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平安時代の東宮(になる)の定義みたいなのはあるのでしょうか?

普通源氏物語等では天皇(主上)の子供(男皇子)がなってますよね。子供がいない場合や子供が女皇女しかいない場合はどうしたのでしょうか?
いない場合天皇の弟や妹でもなれたのでしょうか?

素人なのでできるだけわかりやすく説明してくだされば嬉しいです。
参考文献・サイト等も是非是非教えていただきたいのでよろしくお願いします。

A 回答 (3件)

中学生の頃から「源氏物語」が好きで、そのものの勉強では飽き足らず、結果、背景となる平安時代・摂関政治を短大(歴史関係学科)で専門にしていた者です。



> 平安時代の東宮(になる)の定義みたいなのはあるのでしょうか?

ご質問文から推察して、ご質問者様がおっしゃっている「平安時代」というのは、平安時代の中でも、ちょうど私が専門とした「摂関時代」、「外戚政治が行われた時代」のことを言っていらっしゃると考えましたので、そちらからご回答を差し上げます。

それならば、特に「定義」はないと思います。
強いてあげるとすれば「母親が藤原氏の娘であること」になるでしょうか。そうでなければ、外祖父の立場ゆえの摂政・関白就任ができなくなりますから。

> 天皇(主上)に子供(男皇子)がいない場合、天皇の弟や妹でもなれたのでしょうか?

という点については、天皇(主上)に子供(男皇子)がいても、天皇の弟やそれ以外の血縁者が立太子(立坊)し、東宮になっている例も多いです。
ただ、この時代には女帝がいませんし、女東宮(にょとうぐう)が立太子(立坊)した形跡もありませんので、その必要に迫られたとき、それが可能だったかどうかは分かりません。

実例ですが、一条天皇(皇后は藤原道隆の娘・定子、中宮は藤原道長の娘・彰子)には、皇后にも中宮にも皇子がいますが、いずれも「"一条天皇の東宮”にはなっていません」。
一条天皇の東宮は、父方・母方のいずれからみても従兄弟にあたる居貞(おきさだ)親王で、この方が一条天皇の次に皇位に就く三条天皇です。
一条天皇の皇子(生母は中宮彰子)が皇位に就くのは三条天皇の次(後一条天皇)です。
ですから、三条天皇の東宮も、三条天皇の子供(男皇子)ではありません。


>普通源氏物語等では天皇(主上)の子供(男皇子)がなってますよね。

どのように源氏物語を読まれたのか不明ですが、源氏物語では、「普通」なっていません。

今上帝の東宮は、確かにその子供(男皇子。母親は光源氏の娘・明石中宮)ですが…。
歴代を追っていきますと、先帝(紫の上の父親である式部卿宮や藤壺中宮の父親)と桐壺帝は親子ではありませんし(兄弟と推察されているが)、桐壺帝の東宮も当初は弟(六条御息所の夫)でした。
のちの朱雀帝が桐壺帝の東宮に立ったのは、この前東宮(前坊)が亡くなってからのことです。
その朱雀帝の東宮は、桐壺帝の第十皇子(のちの冷泉帝)ですから、これも子供(男皇子)ではなく弟です。
さらに冷泉帝の東宮(のちの今上帝)は、朱雀帝の皇子ですから冷泉帝にとっては従弟です。

平安時代に限定されているものばかりではありませんが、下記サイトも参考になる点があるかと思います。

http://watercrown.vis.ne.jp/japan/kouzoku/

http://www8.plala.or.jp/gochamazetei/leport-1.htm

http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/column.html
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この回答へのお礼

とっても詳しいお答えありがとうございます。
まさに私の聞きたかったことはそれですと言わんばかりのお答えでした。
実際の例を上げて説明してくださってるのでとってもわかりやすかったです。
リンク先にも是非行ってみたいと思います。ありがとうございました。

お礼日時:2005/02/02 16:12

天皇の弟が皇太子となる場合「皇太弟」といい、女性が皇太子になったのは46代孝謙天皇と109代明正天皇だけで、残りの女帝は緊急に即位された方と思います。


両陛下とも平安時代の方ではありません。
即位の決定は「治天の君」(前の天皇や上皇のうち一番の実力者)の指名を受け、三種の神器とともに即位しますが、外戚である藤原氏の意向や他の皇族の思惑もあり、現在のように必ずしも長男が次代の天皇になれる訳でもありません。
よい例が室町時代ですが、トンチ小僧の一休さんは後小松天皇の皇子でしたが、皇位から遠ざけられ天皇にはなれませんでした。

http://www.logix-press.com/scriba/index/tn-index …

こちらに歴代天皇が乗ってますから、クリックして見られると詳しい事が分かります。
女帝は
33代推古天皇、35代皇極天皇、37代斉明天皇、41代持統天皇、43代元明天皇、44代元正天皇、46代孝謙天皇、48代称徳天皇(孝謙天皇が再度)、109代明正天皇、117代後桜町天皇になります。
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この回答へのお礼

お答えありがとうございました。
それでも女東宮もいた時があったんですね。リンク先にも行ってみたいと思います。

お礼日時:2005/02/02 16:09

「東宮」(「春宮」)は、平安時代も現在も、皇太子のことを言います。


したがって、「子供がいない場合や子供が女皇女しかいない場合」は東宮はいないということになりますね。
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この回答へのお礼

お答えありがとうございました。

お礼日時:2005/02/02 16:07

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中古文学&平安時代にハマって◎◎年の専業主婦です。
平安時代の庶民の名前・・・との事ですが、まず女性名については
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皇族貴族から遊女まであらゆる階層の女性の名前を紹介しています。
ある程度の規模の公立図書館もしくは大学図書館に蔵書されているかと思いますので、確認してみてください。ちょっと前に復刊されたのですが、それは大変高価で豪華な装丁がされています。20年ほど前に刊行されたものは上下(上巻ですよ)に分かれていて手頃で読みやすいので、こちらをお薦めします。(ネット検索できる図書館はたくさんありますよ)
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角田文衛氏の『平安人物志 下』の<大春日兼平>という章に、長徳二年(996年)に京で強盗を働き逮捕された者の名簿の一覧がありました。そこには<藤井国成><田辺延正><伯耆?吉><津守秋方><能登観童丸>などといった名前があげられております。仰るところの<庶民>かどうかは確認できませんが、位官については明記がないので官人では無いと思われます。
余り詳しい資料をご紹介できなくてすみません。

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Qキュプラを洗濯したいんだけど

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合皮もついているし、もしこちらがブラウス地に比べて濃い色でしたら、水洗いによってブラウス地に移洗する危険も出てきます。

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こんばんは。

まずは、太政官の官位の流れです。

左大臣⇒右大臣⇒内大臣⇒大納言⇒中納言⇒参議⇒左大弁⇒右大弁⇒少納言

大納言ですが、貴族だけが任命されるのではなく、氏族他も任命されています。人数は時期によって様々ですが、少ないときで2人。多いときで8人ほどいたとの記録が残っています。後鳥羽天皇の時代以降になると、6人で固められました。ただし、後年、大納言のほかに権大納言(例えば、豊臣秀吉などが任命された。)という職が出来、大納言がなかなか任命されなくなります。大納言は、上官である大臣と共に国政に務めます。その他、大臣の仕事の補佐にまわる事も多かったようです。時たま大臣が不在の時がありましたので、その際は国政の中心をなしました。

中納言は大納言につぐ官位で、大納言の仕事を補います。大臣や大納言と共に国政の会議に出席します。人数は変動(多いときは10人!)を経て、後鳥羽以降8人に定められます。水戸黄門さまで知られる光圀は中納言に該当しますね。

少納言は当初は、大納言につぐ官位でしたが、中途に中納言等の職が置かれ、国政での影響力は持たなくなります。3名がその職にあたります。(国政に影響力があったのは、基本的には参議以上でしょう。)詔勅・宣旨などの清書、叙位などの儀式・印の管理などなどを担当します。少納言に関しては、名前の響きやインパクトはありますが、そこまで重要な職とはいえないかもしれません。

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Qtry to doとtry doingのちがい

現在形
try to do しようと努力する(まだしていない) try doingためしにやってみる(まだしていない)
過去形
tried to doしようと努力した(まだしていない) tried doingためしにやってみた(すでにした)
未来形
will try to doしようと努力するつもりです。 will try doingためしにやってみるつもりです。
結局、過去形以外はなにがちがうかピンときません。
よろしくお願いいたします。

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不定詞は、未来に気持ちが向かっている が基本的な意味です。前置詞の to Osaka も 大阪へ という意味ですが、同じように大阪に気持ちが向かっていますね。不定詞の to と 前置詞の to はまったく関係がないわけではありません。

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I tried to eat sushi. 私はすしを食べてみようとした(実際に食べたかどうかは分かりません)

I tried eating sushi. 私は試しにすしを食べてみた(食べたことははっきりしています)

try to do は やってみようという気持ちがあった ということを言っているだけです.

Q「基」と「元」の使い方

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2.「もとづい(て)」は「もとづく」の連用形です。

3.「もとづく」は「基づく」という漢字しか存在しません。

4.従って、ここでは元、本、素などの漢字は適切ではありません。


ご質問2:
<経験を"もと"に話す。>

1.「~をもとに」という語感が「~を元に戻す」といった語感になるため、「元」の漢字を想定されたのだと思われます。

2.しかし、ここで使われる「もと」とは「土台」の意味になります。

3.他の漢字「元」「本」などには「土台」「ベース」といった意味はありません。

4.従って、ここでは基が適切な漢字となります。

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平安時代は「通い婚」ですから、男性が女性の家に通ってきてる間は結婚している事になるでしょうが、明日からはもう、通ってこなくなるかも知れないわけで、保証がないのなら、それに縛られる事もなかったんじゃないでしょうか?
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もちろん処女膜という言葉も玄白が作った物です。
(ロ)上記のように、江戸中期頃までは、貞操を気にしないのが常識ですから、女性も男性も気にしてないと思います。
(ハ)源氏物語をご存知なら、宇治の浮舟の家の前で薫と匂宮がバッタリというのもご承知だと思いますが、あんな感じじゃないですか?
浮気した事を責めるのではなく、当人たちが、この先どうしたいか?という事だと思います。
「他の男が通って来てるなら、もういいや」とそのまま、どっちか(あるいは両方とも)が身をひくのか?
「いや、それでもモノにしたい」
と思ったて、何とか彼女の気をひこうとするか?

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男のほうも、毎日通っていても、毎日、家にあげてもらえる保証はないわけで、ある日突然「今日はダメ」となって、そのまま通っても通っても会ってもらえないという事も多々ありましたから、これまた何の保証もありませんから・・・

(イ)戦国時代に日本にやってきたルイス・フロ...続きを読む


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