No.5ベストアンサー
- 回答日時:
田沼がやりたかったことは、限界の見えた「重農主義」から「重商主義」への転換。
農業重視の政策は保護・閉鎖志向になり、商業重視の政策は自由・開放志向へと向かう。
田沼がどこまで重商主義的自由・開放政策を推進しようとしたのか分からないが、当時の日本の状況における最終着地点は、鎖国の廃止になる。
鎖国を廃止して海外貿易振興や、海外の知識輸入などを通じて、国内よりも海外に向けて打って出ることになる。それが重商主義推進の帰結だ。
解体新書が許されたのは、そういう自由・開放の機運が田沼時代にあったからだ。
そして田沼の失敗は、その自由・開放は、明治維新という幕府をぶっ壊すほどのエネルギーが必要だったことだろう。
時代が早すぎたと云えばそういうことになるが、残念ながら田沼存命の頃には頑迷な保守主義勢力がまだまだ巨大すぎた。
田沼を支えた老中首座の松平武元、そして田沼の後ろ盾だった将軍徳川家治の死後は、反田沼の保守派というか、経済を全く理解できなかった重農主義者たちによって退場を余儀なくされてしまった。
No.4
- 回答日時:
解体新書。
オランダの本からの翻訳ですが、蘭学に対して比較的フリーな時期と弾圧した時期があります。松平定信や水野忠邦の時は、出版にたいする制限が酷かったです。解体新書は、杉田玄白がなかなかの知恵者で、発売前に、田沼経由で将軍に進呈、いい本だというお言葉を頂いたそうです。幕府トップの将軍が認めた本を、家来達が批判したり出版を禁じたりはできない。
No.3
- 回答日時:
田沼意次が株仲間を奨励した理由は、増収だといわれてきました。
しかし規模の大きい株仲間であっても初年度の冥加金は30両、翌年度以降は10両など比較的安く、その効果を疑問視する声もあがっています。No.2
- 回答日時:
田中角栄の日本列島改造論のように、あらゆる点で成果を挙げてます。
景気対策は万全。
前野良沢たちの解体新書も、田沼の時代だから、完成発表できた。学者さんたちの活動に横槍をいれなかった。
松平定信を完全に追放しなかったこと。
結局、最後は定信の陰謀にやられた。
蝦夷の調査など、多くの事業が、田沼失脚で中断。
平賀源内を救えなかったこと。
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株仲間の推奨とは簡単にいうと誰向けでどんなことが起きたのですか?
解体新書は何故田沼の時代では出せたのですか?
何かそのような政策があったのですか?
よろしければその取り組みの名称を教えていただければうれしいです