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朝鮮政府が秀吉宛に通信使を派遣した理由はなんですか?

A 回答 (4件)

九州を平定した豊臣秀吉豊臣秀吉の次の狙いはアジア――明国制圧でした。

秀吉は、明国への通り道となる朝鮮に国王宣祖の参内を、対馬の宗義智宗義智と景轍玄蘇景轍玄蘇を通して二度三度と要求しました。

朝鮮朝廷は議論に議論を重ね、秀吉の天下統一の祝賀の為ということで、通信使の日本派遣を決定しました。 そして、天正一八年(1590)に、黄允吉、金誠一らに楽隊まで加えて二百人の大一行が来日しました。
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戦いの前の通信使のことですね。


それは、本当に朝鮮に軍を向けるのか?
それを確認するために派遣したわけです。

ただ、朝鮮王朝は東人派と西人派が激しく争っていた時代で、使節を送った時点では西人派が優勢だったので、正使が西人派、副使が東人派だった。
二人はバカではないので、秀吉が朝鮮に軍を向けるに違いないと確信した。

そして朝鮮に戻ったが、その時は東人派が優勢になっていた。
そして正使の西人派は、朝鮮出兵があると報告したものの、東人派の副使は西人派に対抗するために、秀吉は朝鮮に軍を向けることは無いと大ウソを付いてしまった。

そして東人派が優勢な朝鮮朝廷では秀吉が来ないことになってしまった。
朝鮮は、外圧よりも内争を優先させる愚かな朝廷を持っていたわけだ。
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秀吉に通信使を派遣したのは2回。



1回目は秀吉が全国を統一して朝鮮国王を呼びつけましたが、
考証に当たった宗氏が全国統一の祝賀という形式にしました。
もう一つの目的は、秀吉の朝鮮出兵に関する情報収集。
しかし、正使が秀吉を警戒することを勧めたにもかかわらず
主流派の副使が秀吉を過小評価したため朝鮮出兵の対抗に
準備ができませんでした。

2回目は文禄の役における休戦交渉に同行しました。
目的は朝鮮への再出兵を引き留めるもの。
ただし、秀吉との謁見を許されず国書を持ち帰っています。

ちなみに、朝鮮通信使は室町時代から行われ、その主目的は
倭寇対策を促すものと日本の国情視察でした。
また、慶長の役は秀吉の死によって撤収しているので、
その事後処理は秀吉宛ではありません。
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秀吉の朝鮮征伐時、主に陶工やその家族を連れてきましたが、それを返せと言ってきたんです。

日本側は陶工たちに帰りたいかどうか尋ねたんですが、希望者が出なかったんです。仕方なく通信使に忖度し適当に選んで返しました。朝鮮はこういう技術者を重視してなかったんですね。鹿児島には沈壽官という朝鮮風の名前を名乗る子孫がいますが、戸籍上は日本人になってます。
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