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80歳以上の親や祖父母がいる方に質問です。あなたはその方に戦争のことについて話をきいたことはありますか?

A 回答 (10件)

ないですね。


両親の実家はどちらも田舎で
空襲などなかったですし
食べるものにも困らなかったようです。
都市部だとまた違ったと思います。
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今生き残っているのは、妻の母で86歳になりますが、聞いたことはありませんし、聞こうと思ったこともありません。

終戦時10歳程度の連中に聞くこと自体無意味で、何も学べることはありませんから。

私が小学生ぐらいの時に聞いた叔父の話は、今でも鮮明に、そして嫌な記憶のひとつとして覚えています。
叔父は中国戦線に行っていて軍曹だったみたいで、その日は機嫌が良かったのか私も含め子どもたちに、戦時中のたわいもない話をしていましたが、私が突然「人を殺したことある?」と聞いたら、叔父はなんとも表現しようのない表情で「そりゃあ、戦争じゃけん。」と言って黙ってしまい、凍り付いた空気の中で話は終わってしまいました。

私がこの時学んだのは、戦争の中で相手の息遣いがわかるような殺し合いを経験してきた人は戦争の記憶を語り継ぐことは決してないということでした。飛行機乗りや軍艦乗り経験をしてきた人には絶対にわからない経験だと思います。
あれから50年以上たち、今日本の至るところに溢れているのは、人を殺さざるを得ないような場面に一度も遭遇することのなかった人たちの犠牲者や被害者としての記憶だけです。

かと思えば、戦争で領土を奪還しようというアホバカな若造を当選させる人々も増えてきたように思います。

ホント、人は歴史に学べないようにできていることを実感します。
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直接ではありませんが、亡くなった母方の祖父が戦争に行ったときの話を聞いたことがあります。


祖父は中国戦線に送られましたが、顔面に大やけどを負って帰国し、死んだ人の皮膚を顔に貼り付ける手術をしてもらって何とか一命を取り留めたものの、戦争に行く前とは全く違う顔になってしまったそうです。
中国戦線では、中国人が日本人を騙って同じ中国人を殺し、日本兵が悪事を働いたと触れて回る恐ろしい光景を目にしたそうなのですが、私の祖父も戦争の話に関しては口が重く、そうした話の取材要請は結局断っていました。
あと、当時の日本国民は、天皇陛下に対し絶対服従することを強制され、しかも戦争に関する正確な情報を何一つ知らされなかったらしく、祖父は天皇に対し、国民に謝罪すべきだと主張していました。
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二人話を聞いたことがあります。



ひとりは結婚した時の妻の御先祖。
中国戦線にいて、終戦後はソ連軍にシベリアに送られたとのこと。具体的な話は大変重い顔つきで無言。

私の御先祖は、最後は宮古島の飛行場守備隊で重機関銃部隊に所属していたようです。
小さいころに、ご先祖の写真アルバムをみたら、戦闘機のそばで飛行帽を被ってにこやかに笑っている写真があったので「操縦士だったの?」と聞いたら、きまりがが悪そうに笑ってごまかしていました。
厳しい軍隊生活とはいえ、宮古島時代は爆撃を受けただけでしたから、それなりに和気あいあいとエンジョイできた部分もあったようです。親族の集まりで酒が入ると、沖縄民謡をよく歌っていました。

爆撃を受けた時には機関銃で応戦したのか?と聞いたことがありますが、「バカ言え!近くの防空壕かタコツボに飛び込んで身をすくめているだけだ。機関銃撃ったって弾が届かんよ」と笑われました。
戦場なのに何だか楽しそうに語っていましたが、宮古島には飛行場があったので米軍は必ず上陸してくる、という思いがあり、心の底では皆が玉砕を覚悟しているからこその、ある種の和やかな日常だったのでしょう。
いよいよ明日にも米軍上陸、という日には、皆で水杯を交わしたそうです。結局、米軍は宮古島には上陸しませんでしたし、だからこそ私がこの世に誕生したわけですが…。

戦争の話は宮古島ばかりだったのは、地上戦がなかったからでしょうか。
宮古島の前は、長く中国戦線にいたようですが、こちらの方は、妻の御先祖と同じくほぼ無言でした。
ただ一言。「俺は人を殺さずに済んで幸せだった」。

歩兵は空軍や海軍と違って敵兵が目に見える距離で戦います。
いくら戦争・敵兵とは言え、目前で人を殺すのはやはり相当な心の負担になる、ということですね。

あと中国戦線では、陣地に接近する敵兵を警戒するための、歩哨に立つときのコツを話してくれたでしょうか。
生真面目な人は、一定の間隔・速度で同じ場所で立ち止まって反転するため、よく敵の狙撃でやられていたようです。
「俺は、反転する場所は変えたし、ときどき走ったり、伏せて前方を窺ったりして狙撃されないよう注意していた」

皆さまが歩哨に立つことはないと信じたいですが、万一の時は参考にしていただけると幸いです。
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ありますよ。



ただ、まだ若かったので、戦地に派遣
されるまえに終戦になった、と言っていましたが。

内地でも色々あったそうです。

東京大空襲では、死体だらけ。
朝、出かけるとき、死体を踏まないよう
注意していたのですが、あまりに数が多く
そのうち踏みつけて歩いたそうです。
帰りは皆、白い粉になっていた。

トラックで死体を拾っていく仕事を
させられた。
死体のなかで弁当を食った。

米国戦闘機が、爆撃したり機関銃を
撃ったりしたが、極端に接近してきて、パイロットの
顔が見えた。
にやり、と笑っていた。

これに対し、祖母は一体の死体も見たことが
なかったそうです。
飛行機が飛んでくると慌てて防空壕に避難。
そこで信者でもないのに、懸命に神様にお願いしていた。
どうか爆弾が落ちて来ないように。
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あります。


ただ、実際に戦地に赴いて戦った祖父たちはその詳細を話したがりませんでした。とても口が重かったです。
疎開した経験や、勤労学生として働いた経験などについては祖母たちは話してくれましたし、戦時中の食生活などについても話は聞いたことがあります。

個人的には、実際に戦争で人を殺した経験や仲間の死を目の前で見た経験をした祖父たちにとっては深い心の傷になっているのだろうと感じ、こちらから積極的に掘り下げて聞くことはできなかったです。
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あります。

学校の課題で小学生の時に聞きました。
陸軍、海軍
徴兵検索
弾丸を掠めた事
食べ物
生活など。
爆撃の音が印象的だったかと。聞きました。
無くなってから、綺麗に畳まれて桐箱にいれられた
出兵服がでてきました。色んな思いがこもっている
そんな気がしました。
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あるよ。

でも今生きている人は、出征したり勤労奉仕をしたりした世代よりは下。疎開という観点では疎開者を受け入れた側。なので、お兄ちゃんは出征したけど元気だろうか、という話、戦後農作物を買いにきた買出し者は多かったけど、悲惨な感じだった、とかは聞きました。
買出しに行く、つまり金なり着物なりの価値ある物を持っていた人達でも「悲惨な感じ」と言われてしまうんだなぁ、と不思議な感覚を持ってます。
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話したがりませんでしたね、だからこちらから聞くことはしませんでした。

ただ叔父さんは15で予科練(海軍飛行予科練習生)志願したけど採用試験の時からもたもたしてるとぶっ飛ばされたと言ってましたね。それでも志願したんだね、おらには出来ねえなあ。
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あります


母親は空襲警報が流れると田んぼなどに逃げました
田舎なので被害は少ないですが防空壕に避難する人もいました
被爆で足の無い人もいたそうです
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