プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

1. 利己も利他も みづからの意志で欲しておこなうわざである。

2. その主体たる《わたし》は どんな意味でも――よき人格としても我執としても――消え去るわけではない。

3. 我欲としては その時には忘れているだけである。

4. 利他は 自分が欲しておこなう意志行為である。自分の利益から完全に離れておこなうといったことは 無理である。

☆ ちがいますか?

A 回答 (13件中11~13件)

一見、意見の相違がある様に見えますが、心の仕組みに付いては差異の無い捉え方をしていると思います。



他者に与える行為によって、自身の被る功罪は必ず有ると云う事ですね。

違うところは、功罪の中身(内容)だと思います。
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この回答へのお礼

1. 人間の――他者に対する場合をふくめた――意志行為は そのみづからの意志の欲することをおこなうものである。


2. 意志の内容には 他者に対する場合 〔自己の思うところとして〕他者の為になるものと為にならないものとがある。

3. 利他と利己とそれぞれよぶ。

4. どちらも 自己という人間のためにおこなっている。

5. 自己の存在(生きること)の為にならないという場合でも 自己のために意志がそう欲したという事情は変わらない。

6. 利他とよぶこちらの行為を受けた他者がよろこんだとき その反応をこちらがどう捉えるかは さして重要ではない。

7. 言いかえると ふつうに利己の行為をして生活していることと 基本として 同等なことである。

8. 利他が成功したことと 利己が失敗したこととは わが意志行為として・自己実現にとって 価値は 同等である。

9. 意志行為の結果としてそれを受け留める自己にとって どちらも自己実現のために活かそうとするだけのことである。

お礼日時:2023/04/24 22:12

凡人、いや普通の人だから・・・


聖人への道への過程が利他行ですね。
もちろん、普通の人々がみな聖人をめざして、と云う訳ではありませんが。

利他行為をしたくなるという精神が、万人に備わっていると云う事に注目することにしましょう。
これを仏性ある故、と云ってもいいですよ。

このような精神の性向・気質を、弁栄上人は理性ある故と云っています。
姿を見せなくなったハルさんの表現を借りれば、宇宙はその精神の意志と感覚と理性で❝出来ている❞と云う訳です。

利他行為は利己行為に外ならない、と思えるのは応報が有るからと云えます。

応報の内容が大事なのです。

釈尊もキリストも弁栄上人も、みんな自身の心を❝良くしたい・良い状態にしたい・しておきたい❞と頑張ったのです。

だから、みんな我欲で生きているのです。
欲の内容が大事なのです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 凡人、いや普通の人だから・・・
☆ いいえ。みんな 例外なく 凡人です。

★ 聖人への道への過程が利他行ですね。
☆ ウソだ。そういう演出をしたというだけ。これが 受けた。千年もニ千年も。

聖人マジック。


★ もちろん、普通の人々がみな聖人をめざして、と云う訳ではありませんが。
☆ いや。求道心はありますよ。たいていの人は。聖人ぶっているエライさんよりも ほこらしいほどではないですか。




★ 利他行為をしたくなるという精神が、万人に備わっていると云う事に注目することにしましょう。
これを仏性ある故、と云ってもいいですよ。
☆ そんなことは しりきって紙を貼っている。

問題は そのことを 特別な人間像なのだと はやし立てるようになっている感染病です。聖人マジックに罹った聖人あこがれ病。

要するに 人間のふつうの自由意志の発露としての・広義の利己心にかかわるものだということです。(利他でないとは 言っていない)。


★ このような精神の性向・気質を、弁栄上人は理性ある故と云っています。
☆ そうでしょうが 問題は ふつう一般の意志行為だということ。市民一般が ふつうに自然に助け合うぢゃないですか。特別なことではないよ。

★ 姿を見せなくなったハルさんの表現を借りれば、宇宙はその精神の意志と感覚と理性で❝出来ている❞と云う訳です。
☆ ご自由に。

★ 利他行為は利己行為に外ならない、と思えるのは応報が有るからと云えます。
☆ なくても――無償だという場合にも―― おのれの自由意志の行為であるからには おのれの為におこなうのに決まっています。

他者のためになることでも それを大きく自己という存在のためにおこなう。

★ 応報の内容が大事なのです。
☆ それは 成功失敗その他その他で いろんな場合があるというのみ。


★ 釈尊もキリストも弁栄上人も、みんな自身の心を❝良くしたい・良い状態にしたい・しておきたい❞と頑張ったのです。
☆ 初めから仏性をやどしているぢゃないですか。よくなっている。

★ だから、みんな我欲で生きているのです。
欲の内容が大事なのです。
☆ そんなもの わしゃ 知らんわ。我欲ぢゃないから こういう物言いをして問うているのです。

道理にかなった考え方が実現すればわたしゃの利益。

お礼日時:2023/04/24 20:07

「雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ


 丈夫なからだを持ち 欲は無く 決して瞋からず
 何時も静かに笑っている 一日に玄米四合と 味噌と少しの野菜を食べ
 あらゆる事を自分を勘定に入れずに 良く見聞きし判り そして忘れず
 野原の松の林の影の 小さな萱葺きの小屋に居て
 東に病気の子供あれば 行って看病してやり
 西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を背負い
 南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくても良いと言い
 北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い
 日照りのときは涙を流し 寒さの夏はオロオロ歩き 
 皆にデクノボーと呼ばれ 誉められもせず苦にもされず
 そういう者に 私はなりたい」
>自分の利益から完全に離れておこなうといったことは無理である。
宮沢賢治も我利(利己的人間)であったか・・・!?
昭和天皇の侍従は、陛下の為に四六時中滅私奉公でしたが、殊の外幸せで楽しくもあり楽でもあった様です。完全に利他的である事で、それが至上の幸福となる人を我儘(利己的人間)と定義可能であろうか・・・?
逆に、利己的目的から完全なる利他的な状態へ行き着けるものか・・・経験的に行けない様な気がするが・・・行けないとしたならば利己と利他には分離があり不一致な筈。行けたとして同居できるか?同居できないならこれも不一致な筈。一部利己的で一部利他的な中途半端で一般的人間から、利己心を人の根本的基礎と見誤っているのではないか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

▲ 「雨にも負けず 風にも負けず
☆ うむ。

▲ 東に病気の子供あれば 行って看病してやり
 西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を背負い
 南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくても良いと言い
 北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い

☆ これは いわゆる助け合いですね。その辺のおばちゃんたちも しようと思えばすると思える利他ですね。

そして むろん自分がそう欲しておこなっている。情況を見てあたかも条件反射のごとく行動したとしても 事後的には 自己の意志が欲した行為と確認されるはずです。


☆☆ >自分の利益から完全に離れておこなうといったことは無理である。
☆ たとえば《自分の》精神衛生にとってよいことなはずでしょう。

★ 宮沢賢治も我利(利己的人間)であったか・・・!?
☆ ニュアンスが ちょっと違うんです。

利他のおこないは 利己からまったく離れて成され得るか? それはないであろう という命題。

★ 昭和天皇の侍従は、陛下の為に四六時中滅私奉公でしたが、殊の外幸せで楽しくもあり楽でもあった様です。
☆ それはですね。そういう意志行為の類型はあるんです。

《〔むろん自分の意志によって その務めを〕引き受けた》という場合です。そのあとでは 《引き受けたこと》が優先されます。

漱石のように《則天去私》であったかも知れない。でもね それが おのが人生だと決めたのです。それを引き受けたのです。

そういった〔滅私ではなく〕去私としての人生は 母親という役割りを引き受けた場合には ふつう一般に見られますね。

★ 完全に利他的である事で、それが至上の幸福となる人を我儘(利己的人間)と定義可能であろうか・・・?
☆ たとえば母親が《引き受けた》その務めは 夫や子供たちの為を優先させます。

利己ではないだろう? と問われるなら その《引き受けた務めにかかわる人間たちの利益の為に生きる》んです。自分も入っているんです。

★ 完全なる利他的
☆ は 人間にはないんです。

★ 一部利己的で一部利他的な中途半端で一般的人間から、利己心を人の根本的基礎と見誤っているのではないか。
☆ 《ほかの誰でもない〈自己〉の意志による務め》 これが 基本です。そこに利己もそして時に利他もあり得ます。でも 広義の利己です。

お礼日時:2023/04/24 16:48

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