
1.
格助詞「に」と「で」の意義の相違について。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11786373.html
この筆者は、
(ア)格助詞「に」は場所を表わす。
という定義を批判し、その理由として、
『格助詞「に」=場所』という意味になってしまうからだ。
と主張している。
しかし、(ア)の文は『格助詞「に」=場所』と言ってるわけではないのだから、彼は明らかな勘違いに基づく言いがかりを付けていることになる。
これが彼の根本的な、そして決定的な誤りである。
こうした勘違いの認識から始まっているため、彼の批判はすべてがまったくの出鱈目にならざるを得ないし、実際そうなっている。
そもそも「表わす」というのは「示す・表現する」という意味であり、
「〇〇は▲▲を表わす」という文が「〇〇=▲▲」という意味になるわけがない。
「長めの笛は試合終了を表わす」が「長めの笛=試合終了」じゃないのと同じだ。(長めの笛後の会見が始まります、なんて言うアナウンサーはいない)
あくまで「長めの笛は試合終了を示す」という意味である。
「信号の赤は止まれという合図を表わす」は「信号の赤=止まれという合図」ではない。
あくまで「信号の赤は止まれという合図を示す」という意味である。
このように、すべての矛盾・曲解・勘違い・言いがかりの原因は、
【この筆者は「表わす」の意味を勘違いして覚えている。】
ということにある。
(☜この簡単な事実さえ理解できれば彼の批判は止まざるを得ないだろう)
2.
彼の主張は次のとおりだ。
(イ-1)格助詞「に」は空間的・時間的な位置付けの認識を表わす。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12206310.html?pg=1& …(#66)
この定義自体は正しい。
ただ、この文で『格助詞「に」=空間的・時間的な位置付けの認識』だと言ってるつもりらしいが、先に述べたように、この文はそういう意味にはならないのである。
あくまで、
格助詞「に」は空間的・時間的な位置付けの認識を示す。
という意味なのだ。
「位置付ける」は、
物の占める場所をある地点に定める。配置する。
という意味の他動詞である。
「展示物を正面に位置付ける」のように使う。
しかし、(イ)では、なにをどこに位置付けるのかが曖昧である。
この構造が重要なのだが、
『会議は5時に始まる』
という文においては、
(イー2)格助詞「に」は「始まる」という動作を「5時」という時間的な地点に位置付ける認識を表わす。
という意味になる。
意義としては、
(イー3)格助詞「に」は(「に」の後ろに続く)動作を(「に」の直前の)空間的・時間的な地点に位置付ける認識を表わす。
という表現になるだろう。
常にこのように表現する必要性はないが、(イ-1)の定義は、こういった意味であることを理解しておくことが重要だ、ということだ。
(イー2)がわかりやすいと思うので再度とりあげるが、これをさらに分析すると次のような意味であることがお分かりいただけるのではないだろうか。
(イー2’)格助詞「に」は「始まる」という動作を【未だ何処とも定まっていない地点から】「5時」という時間的な地点に位置付ける認識を表わす。
【未だ何処とも定まっていない地点から】「5時」という時間的な地点に位置付けるのですから、位置付けられた「5時」という時間的な地点を「着点」と認識するのは、極めて自然であり論理的でしょう。
以上を要約して格助詞「に」の本質的意義(ただひとつの意味)を定義するなら、
(ア-2)格助詞「に」は着点を表わす。
と表現するのが妥当と思うのですが、いかがでしょうか?
冒頭文が、
(ア)格助詞「に」は(着点としての)場所を表わす。
という意味であることはご理解いただけるでしょう。
学研国語大辞典の注釈も以下に改めてお示ししておきますので、参照しつつご検討いただければ幸いです。
●動作・作用が存在し、成立し、由来し、おもむくところ(=時間・空間・心理上ノ静止点)をそこと指定し、連用修飾句を作るのに用いる。(学国)
⇒この文における格助詞「に」は、「始まる」という動作が成立しおもむく時間上の静止点を「5時」と指定し、「5時に」という連用修飾句を作っている。
3.
因みに、彼自身、勘違いであることを自覚しているかのような片鱗が見えなくもない。
それは、たとえば、
a.《格助詞「に」自体が「受け取り手」を表わしているのではないのも明らかであろう。》
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9186 …
という発言にヒントがある。
無意識的であろうが、ここで彼は、
b.《格助詞「に」が「受け取り手」を表わしているのではないのも明らかであろう。》
とは言っていないのだ。おそらく、
・格助詞「に」は〇〇を表わす。
のように、
「自体」という語が無い場合、『格助詞「に」=〇〇』という意味にはならない、
という感覚を(無意識的に)彼は持っているのだろうと思われる。
この点が僅かながらの希望と言えば言えるだろう。
つまり、彼は実は「表わす」の意味を【無意識的には正確に把握している】はずなのだ。
しかし、
「〇〇は▲▲を表わす」という文は「〇〇=▲▲」という意味である。
という誤った持論を正当化するために、
(ア)格助詞「に」は場所を表わす。
の代わりに
(アー×)格助詞「に」自体は場所を表わす。
をいかにも同じ内容であるかのように入れ替えて提示しているのだと思われる。
たしかに、「自体」と付け加えることで、『格助詞「に」=場所』というニュアンスを出したい気持ちは伝わると思う。
そして、まあ、それは許容範囲とも言えるかもしれない。
しかし、そもそも「自体」という語を付記していない(ア)の文は『格助詞「に」=場所』と言っているわけではないのだから、完全にお門違いの批判を繰り広げていることに気づかなくてはならない。
『名詞や動詞などと違って、【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】助詞の意味というときには、ここに問題点の一つがある。』
という国広氏の論文を引用して、批判の根拠としたりもしているが、国広氏が使っている「自体」の意味も理解していないことは明らかだろう。
この論文が、
(ア)格助詞「に」は場所を表わす。
を否定しているものでないことも明らかなのだが、この筆者は、そのことにも気づいていない。国広氏は、
『庭に鶏がいる』の場合、
助詞「に」自体が「庭」という場所を指しているのではない、と言っているにすぎず、
助詞「に」が、「(鶏が)いる」という動作の着点(あるいは位置付け先)としての「庭」という場所を指す話者の認識を表わして(示して)いることを否定しているわけではないのだ。
4.
なお「着点」の概念について、さらに詳しくは、
「イメージで教える日本語の格助詞」(杉村 泰)
https://www.lang.nagoya-u.ac.jp/proj/sosho/1/sug …
「格助詞にの統一的分析に向けた認知言語学的アプローチ」(菅井 三味)
https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8221 …
などで、より専門的な見解が展開されております。
また、私見については、下記の拙質問で色々な切り口を述べていますのでご参照いただければ光栄です。
・《格助詞「に」の意義とは何か-機能主義言語論の混迷》 批判
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12206310.html?pg=2& …
・会議は5時に始まります。(その2)
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12197101.html
・会議は5時に始まります。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12189564.html?pg=1& …
長文を最後までお読みいただき感謝申し上げます。
書きなぐりで整っていない文になっているかもしれませんが、忌憚のないご見解をお聞かせいただければ幸いです。
A 回答 (59件中11~20件)
- 最新から表示
- 回答順に表示
No.49
- 回答日時:
>>>格助詞「に」は着点を表わす。
これは
格助詞「に」=着点
と言っていることになる。
日本語が理解できればそうなる他ありません。
それは、君が「表わす」の意味を知らないから、そのように勘違いしてしまうわけだよ。
ま、散々言ってきたから、これ以上言っても無理だろうけどね。
君の解釈でいくと色々な矛盾が出てくることを、すでに何度も指摘してきた。
しかし、それに対して君は逃げるだけで、一向に反論もできていない。
だろ???
それ自体が、君の誤謬の証明なのだよ。
そろそろ気づき給え。
誰にも間違い勘違いはある。
それは当然のことだ。
君の場合、
過ちて改めざる、これを過ちと言う。
この典型なのだよ。
私が根拠もなく、このように言い募ると思うかね?
よく考えてみるがよい。
そして、真理を知りたければ、こちらの質問に対して真摯に対応する姿勢を見せることが最低条件なのだよ。
君には、その最低限の姿勢が欠けている。
欠けたままで詭弁を弄して、相手を誤魔化すのに躍起になっているわけだ。
だから、
君は正真正銘の餓鬼
なのだ。
おわかりかな?
ちったあ反省したまえ。
喝!
■

憐れなものですな。
今更だが猿真似しかできんとは。
しかも、逃げたことは一度もないが、そんなことも理解できんのか?
醜態をさらすのもその辺にしといた方が身のためだぞ?(笑)
No.48
- 回答日時:
>格助詞「に」=場所
じゃない、ということだが、誰も、そんなことを言ってる人はいないのだよ。
>>格助詞「に」は着点を表わす。
これは、誰が言っているのかね!
日本語、大丈夫ですか?
そろそろ妄想から脱したまえ。
喝!
■

ご回答ありがとうございます。
>>格助詞「に」は着点を表わす。
これは
格助詞「に」=着点
と言っていることになる。
と君は思っているんだろ?
だから、それは、君が「表わす」の意味を知らないから、そのように勘違いしてしまうわけだよ。
ま、散々言ってきたから、これ以上言っても無理だろうけどね。
君の解釈でいくと色々な矛盾が出てくることを、すでに何度も指摘してきた。
しかし、それに対して君は逃げるだけで、一向に反論もできていない。
だろ???
それ自体が、君の誤謬の証明なのだよ。
そろそろ気づき給え。
誰にも間違い勘違いはある。
それは当然のことだ。
君の場合、
過ちて改めざる、これを過ちと言う。
この典型なのだよ。
私が根拠もなく、このように言い募ると思うかね?
よく考えてみるがよい。
そして、真理を知りたければ、こちらの質問に対して真摯に対応する姿勢を見せることが最低条件なのだよ。
君には、その最低限の姿勢が欠けている。
欠けたままで詭弁を弄して、相手を誤魔化すのに躍起になっているわけだ。
だから、
君は正真正銘のカス
なのだ。
おわかりかな?
ちったあ反省したまえ。
No.45
- 回答日時:
>>【格助詞「に」は「(私が)めぐりあう」という動作を父という空間的地点に位置付ける認識】
ということだ。
であるから格助詞「に」の意義的には、
父が移行するのでも「(省略されている)私」が移行するのでもない。
という点が重要なんだな。
相変わらず、「動作を父という空間的地点に位置付ける認識】」などと日本語とは思えない寝言を言っているようでは、所詮、わたしの相手でないことははっきりしたね。そもそも敵だなどとは思っていないけど。(フン!)
善導すべき餓鬼ンチョでしかないの。
君の能力は大体見極めた。
所詮、わたしの相手でないことは刃っきり、スッキリしたね。
君にもその自覚はあるだろ?(笑)
まずは、慌てないでしっかり宿題をこなしなさい。
買った本が泣いてますよ!
喝!■

ご回答ありがとうございます。
【父にめぐりあう】
>相変わらず、「動作を父という空間的地点に位置付ける認識」などと日本語とは思えない寝言を言っている
:
ほお~?
すると、わたしの提示したこの見解は誤りだという主張を続けるわけだな?
ところで君は『庭に鶏がいる』という文で、
(ア)格助詞「に」は「庭」という場所を空間的に位置付ける認識(#22)
(イ)格助詞「に」は「鶏」を空間的に位置付ける認識(#41)
というダブルスタンダードを犯している。
一向に答えないが、これはどうなったかね?
ワンとかニャンとか言ってみろよ?(笑)
いくら考えてもわからないから有耶無耶にしようとでも思っているのかな?
その挙句、下記質問では、面っとした顔で以下のように回答しておるな?
※※※※※
格助詞「に」は空間的・時間的な位置付けの認識を表します。
試みに…する。
は、「する」という動作の状態を「試みに」と位置付け、動作・作用が試験的に行われることを表しています。
「実際に」の「に」も同じで、「する」という動作の状態を「実際に」と位置付け、動作・作用が実際的であることを表しています。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12247686.html
※※※※※
しかし、君の従来の説でいけば、
(ア)「試み」を位置付ける認識
または、
(イ)「…」を位置付ける認識
と説明しなければならないはずだ。
そうだろ?
しかるに君は、
「動作を父という空間的地点に位置付ける認識」という私の解釈をパクって、
《「する」という動作の状態を「試みに」と位置付け》と平然とした顔で宣っているわけだ。
実に、【正真正銘のカス】であることを証明しているな。笑笑笑
ここまでくると憐れを催さざるを得ないが、やっと私の言っている「に」の本質を理解したと思う暇もなく、
《相変わらず、「動作を父という空間的地点に位置付ける認識」などと日本語とは思えない寝言を言っている》
とほざいておる。
自分でもおかしいと思わないのか???
といっても、おそらく、わたしが何を言っているのかさえ理解できないのかもしれんな。
まあ、しばらく脳を休めることに専念するほうが身のためだぞ?
No.44
- 回答日時:
>>反論できるなら具体的箇所を示した上でやってみることだな。
ははは!
下らない戯れ事に反論など不要じゃ!
× 格助詞「に」は着点を表わす。
などという寝言さえ言わなければ好きにほざいていなさい。
それだけです。
あとは粛々と宿題をこなし、不明な点は質問を建てて下さい。
懇切丁寧に指導します。
もっとも、相手の理解力がバリアーとなるのは如何ともしがたい所ですが!
■
ご回答ありがとうございます。
#41お礼欄に現在の論点を記してある。
これには反論できないのか?
反論できなくなると頬かむりしてスルーのオンパレード。
そのくせ、
>懇切丁寧に指導します。
:
だと????
どんな顔して言っとるんだ???(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)
君の能力は大体見極めた。
所詮、わたしの相手でないことははっきりしたね。
君にもその自覚はあるだろ?(笑)
まあ、素直に認めるのも癪だろうが、他のところで八つ当たりしとってはいかんぞ?
自分のことに対する反論もできずにえらそうなことを言い散らかしていてはいかん、ちゅうこっちゃ。
ちったあ進歩せえよ!(笑)
No.43
- 回答日時:
>>猿に論語を聞かせるようなものだから無理だと思うよ?(笑)
ははは!
いよいよ遁走ですね。
山寺の猿にでも聞かせて聞いてください。
>>応じればボロが出るから、何とか論点をずらしたいという気持ちはわかるがね。(笑)
ははは!
もう論点ずらしのネタも尽きたようじゃな!
襤褸の出捲りで、
もう一度、
喝!
■

ご回答ありがとうございます。
>もう論点ずらしのネタも尽きたようじゃな!
:
やはり、君は頭おかしいね。(笑)
着点については嫌というほど解説してあげたはずだが、君に理解能力がないだけ。
ずらした箇所があるなら指摘してみると良い。
できないだろ?
論点ずらしなどという言葉は私の辞書にはないのだよ。
君とは大違い。(笑)
論点ずらしっぱなしの君から言われるとは、それこそ臍が茶を沸かしておるわい。
それとだな、着点かどうかは、喫緊の論点ではないのだな、君との場合は。
#41お礼欄でも着点という表現は使っとらんだろ?
あくまで君の「位置付け」に関して論をすすめ、その矛盾を指摘している。
それに対して反論もできないのか?
応じればボロが出るから、何とか論点をずらしたいという気持ちはわかるがね。(笑)
ま、反論できるなら具体的箇所を示した上でやってみることだな。
君のように逃げたりせず真摯に応じてやるぞ?(笑)
No.42
- 回答日時:
>>今の君に着点という概念を論ずる力は無いと言わざるを得ない。
ははは!
山寺の小僧さん、<「いる」という動作を「庭」という空間的な地点に位置付ける>のが「着点という概念」ですか?
さあ、しっかり「着点という概念」を論じてもらいましょう。
って言っても何も無いのよね!
まあ、
× 格助詞「に」は着点を表わす。
などと馬鹿なことは二度と口にしないことです。
与太と法螺ばかりなのでもう一度、
喝!
■

ご回答ありがとうございます。
>さあ、しっかり「着点という概念」を論じてもらいましょう。
:
まあ、今の君の場合、猿に論語を聞かせるようなものだから無理だと思うよ?(笑)
補足である程度解説しておいたから、拳拳服膺しておくように。
それとだな、着点かどうかは、喫緊の論点ではないのだな、君との場合は。
#41お礼欄でも着点という表現は使っとらんだろ?
優しいねえ。(笑)
あくまで君の「位置付け」に関して論をすすめ、その矛盾を指摘している。
その線で応じてもらわないと噛み合わんぞ?
応じればボロが出るから、何とか論点をずらしたいという気持ちはわかるがね。(笑)
ま、反論できるなら具体的箇所を示した上でやってみることだな。
君のように逃げたりせず真摯に応じてやるぞ?(笑)
No.41
- 回答日時:
山寺の小僧は二度も「喝!」を入れられても反省の色がありません。
>それが何かを君は理解できないのだろ???
などと未だに猪口才な口をきいているので、労を厭わず、問題を明確にしておきましょう。
単語である、格助詞「に」の意義は次の通りです。
家【に】居る。
机の上【に】ある。
来週【に】休日がある。
空間的時間的な位置付けの意識が「に」で表現されます。これは固定したつながりとしての意識ですが、運動し変化したことを意識して位置付けする場合もあります。
父【と】めぐりあう
父【に】めぐりあう
「あう」ということは、二人が並ぶことです。その意味で、めぐりあった結果としての二人という観点から「と」と表現することが行われています。一方、「あう」ということは、二人がならんでいない状態からならぶ状態へ移行するという過程をふくんでいます。この移行による位置付けという観点から「に」が使われます。
私は立派な人間【に】なりたい。
この本を彼【に】おくろう。
下【に】居ろう。
最初の文は属性の移行、次は所属の移行、次は場所的な移行です。
このように、
格助詞「に」は空間的時間的な位置付けの意識を表しています。
客体である、人間や彼、下などという物や場所を表しているのではありません。したがって、小僧が主張する、
>以上を要約して格助詞「に」の本質的意義(ただひとつの意味)を定義するなら、
(ア-2)格助詞「に」は着点を表わす。
と表現するのが妥当と思うのですが、いかがでしょうか?
は「いかが」も「へちま」もなく全くの誤りであることは火を見るよりも明らかということになります。
(火を見るよりも明らか(ひをみるよりもあきらか)とは。意味や解説、類語。《「書経」盤庚上から》きわめて明らかで、疑いを入れる余地がない。火を見るより明らか。明々白々。「泣きをみるのは火を見るよりも明らかである」)
この誤りが理解できないために、
>『庭に鶏がいる』という例文を挙げれば、
格助詞「に」は「いる」という動作を【未だ何処とも定まっていない地点から】「庭」という空間的な地点に位置付ける認識を表わす。
のであるから、
《格助詞「に」は(「庭」という着点としての)場所を表わす。》
簡潔に、
《格助詞「に」は着点を表わす。》
を本質的意義とするのが妥当である。/
と頓珍漢な議論を展開しています。
これは、語の意義を元に、個別の話者の認識が表現された文の意味と語の意義を混同する誤りですが、言語の規範を媒介とする表現という表現過程を捉えられないための混乱ということです。
そして、この誤りを正当化するために「位置付け」という名詞から「位置付ける」という動詞に逆戻りし、次のような愚問を提示しています。
『庭に鶏がいる』という例文を挙げれば、
>(イー2)格助詞「に」は「いる」という動作を「庭」という空間的な地点に位置付ける認識を表わす。
という意味になる。
では、何【を】何【に】位置付けるのか?
そもそも、<「いる」という動作を「庭」という空間的な地点に位置付ける>は日本語になっていません。云わんとするところは<、何【を】何【に】位置付けるのか?>ということを問題にしているようですが、語と文の関係を理解していれば自明なことで、山寺の小僧にはこれが全く理解できていないことを自ら露呈しているに過ぎません。
【この文の】格助詞「に」は庭を鶏が居る場所として空間的に位置付ける認識を表しているのであり、当然、鶏を[庭という場所に]空間的に位置付けているに過ぎません。こんなことも理解できずに何を騒いでいるの理解に苦しむ他なく、馬鹿馬鹿しい空騒ぎのお遊びに付き合うしかない結果になっています。
いったい、<「いる」という動作を「庭」という空間的な地点に位置付ける>とは何を言わんとしているのか、日本語か?というレベルでしかありません。
この程度の頓珍漢な山寺の小僧の戯れごとはどうでも良いのですが、現在の形式主義/機能主義的な発想の下では、
認知言語学を信奉する、
杉村 泰
「イメージで教える日本語の格助詞」
や
菅井 三実
「格助詞にの統一的分析に向けた認知言語学的アプローチ」
他も、「格助詞「に」の意義とは何か-機能主義言語論の混迷」
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9186 …
で批判した通り同様の議論に落ち込んでいるところに本質的な問題があります。当然、その他大勢も、「この「に」は、なんでしょうか?」
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=398881&id=96 …
の[3] のような同類の発想に陥ることになります。
愈々春本番になってきたので、こうした低俗な形式主義/機能主義的な発想を克復し科学的、論理的な言語論、日本語論が理解、展開されることを願わすにはいられません。
プア~な山寺の小僧には、この点を自覚できるようにもう一度、
「喝!」を加えておきましょう。■

ご回答ありがとうございます。
論理が粗雑すぎますね。(笑)
とはいえ一生懸命考えた痕跡が窺えるので、その努力に免じて、どのように粗雑なのかを以下に詳しく解説してやるから、有難く噛みしめるように。(笑)
1.
まずだが、君は、当スレの回答欄(#22)で、
『庭に鶏がいる』
【(ア)格助詞「に」は「庭」という場所を空間的に位置付ける認識】だと言ったはずだ。
しかるに今回は、
【(イ)格助詞「に」は「鶏」を空間的に位置付ける認識】だと言っている。
こうした初歩的なダブルスタンダードに気づけないようではどうにもならんぞ?
しかも、どちらも間違っているというオマケ付き。(笑)
2.
わかりやすいので
・父【に】めぐりあう
の例について自分の言った内容をよく読み返してみると良い。
《「あう」ということは、二人がならんでいない状態からならぶ状態へ移行するという過程をふくんでいます。この移行による位置付けという観点から「に」が使われます。》と言ってる。
『この移行』という曖昧な表現ではなく、『〇〇の移行』のように具体的に考えないから論理が粗雑になるのだよ。
むろん君の表現を素直に捉えれば、「ならんでいない状態」から「ならぶ状態へ」の移行だね?
つまり、「巡り合う」という動作が確定していない状態から確定した状態への移行だ。
「ならんでいない状態」を移行することによって「ならぶ状態へ」位置付けているわけだよ。
そして、それでよろしい。それが正しい解釈。
・父【に】(私は)めぐりあう
という文においては、
【格助詞「に」は「(私が)めぐりあう」という動作を父という空間的地点に位置付ける認識】
ということだ。
であるから格助詞「に」の意義的には、
父が移行するのでも「(省略されている)私」が移行するのでもない。
という点が重要なんだな。
お分かりか?
そもそも、この例の場合、
【(ア)格助詞「に」は「父」を空間的に位置付ける認識】なのか?
それとも、
【(イ)格助詞「に」は「(省略されている)私」を空間的に位置付ける認識】なのか?
どちらかね?
ま、どちらでもないんだけどね。(笑)
こういった矛盾を放置したまま、いくら論理を展開しても破綻が露呈するばかりだということに、そろそろ気づき給え。
これが先決。
今の君に着点という概念を論ずる力は無いと言わざるを得ない。
お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!
おすすめ情報
デイリーランキングこのカテゴリの人気デイリーQ&Aランキング
-
気にする 「に」と「する」につ...
-
「をして」の意味
-
思慮、思料、思量の使い分けを...
-
「通年を通して」について
-
「観点からみる」は正しい?
-
「もうとしだから」のとしは「...
-
1.5倍UPって50%UPで良いんです...
-
不回答と非回答
-
1時間程度って日本語正しいです...
-
立て掛けてある物が倒れてくる...
-
「いずれとも」と「いずれでも...
-
ませてる の意味を教えてくださ...
-
改める と 新たに
-
「見た」と「見かけた」の違い...
-
床版? 床板?
-
「A氏外○名」の使い方
-
「...であることから、.....
-
感銘を覚える、感銘を受けるの意味
-
「多い」と「少なくない」の違い
-
夕方以降って夜も入りますか?...
マンスリーランキングこのカテゴリの人気マンスリーQ&Aランキング
おすすめ情報
アスナロウさんご返信ありがとうございます。
明日ゆっくり応答します。
第3項がノー ということですね。
下記のようにはっきりと明記していると思いますが、見落とされましたか?
じっくりとお考えのうえ、答えを出しておいてください。
第2項をお認めになったわけですから、答えが出せないと論理破綻となります。
※この項(第3項)で異議がある場合は、
では、何【を】何【に】位置付けるのか?
に対する答えを明記してください。
>>何【に】位置付けるのか?
いうも愚かだろう。
そんなことも判らんのか?
:
へえ~~~???(笑)
じゃあ、なぜ、
動作を位置づけるのではなく、この文の格助詞「に」は「庭」という場所を空間的に位置付ける認識を表しています。(#22)
としか言えてないわけ?????
何【に】位置付けるのか?
わからないから、何【を】しか書かなかったんだろ?ーしかも、間違ってるし(笑)ー
現に、何度聞いていも、一度も答えてないよね?
何【に】位置付けるのか?
に関しては。
分からないんだろ?
見え見え、ばればれだっちゅうの。(笑)
>結局、本質問は諸賢から無視の憂き目に遭った愚論に過ぎないということをしかと自覚しましょう。
:
君のようなイカレポンチが曲解・勘違いを基にして頓馬な回答を執拗にがなり立てるんだから、そりゃあまともな人が寄ってくるはずはなかろうて。
君子危うきに近寄らず、ということだ。
その意味で『諸賢』であるのは確かだな。(笑)
責任とれよ?(笑)
>いったい、<「いる」という動作を「庭」という空間的な地点に位置付ける>とは何を言わんとしているのか、日本語か?というレベルでしかありません。
:
なるほど。
まあ、気持ちはわかるので若干解説しておこう。
「いる」という動作が発生しているのは「庭」という空間的な地点であることを示すために位置付ける。
ということ。
「いる」だけの場合、この「いる」は当初、風来坊みたいなもので定住先が無い状態だ。
その憐れな「いる」に、「庭」という定住先(空間的地点)を提供するのが「に」の役割、ということ。
「庭」という定住先(空間的地点)を得て「いる」は生き生きと、その意味を聞き手に伝えることができるようになった。
めでたし、めでたし、というお話。
なお、なぜこんな面倒な解釈が必要かと言うと、他の格助詞との差異を明確にするためだ、ということも付記しておく。
#41お礼欄に現在の論点を記してある。
これには反論できないのか?
肝心の点については、またまたお得意のスルーが始まったかな?(笑)
どうでも良いことはよくしゃべるくせに、論点については何も返せない、というのが君の限界だということだよ。
>もう論点ずらしのネタも尽きたようじゃな!
:
君の場合、泉のように湧きまくって尽きることを知らないようだね?(笑)(笑)(笑)
「会議は5時に始まる」
「5時」は「始まる」という動作の着点として位置付けられたからこそ、会議の起点として機能し得ているわけだよ。
「始まる」という動作が「5時」という【空間的地点を舞台】に実行される。
「会議は5時に終わる」の場合も同様で、「終わる」という動作が「5時」という【空間的地点を舞台】に実行される。
実行されるのが(たまたま)「終わる」なので終点として機能し得るわけだ。
「終わる=終点」なのだが、それは「に」の意義ではない、という点に気づかなくてはいかんちゅうこと。
そもそも、動詞によって意義が替わるわけじゃない。
君の場合、持論から生じる矛盾を回避するために、「位置付ける」という表現にして逃げているだけなのだよ。
一向に答えんが、どこに位置付けるのだね?
それに答えられなければ論理破綻していると自ら思わんのか?
逃げているのは君のほうだということははっきりしているのだよ。