真珠湾に全軍を派遣し、占領していたら・・・
・ソ連の対日参戦があと1週間早かったら・・・

などと考えることは非常に有意義で、歴史の見識がよりいっそう深まります。

自分はあの時ああだったらなあと、と後悔する(してもしょうがないこと)のとはわけが違います。


どう思われますか?

質問者からの補足コメント

  • 雑駁ですが、否定的な意見が多く感じられました。(歴史にもしもはない=肯定派)それぞれに見解がみられ、非常に勉強になりました。ありがとうございました。

      補足日時:2018/04/04 02:48

A 回答 (10件)

考えるのは自由だけど


歴史学?にとって起こったことが全てだから。

まぁ、面白学問みたいな感じで話したり本とか出したら売れそうだけど
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2018/04/04 02:46

無論、考えるのは自由だし、自発的なものなので、避けようもないですが。


ただ、考えたところで、正解の無い領域であることも確かかと。

言い換えれば、「議論の対象にはなり得ない」と言うところです。
従い、「考えるのは良いけど、語るべきではない」と言うところじゃないですかね?

個人的にも、基本「歴史はありのまま受け入れるべきもの」と言う認識で。
個人が「IFを考えること」に対しては、冒頭の通りの考え方ですが、それを議論の対象にすることなどは、全く無意味と考えます。

また、IFを持ち込むことで、歴史SF的な「面白さ」は増すとは思いますが、少なくとも歴史学的な見識が深まることもないと思いますよ。
むしろ歴史学は、「過去の事実」を探求する学問であって、社会科学ながら、かなり自然科学に近い学術分野です。
事実を手掛かりにして「仮説」を立てることは多いですが、事実に反す「仮定」から、歴史を検証(反証)する様なことは、まず行いません。

しつこいけど、IFで歴史を楽しむのは、全く反対ではないですし。
兵学や軍学的には、IFの価値はあるでしょう。
しかし歴史と言う学術的には、「非常に有意義」「見識がよりいっそう深まる」と言う要素は、無いと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。私個人の見解とは逆ですが、理論的な意見と感じました。

お礼日時:2018/04/04 02:45

考えるのは自由ですが、



Ifを考えても、学問にはならないと思いますが
如何でしょう。

そう感じませんか?
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この回答へのお礼

IFを考えても仕方がない。ありがとうございます。

お礼日時:2018/04/04 02:43

>あの時ああだったらなあと、と後悔する(してもしょうがないこと)



歴史にifがない、というのはこういうことです。
例えば、
あの戦争に勝っていたら良かったのに→勝っていたかもしれないから都合のよい史料を探そう、
というのがダメだと言うことです。

普通に客観的な意識を持とうとして歴史を考えるときに、ifは使っても問題ありません。
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この回答へのお礼

ifを何に使うかって事が大事ですよね。

お礼日時:2018/04/01 05:02

政治的に色々な思惑を抱えてる人はそう言うでしょうね。


>歴史にもしもはない
と。
例えば、日本が行った戦争や植民地化を切り口に日本を貶めたい手合いなら、『開戦や植民地化をしていなかったら?』というIFを考える人が出てきたら都合が悪いわけです。
いけないこと、として、自分らが制定した『正史』を押し付けてくるでしょう。
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この回答へのお礼

時の為政者の思惑、でもあるのでしょうか?

お礼日時:2018/04/01 04:59

もしかしたら、時間のその瞬間瞬間でいくつもの時間軸が生成されて、複数の宇宙が無限に広がっているのかも知れません。

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この回答へのお礼

でしょうかね。

お礼日時:2018/04/01 05:00

歴史学というのは「実際に起こったこと」に対して考察を加えるのが主目的の学問です。



よく勘違いされるのは
「歴史は解明されている」
ということです。
だから小説のように叙述されるのが当然と考えられているところです。

ところが全然違います。
あるのは資料だけです。
資料はふつう、一資料につき一つのことしか語ってくれません。
大本営命令大●号は、「●●をせよ」としか書かれていません。
資料と資料の間には広大な無の空間が広がっています。
その空間を、他の資料や実際に起こったことと関連付けて可能な限り埋めていくのが歴史学です。

当然すべては埋めきれません。
仮定や推理が入り混じります。
それらは論文という形で発表された後、査読や追試というふるいにかけられます。
そうして明らかになるのは「開戦の経緯」などという広すぎるテーマでなく
「日米の鉄鋼生産量の差から見た両国の指導者層の開戦時期の意思形成について」
というようなきわめて限定的なものです。

そういう限定的な仮定と資料の解釈の群れの上に、歴史と思われるものが成り立っています。
しかも、我々がふだん触れる歴史は、ふつう学者や小説家がさらに隙間を想像で埋めて物語にしたものです。

こういうものに「もしも」という考察を加えることに、意味はあるでしょうか?
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この回答へのお礼

秀逸なご意見ありがとうございます。

お礼日時:2018/04/01 05:00

科学の世界で検証不可能なことに妄想を膨らませるのと同じようなものですから、別に考えるのは自由だと思いますが?


検証不可能でも信念みたいなのは飲み会でもなんでも語るのはよくある話です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2018/04/04 02:42

『歴史』という学問分野において『もしもこうだったら』を考えるのは意味がないということです。

あくまでも資料に基づき何が行われたかを考察することが『歴史』。資料に反する仮定をするのは『歴史』で行うべきことではない。

資料に矛盾しない範囲で『こうすればつじつまがあう』という仮定をするのはまだ『歴史』の範囲。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2018/04/01 05:01

色々とシミュレーションをする事は、


将来の為に有益です。
考えて、文章化して下さい。
それは、頭の訓練にも成るし、一挙両得ですよ。
(^_^)/~
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2018/04/01 05:01

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