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鎌倉武士は強いって聞きますが、具体的にどれぐらい強かったのですか?

A 回答 (4件)

古代から中世は野蛮人ほど強いと思われていた。

ローマ帝国も屈強なゲルマン民族には苦戦を強いられていましたしね。雅な都の兵士よりは強かったということもあるでしょう。

ただ、平安時代初期は蝦夷が最強と思われていた。坂東武者たちも人口の少ない蝦夷と戦ったがかなり苦戦している。蝦夷は馬術や弓術に秀でていたということもあっただろう。

南北朝時代に北畠顕家は奥州の騎馬軍団を引き連れて1日40kmという強行軍を連日続け、各地で足利軍を打ち破りながらたったの半月ほどで600kmを進撃して京付近にまで辿り着いている。
その事実だけでも、坂東武者よりも奥州武者の方が強かったことは明らかだ。
現代の戦車を中心とする機甲部隊でも1日30kmなら相当な快進撃だ。

源義経が奥州に逃げ込んだ時、藤原一族が義経を大将にして源頼朝と対抗すれば、頼朝も奥州に攻め上ることはためらったことは間違いない。
結局は藤原秀衡の死でその構想は頓挫し、弱気な藤原泰衡によって義経が殺され、内紛もあって頼朝率いる坂東の大軍に浮足立って敗北してしまった。

まあ、経緯は兎も角、結果として最強の奥州武者たちに勝ったのだから、その時点では坂東最強と言っても良いだろう。
とはいえ、初期の南北朝動乱時に奥州兵が坂東武者たちを打ち破り続けたことを考えれば、やはり最強は奥州武者たちであったと思う。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました!!

お礼日時:2023/06/09 20:21

日本一強かったです。

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この回答へのお礼

回答ありがとうございました!!

お礼日時:2023/06/09 20:21

強い弱い対相手があっての評価です。



元寇の役では、元軍は博多の奥に作られた土塁を破れず、体制を整える
為に博多の街を焼いて博多湾の外に出て待機しました、そこに台風が
来たらしいです。
元軍は平原での騎馬と弓による攻撃ですが、山間部を利用した鎌倉武士
は局地戦での戦いなので、数で押し寄せる元軍は勝手が違ったと思います。
元軍の大半は高麗の兵なので統率が取れなかったのでは・・・
従って、強さの度合いは計れませんね、国を守ると言う意気は高かった
と思いますが。

博多湾に押し寄せる前に、対馬に上陸した元軍は住民の手に穴を開け
数珠繋ぎにして連れ去りました、此の事が豊臣秀吉が挑戦に攻め入った
要因の一つと言われてます。

平家物語には、武蔵坊弁慶の様な偉丈夫が大勢い登場します、鵯越で馬を
背負って降りた畠山重忠の話は事実と思います、平家物語には怪力の
武士が数多描かれています。
巴御前も中々の豪の者で、斬りかかって来た敵を馬の鞍に押し付けて
首をもぎ取ったと有ります、話半分でも怪力の持ち主には違いが無い
でしょう。
雑穀と山の獣の肉を食していたので体格は良かったようです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました!!

お礼日時:2023/06/09 20:21

おそらくレベル40は超えていたと思います


世界ランカーもいたのではないでしょうか
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました!!

お礼日時:2023/06/09 20:20

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