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何故晩年の秀吉は迷走してしまい自らの手で豊臣を
滅亡させてしまったのでしょうか?
唐入りや利休事件や秀次事件など色々ありますが。
まあ自分は秀次事件が豊臣政権に暗い影を落として
豊臣滅亡の最大の原因となったと思いますね。
所詮百姓の出ですからね。教養はなかったようです。
秀吉には自らの残虐行為によって豊臣が滅亡した事を
あの世で後悔していて欲しいですね。
唐入りも少なからず豊臣政権に打撃を与えたでしょうけど。
かつての秀吉は切れ者でしたが晩年の秀吉に関しては
完全に頭がイカれていますね。

A 回答 (7件)

あまり深い知識はないのですが、秀吉のゴールは天下を取ることであって、その後のビジョンがなかったのではないでしょうか?


家康には、天下を治めた後のビジョンがあったのではないのでしょうか?
信長は分かりませんが。
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弟の秀長の死も大きく影響したと思われます


内輪もめで血族を切ると家が傾くという例はいくらでもありますが、
例えばあの武田家は川中島の戦いで信玄の弟信繁が戦死したのち、信玄と嫡男義信の意見が対立したとき仲立ちできるものがいなくなったために
信玄は嫡男を謀反人として殺さざるをえなくなりました。これが原因で武田家の跡継ぎがうまくいかず勝頼の代で武田家は滅びたわけですが
豊臣家もこれと類似していると思われます。
秀長が生きていた時代には、秀吉の至らないところを弟が補っていたようです
秀次の件に関しても、秀長がいればうまくおさめられたかもしれません。
秀吉の天下は、縁の下の力持ち秀長の貢献が大きかった!
これに尽きると思っています
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秀吉の死因は癌だったと聞いたことがあります。

推測でしかありませんが、自分の余命があまり無いことに気づいていたかもしれませんし、脳腫瘍も患っていたかもしれません。推測でしかありませんが。
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何故晩年の秀吉は迷走してしまい自らの手で豊臣を


滅亡させてしまったのでしょうか?
 ↑
信長に頭を押さえられている間は良い子
だったのですが、信長がいなくなり
頂点に立って、本性が出て来たのかも。



唐入りや利休事件や秀次事件など色々ありますが。
  ↑
唐入りは、第三の元寇を阻止するためと、
諸大名の力をそぐのが目的でした。

秀次は、我が子可愛さのあまり、目が見えなくなった
のだと思います。

利休は良く判りません。
政敵と判断されたのかも。



まあ自分は秀次事件が豊臣政権に暗い影を落として
豊臣滅亡の最大の原因となったと思いますね。
所詮百姓の出ですからね。教養はなかったようです。
秀吉には自らの残虐行為によって豊臣が滅亡した事を
あの世で後悔していて欲しいですね。
 ↑
秀吉には徳川のような子飼いの家臣がほとんど
いませんでしたからね。
それが最大の原因だと思います。



唐入りも少なからず豊臣政権に打撃を与えたでしょうけど。
かつての秀吉は切れ者でしたが晩年の秀吉に関しては
完全に頭がイカれていますね。
 ↑
頂点を極めましたからね。
死が死ぬほど怖くなって、正常な判断が
出来なくなった、ということは考えられます。
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この回答へのお礼

自分は秀次一族が本当に可哀想でなりません。
もう余裕なさ過ぎですよ。結局秀次一族は
無駄死にです。

お礼日時:2020/04/12 18:00

唐入りについては、清国の要求を入れて海賊取締令で倭寇退治に協力してやったのに、秀吉が要求した朱印船貿易に応じることなく朝貢貿易しか認めなかったことに、秀吉は裏切られたと怒り心頭に発していたようですから、わからないこともありません。

もう数年長生きすれば中国全土は無理だったかもしれませんが、半島全部か少なくとも半分は制圧完了していたでしょうし・・・。

他の利休や秀次事件については、似たようなことは漢の高祖など、特に一代で伸し上がった独裁者にはありがちな話です。
人当たりの良く有能な人物を大事にしていた人物が、独裁者になって唯我独占的になると、有能な側近を危険視したり、自分の子供を脅かしそうな人物を粛正する話は、歴史にあふれています。
頭がいかれていたのではなく、自分と自分の息子を護ろうと冷徹に計算して実行した結果であると考えます。
しかし、最大の危険要素だった家康を退治することはできませんでした。近畿を襲った大地震で家康を叩き潰すために用意した大軍備とチャンスを失い、和議を結ばざるを得なかったからです。それでも家康を僻地の関東に追いやって東海道と関東周辺に信頼する部下を配置し、念のために秀頼と千姫を婚約させるなど、打てる手は打っています。

とはいえ、死の床に就いた秀吉は「秀頼をよろしく頼む」と皆に泣きながら黄泉の国に旅立ったと云われます。
自分なりに手を尽くしたつもりでも、不安におののきながら往生したわけです。
後悔したとすれば、もっともっと冷酷になりきれなかった自分に対してだったかもしれません。
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豊臣秀長、蜂須賀小六正勝の両名が亡くなってから秀吉がおかしくなりましたね。


両名は常に秀吉を脇で支え続けています。
特に諜報・調略から、戦後処理は小六が担い、
豊臣家内の軋轢を緩和し、各大名の不平不満を取り持つ等の内政は秀長が担いました。
そして、この両名のみが秀吉に意見が出来ました。
両名亡き後、秀吉を諫められる人物がいなかったのが要因じゃないでしょうか?
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家康の存在が余りにも大きかった。


実質には武家の棟梁としての資質は家康が上であって、その家康が家臣であることが豊臣家の柱であったと思われる。
そうみると、秀吉の跡継ぎは信長の血をひく秀頼しかいない。あとは家康に秀頼を頼むと泣いて懇願するしか無かったのでないかと思う。
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