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千利休のWikipediaの説明を読んだのですが、どこから千が出てくるのですか?

田中で田中宗易にならず天皇から利休と名前をもらったときも田中利休じゃない。

利休宗易だった人がどこで千が付いて千利休になったのですか?千がどこから突然出てくるの?


幼名は田中与四郎(與四郎)、のち法名を宗易(そうえき)、抛筌斎(ほうせんさい)と号した。

広く知られた利休の名は、天正13年(1585年)の禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないために正親町天皇から与えられた居士号である。考案者は、大林宗套、笑嶺宗訢、古渓宗陳など諸説がある。いずれも大徳寺の住持となった名僧で、宗套と宗訢は堺の南宗寺の住持でもあった。宗陳の兄弟弟子であった春屋宗園によれば、大林宗套が考案者だったという(『一黙稿』)。しかし宗套は禁中茶会の17年前に示寂しており、彼が関わったとすれば利休が宗套から与えられたのは「利休宗易」の名であり、若年時は諱(いみな)の「宗易」を使用し、少なくとも与四郎と称していた天文4年(1535年)4月28日から天文13年(1544年)2月27日以前に宗易と号したと考えられる[1]。のちに宮中参内に際して字(あざな)の「利休」を居士号としたと考えられる。こう考えれば宮中参内の2年前、天正11年(1583年)に描かれた肖像画(正木美術館蔵)の古渓宗陳による讃に「利休宗易禅人」とあることも理解できる。

A 回答 (2件)

「千」の姓は田中与四郎(幼名)の祖父である田中千阿弥に由来すると伝えられている。

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千利休の祖父である田中千阿弥(新田里見系田中氏の一族)の名を取り、千姓としたとされている。

しかし、これは「千利休由緒書」の著者である江岑宗左(利休の曾孫)が初出とされるものであり、利休在命の時代にはその史料が見当たらないため、確証性はない。

昔は千利休とは呼ばれてなかった言うことです(^_^;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%AE%B6
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この回答へのお礼

みんなありがとう

お礼日時:2019/12/15 21:24

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