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1. 利己も利他も みづからの意志で欲しておこなうわざである。

2. その主体たる《わたし》は どんな意味でも――よき人格としても我執としても――消え去るわけではない。

3. 我欲としては その時には忘れているだけである。

4. 利他は 自分が欲しておこなう意志行為である。自分の利益から完全に離れておこなうといったことは 無理である。

☆ ちがいますか?

A 回答 (13件中1~10件)

「雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ


 丈夫なからだを持ち 欲は無く 決して瞋からず
 何時も静かに笑っている 一日に玄米四合と 味噌と少しの野菜を食べ
 あらゆる事を自分を勘定に入れずに 良く見聞きし判り そして忘れず
 野原の松の林の影の 小さな萱葺きの小屋に居て
 東に病気の子供あれば 行って看病してやり
 西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を背負い
 南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくても良いと言い
 北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い
 日照りのときは涙を流し 寒さの夏はオロオロ歩き 
 皆にデクノボーと呼ばれ 誉められもせず苦にもされず
 そういう者に 私はなりたい」
>自分の利益から完全に離れておこなうといったことは無理である。
宮沢賢治も我利(利己的人間)であったか・・・!?
昭和天皇の侍従は、陛下の為に四六時中滅私奉公でしたが、殊の外幸せで楽しくもあり楽でもあった様です。完全に利他的である事で、それが至上の幸福となる人を我儘(利己的人間)と定義可能であろうか・・・?
逆に、利己的目的から完全なる利他的な状態へ行き着けるものか・・・経験的に行けない様な気がするが・・・行けないとしたならば利己と利他には分離があり不一致な筈。行けたとして同居できるか?同居できないならこれも不一致な筈。一部利己的で一部利他的な中途半端で一般的人間から、利己心を人の根本的基礎と見誤っているのではないか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

▲ 「雨にも負けず 風にも負けず
☆ うむ。

▲ 東に病気の子供あれば 行って看病してやり
 西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を背負い
 南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくても良いと言い
 北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い

☆ これは いわゆる助け合いですね。その辺のおばちゃんたちも しようと思えばすると思える利他ですね。

そして むろん自分がそう欲しておこなっている。情況を見てあたかも条件反射のごとく行動したとしても 事後的には 自己の意志が欲した行為と確認されるはずです。


☆☆ >自分の利益から完全に離れておこなうといったことは無理である。
☆ たとえば《自分の》精神衛生にとってよいことなはずでしょう。

★ 宮沢賢治も我利(利己的人間)であったか・・・!?
☆ ニュアンスが ちょっと違うんです。

利他のおこないは 利己からまったく離れて成され得るか? それはないであろう という命題。

★ 昭和天皇の侍従は、陛下の為に四六時中滅私奉公でしたが、殊の外幸せで楽しくもあり楽でもあった様です。
☆ それはですね。そういう意志行為の類型はあるんです。

《〔むろん自分の意志によって その務めを〕引き受けた》という場合です。そのあとでは 《引き受けたこと》が優先されます。

漱石のように《則天去私》であったかも知れない。でもね それが おのが人生だと決めたのです。それを引き受けたのです。

そういった〔滅私ではなく〕去私としての人生は 母親という役割りを引き受けた場合には ふつう一般に見られますね。

★ 完全に利他的である事で、それが至上の幸福となる人を我儘(利己的人間)と定義可能であろうか・・・?
☆ たとえば母親が《引き受けた》その務めは 夫や子供たちの為を優先させます。

利己ではないだろう? と問われるなら その《引き受けた務めにかかわる人間たちの利益の為に生きる》んです。自分も入っているんです。

★ 完全なる利他的
☆ は 人間にはないんです。

★ 一部利己的で一部利他的な中途半端で一般的人間から、利己心を人の根本的基礎と見誤っているのではないか。
☆ 《ほかの誰でもない〈自己〉の意志による務め》 これが 基本です。そこに利己もそして時に利他もあり得ます。でも 広義の利己です。

お礼日時:2023/04/24 16:48

凡人、いや普通の人だから・・・


聖人への道への過程が利他行ですね。
もちろん、普通の人々がみな聖人をめざして、と云う訳ではありませんが。

利他行為をしたくなるという精神が、万人に備わっていると云う事に注目することにしましょう。
これを仏性ある故、と云ってもいいですよ。

このような精神の性向・気質を、弁栄上人は理性ある故と云っています。
姿を見せなくなったハルさんの表現を借りれば、宇宙はその精神の意志と感覚と理性で❝出来ている❞と云う訳です。

利他行為は利己行為に外ならない、と思えるのは応報が有るからと云えます。

応報の内容が大事なのです。

釈尊もキリストも弁栄上人も、みんな自身の心を❝良くしたい・良い状態にしたい・しておきたい❞と頑張ったのです。

だから、みんな我欲で生きているのです。
欲の内容が大事なのです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 凡人、いや普通の人だから・・・
☆ いいえ。みんな 例外なく 凡人です。

★ 聖人への道への過程が利他行ですね。
☆ ウソだ。そういう演出をしたというだけ。これが 受けた。千年もニ千年も。

聖人マジック。


★ もちろん、普通の人々がみな聖人をめざして、と云う訳ではありませんが。
☆ いや。求道心はありますよ。たいていの人は。聖人ぶっているエライさんよりも ほこらしいほどではないですか。




★ 利他行為をしたくなるという精神が、万人に備わっていると云う事に注目することにしましょう。
これを仏性ある故、と云ってもいいですよ。
☆ そんなことは しりきって紙を貼っている。

問題は そのことを 特別な人間像なのだと はやし立てるようになっている感染病です。聖人マジックに罹った聖人あこがれ病。

要するに 人間のふつうの自由意志の発露としての・広義の利己心にかかわるものだということです。(利他でないとは 言っていない)。


★ このような精神の性向・気質を、弁栄上人は理性ある故と云っています。
☆ そうでしょうが 問題は ふつう一般の意志行為だということ。市民一般が ふつうに自然に助け合うぢゃないですか。特別なことではないよ。

★ 姿を見せなくなったハルさんの表現を借りれば、宇宙はその精神の意志と感覚と理性で❝出来ている❞と云う訳です。
☆ ご自由に。

★ 利他行為は利己行為に外ならない、と思えるのは応報が有るからと云えます。
☆ なくても――無償だという場合にも―― おのれの自由意志の行為であるからには おのれの為におこなうのに決まっています。

他者のためになることでも それを大きく自己という存在のためにおこなう。

★ 応報の内容が大事なのです。
☆ それは 成功失敗その他その他で いろんな場合があるというのみ。


★ 釈尊もキリストも弁栄上人も、みんな自身の心を❝良くしたい・良い状態にしたい・しておきたい❞と頑張ったのです。
☆ 初めから仏性をやどしているぢゃないですか。よくなっている。

★ だから、みんな我欲で生きているのです。
欲の内容が大事なのです。
☆ そんなもの わしゃ 知らんわ。我欲ぢゃないから こういう物言いをして問うているのです。

道理にかなった考え方が実現すればわたしゃの利益。

お礼日時:2023/04/24 20:07

一見、意見の相違がある様に見えますが、心の仕組みに付いては差異の無い捉え方をしていると思います。



他者に与える行為によって、自身の被る功罪は必ず有ると云う事ですね。

違うところは、功罪の中身(内容)だと思います。
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この回答へのお礼

1. 人間の――他者に対する場合をふくめた――意志行為は そのみづからの意志の欲することをおこなうものである。


2. 意志の内容には 他者に対する場合 〔自己の思うところとして〕他者の為になるものと為にならないものとがある。

3. 利他と利己とそれぞれよぶ。

4. どちらも 自己という人間のためにおこなっている。

5. 自己の存在(生きること)の為にならないという場合でも 自己のために意志がそう欲したという事情は変わらない。

6. 利他とよぶこちらの行為を受けた他者がよろこんだとき その反応をこちらがどう捉えるかは さして重要ではない。

7. 言いかえると ふつうに利己の行為をして生活していることと 基本として 同等なことである。

8. 利他が成功したことと 利己が失敗したこととは わが意志行為として・自己実現にとって 価値は 同等である。

9. 意志行為の結果としてそれを受け留める自己にとって どちらも自己実現のために活かそうとするだけのことである。

お礼日時:2023/04/24 22:12

いただいたご返事に、誤解してしまいそうな言い回しは有りますが、特に異議はないですね。



一つ突っ込んで私の考えを云えば、因果応報と云うものに付いては、行為そのものが結果である、という捉え方をしています。

例えば、人を殺したと云うのは、その行為をした事が“罰”である、との考えです。
人を殺した=罰が当たった(好ましくない心をまた一つ使って心を汚してしまった)、と云う訳です。
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この回答へのお礼

そうですね。舌足らずと言う以上に 分かりづらく誤解を生んでも仕方のない表現をのこしてしまいました。ごめんなさい。



因果応報は 非常にめんどうな判断になると思います。

価値観抜きの因果関係を超えて 自己の意志が世間との関係でどういう結果を生むか・そのよしあしを――じつは自分勝手に――判断するのが 因果応報だと言っても よいかと思うからです。




ひとつの行為は 価値観抜きに捉えるなら 過去のわざの結果であり将来のわざの原因である。

よしあしの価値が――しかも往々にして自分を中心として判断して――どのように因縁となりその結果が現われているか。


一般的な方程式は 見つからないかも。


具体例を取り上げて考えます。
★ 例えば、人を殺したと云うのは、その行為をした事が“罰”である、との考えです。
☆ つまり そうかも知れないのですが それは どういう過去の因縁の結果なのか? 

言えるかも知れない――過去の人生ぜんぶの歴史が重くのしかかっているといったように――けれども 特定の原因を知ることは むつかしいかも知れない。

自分で自由に(≒勝手に)決めることが出来るかも知れないし それでよいのかどうか 分かりづらい。


★ 人を殺した=罰が当たった(好ましくない心をまた一つ使って心を汚してしまった)、と云う訳です。
☆ うむ。でも 《好ましくない心を使う》ことは 多かれ少なかれ誰にでもその経験があるように思われる。のに その結果は 人によって違うしいろいろだ。



☆ ひとつ言えることは これは 主観の内部で片を付けケリをつけることができる案件だということです。自分自身で決めた因果応報の見方が 自分にとってはそれで決まりとなると言えばなる。


☆ といったふうに思われるんですがねぇ。

お礼日時:2023/04/25 00:47

利他が自利から離れる、自利にならないとむしろ良くない気がします。


また、我欲は自利にならないことが殆どだと思います。
人は他者によって満たされると言う部分がかなり大きいのだろうと言う確認が、自分の中で次第にできあがってきています。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 利他が自利から離れる、自利にならないとむしろ良くない気がします。
☆ ええ。つまり 教科書で知った倫理規範だとかあるいは幼いころに親から言われた躾であるとか そういった命題をあたかも有無を言わせぬ命令のごとくに受け留め それは利他でありよきことだと思いなして ほとんど中身の思索無しでおこなった場合 その利他行為は 自利から離れているでしょうね。

言わば社会経験の少ない子どものおこないであるように思われます。



★ また、我欲は自利にならないことが殆どだと思います。
☆ おそらくそういった我欲は 利己の過剰であったり或る利己から派生しすでに初めに意図せぬ別の利己となっていたりするのかも知れません。


★ 人は他者によって満たされると言う部分がかなり大きいのだろうと言う確認が、自分の中で次第にできあがってきています。
☆ うーむ。それはですね おそらく:
★ 他者によって満たされる
☆ という部分が じっさいにはたとえば《他者の存在つまり寄り添ってくれることの考えられる身近な存在を わが自利とし得るゆえ》であったりしませんか?

あるいは 《わたしが為したちょっとした手助けをその他者がよろこんでくれた そのことによってうけしく思う》であったり。

あるいは 《わたしは或る他者にイヂメを受けた。その経験をとおしてわたしは強くなった。まさに他者によってわたしは満たされる》であったり。

☆ つまり 一般化して捉えられる事例ではないような気がするのですが?

お礼日時:2023/04/25 01:07

ブラジュロンヌさんの分析力に脱帽!


子供を事例にあげた一件です。
確かに、子供の場合は云われたままの行動だから、そこには自分の考えはないですね。

今回は“我”を一般的な自我とし、己・自己は一般に使われる真我として使い分けて見ます。(明確な境い目のない繋がり状態です)

芸の世界では「形」を大事にしますが、子供の教育にもそれは通用していて、躾などはこの段階ですね。

そしてこの「形」を通して子供は、自身の心を成長させ利他という心の存在に気付き成長させて、その経験から利他と云う行為は自身を、心持ちの良い状態にさせてくれる、と云う事に気付くのでしょう。

結果、利他行為は利己になり得るし、宗教としてはそれが好ましい心の状態である、という事です。

私が注視してみたいのは、その利他行為の発端が利己心からの思いなのか、自我心からの考えなのか、と云うところです。

triggerさんの考えは、利己心を基本としてますね。
我欲は自利にならないと云ってますから。

また、karinさんの回答では最後の五行に、理屈の繋がりに不自然な所があるように思うのですが、気付きましたか?
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この回答へのお礼

★ ブラジュロンヌさんの分析力に脱帽!
☆ はぁ そうですか。

★ 子供を事例にあげた一件です。
確かに、子供の場合は云われたままの行動だから、そこには自分の考えはないですね。
☆ ええ。そうではないかと。

★ 今回は“我”を一般的な自我とし、己・自己は一般に使われる真我として使い分けて見ます。(明確な境い目のない繋がり状態です)

★ 芸の世界では「形」を大事にしますが、子供の教育にもそれは通用していて、躾などはこの段階ですね。
☆ 形から入る。

★ そしてこの「形」を通して子供は、自身の心を成長させ利他という心の存在に気付き成長させて、その経験から利他と云う行為は自身を、心持ちの良い状態にさせてくれる、と云う事に気付くのでしょう。
☆ それは ちょっと甘い。

早くからすでに求道心と言ってよいのでは? つまりその心が芽生えたなら あたかもおのづとその志向性は身に就くものです。いちいち気持ちのよいようにといったことを考えてはいませんよ。

いま相手の心は何を考え何を求めているのだろう? といったことを思索するようになります。

あいつは いつもチームのまとまりを考えているようだ。そうか おれも見倣おうとか。

あいつは 学校の成績をよくしようということだけ考えている。気をつけて接することにしようとか。

そういったふうに考え振る舞うようになる。利他がどうの心持ちがこうのなんて 考えてませんよ。

だって 考えてみれば こちらも自分の自己実現のためにふるまっているのだから。


★ 結果、利他行為は利己になり得るし、宗教としてはそれが好ましい心の状態である、という事です。
☆ それは あやまち得るスサノヲ人間語から あやまたざるアマテラス人格語へとアマアガリする道です。

往々にして 《神のごとくいかなる者の下にも立つまいと堅く誓う》ようになるのです。シュウキョウ人間とはそういうものです。最低の阿呆です。

★ 私が注視してみたいのは、その利他行為の発端が利己心からの思いなのか、自我心からの考えなのか、・・・です。
☆ そんなことはどうでもよいんでは?

★ triggerさんの考えは、利己心を基本としてますね。
我欲は自利にならないと云ってますから。
☆ みんな《われ》であり《おのれ》の一体です。

★ karinさんの回答
☆ の批評をおねがいします。

お礼日時:2023/04/25 11:49

考察(一)として


「人生とは利己を捨てる旅である。利己が消え利他へと昇華し旅は終わる」と規定する事は出来ないか・・・?
人は利己の塊で誕生することは誰の目にも確かで、死を覚悟した瞬間利己が消える様にも見えるが・・・この事実から、利己に固執し続ける者は、不幸にも安楽死することも儘ならず、生という塗炭の苦しみから逃れる事ができないのでは・・・

考察(二)として
定義として「人の基底は利己である。利他は利己から派生した枝葉である」とする。この時に、利己に頼らない利他の存在が確認できれば、人の基底部分は利己ではないとなる。さて、その基底部分を(基底心)と仮に名付けると、次の形を考察できます。
1.利己⇒利他
2.(基底心)⇒利己⇒利他
3.(基底心)⇒利他
1では利己=(基底心)です。
2では利己が必須である為に、基底の有無は確認不能。
3では利己とは一時的な現象物に過ぎない。
東洋に於いては(基底心)があるものとして、その思想は存在します。過去には、3を願い即身仏や清水の舞台から飛び降りる者の多いこと・・・
西欧啓蒙主義では、利己=(基底心)であり同時に唯物的であると考えます。デカルト的進化論的思想から導き出される理論によって、「自由・平等・友愛」を旗印に個人の尊厳が至上の価値とされ、利己的である事は正しく、その土壌である自由を死守します。しかし、西欧の利己的唯物的思想は、米国を代表として現在限界に達し、人類の存続さえも脅かしています。これは事実であり現実です。
仮に、人間の本質が利己ならば、とうの昔に人類は滅んでいたと予測します。よって、別に基底心的なものが存在し、利他単独も存在し得ると予測します。
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この回答へのお礼

★ 考察(一)として
「人生とは利己を捨てる旅である。利己が消え利他へと昇華し旅は終わる」と規定する事は出来ないか・・・?
☆ 出来ません。則天去私も スローガンなんです。

★ 人は利己の塊で誕生することは誰の目にも確かで、
☆ そんなことはない。ひとの困っている姿を見たら たすけようとしますよ。

★ 死を覚悟した瞬間利己が消える様にも見えるが・・・この事実から、利己に固執し続ける者は、不幸にも安楽死することも儘ならず、生という塗炭の苦しみから逃れる事ができないのでは・・・
☆ ちょっと理知的に考えすぎでは?

★ 考察(二)として
定義として「人の基底は利己である。利他は利己から派生した枝葉である」とする。
☆ 人は利己だとか いや利他人間も中にはいるとか いづれも そのように考える人間たるわれがいるのです。その意志は 言わば中立もしくは《生きる しかもよく生きる》指向性を持つと思います。

よく生きるためとして 利己的たらんとしたり 利他を目指したり。


★ この時に、利己に頼らない利他の存在が確認できれば、人の基底部分は利己ではないとなる。さて、その基底部分を(基底心)と仮に名付けると、次の形を考察できます。
1.利己⇒利他
2.(基底心)⇒利己⇒利他
3.(基底心)⇒利他
1では利己=(基底心)です。
2では利己が必須である為に、基底の有無は確認不能。
3では利己とは一時的な現象物に過ぎない。
☆ わからんわい。腹の中を掻っ捌いて見てみたことないので。

★ 仮に、人間の本質が利己ならば、とうの昔に人類は滅んでいたと予測します。よって、別に基底心的なものが存在し、利他単独も存在し得ると予測します。
☆ これでいいんぢゃないですか。シンプルイズベスト。

★ 東洋に於いては(基底心)があるものとして、その思想は存在します。過去には、3を願い即身仏や清水の舞台から飛び降りる者の多いこと・・・
・・・しかし、西欧の利己的唯物的思想は、米国を代表として現在限界に達し、人類の存続さえも脅かしています。これは事実であり現実です。
☆ おそらく 譲り愛と競い愛の違いではないか。

ゆづると言っても 残り物になったとしても自利を放棄してはおらず 利己をも主張する。

きそうと言っても その過程でよき見解を見つけ出しみなでほめたたえ共有するようになることもあり。

お礼日時:2023/04/25 12:05

(補足)


「利己⇒利他」
なら、主客は分離したままであろう。
「(基底心)⇒利己」
「(基底心)⇒利他」
が可能なら、主客は統一する。自己も他己も同一レベルであり、自然も宇宙も人間も同一で均等な存在であり、区別も差別も支配も意味はない。存在の違いという事実があるのみ・・・光明とは東洋から差すのであろうか!?
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この回答へのお礼

いやぁ むつかしい。

かみくだいて欲しい。




★ ・・・光明とは東洋から差すのであろうか!?
☆ ただし その光明とは何であり どのように差してくるのかを むしろ西洋が 分析しておしえてくれるかも知れない。

お礼日時:2023/04/25 12:08

★5つ目からは異議ありですが、説明が長くなりそうで、、、



karinさんの件についてです。
利己から完全な利他へ、と云う事は利己と利他が“離れて・分離して”と云っていると思います。

その利己から、完全に離れた・分離した利他、へは行けないのでは、と云っているのだから利己と利他はつながっている、と云う事を意味します。
それなのに「行けないとしたならば利己と利他には分離がある」と云ってしまっています。
ブラジュロンヌさんの説を否定しようとしたのに、肯定してしまっています。

ただ、この部分の私の解釈は、karinさんの「考え」に付いてではなくて単に、揚げ足取り的な指摘です。

※これを作文中にkarinさんの投稿があったようですが、まだ見ていません。
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この回答へのお礼

★ 利己から完全な利他へ、と云う事は利己と利他が“離れて・分離して”と云っていると思います。
☆ ええっとですね。

◆ 利己から利他へ そして 完全な利他
☆ この概念がわたしには何を言っているのか 分かりません。


★ その利己から、完全に離れた・分離した利他、へは行けないのでは、と云っているのだから利己と利他はつながっている、と云う事を意味します。
☆ 互いに混ざり合った状態にある・・・というんですかね。


★ それなのに「行けないとしたならば利己と利他には分離がある」と云ってしまっています。
ブラジュロンヌさんの説を否定しようとしたのに、肯定してしまっています。
☆ なるほど。はっきりしていましたね。

そういうことですか。この場合の追究の根気が出ませんでした ざんねんながら。


★ ただ、この部分の私の解釈は、karinさんの「考え」に付いてではなくて単に、揚げ足取り的な指摘です。
☆ あぁ。なにやら 複雑ですからね。

あたらしい投稿が来ているようです。

お礼日時:2023/04/25 17:50

>★人は利己の塊で誕生することは誰の目にも確かで、


>☆そんなことはない。ひとの困っている姿を見たらたすけようとしますよ。
オギャーと生まれた赤ちゃんは、乳くれ腹減った眠いと我が儘だらけで利己の塊である。当然だが・・・他人を思う時は相当に時間経過してからでしょう。

デカルトからの西欧哲学は主観と客観の分離から始まり、これに進化論も加勢した唯物史観は、自然科学の脅威的発展を生んだが、その反面「神は死んだ(ニーチェ)」となる事態を生じた。この状態を平行展開すると「利己⇒利他」と似て見えると思うが・・・そして、主客分離の破滅的限界から逃れる為に、主客統一すべくもがき苦しんでいるのが、現在の西欧思想と考える。

西田哲学は東洋的仏教思想から主客合一を実現し、物を物自体と見て、人を人自体と見た。同時に、これを平行展開すると「見⇒利己」「見⇒利他」と類似になり、それをそれ自体として見ていると思える。ニーチェが叫んだ死神は東洋思想の主客一致により復活し、自然の一部へと溶け込む結果、光明となるのではないだろうか?
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この回答へのお礼

>★★ 人は利己の塊で誕生することは誰の目にも確かで、
>☆☆ そんなことはない。ひとの困っている姿を見たらたすけようとしますよ。

★ オギャーと生まれた赤ちゃんは、乳くれ腹減った眠いと我が儘だらけで利己の塊である。当然だが・・・他人を思う時は相当に時間経過してからでしょう。
☆ ただですね。そういった我がまま状態は それと裏腹に けっきょく無防備なんですよ。ほとんど無条件に何も警戒していない。そういう我がまま状態ですよね。

或る意味で 聖なる甘え・・・と言えなくもない。のでは?

つまり 単なる・あるいは普通に言う《利己的》とは ちょっと違うように思えます。



★ デカルトからの西欧哲学は主観と客観の分離から始まり、これに進化論も加勢した唯物史観は、自然科学の脅威的発展を生んだが、その反面「神は死んだ(ニーチェ)」となる事態を生じた。この状態を平行展開すると「利己⇒利他」と似て見えると思うが・・・そして、主客分離の破滅的限界から逃れる為に、主客統一すべくもがき苦しんでいるのが、現在の西欧思想と考える。
☆ 《平行展開うんぬん》が 分からない。


★ 西田哲学は東洋的仏教思想から主客合一を実現し、物を物自体と見て、人を人自体と見た。同時に、これを平行展開すると「見⇒利己」「見⇒利他」と類似になり、それをそれ自体として見ていると思える。ニーチェが叫んだ死神は東洋思想の主客一致により復活し、自然の一部へと溶け込む結果、光明となるのではないだろうか?
☆ よく分からないのですが 一点。

【Q:ヘーゲルの《神は死んだ》 すなわち 普遍神の問題!?】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13183840.html
☆ というように ニーチェよりずっと前に言われています。もっとも ヘーゲルの場合は 《死んだ》ということを 絶対性を代理表現するかのように捉えて話を打ち出していますが。

お礼日時:2023/04/25 18:01

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