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日本語の動詞は次に続く語により形を変える活用を持つ。これは、形の変化とともに意味も変化する英語、独逸語など西欧言語の動詞の屈折とは異なる変化です。

日本語は膠着語で、単純で裸体的な概念を表わす語を粘着し文を構成します。動詞は単純に動作、行為を表わすだけで、過去を表わす場合には過去の助動詞「た」を粘着します。しかし、屈折語である英語、独逸語などは動詞自体が過去形に変化します。これが、膠着語である日本語と屈折語である英語などの単語との根本的な相違です。

この相違を弁えることなく、単に形式的な見掛けに囚われ議論をすると誤った結論へと導かれます。

この誤りの一例として、ハイコ・ナロク「日本語動詞の活用体系」
https://core.ac.uk/download/pdf/234727069.pdf#se …

を見てみましょう。

「O.はじめに」で次のように述べています。

統語論的には,動詞は文の主な要素を支配,統合する役割を担うが,形態論的にも,態,アスペクト,テンス,モダリティ等,多くの文法範躊の標識が動詞に集中する。動詞の形態が他の品詞より複雑となるのはこのためであり,形態記述において動詞は他の品詞以上に重要である。本論文は,動詞の形態的構造,特に動詞の活用・派生体系はいかなる語形を含み,その語形はどのような要素から構成されるかを明らかにしょうとするものである。
//

これは最初にも述べたように、屈折語の文法理解によるもので、膠着語である日本語の動詞は単純に動作/行為を表わすだけで態,テンス,モダリティ等は他の助動詞、助詞、動詞を付加することに表現されるもので、動詞自体が表すものではありません。

このような誤った前提から出発しては日本語の動詞の活用を正しく理解できるはずがありません。

このため、次のような誤った理解が示されます。

例えば,動詞「よむ」の四つの形「ヨメバ,ヨンダラ,ヨムト,ヨムナラ」について記述する場合,四者が機能的に類似していることを示すだけでなく,音韻表記にもとづいてそれぞれ異なる構造を持つことも示さなければならない。//

ここでは、動詞「よむ」の四つの形として「ヨメバ,ヨンダラ,ヨムト,ヨムナラ」を挙げているが、「ヨメバ,ヨンダラ,ヨムト,ヨムナラ」は動詞「よむ」+助詞「バ」、過去の助動詞「タ」の仮定形「タラ」、助詞「ト」、判断辞「ナリ」の仮定形「ナラ」で、<動詞+助詞>などの二語であり、動詞「よむ」の四つの形ではない。

従って、以下の議論は全くの誤りとなるしかない。ハイコ・ナロクは、この結論をもとに、さらに、
「日本語 の文法化の形態論的側面」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihongonoke …

を論じているが、当然ながら全くの的外れとなるしかありません。

詳細は、「日本語動詞の活用論の混迷」
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9461 …

を参照下さい。

<庭 三郎『現代日本語文法概説』>も、
http://niwanoda.web.fc2.com/bunpou/21katuyou.html

>>述語が「話-す・した・せ・そう・さ・し」のように、表す意味と接続のし方によって形を変えることを「活用」と言います。

と活用により意味が変わるという誤った説明をしています。しかし、

<活用>は他の語に連結するときの形式状の変化で、それ自体が独自の内容を持たず、形容詞の<活用>である「く」「い」「けれ」もまた形式上の変化に過ぎないことは、明治以来の通説です。

こうした非科学的な西欧屈折語文法論に追随した論文がまともに通用する現在の日本の言語学、日本語学、日本語文法論は根底的に改革されねばならないのではないでしょうか。■

質問者からの補足コメント

  • 三浦の文章を以下に示しておきます。

    大統領で【あれ】国務大臣で【あれ】、法の裁きを免れることはできない。
    の「あれ」は命令形でも、命令の表現ではなくて、許容包括を意味する主体的表現である。<助動詞>の「あり」「ある」は直接敬語化されないで、<助動詞>を重加して「あります」にするが、「ます」の系列の「ませ」「まし」は敬譲の<接尾語>の命令形に連結して「行きなされ【ませ】」「下さ【いまし】」と希求を表現している。この<助動詞>の命令形は<動詞>の命令形とちがって、表現主体の命令や希求や許容などを直接に示しているが、命令に使われる場合にさきに問題にした特殊な零記号がこの<助動詞>に全体的に顕在化しているのか、それとも一面的な顕在化でまだ零記号が残っているのか、問題になる。↓

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/09/18 10:14
  • 私としては、かくあるべき未来の世界での立場や判断の部分が顕在化しているので、現在の世界での立場や判断の部分はまだ零記号として残っていると見たい。「駆け【ろ】」「着【よ】」と<助詞>を加える場合は、<助詞>から特殊な零記号を介して現在の世界の立場での<助詞>が連結されているが、「ませ【な】」「まし【な】」など<助動詞>の命令形に<助詞>が連結される場合も、<助詞>はやはり現実の世界の立場であるから、「ませ」「まし」とは世界が異なっていることになろう。
    (三浦つとむ「形式主義文法論の吟味」;『文学・哲学・言語』国文社)■

      補足日時:2020/09/18 10:15
  • へこむわー

    なお、『概説』の文法論、体系がどの程度のものかは下記で論じていますので、比較検討下さい。

    庭 三郎『現代日本語文法概説』に見る非論理性―機能主義文法論の迷妄
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11879241.html

    格助詞「に」の意義とは何か-機能主義言語論の混迷 Ⅱ
    https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9493 …

    そして、同様の”ar”という馬鹿話の批判を

    日本語動詞の活用論の混迷 Ⅱ:【形容詞文には(繋辞としての)動詞「ある」が含まれる】という誤り
    https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9498 …

    で論じています。■

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/09/20 23:33

A 回答 (5件)

面倒なので、ポイントだけ。



    >>なぜ「いる」は一語なのか。その根拠は?
    「人がいる。」に対し、「人がい。」などという文がありますか。
    あれば、具体的に示して下さい。

同じ「論理の型」を使って、次のように言うことができる。

    「人がいた。」に対し、「人がい。」などという文がありますか。
    あれば、具体的に示して下さい。

ゆえに、「いた」は一語。

saburoo

念のため。

「い・た」(過去)が二語ならば、「い・る」(現在)も二語。
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この回答へのお礼

No.5 の単細胞的回答の誤りについて。

>>「人がいた。」に対し、「人がい。」などという文がありますか。
    あれば、具体的に示して下さい。
ゆえに、「いた」は一語。

<「人がい。」などという文>はありませんが、<ゆえに、「いた」は一語。>とはなりません。

<「人がい。」などという文>がなくても、「い」は動詞「いる」の未然形、連用形として一語です。

そして、この連用形「い」+過去の助動詞「た」が「いた」で二語になります。この程度の理解もなしに良く日本語を論じますね。こうした単細胞的な発想で、<ナ形容詞>などという誤謬が生まれます。

恐れ入谷の鬼子母神です。
顔を洗って出直しましょう。■

お礼日時:2020/10/02 10:19

No.3の「お礼」に。



     >>「過去」があるなら、その言語には「テンスの対立」がある。
   屈折語である英語には<動詞>に現在形、過去形という形式の対立がありますが、
   膠着語である日本語にはありません。過去の<助動詞>「た」を付加するのは自明のことです。
   どこに、対立があるのですか。


おやおや。まったく何もわかっていない。
「テンス」を動詞のみの文法事項だと思っているらしい。

そりゃまあ、英語の述語は動詞だけだから、テンスも動詞の話になるけれど、日本語はそうじゃない。
形容詞も、名詞述語も述語。だから、形容詞文にも名詞文にもテンスの対立がある。
テンスというのは文(あるいは「節」)の文法事項だからね。
動詞なら「する」と「した」で対立する。それが「一語」であろうが、「動詞+助動詞」であろうが、テンスの対立とはかかわりない。
なんでこんな基本的なことから説明しなきゃならんのか。相手がシロウトさんだから。

   「る」は一語ではなく、<動詞>「いる」の活用語尾でしかなく、これは意義を
   表さないからです。

そりゃそう「定義」すれば、そうなるわね。その定義が矛盾を引き起こしている、と言っている。
なぜ「いる」は一語なのか。その根拠は?

意義を表さない? では、「現在」を表すのは何か。「いる」という一語?
動詞自体には「現在」も「過去」もない。では、何が「現在」を表すのか。

過去のテンスは助動詞「た」が付加して実現する。
では、現在のテンスは助動詞「る」が付加して実現する、のではないか?
(もちろん、私はどちらも「助動詞」だとは考えないけれど)

そういう話なのだよ。「上記のとおりです。」と、定義から出てくることを繰り返すだけでは「論」にはならない。

「定義」が正しいと信じ込み、その「定義」自体を考察の対象にすることができない。自分で根本から考えていないから。
と言うより、「定義」は「権威」が決めたものだから、それを批判的に考えることができない、と言うべきか。

なぜ「いる」は「一語」とされるのか。それを自分の頭で考えたら?
(私の答えは、「いる」は一語、「いた」も一語。)


   「言語過程説に基づく日本語品詞の体系化とその効用」

これを見ても、上の疑問には何も答えられない。テンスなんて論じていないからね。
シロウトさんには、上の「品詞体系」は詳しいものに見えるかもしれないが、大まかなところをまとめているだけで、どうということはない。細かい処理が、おそらく「言語処理」に都合がよいのだろう、ということ。
あとは、「学校文法との違い」を書いているところが面白いだけ。
(そういえば、「関係詞」なるものはないようだが。)

「品詞の体系」だけ書いても、それに基づいた「文法」を書かなければ、絵に描いた餅。
上の「体系」の著者たちは、「言語処理」のために考えただけだから、「文法」を書いたわけではないし、そのことは筆者たちもわかっているだろう。彼らの仕事ではない。
では、誰が「文法」を書くのか?

saburoo
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この回答へのお礼

わからんお人ですな~

>>「定義」は「権威」が決めたものだから、それを批判的に考えることができない、と言うべきか。

てい‐ぎ【定義】
(definition)概念の内容を明確に限定すること。すなわち、ある概念の内包を構成する本質的属性を明らかにし他の概念から区別すること。その概念の属する最も近い類を挙げ、さらに種差を挙げて同類の他の概念から区別して命題化すること。例えば「人間は理性的(種差)動物(類概念)である」。
【広辞苑】

で、対象の概念を捉えたもので<「権威」が決めたもの>というのは噴飯ものです。

>>なぜ「いる」は一語なのか。その根拠は?

「人がいる。」に対し、「人がい。」などという文がありますか。あれば、具体的に示して下さい。

>>私の答えは、「いる」は一語、「いた」も一語。

これが、根本的な誤りであるのは「た」は<助動詞>という語であり、「いた」は二語であるのは、その辺の文章を見れば明らかです。語の定義ができないために勝手な妄想を展開しているだけです。

まあ、中学生にでも聞いて下さい。

>>「品詞の体系」だけ書いても、それに基づいた「文法」を書かなければ、絵に描いた餅。

学校文法の誤った体形を展開しても言語事実が許しません。

自立語/付属語という品詞区分の誤りについて
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11911841.html

を参照下さい。

>>上の「体系」の著者たちは、「言語処理」のために考えただけだから、「文法」を書いたわけではないし、

それはそうですが、科学的、論理的な文法論として理解され、応用されているということです。現在の言語理論がどう評価されているかは、下記を参照下さい。

「脳科学と共存する言語理論は可能か?」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ninchishink …

ご参考までに、一部を引用しておきましょう。

この間、80年代以降の「自動翻訳の開発」時代には、「生成文法理論は役に立たない」どころか、「開発に文法学者を加えると、開発が遅れる」というジョークが生まれたという。

ということです。

事実は頑固で正直です。■

お礼日時:2020/09/26 22:44

No.2の「お礼」欄に。



また、わけのわからないことを書いている。

   日本語にはテンスの対立はありません。

   過去を表わす場合には過去の助動詞「た」を粘着します。

「過去」があるなら、その言語には「テンスの対立」がある。
「テンス」という概念がわかっていないのだろう。

「テンスの対立がない」というのは、例えば、

   明日、イル : 今、イル : 昨日、イル

のように、その表す事象の時に関係なく、(文末で)同じ述語の形が使われる場合にいう。
例えば中国語など。

日本語は、わざわざ言うまでもないが、(「今」は「発話時」とする)

   明日、イル : 今、イル : 昨日、イタ
  (×明日、イタ  ×今、イタ  ×昨日、イル)

となる。つまり「テンスの対立」がある。

こんな基本的なことも知らずに、「活用」の話をするのは無理だ。

     いる  動詞 い + る(現在)
   と、活用語尾「る」を切り離し、それに意義を持たせるのは膠着語である
   日本語の言語事実に反する誤りです

「日本語の言語事実」とは、論者が勝手に決められるものではない。

「る」が「切り離」せないなら、

     いた  動詞 い + た(過去)

「膠着語である日本語」で「た」を切り離すのはなぜ「正しい」のかを問うている。

「た」は助動詞であるから? それは「日本語の言語事実」ではない。論者の都合、主張に過ぎない。

   「る」の品詞は何ですか?それ故に、<形容動詞>という品詞も誤りだ
   ということです。

ここは笑ってしまった。「それ故に」の使い方の誤り。全然つながっていない。

   この「た」は過去の認識を表わす助動詞で、一語であり、活用語尾ではありません。
   そんなことは、中学生の常識です。

中学生はそう教わっているからねえ。
「る」を「現在を表す助動詞」と教えれば、それが「中学生の常識」になる。
教育とは怖いものだ。

   分析を変えるのではなく、語尾と語の混同による単なる誤りです。

「語尾」と「語」をどう決定するかの論は、まだなされていないようだ。

なぜ「いる」は「一語」であり、「いた」は「二語」なのか、精密に論じてほしい。
 
saburoo
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この回答へのお礼

また、わけのわからないことを書いている。

>>「過去」があるなら、その言語には「テンスの対立」がある。

屈折語である英語には<動詞>に現在形、過去形という形式の対立がありますが、膠着語である日本語にはありません。過去の<助動詞>「た」を付加するのは自明のことです。どこに、対立があるのですか。

>>「膠着語である日本語」で「た」を切り離すのはなぜ「正しい」のかを問うている。

「た」が活用を持ち、一語だからです。「る」は一語ではなく、<動詞>「いる」の活用語尾でしかなく、これは意義を表さないからです。<形容動詞>の「だ」「に」「な」は意義を持ち、一語であるゆえに、これを活用語尾とすることは誤りだというのが理解できませんか。<形容動詞>支持派ではないという回答者はどう考えているのですか。

>>なぜ「いる」は「一語」であり、「いた」は「二語」なのか、精密に論じてほしい。

上記のとおりです。日本語の語とは何かが理解できずに、

単なる感覚でものを言っているということですよね!

>>「語尾」と「語」をどう決定するかの論は、まだなされていないようだ。
なぜ「いる」は「一語」であり、「いた」は「二語」なのか、精密に論じてほしい。

膠着語である語とは何かの定義もできずに何を言っているのか、こちらが質問したいところですが、とりあえず、品詞体系を下記で論じているので、拳拳服膺して下さい。

「言語過程説に基づく日本語品詞の体系化とその効用」
http://www.kinet-tv.ne.jp/~sat/data/publications …

これに代わる、論理的な体系を提示いただければ幸いです。接辞などと寝言を言っているようでは、日暮れて道遠しです。■

お礼日時:2020/09/20 23:16

前の質問



  「日本語動詞の活用体系」論の誤りについて

はどこかへ消えてしまったようだ。

そこに書いた、言語学的な議論も消えてしまった。(三浦つとむのトンチンカンな文章に関する議論はどうでもいいが。)

 結局、次の疑問への反論がまだない。

     >>こう分析して悪い理由はあるか。
      「いる」は動詞の活用形「い」に「現在」を表す「る」が付加されたものと見なす。
         いる   動詞 い + る(現在)
         いた   動詞 い + た(過去)

     幼稚な形式主義で、言語事実に反する誤まった分析です。

「言語事実」とは何を指すか。「いる」と「いた」がテンスで対立する、のが言語事実ではないのか。
「形式主義」は批判のことばのようだが、「形式」を重視せずに言語学が成り立つのか。

   動詞は単純に動作、行為を表わすだけで、過去を表わす場合には過去の助動詞
   「た」を粘着します。

それならば、「現在を表す場合」の「いる」の「る」を「現在のル」として悪い理由はない。「現在」はテンスではないのか。テンスは助動詞を「粘着」させることで表すのではないか。

「現在」が「いる」で、「過去」は「い」+「た」と、分析を変える理由は何か。
「言語事実に反する誤まった分析」でないのか。

saburoo

なお、次の文は三浦つとむの文章からの引用のはずだが、元の文章が見つからない。

    「駆け【ろ】」「着【よ】」と<助詞>を加える場合は、<助詞>から
    特殊な零記号を介して現在の世界の立場での<助詞>が連結されているが、

ここで三浦は「ろ」を<助詞>だとしているが、それでいいのか?
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

コメントをありがとうございます。

>>「日本語動詞の活用体系」論の誤りについてはどこかへ消えてしまったようだ。

そうなんですよ。貴重な応答なのですが。
どこから復活したのでしょうか?

>>「いる」と「いた」がテンスで対立する、のが言語事実ではないのか。

それは西欧屈折語文法の言語事実で、日本語にはテンスの対立はありません。
最初に指摘の通り、

日本語は膠着語で、単純で裸体的な概念を表わす語を粘着し文を構成します。動詞は単純に動作、行為を表わすだけで、過去を表わす場合には過去の助動詞「た」を粘着します。しかし、屈折語である英語、独逸語などは動詞自体が過去形に変化します。これが、膠着語である日本語と屈折語である英語などの単語との根本的な相違です。
この相違を弁えることなく、単に形式的な見掛けに囚われ議論をすると誤った結論へと導かれます。//

ということです。

いる  動詞 い + る(現在)

と、活用語尾「る」を切り離し、それに意義を持たせるのは膠着語である日本語の言語事実に反する誤りです。「る」の品詞は何ですか?それ故に、<形容動詞>という品詞も誤りだということです。 
 
>> いた  動詞 い + た(過去)

この「た」は過去の認識を表わす助動詞で、一語であり、活用語尾ではありません。そんなことは、中学生の常識です。

>>分析を変える理由は何か。

分析を変えるのではなく、語尾と語の混同による単なる誤りです。
膠着語である日本語の語とは何かの定義ができないお粗末な言語論の迷妄に過ぎません。

>>ここで三浦は「ろ」を<助詞>だとしているが、それでいいのか?

さすが鋭いご指摘です。
これは、誤りです。
<助動詞>の命令形+<助詞>を論じている中に、うっかり<動詞>の命令形を持ちだした誤りです。

「駆け【ろ】」「着【よ】」は動詞の命令形で、【ろ】【よ】は活用語尾です。■

お礼日時:2020/09/18 10:08

おはようございます。

 『形容動詞?ナ形容詞?名詞?「最〇」限定』https://gamp.ameblo.jp/kuroracco/entry-126176041 …さんの辞書を比較する表が良かったです。紹介してもらったハイコ・ナロク『日本語動詞の活用体形』が良かったです。p.1より引用するのは「連続動詞や複合動詞は, 活用・派生体系には直接属さないが, その周辺にあるものとして位置づけられる。」です。活用と派生と複合と連続があります。削除された質問の回答者さんの動詞居と現在の助動詞るが良かったです。居たろ。左記はその場にとどまる動作を表す動詞居の過去命令助動詞のついた形です。居たruから/u/音素を変換して/o/音素の居たroになります。/e/音素になると居たreるになります。態は能動態と受動態があります。時制は過去と現在があります。様相は判断と感じ方があります。居を文にします。
    私は居る。
現在    い-る
過去    い-た
過去現在  い-たru
過去命令  い-たro
過去受動  い-たreる
過去仮定  い-たraば
過去連用  い-たriして
否定    い-ない
丁寧    い-ます
命令    い-ろ
仮定    い-れば
意志    い-よう
受動    い-られる
派生    い-る-のだ
複合    い-すわ-る
連続    い-てみ-る
命令で私は居ろことにした。だと後ろが繋がりません。私は居ろよ。後ろは繋がります。前ははが繋がります。でも私が繋がりません。仮定で私は居ればよ。だとはが繋がりません。劉小妹『「文法的な単語」の認定をめぐって』https://ci.nii.ac.jp/naid/120005749821の語を分類する表が良かったです。
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この回答へのお礼

早速のコメントをありがとうございます。

日本語には、過去を表わす助動詞「た」、未来を表わす「う」があります。

過去現在  い-たru
過去命令  い-たro
過去受動  い-たreる
過去仮定  い-たraば
過去連用

などという表現はありません。

>>命令で私は居ろことにした。だと後ろが繋がりません。

命令は言い切りで、主語は二人称になり、「(おまえは)居ろ!」です。「居ろこと」は「こと」が名詞なので、「居る」は連体形「居る」でなければ続きません。

「(おまえは)ここに居ること!」

と言い切りにすれば、命令になります。

>>仮定で私は居ればよ。だとはが繋がりません。

これも、主語「私」の命令はありません。命令は聞き手である二人称に対するものです。

>>劉小妹『「文法的な単語」の認定をめぐって』

1.はじめに
 語彙的な意味をもたず、文法的な意味を主に担う単語類を、ここでは「文法的な単語」と呼ぶこ
とにしたい。

と誤まったことを述べているように、「語彙的な意味」をもたない単語など存在しないものを取り扱ってをり、本質的に誤まった認識にたっています。

単語、文、文章はすべて「文法的な」存在であり、文法的でない単語など存在しないというか、それは単語ではありません。

文法とは何かが理解できていない根本的に誤まった活用論と同じ迷妄に基づく論文です。

日本語の品詞体形については、

「言語過程説に基づく日本語品詞の体系化とその 効用」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jnlp1994/2/ …

http://www.languetech.co.jp/e_2_1_9.html
http://www.languetech.co.jp/e_2_1_10.html

他を参照下さい。■

お礼日時:2020/09/12 10:54

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