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徳川幕府は鎖国をしていたのに、朝鮮通信使だけは受け入れました。なぜですか?

質問者からの補足コメント

  • どう思う?

    朝鮮通信使というのは、朝鮮政府が日本政府(徳川幕府)へ派遣した外交使節だと思うのですが。

      補足日時:2023/05/03 10:32

A 回答 (8件)

鎖国をしていないからですね。


キリスト教の布教禁止、海外渡航の禁止、貿易の幕府独占などであって全く外国との関係を絶っていたのではありませんね。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2023/05/04 12:59

鎖国、鎖国と言うけど全く外界との接触を絶っていたわけではない。

あくまでキリスト教関係を規制したもの。理由は、日本人を奴隷として売買してるのが、分かったから。理由分かれば納得するやろ
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2023/05/04 12:59

鎖国といってもねえ。



あれはキリスト教が入ってくるのを
阻止するためでした。

だから、その危険性が無い、朝鮮や
中国との交易はやっていました。

また、オランダはプロテスタントで
カトリックではなく
布教をしなかったので
交易を続けました。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2023/05/04 13:00

「鎖国」というのは、外国と一切接触しないということではありませんから。


政府(幕府)だけが独占的に外国と交渉するという事です。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2023/05/04 13:00

朝鮮が通信国だったからです。


鎖国下において、通信国である琉球・朝鮮は国交があり、
貿易も可能でした。
一方で、国交がないが貿易は可能な国は通商国と言われ
清とオランダがありました。
ちなみに管轄も通商国は幕府直轄の長崎奉行が担当し、
通信国は琉球は島津氏、朝鮮は宋氏が担当しました。

通信使の費用は幕府もちではなく朝鮮が負担しています。
ちなみに琉球も通信国なので将軍の代替わりに慶賀使、
琉球国王の代替わりには謝恩使を派遣しています。



また、朝鮮通信使は室町時代からあり、特に1590年には
秀吉の天下統一を祝して秀吉に謁見しましたが、
秀吉は服従のための使節と思い、仮道入明を要求しました。
しかし、使節の正使が秀吉の侵攻を警告したにも関わらず
副使が有力者であったため秀吉を軽視した報告をしたので
朝鮮は文禄の役の緒戦ではこてんぱんに負けてしまいました。
(厳密にいえば慶長の役での明朝鮮連合軍が乾坤一擲を期した
 四路の戦いなど、ほぼ日本が圧倒して勝っています)
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2023/05/04 13:00

鎖国と云っても、キリスト教宣教師の入国を全面的に拒否していただけで、貿易や外交関係まで拒否していたわけではない。



そして幕府は最終的にはその貿易の窓口も長崎の出島に制限したが、その目的はキリスト教徒が出島から出られないように監視するとともに、幕府以外の諸藩が勝手に外国貿易の利を得られないよう、貿易利権を幕府が独占することにあった。
薩摩は琉球出兵によって琉球支配を幕府に認めさせ、琉球を通じた海外貿易利権を持ったが、幕府としてはそれは例外として諸藩のそのような動きを封じたかったわけだ。

秀吉以降断絶していた朝鮮通信使が再開されたのは、幕府側には近隣諸国である明朝二国と正式な外交関係を持ち、そのうえで管理された貿易関係を持ちたいという思惑があったからだ。
だから幕府は、キリスト教を布教しないことを誓約したオランダに加え、明と朝鮮とも取り合えず民間ベースでの貿易を再開させる一方で、明朝二国とも正式な貿易利権付きの国交交渉を始めた。

しかし、秀吉時代と同じく朝貢貿易しか認めない明は、対等貿易を求める幕府との国交を拒否したのに対し、朝鮮には日本の将軍に頭を下げることになる朝鮮通信使を送ってでも、日本との平和が約束されるうえに大きな実利が伴う日朝貿易を再開させたい事情があった。

それは、秀吉との戦争で国庫が空っぽなってしまったこと以上に、朝鮮の北方の女真族に英雄ヌルハチが現れ、明国さえも圧迫される状況に陥ったからだ。万一ヌルハチと徳川幕府が手を握って朝鮮に同時侵攻してきたら、明国だって自国の防衛に手一杯だから助けてくれる保証はもうない。

それで、朝鮮としても、壬申倭乱の戦後処理と国交回復交渉を名目に、徳川幕府がヌルハチと朝鮮を分け合う侵攻交渉を始めているのかどうか探りに行く必要が出てきた。それで幕府の要求に応じて通信使を派遣したということになる。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2023/05/04 13:01

徳川幕府は江戸時代を通じて「鎖国政策」を取り、海外との交流を排除する政策を行っていました。

しかし、朝鮮は、徳川幕府に対して公使を派遣することを義務付けられていた朝鮮通信使を江戸に派遣し続けました。では、朝鮮通信使が徳川幕府から受け入れられた理由についてですが、

1. 異文化理解のため

当時の日本では、外国との交流が極端に限られており、異文化理解があまり進んでいませんでした。特に、東アジア圏内である朝鮮との交流は、単なる軍事的な利益だけでなく、民族や文化面でも強くつながっていたと考えられます。 そのため、徳川幕府は、異文化理解の向上や、将来的な国際交流を見据えて、朝鮮通信使を受け入れたとされています。

2. 平和維持のため

当時のアジア太平洋地域には、中国を始めとする多くの国がおり、政治的不安定が広がっていました。そこで、徳川幕府は、朝鮮との交流を通じて、平和維持につながる外交努力を行うことで、自国の安定を図ったとされています。 また、朝鮮通信使が日本に来ることによって、外交上の緊張を緩和することができ、国際社会との信頼関係を高めることもできたと考えられます。

以上のように、朝鮮通信使を受け入れた理由は、徳川幕府にとって様々な政治的、文化的な利益があったとされています。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2023/05/04 13:01

家康が、中国事情などのため、通信使を望んだからです。

そのため、費用はすべて、幕府持ちに。
1711年
19代王 粛宗 テレビドラマ、「トンイ」で有名。
この頃には、幕府も財政が豊富で、莫大な経費を投入と。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2023/05/04 13:01

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