好きな和訳タイトルを教えてください

「述語」とは何かを辞書では次のように記している。

じゅつ‐ご【述語】
①文の成分の一つ。主語に付いてその動作・状態・性質などを叙述する語。「鳥が飛ぶ」「空が青い」「人間は動物だ」の「飛ぶ」「青い」「動物(だ)」のように、動詞・形容詞または名詞(名詞に指定の助動詞の付いたもの)が用いられる。
【広辞苑】

また、

述語(じゅつご、predicate)とは、伝統文法では、ある節の要素のうち、主語でない部分のこと。主語以外の名詞句は述語に含まれる。
現代言語学では、節の中心となる動詞とそれを修飾する部分のこと。名詞句は述語に含まれない。
述語が一つである文のことを単文(たんぶん)といい、述語が二つ以上存在する文を複文(ふくぶん)または重文(じゅうぶん)という。複文においてそれぞれの述語を中心としたまとまりが節である。
【ウィキペディア】

という定義がある。

このように、どちらも主語に対立するものとして述語を定義している。しかし、「主語」とは何かが明確ではなく、結局巡環論法に陥るしかないところに現在の形式主義/機能主義的な文法論の限界がある。そして、文とは主語と動詞からなるという西欧屈折語文法の誤りを受け継いでいるために、「または名詞(名詞に指定の助動詞の付いたもの)を述【語】とする」と言い訳が記されている。さらに、「ウィキペディア」では、「現代言語学では~名詞句は述語に含まれない。」とことわりを入れる結果になっている。

この混乱の元は文とは何か、主述とは何かが明確ではないための混乱、混迷である。

この主語という語を避けて述語を定義した例が、「現代日本語文法概説」なるHPにある。
http://niwanoda.web.fc2.com/bunpou/00hajimeni.html

ここでは、述語以外は補語という奇妙な定義がなされ定義自体が混乱、混迷している。それを見てみよう。

[述語・補語]
おそらく、世界のどの言語にも、動詞のようなものと、名詞のようなものがあると思われます。そして、その動詞と名詞とを組み合わせて文を作り、外界の事象や自分の意思・感情などを表現していると考えられます。その、文の中心になる動詞を、文の成分としては「述語」と言い、動詞と一緒になって事がらを表現する名詞を「補語」と言います。
 この「述語」になれる品詞は、言語によって違います。日本語の場合は、形容詞や「名詞+だ/です」も述語になることができますが、英語では名詞や形容詞も「be動詞」という動詞が必要ですから、述語は全部動詞だと言えます。//

まず、「動詞と名詞とを組み合わせて文を作り」というのが誤りである。

これが宝石です。

には、動詞はどこにもない。しかし、これが文ではないと云う人はいないであろう。したがって、「動詞と一緒になって事がらを表現する名詞」である補語は存在しないことになり、また、<文の中心になる動詞を、文の成分としては「述語」と言>うのであれば述語は存在しないことになるしかない。

このため、早速、

日本語の場合は、形容詞や「名詞+だ/です」も述語になることができますが、英語では名詞や形容詞も「be動詞」という動詞が必要ですから、述語は全部動詞だと言えます。//

という意味不明の言い訳が続く。全く、論理性がない議論を展開している 

There is a pen.

の「is」は存在を表わす動詞であるが、

This a pen.

の「is」は肯定判断の助動詞で、動詞ではない。こうした初歩的な理解の誤り、誤まった西欧屈折語文法の無批判な受売りからくる混迷である。そして、ここに展開されている品詞論は機能を述べたに過ぎない誤りであり、そのため名詞節の奇妙な説明や動詞活用の誤まった説明が展開されている。

これは、機能主語的な欠陥文法辞典である日本語文法学会 (編集)『日本語文法事典』の文法という項目がないのと同じ本質を捉えられない機能主義的な発想の行き着く典型的な事例である。

では、述語とはどのように理解するべきか?

これは、時枝誠記が『国語学原論』で次のように展開している。

国語に於いては、判断されるところの客体は凡て述語格である。例えば、

  走る。  短い。  人だ。

の如き文に於いては、「走る。」「短い。」は共に陳述が零記号であり、「人だ。」に於いては、陳述は「だ」によって示されてる。そしてこれら陳述の客体をなす処の、詞としての「走る」「短い」「人」は凡て述語格である。

注 「走る」「短い」の如き用言の場合のものを述語といい、「人だ」の如き体言に助動詞の結合しているものについては、「人」を賓語とし、「人だ」を全体として述語ということがある。この様に、一般に用いられる述語の概念には、陳述をも含める結果、「人だ」が述語と称せられ、用言はそれ自身陳述を表わすという見地から、これを述語と称するのであるが、格は凡て客体の秩序であるから、格づけられた語のみについてそれが何の格であるかをいわなければならない。従って、「山へ」について格をいうならば、「山」が目的格であると云う風にいわなければならない。「へ」は主体が「山」に付した秩序の表現だからである。//

ということである。この格の誤解は上の概説の格助詞の説明でも展開されている。格助詞「に」が「到着点」を表わすなどと言い張る回答者もいるが、この点が全く理解されていないためである。

こうした、お粗末な述語理解による日本語文法概説や格助詞理解では、先に提示したような混乱を招くしかないのは論理の赴く処という他ない。

諸賢はこの事実をどのように判断されるのであろうか。■

質問者からの補足コメント

  • もう少し、矛盾、文について補足しておきます。

    言語は感性的な形であると同時に超感性的な概念を表わすもので、直接感性的な表現である絵とは異なります。感性的な形も普遍性、つまり特殊なパターンとして規範により定められ、この普遍的な形(式)であると同時に概念の表現でもある調和する矛盾として存在しています。形式と内容は相対的に独立しており、文字は明朝でもゴシックでも規範を逸脱しないかぎり正しく認識されます。ここに書道が成立する根拠があります。音声も又同様で、歌唱が生まれます。

    文は言語規範に媒介された個別の話者の認識の表現で、語とは次元が異なり、規範による媒介の構造を正しく捉えなければなりません。

    プログラムもまた、このような規範を媒介とした表現で、プログラム言語と呼ばれます。このような規範による媒介の構造と記号の相違もまた正しく理解することが必要です。

    その一旦を指摘しているものです。■

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/08/07 21:06

A 回答 (13件中11~13件)

> 諸賢はこの事実をどのように判断されるのであろうか。



この文を、どう分解解説するのか、知りたいものです。

交通標識の各種マークや禁煙の表示、ストライク、アウト、市長挨拶代読の発声、

> こうした、お粗末な述語理解による日本語文法概説や格助詞理解では、先に提示したような混乱を招くしかないのは論理の赴く処という他ない。

この読点(、)は、文章の解釈や文法的理解の助けになるのでしょうか、単なる休符記号ですか。

文を、文字列としてだけみるなら、空間的配置も重要でしょう。 シリアルに並ぶとは限らないです。
「述語とは何か ― 形式主義文法論の混迷」の回答画像3
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この回答へのお礼

早速の応答をありがとうございます。

>>この文を、どう分解解説するのか、知りたいものです。

交通標識の各種マークや禁煙の表示、ストライク、アウト、市長挨拶代読の発声、

これは、文ではなく、句、語を並置しただけの云い差しですね。文とすれば、読点ではなく、句点による各判断文の並びになります。各読点の所に、判断の零記号を見なければなりません。

云い差しの場合は、

交通標識の各種マークや禁煙の表示、ストライク、アウト、市長挨拶代読の発声などが乱れ並んだ。

のようになります。

句読点は語ではなく記号ですが、語句の切れ目や文の終りを明確にします。古文に句読点はありません。

文は文字列を線状的に並べますが、それを支える実体である話者の認識は立体的、重層的です。

なお、示された自立語、付属語という品詞区分は全く形式的な誤った分類です。

この点は、「補助用言という誤り」
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9455 …

他を参照下さい。■

お礼日時:2020/08/06 23:04

>もう少し、具体的な見解を御伺いできれば幸いです


他の質問者への回答を、とらえて念仏呼ばわすする人が言える言葉ではありません。
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この回答へのお礼

早速の応答をありがとうございます。

念仏にもそれなりの反面教師としての価値ぐらいはあります。

真理は相対的で、相対的誤謬ということになります。■

お礼日時:2020/08/06 21:28

独善よりはるかに理解できます。

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この回答へのお礼

ありがとうございます。

もう少し、具体的な見解を御伺いできれば幸いです。■

お礼日時:2020/08/06 18:00

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