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昭和史の本を読むとよく出てくるのが統帥権の問題です。
「当時の憲法では天皇の下に陸海軍と政府が並立していた。そのため陸軍の暴走を政府は止められなかった」とよく言われています。
それなら昭和天皇が「陸軍は暴走をやめろ」と言ってくれれば済むことなのに、なぜしなかったんですか?
天皇の命令なら従うんですよね?

A 回答 (24件中11~20件)

こんにちは。


 既に、「当時の天皇にそこまでの権限はなかった」という旨の同様の意見がたくさん出ているので、ちょっと違った視点から次のような回答ではいかがでしょう。
ポイントは、「その時代においては、誰も暴走だと思っていない。少数の人は気づいていたが・・・」

 どの国でもどの時代でも、「その時代の空気」はありますね。
 ずばり、「軍部の暴走」というのは後の時代(特に敗戦を経験した後の時代)だから言えること。
 あの時代、多くの人が心から軍隊を応援しており、「神国日本の軍隊」「悪辣な欧米の支配から命がけでアジア人民を救う英雄たち」と思い込んでいました。当時の天皇も多かれ少なかれそのような気持ちがあったでしょう。
もちろん、国民の中には「最近、やりすぎでは」とか「すでに暴走ぎみではないか」と思っていた人もいたはずですが、日本人の集団圧力のなかで声には出せず・・・。(2.26事件の段階ではまだ言論の自由はそこそこにあったはずだが・・・)
 「侵略的戦争は独裁者が起こすもの」という他国での一般的常識と異なり、日本では「独裁者がいなくてもいつの間にか暴走が始まる」という点で特異な歴史を経験しており、その意味では私も日本人としていまだに日本人が信用できません(苦笑。軍部の暴走というけど案外国民も後押ししていた…かな)

 もっとも、その点では現代も同じ。
・100年後の熱暴走のひどい気候の中で、「あれほど温暖化に警鐘が鳴っていたのに、100年前にはみんな平気でガソリン自動車に乗っていた」とか、
・「限定的」ながら核兵器の応酬で生き残った人(残っていれば)が「あれほど核兵器の警鐘が鳴っていたのに、ほとんど制限できなかった」とか、
・国の借金がもう限界なのにばらまき経済対策をうたう政党につい勝たせてしまう、とか
・原発は事故が起きたら大変・・・だったのに、一番手軽な住宅用太陽光発電でさえいつまでたっても大した普及率ではなく電気代高騰の中で再稼働を期待する声が・・・あれ?これは未来の話でさえない・・・

ま、歴史に学びましょう。
いかがでしょうか。
お役に立てば幸いです。
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天皇専制でなく立憲君主制だったから。



専制国家なら、君主がすべてをしきることができる。
臣下は手足にすぎない。
ロシア帝国がその典型である。

しかし日本はそうでない。
民族的にそういう専制を嫌う。
臣下がそれぞれの配置で力を発揮しチームプレイで国家を推進する。
天皇もあくまで「天皇という職種を全うする」チームの一員である。

こういう制度で天皇がすべて仕切ってしまえばチームワークは崩壊する。
臣下の存在意義はなくなってしまう。
必要なのは手足だけになる。
明治維新後70年。
その成果をすべて無にするのは、あの時代の国家としてはリスクが高すぎるのである。

とくに昭和天皇は天皇機関説の信奉者だった。
臣下の職域を侵すのはポリシーに反することだった。
たとえ国家危急の折でもである。

というか、後世の我々は結果を知っているから「愚かな判断」と糾弾できるが、当時の人間には五里霧中だった。
アメリカと戦えば負けるのは分かっているが、うまく短期決戦に持ち込んで有利な講和に持ち込めるか、それとも何をやっても無駄か、そういう判断はほとんどの人間にはできなかった。

昭和天皇もそういう人間の一人である。
陸軍を止めてそれが最悪の結果になれば、やはり後世の人間から「愚かな行為」と罵られただろう。
どちらが最善かなど、見えない方がふつうである。
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明治維新では、薩長など討幕派の大名と討幕派の公家に天皇が担がれ、討幕軍が官軍となって、賊軍となった幕府を討伐しました。



その後、維新政府は天皇をトップに据えましたが、実際の天皇は祭祀を司るだけで政治は元討幕派の指導者たちが担い、天皇はそれを承認するだけの存在でした。憲法が出来、国会が開設された以降も同じです。
例えて言えば、平安時代の天皇が現人神として祭祀を司り、政治は摂関家や上皇が取り仕切っていたのと同じことです。武家政治が始まってからも、承久の乱以降の天皇は、実質的に国内政治を幕府に委ねていました。
これは現行の日本国の象徴となった天皇と同じことです。

明治天皇、大正天皇、そして大日本帝国が滅亡するまでの天皇も現人神と呼ばれていました。平安以降の天皇と同じです。神様は政治のような俗事には関わってはいけない存在だったのです。

昭和天皇が公式に政治に判断を下したのは、いわゆる聖断だけです。
ポツダム宣言を受諾するかどうかで鈴木貫太郎内閣が決を取ることができなかったため、判断を昭和天皇に委ねた時です。
昭和天皇はポツダム宣言を受諾することを内閣に伝え、終戦となりました。

何故、鈴木貫太郎内閣は決を取れなかったのか。内閣は全員一致でなければなりませんが、阿南陸軍大臣が最後まで反対したからです。何故かと云えば、天皇の安全責任を負っていたのが陸軍だからです。そして阿南陸相はポツダム宣言を受諾すれば天皇が戦犯で処刑されると考えており、最後の一縷の望みとして、ソ連が天皇の安全を保証する形で日本の降伏条件を認めることを願っていたわけです。
しかし、ソ連は日本との不可侵条約を破棄して日本に宣戦布告しました。

阿南陸相もさすがに天皇の安全を守れないと諦めましたが、どうしてもポツダム宣言受諾に賛成はできなかった。それは陸軍が天皇の命を守れないと宣言するに等しいからです。それで妥協の産物として、天皇に聖断を仰ぐことにした。

鈴木首相はもちろん、他の大臣たちも、昭和天皇がポツダム宣言受諾の意志を持っていること、つまり昭和天皇が敗戦責任をすべて引き受けて処刑されるつもりであることは薄々知っていたはずだ。
それはそれとして、内閣としては職務を全うせずに天皇にすべての責任を押し付けたことは、極めて無責任だったとしか言いようがない。

阿南陸相は、最後の御前会議を終え、自宅に戻ると割腹し、介錯を拒否して長く苦痛に苦しみながら死んでいった。それが彼としての責任の取り方だったのだろうか。
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統合本部議長が皇族であり。


そして、軍備拡張論者だった。
そのため、陸軍は暴走。
反対論者は、罷免された。

多くの兵が死に苦しみ、国民に苦しみと悲しみを与えた。
当時は、兵の数が勝つための力だった。
生めや増やせと、兵を増やし、虫けらのような命だった。
今のロシアのように、止められない。
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分かりやすく書くと「戦前の日本は、鎌倉幕府になる前の状態だった」のです。



鎌倉幕府は「軍部」です。当時の天皇から許可をもらって軍政を敷いていたわけです。

でも鎌倉幕府は日本発の軍政で、しかも天皇の権力を奪ってしまう事から、鎌倉幕府ができる前に阻止しようと天皇は何度も源頼朝を討伐しようとします。

逆に幕府ができると、六波羅探題を作って幕府=軍部は天皇の権力を押さえにかかります。当時から天皇と政治の事実上の権力者の間には、権力争いが絶えなかったのです。

鎌倉幕府は軍部なので、比較して説明しましたが、天皇と事実上の権力者の争いは、もっと前、藤原執権政治ぐらいから始まり、鎌倉幕府のちょっと前は平清盛が天皇を押さえて絶大な権力を維持していた、という史実もあります。

つまり、日本の歴史でいうと「天皇個人は誰でもいい」のです。もちろん血がつながった天皇家の人物である必要がありますが、昭和天皇には弟もいたし、息子たちもいたし、旧宮家の男性もたくさんいました。

もし昭和天皇が軍部の活動に直接的に反対したら、今度は軍司令部が226事件のようなものを起こして《軍部にもっと有利な発言をする誰か》に変えていた可能性も高いと言われています。

いや、実際には226のようなクーデターではなく、もっと政治的な陰謀で「昭和天皇はご隠退なされて上皇になり、○○殿下が後を継ぐ」というようなことが起きたかもしれません。

このようなシナリオは天皇を研究する人たちの中では「十分にありえた」とされていますし、昭和天皇自身が「もし反対したら、私が天皇の座を降ろされていた」という発言もしているはずです(ソースを忘れましたので、記憶で書いています)

どのようなことを昭和天皇がお考えになったかは分かりませんが「誰が天皇でも軍部の暴走を天皇が止めることは難しい」状態だったと思います。
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天皇に、事の是非を決める能力


など無いでしょう。

周りに説得されれば
その通りに動きます。

勝てます、と言われれば
あ、そう
と思うだけです。

やらなければ、やられるだけです。

こちらが攻撃しなければ
大丈夫なんてのは、間違いです。

米国は、必ず罠を仕掛けて来ます。
米国とはそういう国なのです。


米西戦争 1898年 2/15 ハバナ湾で、
米国戦艦メイン号が謎の爆発沈没。
米兵266名が死亡。
スペインの仕業だ、ということになり
戦争になりました。

第一次大戦では
ルシタニア号事件が発生しています。
ドイツ潜水艦が沈没させ、128名のアメリカ人が死亡。
これで米国が参戦しました。

やるしかないのです。

勝てなくても、引き分けに持ち込む
という方法もあります。

日露戦争のようにです。


なんて、具合に説得したのかも。
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立憲君主制とは、君主が民衆の選択に責任を負うもので、君主が民意を否決する権限はありません。

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責任を取らない立場だからです。



江戸幕府の将軍と同じ。
老中合議制で、老中が検討して決定し、将軍は承認するだけ。
まずいことになった時は老中以下が責任を取る。
将軍の名で命令するが、将軍は責任を取らない。
明治政府はそれを受け継いだ。

天皇の名で命令し有無を言わせないが、天皇に実権はない。
侍従には戦争やめたくていっぱいグチグチ言ってたらしい。
というより、そもそも戦争をしたくなかった。
合理的思考ができれば最終責任は天皇にあることは、一目瞭然だから。

要するに実権はなかったということ。
それは明治天皇も同じ。
政治家が隠れ蓑に利用されてるだけ。
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https://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j02.html#s3

多分、昭和天皇もそう思ってやってた…
陸軍大臣が内閣総理大臣だったので、興味をするのは当然で、お隣の人民共和国さんのようなことになってたんだろう。 ただ、朕は蚊帳の外で10代で天皇になったので、アイドルと同じで何もわからないままやって来て、巻き込まれたんだと…
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立憲君主制国家の君主として, イギリスに範をとって「下からあがってきた意見に対し異論をとなえる」ことをよしとしなかった, というのが主流の見方だと思う.



背景には祖父である明治天皇の行いもあったみたい. まあ明治天皇はもともと政治に興味なかったようだけど.
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