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僕は今大学4年生なのですが、最近は毎日「生きていたくない」とばかり考えています。そう思うのには理由があります。

まず、何をやってもうまくいかないのです。今は就職活動中なのですが、全くうまくいきません。色々とスキルアップを試みても、いっこうに効果が表れません。恋愛もうまくいかず、22年間で女性とお付き合いをしたことがありません。そして交通事故に遭ったり、悪質な業者に騙されたりと、過去を振り返れば不運なことばかりです。

また、前に楽しめたことが楽しめなくなりました。前は音楽が好きでバンドとかをやっていたのですが、今はそれほど楽しめなくなりました。ギターを毎日弾くほどだったのに、最近はギターを触るのが面倒になりました。それはいけないと思い、他に興味のあることに手を出したりしたのですが、まるで自分が自分じゃないみたいに熱中できないのです(以前僕は興味のあることにはすぐ熱中してしまっていたんです)。友人とのコミュニケーションも少なくなり、一人で過ごす時間ばかりになりました。

生きていてもちっとも楽しくありません。いいことなんて何もありません。いったい何のために生きているのか考えてしまいます。やらなきゃいけないこと、前は普通にできていたこと、みんな億劫に感じます。そして自分にはいいところなんて何もないダメ男だと思うようになり、毎日心が絶望感みたいなもので支配されています。何をやってもうまくいく気がしません。

自殺も考えたことはあるのですが、考えていたら親の顔が浮かんで、一人泣いてしまいました。そして自分の夢のことも考えてしまいました。生きていたくないと強く思う一方で、心のどこかでは生きることを望んでいるのかもしれません。

僕はどうしたらいいのでしょうか?絶望感に満ち、何も楽しめなくなった今、なんのために生きていけばいいのでしょうか?または生きていくべきではないのでしょうか?

A 回答 (59件中21~30件)

>>・・・こんな当たり前のことなんですが、私にとっては世紀の大発見でした。



いやあ、凄いですね。
こんな話を伺えるなんて、質問者さまはこの質問をして本当にラッキーだと想いますね。
これこそが「智慧」ですから、絶対に、肝に銘じるべきです(一生涯)

ボーカルとか役者、武道をやる人ってやっぱり度胸が要るからでしょうかね。
客の顔色でびくついていては出来ないから、そこらへんのバランス能力も養われているんでしょね。
あと下っ腹から声を出すでしょうから、姿勢も良いだろうし、丹田(胎)も坐っているのでしょう。
「姿勢の不思議」なんて本もありますが、正しい姿勢をとると、「下っ腹(丹田)」も坐ってくるし、背骨も伸びるしで、心にも影響してくるんです。(これも繋がっているんです)


で、これから、確実に我々にも「老・病・死」がやってきます。
質問者さまだって、また不慮の事故に遭うかも知れません(共に遭わないことを祈りますが)

仏教では「四苦八苦」と言って、生きてる限りは乗り越えなくてはいけない山がたくさんあるので、生きてる限りは「これで終わり」ということはないので、不断に努力していかなくてはいけないので、面倒なところですけどね。。。


でも、たとえば優雅に見える白鳥も水面下では、常に足をバタバタ動かしているんですね。
シンクロナイズド・スイミングもそうですよね。
歌手だってそうだと想います。気持ちよさそうに歌っていても、どこか覚めていて自制していると想います。
美空ひばりさんのラストステージは本来ならば体調不良で歌えるような健康状態でないのに、なにごとも無かったように普通に歌って見せたんですよね。


傍目には華麗に見えることも、それには不断の努力(精進)があってのことなんです。
「隣の芝生は青く見える」といいますが、実際には青さを保つ不断の努力をしているんです。
ヘレンケラーだって奇跡の人ではなくて、努力の人だったんです。

この世の中には偶然に出来るものはないんです。
つまり、我々も常に足をバタバタさせながら、最期まで自分の軌跡を描いていくしかないですね。
お釈迦さまでさえ、最期は食中毒の痛みと戦いながら死んでいったんです。


>>以来、自分の意識を常に「今、此処の自分」に向ける努力をし始めたら

お釈迦さまの最期もジッと瞑想して、この努力をしていたんです。
で、【忍耐】と【我慢】は違うんです。
【忍耐】は不安定な自分の心に気づき、それを覚ますことによって、安定に統治するための努力です。
floさまが独力で到達した世界です。【我慢】はこんな感じです。
http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/houwa/gaman.htm


No.27で紹介した少年も眠っているワケではなくて、ずっと忍耐しているんです。
ちゃんと、正しい方法の忍耐をしてれば、本当に心は安定に向かうんです。

脳波学の故)品川嘉也教授の著書によりますと、中国の気功師に瞑想してもらったら、アルファ波を通り越して脳死状態の脳波を示したのだそうです。 だから、そうなると「想う」ということも尽きてしまうんです。たぶん少年も、そんな感じになっていると想います(6ヶ月というのは眉唾だとしても)

・・まあ、これらは特筆するような話ですが、我々にも不断の忍耐が必須なんです。

忍耐が出来ないと、簡単にきれたり、いつまでも根に持って恨んだり、呪ってしまうんです。
自分以外の何かに想いを馳せてしまうんですね。。。。奴隷になってしまうですね。
こうなるとセロトニン神経も衰弱するのかも知れません。



>>彼のいる町や彼の写真を見て心を馳せている自分を客観的にみて、その瞬間、気がついたんです。
>>「あぁ!自分の心が自分のもとにないから、不安なんだ!」と。

天才ですよ、これは。<(_ _)> ニュートンみたい^^

受け売りの話ですが、ある武士が家宝にしていた10枚セットの皿の1枚を女中さんに割られてしまったことに腹を立てたのだそうですが、たかが「皿」に心を奪われていた自分に気づき、それを恥じて、残った9枚の皿も割ってしまったという話もあります。武士は常に死を覚悟していなければいけないのに、それでも、たかが皿に心を馳せてしまったんですね。


自分以外の何かは、何も与えてくれないどころか、奪うだけだと悟ってしまい、自分を律することだけに精進すると、欲目がなくなり、無執着・無一物になって、さらに「捨て身」になれるので、公利公益のために働き、愛(気)も強くなり、武士道にも、ビジネスにも、人生全般に通じてくるんです。

でも、普通は【無明】と言って、ほとんどの人は気がついていないんです。

だって欲を叶えたら、気持ちよくなると誰もが信じているんです。
それが覚めたら、人生なんて退屈でつまらないから、なんとしてでも欲に執着するんです。
精神の安定は他律的に果たされるものだと錯覚しているからでしょう。
だから、不安定な自分を律することなく、自分以外の何かに頼ってしまい、欲目が強まり、「保身」に走るので、他人を利用し、他人に要求するような、気弱で、依存的、利己的な人間になってしまうんです。


で、やっぱり、自分を律することって、とても辛いことなんです。

だって、みんな、”それなりに”自分は被害者だと信じているからです。
「自分の想い通りにならなかった」という意味では、み~んな被害者なんです。
「xxに縁って起こっているのに、なんで俺が悪いんじゃ!」となるんです。
ここの一線を超えるのが大変難しいですね。
特に狂った親に育てられたり、幼い頃から理不尽な扱いを受けて育つと自覚症状が無いうちから、心が捻じ曲げられてしまうので、とても難しいと想います。どうしても愚痴ってしまうからです。

だからこそ、論理的に理解することが必要になってくると想うんです。
お仕着せの価値観、人の心を玩具のように型枠にはめるやり方ではダメだと想うんです。
ちゃんと物事の道理、筋道を順を追って説明しないと、腑に落ちないと想うんです。


>>10年前の私がこれを読んでも、「プラス思考する為のつじつま合わせ」ぐらいにしか思わなかったでしょうから・・・・。

この言葉にもたいへん共感がもてます。

私は仏教に出会って、それまで勉強してきたことも全てが論理的に一本の線で繋がったので、本当に良かったと想っています。
が、繋がりすぎてて、逆にこれを伝えるのは、大変、難しいですね。。。。

>>おそらくこのことではないか、と直感的に想いました。
そのとおりです。
floさんにも繋がりが観えるんですね。


>>「生きて死ぬ智慧」、書店で見つけたので買っちゃいました。
お金もちですね^^、ちなみに私は今のところ仏教関係の本は一冊も持っていないんです。
全部、図書館で借りているので、無料なんです。(苦笑)


>ここに質問してから、愛とは何か考えていたんです。

仏教では「愛」とは言わないで「慈悲喜捨」っていうんです。
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi5.html
「愛」は裏切られると怒りに変わるだけの移ろいやすいものですから、愛するなという立場です。
まあ、言葉の定義の問題なんでしょうけどね。
キリスト教でも愛は「エロス」と「アガペー」の二種類に別れるみたいですね。



>>今まで平気で歌ってたラブソングが歌えなくなりました

私が想う「愛(慈悲喜捨)の歌」というと、これでしょうかね。
http://www.eigo21.com/03/pops/holdon_sam.htm
あと、クレージキャッツの「金の無いやつあ~俺んとこへ来い!」でしょうか。
こういのがみんなを幸せな気持ちにするお仕着せでない、与える愛(慈悲)でしょうね。
「愛(気)」も強大で、捨て身で、献身的で、利他的で、欲目がなく、安定のための働きなんです。

「待ってろよ、俺が行くから安心しろ!」(金は無いけど、力になるよ)
「此処に、俺が(私が)居るぜ!」ってね。^^

福沢諭吉も「独立の気概無き者は国を思うこと深切ならず」と言ってます。
「俺がやらないで誰がやる!」という気概が、「愛(気)」なんだと想います。
もちろん理性に裏づけされていないといけませんが。

こういう気持ちが、いつでも自然に出てくる少年の頃のような自分に成りたいものですね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>これこそが「智慧」ですから、絶対に、肝に銘じるべきです

もちろんです。一生大切にするべきものだと思ってます。ここに来るたび、回答を読むたびに新しい発見があります。本当に素晴らしき智慧をありがとうございます。

>傍目には華麗に見えることも、それには不断の努力(精進)があってのことなんです。

僕は「自分はこんなに努力してるんだだから、誰か認めてくれ」って思っていたような気がします。努力してるつもりだとかなんとか、口に出すべきようなことを平気で言うバカでしたね。実力じゃなくて、努力を認めてもらってどうするつもりだったのでしょうかね。
でも、ここに質問して心が少しずつ良い方向に向かい始めてからは、同じ努力でも成長の度合いが違いますね。絶望感に満ちていた頃は、歌にしろギターにしろ、いくらやっても上達しませんでした。ところが今は、練習するたびに上達していくのがすごいよくわかるのです。練習の質を変えたわけじゃないのですが…。またもや心というものの大事さを痛感いたしました。

>自分以外の何かは、何も与えてくれないどころか、奪うだけだ

そんなことはないと、僕は信じたいです。なぜなら僕自身、音楽によって人々に勇気や愛、感動を与えたいと思っているからです。受け止めてほしいんです。例え奪われても、代わりに今までそこには無かった何かがあると信じたいです。

お礼日時:2005/12/27 01:35

>つまり「今、此処に生きる」ことは「愛(気)」の強さ、大きさであり、心の安定を意味しているのだと想います。


「今、此処の自分に気づく」・・・どー考えても、これが全てなんだと想います。

そうですよね・・・・・・・やっぱり。
私もいつも、すべてが「今、此処の自分を生きる」へ帰着するんです。

実は私はこれ・・・恋愛で苦しんで、気がついたことなんです。
その頃はもう、ある程度いろんなことを学び乗り越えて、精神的に強くなってたはずだったのに、毎日不安でしょうがなかったんですよ。なんで恋愛すると私はこんなに苦しいんだろう?と。

で、その彼と遠距離になったある日ふと、彼のいる町や彼の写真を見て心を馳せている自分を客観的にみて、その瞬間、気がついたんです。「あぁ!自分の心が自分のもとにないから、不安なんだ!」と。さらには、自分が考えてることはいつも「彼」とか「彼との将来」とか「彼は離婚した奥さんを忘れられないんじゃないか?」とか・・そんなことばっかりだったんですよね。不安という不安は全て、「今、此処の自分」以外の何かに対する執着に起因してたんです。そんなものに執着して、「今、此処の自分」を生きてないから、不安になるんだ!と分かったんです。
・・・こんな当たり前のことなんですが、私にとっては世紀の大発見でした。


以来、自分の意識を常に「今、此処の自分」に向ける努力をし始めたら、ものすごいスピードで心の平穏を取り戻し始めたんです。
その過程で・・・、彼を信頼すること=自分の人生を信頼すること=自分を信頼すること=自分を知ること=今、此処の自分に気付くこと=今此処の自分を生きること=心の安定=周りの事象にまどわされない=周りの事象に反応しない=自律的=愛=信頼=自律的=自分を知ること=自分を認めること=自分を許すこと=他人を許すこと=愛=人を信頼すること=心の安定=今此処の自分を生きること=。。。。。。
・・・今、思いついたまま書いてみましたが・・・今まで学んだ全てのことが、こんな感じで全部つながっていくのを感じていたんです。Syoさんの「なんとも説明しにくいんですが、私の中では、全てが一本の線で繋がっているんです。」という言葉を読んだ瞬間、おそらくこのことではないか、と直感的に想いました。


結局、恋人はもとより、私が執着していたものは全部、ことごとく失いました。
それでも心の底から、今が一番幸せだと言えるのですから・・・・・私は他の何にも換えられないほど貴重な宝物を見つけたんだと思います。この宝物を一生、大切にしていくつもりです。

「無名の南軍兵士の祈り」・・・今はこれが痛いほど理解できるのが、本当にうれしいです。
10年前の私がこれを読んでも、「プラス思考する為のつじつま合わせ」ぐらいにしか思わなかったでしょうから・・・・。
私もSyoさん以上に、勉強したことと自分の心が一致しなくて、いまだに苦しい思いをしょっちゅうしますが・・・頑張って自分の心、育てていきます。


ところで先日・・・「生きて死ぬ智慧」、書店で見つけたので買っちゃいました。
こんな薄い本なのに、中身はほんとに・・厚いですね。しっかり読み終えるには、まだまだ時間がかかりそうです。
シェイクスピアもおもしろそうですね!お恥ずかしい話、私はこんな仕事をしてながら、あの有名なシェイクスピアの作品については何の知識もないんです。お話を聞いて、すごく興味が湧きました。
・・・志を全うされているSyoさんのエネルギーに、いつも本当に励まされます。<(_ _)>



>ここに質問してから、愛とは何か考えていたんです。

(^-^) 私もいつも、愛とは何かを考えていました。
そして、数年前、私の中で「愛」の意味が変わってしまってから、今まで平気で歌ってたラブソングが歌えなくなりました。次から次へ浮かんできてた恋愛ソングの歌詞が、全く浮かばなくなりました。(実は未だに・・・書けないんです。(^^; ) そして何よりも、自分が本当に音楽を愛してたかどうか、それすら分からなくなりました。
だけどもう一度、音楽に出会い、愛し直そうと思って・・・・今はその、真っ最中です。
いつか・・愛の歌が自分の中から自然に出てくれば、うれしいです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>こんな当たり前のことなんですが、私にとっては世紀の大発見でした。

すごいですね。不安になっているとき、冷静に自分を見つめることができるなんて、中々できるものではないと思います。以前の僕も、「自分は被害者だ」という想いばかりで、生まれてくるのはただ絶望感だけでした。
色んなアーティストが「今を大切に生きよう」みたいなテーマの歌を歌っているの聴いてきましたが、自分が絶望感に満ち、ここに質問して回答者様の回答が来るまで、その本当の意味に気づけませんでした。どうして自分が経験するまで、「今」の大切さに気づけなかったんでしょう。愚かでした。歌にしろ詩にしろ、自分とリンクさせる何かっていうのは重要なのですね。「無名の南軍兵士の祈り」にしたって、良さがわからない人にはわからない。共感できる部分があるからこそ、感動できる。なんか歌を作るうえでのヒントになりそうですね。どんなに素晴らしい内容でも、伝わらなければ意味がない・・・話がそれましたが、なんかここで色々なことを学びましたね。

>今まで平気で歌ってたラブソングが歌えなくなりました

僕の場合、歌えないということはないですが、前と同じようにはできませんね。1つ1つの言葉の持つ重みを感じながら・・・少しでも気持ちが届くように歌ってしまいますね。前は気持ちを込めてなかったっていうわけじゃないですけど、なんかレベルが違うようなそんな気がするんですよね。
そして愛について考えていて思ったのが、「やっぱり愛されたい」ということです。別に自分以外の何かに頼ってどうしたいというわけじゃないんです。僕を受け止めてほしいんです、想いを受け止めてほしいんです。受け流さずに受け止めることは愛だと思うんです。その愛がまた僕を強くしてくれるような、そんな気がするんです。例え失うものがあっても、そこには必要なものだけがあるはずです。

お礼日時:2005/12/26 02:51

floさまのこの一文を読んで、大変、感動しましたので、また来てしました。

m(_ _)m

 >>いずれ破綻する「愛のようなもの」とは違って、
 >>本物の「愛」とは自律的で、故に常に生産的で、だからこそ終わりがない。

 >>「故に常に生産的で、だからこそ終わりがない」

つまり、やっぱり「神」「仏」の領域ってあるんでしょうね。
終わりのない、生きどおしのエネルギーとでも言うのでしょうか。
こちらの#4も一読ください。
http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=1402277

この世は不安定極まりない世界ですが、絶対に移ろわないのは「今、此処」という映画のフィルムのひとコマ、ひとコマのような連続した瞬間、瞬間なんですよね。これこそが「宇宙の実体(自然の実相)」なんです。だからこそ「今、此処」を生きることが全てであり、一番、大切なんですね。 まあ、そのためには心が自律的に安定した人間にならないとダメなんですけどね(><;

経典にも【彼ら(賢者)は、ただ現在のことだけで暮らしている。ところが愚者は未来のことであくせくし、過去のことを思い出して悲しみ、そのために萎れている】なんてのがあります。

今、私はシェークスピアに夢中なんですが(めちゃくちゃ面白いです!)「オセロー」の中に【空気のように軽いものでも、嫉妬に憑かれた男には、聖書の言葉と同じ重みをもってくる】なんてあります。シェークスピアは格言のオンパレードです。
欲目に憑かれた我々には、日常の何気ないことでさえも重苦しく感じますよね。まさに茹で蛙です。


で、しつこいようですが、瞑想でやります「気づく」という作業は、「今、此処」でしか出来ない作業なんです。
頭の中は過去・未来・妄想・・に行ったり来たりしていますが、それに気づくことが出来るのは「今、此処の自分」だけなんです。

これも経典の中で「お釈迦さまは、どうやって煩悩という激流を渡ったんですか?」という質問に対して
 【私は立ち止まることなく、あがくことなく煩悩の激流を渡りました。
  立ち止まる時には沈み、あがくときには溺れるのです。
  このようにして立ち止まることなく、あがくことなく渡りました】とあるんです。
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/1/3332910.html

つまり「客観的に、ただ、淡々と自己を見つめる」
「何時、いかなるときも、平常心を崩さない」ということなんだと想うんです。


身体意識を感じるために、ゆっくり動くのも「今、此処の自分」を感じ取るためなんです。
昔の私も「今、此処の自分」を強烈に感じていたので神秘体験をしたのかもしれません。

つまり「今、此処に生きる」ことは「愛(気)」の強さ、大きさであり、心の安定を意味しているのだと想います。
「今、此処の自分に気づく」・・・どー考えても、これが全てなんだと想います。

よく「人間は神の子だ」とか「人間も神と同じ能力を授かってる」とか言いますが、きっと、この能力のことなのでしょうね。ヴィパッサナー瞑想は「気づきの瞑想」といわれている、お釈迦さまが悟りを開いたときにやっていた、お釈迦さま直伝の瞑想法なんです。


・・なんとも説明しにくいんですが、私の中では、全てが一本の線で繋がっているんです。
たった一本の道理(真理)で繋がっているんです。
さらに毎日、毎日、想えば想うほど、一本のレールが見えてくるんです。
数年前までは宗教も哲学も道徳も文学も別世界だったアホな私が、何の因果か知りませんが、こんな所にまで来てしまいました。
確かに求めたから与えられたのかも知れませんね。
これも、一重にみなさまとのご縁のお陰です。m(_ _)m

こちらの#8の「無名の南軍兵士の祈り」もご覧ください。
http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=1778148

>>Syoさんの大きな愛に、心から感謝します。
とんでもないです。私はそんな人間ではないんです(^^;
勉強したことと、自分の心がなかなか一致しなくて苦しんでばかりの人間なんです。


>>師匠であった人は、生徒に一切、仕事の世話をしてくれなかったんです。

シェークスピアの「オセロー」に「人のタメになることは、人をダメにすること」とありました。
また「小善は大悪に至り、大善は非情に至り」なんて言葉もあります。
もちろん、何も知らない人を鞭打って、何も教えず、何も与えずに、ただ進めと言うのは暴論でしかありませんが。

仏教でも人を導くことは出来ても、救うことは出来ないといいます。
「引導を渡す」というのは、仏教用語で、人を正しい道に導くことを言うんです。
中国の故事にも「馬を水飲み場に連れていくことが出来ても、水を飲ませることは出来ない」というのもあります。
「その気になる(惚れる)」「その気にさせる(惚れさせる)」ことが大切なんだと想います。
私も機能不全家庭で育った因果で、仏教に惚れこんでしまったんですね。。。(苦笑)


>>質問者様
「ミュージシャン」「就職」「彼女」・・これらも蛙を茹で上げるキーワードだということを忘れないでください。
だってミュージシャンという職業が無い時代だったら、どうしますか?・・・・これも空気よりも軽いものなんです。
思いつめたらダメです。
FEELで行きましょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>「今、此処の自分に気づく」・・・どー考えても、これが全てなんだと想います。

回答者様のご意見を読んでいくうちに、最近「今現在」の大事さに気づきました。一番大事にしていかなければならないのは、今現在という一コマ一コマなんですよね。過去というフィルムはもうどうすることもできないんですね。未来というものも、一コマ一コマの積み重ねで、その一コマ一コマの質によってどうにでもなるのですね。山あり谷ありであってこそ、エンディングが活きてくるのかもしれません。

>仏教でも人を導くことは出来ても、救うことは出来ないといいます。

その通りだと思います。どんな高い壁であろうと、自分自身の力で超えなければならないんですね。例え救ってあげても、本当の意味では救ってあげられてない・・・結果その人を悪い方向に導いてしまう。救い無しでは生きられなくなってしまうかもしれませんね。・・・と言いつつ、ここに質問した僕は、救ってほしいという想いが強かったのですが。

>思いつめたらダメです。
FEELで行きましょう。

はい。何かあると考え込むのが僕の悪い癖です。これからはFEELでいきますよ、中々難しいのはわかっていますが。

お礼日時:2005/12/22 02:11

私は数年前、まだアメリカにいた頃、仕事関係で知り合ったあるミュージシャンと、ひょんなことからこういう人生哲学や音楽の事について、メール交換したことがあるんです。

かなり年上の方でしたし、音楽に関しても大先輩でしたので、私は教えられることばかりでしたが・・・。
一昨日の夜、仕事から戻ってSyoさんのNo.37とリンクを載せてくれていた回答を読み、昨夜もまた何度も読み返していくうち、ふとその人が私に最初にくれたアドバイスを思い出したんです。

「Form follows function」
これは、「レコーディングしてミックスされた音質を、自分の頭で鳴っている音に極力近づけるにはどうしたらいいのか」、という私の疑問に関しての彼の答えだったのですが、つまり・・・「もしその音を君が頭の中で聴けたなら、君はその方法を見つけ出し、いずれはその音に到達できるだろう」という意味だったんですよね。
この言葉は、音楽以外の事にも、いろんな場面で何度も何度も彼に言われたんですけど、どうも今までピンときたことがなかったんです。

だけどやっと、その真意が理解できました。
そして、今機能している、ということは裏返せば、(本人気付いてなくても)そこに感動(志)があり、学びがあり、理解があり、不断の努力があった、ということなんだ・・・!ということも。

これに納得した瞬間、いままでずっと抱いていたいくつかの疑問が、するするするっと・・・まるで絡まっていた糸がほどけるように、解けていきました。うまく言葉にできませんが・・・Syoさんもおそらく、こういう体験を幾度となくされているでしょうから、きっと分かってもらえると想います。


質問者さんは以前、おっしゃってましたよね・・
>僕はミュージシャンになりたいです。まだクリアではないけれど、何か素晴らしいものを手に入れたような、なんとも言えない今の気持ちを色んな人に伝えたいんです。今までに感じたことないような何かが、僕の心の中にあるんです。こんな気持ちは初めてです。

その感動(志)がどういう形で機能しても、それは愛なのだ、と思うのです。そしてその愛がまた新たな志を生み、愛を生むことにつながっていく・・・。その機能するまでの道筋は、志それ自体がつけてくれるもので、もはや私たちの”意志”によるものではない、と感じます。私たちにできるのは、それに気付き、育て、生かしていくことなのだ、と・・・。


私のボーカルトレーナーであり音楽の師匠であった人は、生徒に一切、仕事の世話をしてくれなかったんです。多くの生徒が、それをしてくれなきゃ意味がない、と2,3回レッスンをうけてやめていきました。でも彼は、自分の姿勢や信念を崩さなかった。そして、志ある生徒には、音楽で生きていくための、彼が持ってる限りの情報と知識を伝え続けてくれたんです。私が一人で、自分の足で立って歩けるようにしてくれた人です。
・・・愛とはそういうものだと思うんです。
いずれ破綻する「愛のようなもの」とは違って、本物の「愛」とは自律的で、故に常に生産的で、だからこそ終わりがない。
私は、永遠の愛を求め続けたので、愛を生産する力を与えられたんだと思います。



思うままに書かせてもらったので、文章にまとまりも何もないですが・・・・

可能性は自分で閉ざさない限り、無限です。ここで参加させてもらってる間に、その確信がまた強まりました。
質問者さんが一歩一歩、前進されることを心から願っています。
私もこれからも一歩一歩、がんばっていきます。

そして、Syoさんの大きな愛に、心から感謝します。
それと・・・仏教について私は全くの無知だったんですけど、それに驚くほどの共感を覚え、もっと知りたいと思い始めたのも、Syoさんの数々の回答を読んだのがきっかけでした。これからも、勉強させてもらいます<(_ _)>。ご紹介くださった本も、探して読むつもりです。


求めよ、さらば与えられん。
Syoさんが書かれていた新約聖書の言葉が、今また胸にしみます。
自然(神と呼ぶ人もいるでしょう)の不思議にまた・・感謝の気持ちでいっぱいになりました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>「Form follows function」

なんか「成りたい自分に成っている」という意味に近いですよね。自分の頭の中で鳴っている音を求めていればいずれ与えられる・・・求めることができたから、与えられるための条件が整っていく。まずは求めることが重要なことなのですよね。「俺に彼女なんてできっこない」って思っているような男に、彼女なんてできやしないんですよね。でも「求める」の意味を間違い、そこに様々な欲望が入ってくると、神様は本当に手に入れたいものを与えないんですよね。世の中ってよくできてますよね。

>いずれ破綻する「愛のようなもの」とは違って、本物の「愛」とは自律的で、故に常に生産的で、だからこそ終わりがない。

素敵です。
なくてはならない、でも脆くて儚いもの―それが愛だと長い間思っていました。しかしそれはうわべだけの、「愛のようなもの」だったのですね。ここに質問してから、愛とは何か考えていたんです。
実は最近、歌を作ったんです。曲は前からあったんですけど、詞が中々できなくて。で、ここで質問して色々気づいたことや感動したことを詞にしたんです。前に述べたような、何とも言えない気持ちを詞にしたんです。自分と向き合った詞を初めて書いたんです。そして思いました、「これが愛・・・?」と。ラブソングでもなんでもない、ただ自分と向き合った詞なのですが、愛を感じたんです。今の気持ちを誰かに伝えたいという思い―そこに愛がありました。こんな僕からでも、愛が生産されていたんです。なんか少し人間的に成長したような気がしました。
みんな皆様のおかげです、ありがとうございます。

お礼日時:2005/12/22 02:15

再度の7です。

まだまだ哲学的なアドバイスすることは山のようにあるんですが、経験を伴わない知識だけを頭に入れても無意味なので、特にご質問、相談がない限り、ここらで撤退しようと想います。

で、うつ病だったり、摂食障害、強迫性不安・・・と、いろいろな心の病との関係がささやかれているのが「セロトニン」というホルモンと、脳全体に行き渡ってるその神経なんです。
で、これは別名を「平常心ホルモン」と呼ばれているんです。
「平常心」・・・つまり【安定】です。

うつ病で数回の自殺未遂の末に本当に死んでしまったという人の脳をVTRで観たことがあるんですが、本来ならば、脳全体に行き渡っているはずのセロトニンが衰弱していてまったく行き渡っていなかったんです。
つまりセロトニン神経が衰弱してしまうと【不安定】になるんです。

で、日本の心療内科の先駆けとなった池見酉次郎先生も、坐禅の効果を心療内科の治療に取り入れて効果をあげていたんです。また坐禅とセロトニンを研究している有田さんという人もいるし、他にも多くの生理学者が坐禅と脳について研究しているんです。

で、私は短絡的に、坐禅瞑想をすることによって、セロトニン神経が賦活するのではないか?と想っています。
事実、私が薬なしでうつ病を治してきてるからです。

使うものは賦活し、使わないものは衰弱する・・・・因果応報です。




「茹で蛙」という話があって、蛙をいきなりお湯の中に入れると暴れて逃げ出すのだそうですが、水の段階から、少しずつ温めていくと、逃げることも無く、茹だってしまうそうです。それだけ鈍感になってしまうんです。

「社会」というのも、これと同じで、本人が気づかない間に「朱に交われば・・・」になってしまうんです。
どんなに注意しているつもりでも、茹だってしまうものなんです。
ですから、日頃からの坐禅瞑想をお勧めしているんです。

最初は不慣れでも、自転車と一緒で、いつのまにか出来るようになってしまいます。
そのためには不断の努力が必要なんです。

NO27にも書きましたが、自分の首から上が無くなったとイメージしてみてください。
頭がなくなった、胴体だけの自分をイメージするんです。
首なしの胴体が呼吸をして「ふくらみ、ちぢみ」を繰り返していると感じるんです。
歩くときも、見えるものは見えるままに、聞こえるものは聞こえるままにしといて、首なしの胴体が歩いているようにイメージすると「もう一人の自分」に深く入れるかも知れません。
そして、その自分をベースにして、頭の中をうごめく意識(雑念)を観察(洞察)するんです。
まあ、これは私個人のイメージの創り方なんですが、お試しください。
きっと、簡単に変性意識状態(トランス状態)に入れると想います。
頭がスッキリ!して「我に帰る」という体験をするかも知れません。

PS No.36さま(floさま)

>>「不断の努力」の部分が私には欠けている、といつも感じていて、それをどうすることもできずにいたんです。

経験を避けることは誰にもできないので、みんなそれなりの経験から、不断に努力しているはずなんです。
こちらの#20を一読ください。
http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=1607829

ですから、本人は無自覚でも、必ず、不断に継続しているものってあるんです。
だから絶対に私も、floさまも、成りたい自分に成っているんです。
ただ残念ながら、こちらの都合よく、望むものが与えられるのではないんですね(><;
だから、やっぱり気づくこと(ヴィパッサナー)が大切なんですね。



>>「感じること」の弱さに、情熱が続かない、

これは私も一緒ですが、1%の感動とは、つまり「惚れること」なんです。
惚れるのに理屈も欲目も計算もないんです。FEELだけなんです。

でも、心の安定要素である「気(愛)」が弱ければ、惚れることもできないんです。
つまり私も含めて不安定な人は惚れることが出来ない(弱い)んです。
気が弱いので依存的に利用することはできても、自律的に信用することができないんです。
「利用」と「信用」は反対の性質なんです。(「似て非なるもの」です)

仏教の経典にも「友達のようなもの」という言葉が出てきます。
まあ、説明するまでもないと想いますが(^^)、世間には「夫婦のようなもの」「師弟のようなもの」・・・と、似非の関係が多々ありますので、ここは見極めていかないといけないところですね。
信用、信頼は大きな心で与えるものなんですね。。。「愛(気)」です。





>>とどのつまりは遺伝子のなせる業だ
村上和雄という教授は、繰り返しの想いが遺伝子レベルに影響を及ぼしているのではないかという仮説をお持ちなんだそうです。でも、逆に、今の心の在り方を変えれば、今、此処にある肉体に変化も現われるのも事実ですよね。


>>「科学を突き詰めていけば、精神論になる。精神論を突き詰めていけば、科学になる。」

同感です。
科学の要件っていうのは「普遍性」「客観性」「再現性」です。
因果応報、諸行無常、縁起、諸法無我・・・はいつでも、誰でも、確認可能な科学なんです。
本来の仏教というのは、存在の構造を明らかにした科学なんです。

「生きて死ぬ知恵」柳沢桂子 なんて本も、現在、書店に山積みされてるかも知れません。または図書館で探してみてください。柳沢桂子さんというのは、凄い人なんですよ。。。
この本の画を担当している堀文子さんは「心の力」だけで、破裂した血管が自然治癒したという経験をお持ちだそうです(NHKの「心の時代」という番組でやってました)。タカツカヒカルという人も母親の破裂した血管を自然治癒させたので有名でしたよね。


で、話は変わりますがNo.31にも書きましたように、人間にとって道徳や宗教というのは絶対に必要なんです。
心には規範が必要なんです。
交通規則と同じことです。
私も機能不全な家庭で育ってますので、ついでに日本の道徳衰退の歴史をちょっと勉強してみたんですが、明治維新あたりから衰退がはじまり、戦争に利用されたことで道徳に対する懐疑的な意見が増えたので、現代のようにめちゃくちゃになってしまったようなんです。さらに優秀な指導者(人格者)も少なくなっているんです。論理的な説明もできずに、ただ怒鳴るだけの坊さんとかね。。。。

また武道の世界も西洋式な勝敗を争うだけの競技化されたので「勝てばいい」という価値観が横行しているようです。
本来の武道も「克己修身」を目的としていて、勝敗を競うゲームではなかったんです。

・・まあ、疑問の内容とは違うと想うんですが、身体にも「正しい姿勢」があるように、心にも「正しい在り方」があると最近、痛切に想うんです。心は科学だし、科学も心に帰結すると想います。

法句経という経典の一番最初は「すべてのものは心を先駆けとし、心のもとに創られていく、汚れた心で語り、汚れた心で行うのなら、荷車を引く牛の足跡に、荷車の車輪の跡が続くように、彼に苦しみが従い行く」とあるんです。
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/8/3330210.html

・・・と、また長くなってしまいましたね。^^;
でわ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>「社会」というのも、これと同じで、本人が気づかない間に「朱に交われば・・・」になってしまうんです。
どんなに注意しているつもりでも、茹だってしまうものなんです。

なるほど…。僕も知らないうちに鈍感になっていたのですね。感動できるものはどこにでも転がっているのに、感動できないのはやはり心の問題なのですね。鈍感になって・・・「感じる」能力が衰えた結果が今の僕を創っているのですね。そして99%の努力を支えるのが1%の感動であるならば、1%の感動を生むのは不断の努力なのですね。

回答者様のご回答により、いかに自分が無知であったかがわかりました。簡単に「死ぬ」とか言ってはいけませんね。真理というものを色々教えていただき、見えなかったものが見えるようになりました。心を育て、感じる能力を高める努力をしいきたいと思ってます。
回答者様が撤退されてしまうのは非常に残念です。経験を伴わない知識だけを頭に入れておくのも、僕は悪くないと思ってます。頭に入れておいた知識が、いつどの経験とリンクするかわかりませんしね。
今までありがとうございました、とても参考にさせていただいております。いつでも良いので、またアドバイス等がありましたらよろしくお願い致します。

お礼日時:2005/12/19 01:25

No.35さんの書き込み、大変興味深く拝見させてもらいました。

勉強になりました。
談志さんのもほんと、真理ですね・・。


>たった1%の感動から「志」が生まれ、それが不断の努力(99%)になるんです。

・・・・・妙に納得です、これは。
私事で申し訳ないんですが、私はこの99%の方に、ずっとコンプレックスをもっていたんです。情熱が続かない体質と感じてた、といいますか・・・「不断の努力」の部分が私には欠けている、といつも感じていて、それをどうすることもできずにいたんです。
だけど、もしかしたらそれは、この1%の部分に起因していたのかもしれない。「感じること」の弱さに、原因はあったのかもしれないですね・・・・・。

一方で、その情熱が続かない、というのも、とどのつまりは遺伝子のなせる業だ、いう一種の諦めがあったんですが・・・
でも最近は、「科学を突き詰めていけば、精神論になる。精神論を突き詰めていけば、科学になる。」という気がすごくするんです。これは、まだ言葉で説明できるまでに至ってないのですが、最近強く感じてることです。
精神論を突き詰めた段階で思考することを止め、「感じる」という訓練に移行すれば・・・改善の余地はあり、ですね・・・・。


・・・すみません、全然質問者さんへのアドバイスになってませんね。(今に始まったことではないですが (^^; )
でもいつも、率直に感じたことをそのまま書いていますので、お互いに何かヒントを見つけあうことができたら嬉しいです。



あと・・・
>・・と、こうやって書いていていつも想うのは、みんな自分自身に向けての言葉だということです。
不思議なもので自分が書くことって、結局は、自分に言いたい言葉だったりするんですよね。。。。

これ、私もです。(^-^)


P.S.No.35さん、
昔はちょっと訳あって、瞑想することを頑なに拒んでた私が、最近試しに少しやってみたりしてます<(_ _)>。ので・・・焦ることなく自然の流れに任せ、今のところは、現在起こっている発見や気付きを、私なりのやり方で楽しんでいます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>全然質問者さんへのアドバイスになってませんね。

いえいえ、いつもとても参考になってます。自分と同じような経験をされている方なので、ちょっとしたコメントであっても参考になります。僕の周りにこういう話が通じる人間なんていませんしんね。

>精神論を突き詰めた段階で思考することを止め、「感じる」という訓練に移行すれば・・・改善の余地はあり、ですね・・・・。

興味深いですね。人には向き・不向きがあると思いますが、「感じる」という能力を高めることができれば、今まで気づけなかった自分の才能や長所を見つけられるかもしれませんね。「感じる」という能力を高める努力をしていきたいと思ってます。

お礼日時:2005/12/19 01:24

再度の7です。



>>瞑想・・・というのかどうか解りませんが、かなりの時間を費やして自分を見つめなおしました。

できればちゃんと勉強して、やって欲しいんです。
なぜならば、欲得に繋がるような自分の在るべき姿を考えるようでは全く意味がないからです。
これは考えることから、感じることへのスイッチが目的なんです。
武道のように、頭脳から身体脳へのシフトチェンジをすることによって、欲目も捨てられるし、元気も出るし、感覚も鋭敏になるし、感性も研ぎ澄まされてくるし、直観も働くようになるんです。人間の本質的な能力を鍛え育てるための瞑想なんです。

ブルースリー曰く「Don't Think Feel!」
またはスターウォーズの「フォース」のような能力なんです。


>>もっといい生き方があると思うんですよ

自分の心の支配者になって自立的に生きるのが最高の生き方でしょうね。
・君の思いは必ず実現する(稲盛 和夫)
・稲盛和夫の哲学 人は何のために生きるのか (稲盛 和夫)
・「社会人として大切なことはみんなディズニーランドで教わった」
・「社会人として大切なことはみんなディズニーランドで教わったII 熱い気持ち編」
香取貴信・・なんて本もお勧めです。図書館で借りてみてください。


>>周りの大人たちは皆「大学へ出たからには・・・」みたいな期待を僕にします。
>>だから自分の将来に対して迷いが生じているんです


某巨大掲示板で発見したんですが、立川談志さんも良いこと言ってます!(真理です)
こちらの「家元、国民の価値観を語る」をご覧ください。
http://kodansha.cplaza.ne.jp/danshi/index.html


私も最近つくづく感じるんですが、
自分の心が他律的に縁って起こるばかりの「自然」ならば、他人の心も所詮は「自然」なんです。

心配ばかりする人は、心配ばかりするという自然の現れです。
「風」がxxに縁って北風になったり、木枯らしになったり、突風になったり、南風になったり、台風になったりして無常に変化しているのと同じことなんです。怒鳴り散らす人は、怒鳴り散らすという自然の姿なんです。嘆いてばかりの人は、嘆いてばかりという自然の姿なんです。


たとえば北風が吹いたからといって、それに愚痴を言うほうがおかしいんです。

「今日は暑いから嫌だ」とか、自然に対して一々愚痴を言ってたのは私のほうだったんです。
10年前に言われた言葉をいつまでも引きずっていたんですが、それは10年前に吹いた風に対していつまでも怒っているようなレベルの話だったんです。結局は「他人」という自然に縁って起こされまくっていた脆弱な私の自律心こそが問題だったんです。依存心が強かったんです。

でも「人の心も所詮は自然だ」と思えば、たして気にならないんです。
ただ実際の自然よりも複雑だというだけで、自然であることには何ら変わりはないんです。
xxに縁って起こって、無常に移ろって、因果の応報を繰り返しているだけなんです。

大切なのは、自律的な心を強化して自然の統治者・支配者になることなんです。


ちなみに、「治」」という漢字は、「治水」から来ているそうです。
「水」という自然のままに荒れ狂うものを統治、支配することが「おさめる」「なおす」なんでしょうかね。。。
「治」という字は統治、治療、法治、完治、政治・・・まさに私たちが目指さなければいけない境地を示してると想います。
私たちがやらなければいけないのは「自治」です。
「なおし、おさめる」(破壊と創造)が、人生なんだと想います。



「それはボートの外のこと」って本もありますが、ボートの選手にとっての仕事はボートを漕ぐことであって、強風や高波なんかは、全部、ボートの外のことだというんです。自分の力の及ばない範囲のことは考えない。関係ない。自分の仕事だけをきっちりやっていれば悔いは無いというような話です。自然に逆らっても仕方がないということです。自分の仕事だけに集中して、自分をより良く活かせということです。
http://www.ddknet.ne.jp/~roudou/tanatuka_013.htm

これもつまり「道狂」です。
邪魔モノに心許さずに道狂に成れということなんだと想います。

ジミヘンは子供の頃からギター大好き少年で箒をギター代わりに遊んでいたそうで、プロになってからも24時間ギターを手放さなかったそうです。いつ観てもギターを弾いていたという証言もあるし、寝るときも一緒に寝ていたそうです。考えてなんか無いんです。ただ感じていただけなんでしょう。
エリッククラプトンに「俺とジミーペイジを足しても、ジミヘンには勝てない」と言わしめた男です。

「天才は1%の才能と99%の努力である」とエジソンが言いましたが、これは「1%の感動」なんだと想います。

たとえば、ヘレンケラーは有名な「WATER」の体験をしてから、何かが取り憑いたように知識欲求が芽生え、止めても止まらないほど勉強したんだそうです。たった1%の感動から「志」が生まれ、それが不断の努力(99%)になるんです。
そうすると目も、耳も、口もふさがっているのに、女子大まで行けてしまうんです。

感動(志)は、欲目からは生まれないし、考えても駄目なんです。
「Don't Think Feel!」からしか生まれないんです。
だから若いうちからFEELの部分を鍛え育てておくことをお勧めするんです。
これが「気」であり、「愛」であるんです。
世のため人のためと、誰かの喜ぶ笑顔からは、最高の感動(志)が生まれるんです。

・・と、こうやって書いていていつも想うのは、みんな自分自身に向けての言葉だということです。
不思議なもので自分が書くことって、結局は、自分に言いたい言葉だったりするんですよね。。。。
参考になれば幸いです。

PS No.34さま
ジミヘンもお勧めですが、是非、瞑想にもチャレンジしてみてください(^^)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

瞑想は勉強して、今度やってみようと思います。
「Don't Think Feel!」なんて難しそうですね。やろうと思っても、中々できるものではないですよね。でも欲目を捨てられて、なおかつ感性を研ぎ澄ますことができるなら、そうできるようにしなきゃダメですね。今まで考えすぎて失敗を繰り返してきましたしね。

>たった1%の感動から「志」が生まれ、それが不断の努力(99%)になるんです。

なるほど・・・。感動によって生まれた志が、不断の努力の源となっているのですね。ここしばらくはちょっと鬱気味で、色んな刺激に触れることが少なかったですので、感動とか随分としてないですね。そして努力がまだまだ甘いですね。我をも忘れてしまうほどの努力をすることが減っていました。

>自分の心が他律的に縁って起こるばかりの「自然」ならば、他人の心も所詮は「自然」なんです。

そうですよね。僕は自分のやるべきことだけを、しっかりとやっていればいいんですよね。自分の力の及ばない、他人の心―すなわち自然に対して考えていても仕方がないですよね。自分のできることだけを集中して取り組み、少しずつ前進していきたいと思います。

お礼日時:2005/12/15 13:53

お礼、ありがとうございます。


モニターの前で、ずっと・・・笑顔です。


>もっと深く言うと、ギターを弾く人ではなくて、「ギターを愛する人」じゃないですか?

そうですね。自分とギターでひとつの宇宙をつくれる人、ギターとひとつになって、「愛する」ということの本当の意味を実現できる人、なのかもしれません。それに・・・・ギターに限らず、「音楽」という共通の体験を通じて何かを感じ学んだもの同志、何か共通の波長みたいなものを持ち合わせているのかもしれないですね。


>逃げてまた違う道を探しては、また同じことの繰り返しですよね。

そうです。まさに!そうなんです。
引越しをしようが、職を変えようが、恋人をつくろうが、友達を変えようが、・・・・同じ自分を引きずって歩いてる限りは、周りの状況は何一つ、変わらないんです。


>まだクリアではないけれど、何か素晴らしいものを手に入れたような、なんとも言えない今の気持ちを色んな人に伝えたいんです。今までに感じたことないような何かが、僕の心の中にあるんです。こんな気持ちは初めてです。

(^-^) 多分・・・私は、質問者さんとすごく似てる気質を持ってるんじゃないかと思います。あなたと以前の自分が、度々ダブって見えます。だからこそ、あなたの今の気持ちがすごくよくわかる(つもりな)んです。そして、あなたがこれからどんどん成長されるであろうことも。

No.33さんもおっしゃっていますが・・・
私も、どうかあなたが、ここで得たアドバイスを納得がいくまで何度も読み、いつも心の中に置いておいてくれることを願ってやみません。あなたの経験(実践)が今得た知識と出会った時必ず、他の何にも換えがたい驚きと喜びを実感されると思います。そして確実に、あなたの人生は前進し始めますから。

・・・・・その出発の場に立ち会えたことを、本当に嬉しく思います。



P.S.No.33さん、

今コピーして保存しました。

私自身、この数日の間に、何度も何度も新たな発見(知識と実践がクロスした瞬間)がありました。
こうやって、枝葉にわたる言葉にまで共感を覚え、ここまで志を同じくする方と交流できたこと自体、自然の不思議を感じずにはいられません。そして、たくさんのいい刺激を受け、たくさんのことを学ばせていただき、こんな幸せなことはありません。
本当にありがとうございます。
お言葉、謙虚に受け止めて、頑張っていきます。(近々ジミヘン、聴き始めてみようと思ってます。(^-^))
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>私も、どうかあなたが、ここで得たアドバイスを納得がいくまで何度も読み、いつも心の中に置いておいてくれることを願ってやみません。

もちろん、常に心の中に置いておきます。こんなにも大きな変化をもたらした素晴らしいアドバイスです、心の中に置いておかないわけがありません。

話は変わりますが、この質問は締め切りたくないです。解決云々ではなくて、今はここは僕にとって大事なコミュニケーションの場となっています。回答に対してお礼をし、また回答が来る―この繰り返しだけなんですが、その度に何か新しいものを手に入れられるんです。締め切ることにメリットないんですよね。


毎度アドバイスありがとうございます。絶対に壁を乗り越えて、前進していきたいと思います。

お礼日時:2005/12/13 00:50

またお邪魔します。


No.32さまのお役にも立てているようで本当に勉強してきて良かったと想います。
で、このサイトでのこの手のやりとりは削除される可能性が高いですので、出来るだけ早めに保存しておくことをお勧めします。


>>今までに感じたことないような何かが、僕の心の中にあるんです。こんな気持ちは初めてです。
これはきっと「真理は汝を自由にする」でしょう^^


私も、今でもたまに「死にたい」とか「どうせ駄目だ」「あの野郎、死ねばいいのに」とか想うんですが、これらは長年、心の中で培われてきた想いの結果なんです。私が想ってきたから【因果応報】で、この発想が、私のものになっているんです。
別の角度から言えば、私が長年これらの想いを必要としてきたから、それが見事に与えられているんです。

・求めよ、さらば与えられん。たずねよ、さらば見出だせん。門を叩け、さらば開かれん。
 すべてを求むるものは得、たずぬる者は見出だし、門を叩く者は開かるるなり。『新約聖書』

・因果応報(善因楽果、悪因苦果)(怖いですね・・・)

たとえば、左腕ばかり筋肉トレーニングしていれば、左腕はマッチョになります。
が、何もしなかった右腕は衰弱していきます。
両方とも因果応報、求めよさらば与えられんです。
最初の#7に書いた<想ったとおりの人間に成っている><想い通りに生きている> <想ったとおりの自分に成っている>・・とは、こういう意味です。


だから日頃から過去完了形のイメージをするといいんです。
すでに満願成就したイメージを持ち続けるんです。
成りたい自分にすでに成ったように発想し、行動するんです。
倒産はしてしまいましたが元ヤオハンの和田一夫さんは、この要領で日記を長年にわたってつけていたそうです。この方も真理を勉強して実際の経営・生活に活かしたそうです。
脳で言えば繰り返しの想いでニューロンのつながりが強固になっていくので、そのようにしか世界が見れなくなるし、そのようにしか発言できなくなるし、そのようにしか聞こえなくなるので、本当にそのように成っていくんです。


 かれこれ2週間以上経ちますが5分でも瞑想してくれましたか?
考えるよりも、たった5分間、自律的に心の支配者になるほうが、賢い選択なんです。
(ヴィパッサナー瞑想に関する本も多数あるので図書館で借りてみてください)

自分の心の中で起こっていることは、全て「縁起」だということに気づけたでしょうか?
悩みも、喜びも、怒りも、フラストレーションも・・全て「xxに縁って起こっている」んです。
つまり、自分が自分のモノではないんです。

正確な表現は忘れてしまったんですが「愛するものが死んだといって泣いているが、自分が自分の物でないのに、何が悲しいというのだろうか」と経典にあるんです。
家族の死に際しての悲しみさえも、ただ単に「縁って起こっている」にすぎないんです。
他律的に感情を支配されて悲しみの奴隷になっているだけであって、自分が自分のものではないんです。自律的な支配下に無いんです。これが本当の悲しみといえるのでしょうか?

私たちの肉体も、この地球上にあるものも、この心も、発想も・・全てが宇宙誕生から積もり積もった縁起の集大成なんです。こういうのを「諸法無我(または諸法非我)」といいます。つまり「これが私だ」といえる実体など、どこにも無いということです。


朝から晩まで自分の心の動きをチェックしていると縁起だらけということに気づきます。
もう自分でも嫌になるくらい、他律的に心の中、発想、感情・・全てを支配されているんです。
もう、瞑想なんて止めようと想うくらいなんです。

でも、だからこそ、自律心が働くようになるんです。
犯罪があるから警察が育つんです。
犯罪なくして警察は育たないんです。
仏教では蓮の華にたとえます。
美しい蓮華は泥の中からしか咲かない(咲けない)んです。

自然のままにxxに縁って荒れ狂う心があるから、それを客観的に観察する心が育つんです。
暴れまくる獣性があるから、その反対の性質である理性が育つんです。
これは社会でも武道でも、日常のあらゆる場面で、我々が自然にやっていることでもあります。
自律的な心の唯一の育て方です。

さらに言うと、暴れまくる感情は「顕在意識」で、それを客観視する心は「潜在意識」です。
つまり、潜在意識の活性法でもあるんです。
私も過去にこういう体験をしています。
http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=1163617



で、この自律的な心(潜在意識)で過去完了形のイメージをすると良いんです。
逆に、他律的な心(顕在意識)でイメージするものは、単なる願望、望みレベルのものなので弱いんです。
「道狂」と言われるほどの人は、自律的なイメージを持っているんです。

たとえば、ボクシングの世界チャンピオンになるような人のインタビューでも「負ける気がしなかった」とか言います。
完全にそれに成りきってしまっているからです。
まあ、こういうのを物の本に言わせると右脳のイメージ力とか、潜在意識を働かせた結果であるとかいうんです。

落ち着いた安定した心(自律的支配にある安定した心)でイメージするものは、叶うんです。
不安定な心で追い求めると、途中で「もう歳だから」「どうせ駄目だ」「ルックスさえ良かったら」「あいつには勝てない」・・・という余計な念まで入ってしまうので、そのイメージ通りに本当の駄目になってしまうんです。


成功の秘訣も「言い訳」を探さないことなんです。
「愚痴」を言わないことなんです。

ぜんぶ、道理に叶っているでしょ?
成功もメンタルも・・・人生の全てはたった一つの「ことわり(理)」なんです。
真理です。

こちらの#4も読んでみてください。
http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=1821609
贅沢は心を弛緩させます。
他律的な支配下の奴隷になってしまうからです。


たとえ大卒でフリーターでも、無職でも、心さえ自律していれば良いんです。
一流大学を出て、一部上場企業の重役になったペットよりも、幸福なんです。
自律している心は「小欲知足」と言います。


・・と、またまた一気に無味乾燥とした説明をしましたが、どうか、繰り返し、腑に落ちるまで熟読して熟達して欲しいです。この説明を経験値で伝えていらっしゃるのがNo.32さまです。
過去ログも拝見させていただきましたが、本当に凄いの一言です。
「歌」って身体意識と、集中力・度胸を要するから、必然的に自律的な心の発達に役立っているのかも知れませんね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>かれこれ2週間以上経ちますが5分でも瞑想してくれましたか?
考えるよりも、たった5分間、自律的に心の支配者になるほうが、賢い選択なんです。

瞑想・・・というのかどうか解りませんが、かなりの時間を費やして自分を見つめなおしました。少しずつですが、自分という人間が見えてきました。全ての出来事が縁起だということにも気づいてきました。全て意味のあること―・・・交通事故に遭ったのも、僕に注意力を持たせ、生死に関わるような大事故をこれから起こさせないようにするためのものであったのかもしれません。みんな何かと繋がっているのですね。

>たとえ大卒でフリーターでも、無職でも、心さえ自律していれば良いんです。
一流大学を出て、一部上場企業の重役になったペットよりも、幸福なんです。

僕もそう思います。でも、周りの大人たちは皆「いいところへ就職して幸せになってほしい」とか言います。上司の言いなりになって、やりたくもない仕事で生活をしていくなんて、僕には幸せと思えません。もっといい生き方があると思うんですよ。周りの大人たちは皆「大学へ出たからには・・・」みたいな期待を僕にします。だから自分の将来に対して迷いが生じているんです。僕は周りの大人達の言う幸せではなく、自分の思う幸せになりたいんです。周りの大人の言うような人間に僕がなったら、大人たちは幸せになるのか・・・それとも本当に幸せな僕を見て幸せになるのか・・・。

お礼日時:2005/12/13 00:53

すみません、また来ました。

No.16です。<(_ _)>


No.7(No.30、31)さんの回答を読ませてもらって、毎度の事ながらその探究心と核心を衝く端的さに感動しています。今回も、学ぶところが多くありました。
同時に・・・これほど心を開いてどんどん成長されている質問者さんを見て、私自身もいい影響を受け、励まされます。


No.7さんの言葉・・・
>自分の「心」を育てることこそが、全てなんです。
たった一つの真実です。人生の本質です。生命の本分です。

まさに。同感です。
私の行き着いたところもそこでした。生まれてはじめて、「もうこれ以上掘れない」という地面まで到達したような感じがしてます。


私も本当に長い間、生き辛さに悩んで、こんなに苦しいのに、それでも生きなきゃいけないということに納得できなくて・・・・自己啓発の本などを読みあさり、普遍の真理を追い求めました。孤独感で張り裂けそうになり、精神科の医者に泣いて電話し駆け込んだこともあります。だけど、どこにも救世主はいなかった。そこで諭される理論や理屈にある程度まで納得はできても、見る角度を変えればすぐに、その理論の落とし穴が見える。どんなに自分を鼓舞して頑張っても、まるで、宙に架空のじゅうたんを敷いてその上で暮らしているかのようで、いつも不安で仕方がなかった。その頃は、心がどうだとかいうアドバイスを聞いても、「そんなのは、苦労を経験したことのない甘ちゃんの戯言だ」と思っていました・・・。

でも、実際に自分自身と真正面から向き合い、自分を認め受け入れ、より深く自分と知り合ううちに、自分をとりまく世界というのは、単に自分の心の状態を映し出したものである、ということを、身を持って知りました。自分が変われば、鏡に映る像も変わる。
到達した結論は「すべて心の問題」。・・・・それで全てが説明されたんです。


それに気付いた今でももちろん、困難にぶち当たることは幾度となくあります。私の「心育て」はまだまだ始まったばかりですし、長年やってきた条件反射のような悪い癖がいまだに残ってて、辛いことがあると「死にたい」とつい口にしてしまうこともあります。でも今はその、「死にたい」「生きてても何もいい事がない」という言葉がすでに形骸化している、とういうことが自分で分かるんです。少し静かに自分を見つめる時間さえつくれば、すぐに我に帰ることができる。謙虚に、忍耐強く、その作業をくりかえしていけば、いつかはその悪いクセも消えうせる。そしてこれから先、どんなことが起きようとも、「自分の心を育て、鍛える」という本質に帰れば、そしてそれを続けていく覚悟と忍耐さえあれば、ずっと前を向いて生きていける、という自信があるのです。だから、自分の人生を信頼していられるんです。信頼してるから、たとえ困難や、今すぐ解決できない問題があっても、前みたいに不安にならないんです。


質問者さん・・・あなたはまだ若いのに、すごいと思います。
本当に強い人とはすなわち、自分の弱さを認められる人だと私は思います。だって、これができないがために、多くの人が自分に言い訳をし続け、同じ過ちを繰り返し、「なぜ自分にこんな不幸が起こるのか?」と嘆きながら一生を終えるのですから。

今学んでることは必ず!人生のあらゆる場面で役に立ちます。あなたの可能性を広げてくれます。
私も実は最近、数年ぶりに歌の仕事に復帰して、新たな壁に直面してたんですけど・・・No.7さんの投稿を読んでて「あ、これも欲目だ」と・・・あっさり解決の糸口が見つかってしまいました(^-^)。本当に、全てに通じる真理だと思います。



P.S.全くの余談ですが・・・今まで、こういう話が通じた人というのは、質問者さんはじめ、不思議なことに皆、ギターを弾く人なんですよね・・・。(私自身は小学生の頃、Fが押さえられなかった時点で挫折したんですが。(^^; )
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>どこにも救世主はいなかった。そこで諭される理論や理屈にある程度まで納得はできても、見る角度を変えればすぐに、その理論の落とし穴が見える。

僕と全く同じ経験をされていたのですね。僕は普通の励ましの言葉とかをもらっても、「お前に俺の何がわかるんだ」と内心思ってしまっていましたから。普通の励ましの言葉じゃ、「じゃあこういう場合は?」とか「そんなことはわかってる」というような、苛立ちや焦りしか生まれませんでした。
でも・・・「すべて心の問題」だったんですね。僕の脆弱な心が、今の僕をとりまく環境を創り上げていたんですよね。心を育てれば、僕を取り巻く環境も変わる―だから僕は今ぶち当たっている壁を越えなければならないんですね。逃げてまた違う道を探しては、また同じことの繰り返しですよね。

>質問者さん・・・あなたはまだ若いのに、すごいと思います。

いえ、自分ではすごいかどうかなんて分かりませんし、どうでもいいことです。自分だけではどうしようもなくて、自分の心の弱さに負けそうになったからここに質問をしにきただけのことです。ただ、No.7さんやNo.16さんをはじめ、回答者の皆様にはとても感謝をしています。皆様のおかげで今の僕があります。質問日とは違う僕がいます。
僕はミュージシャンになりたいです。まだクリアではないけれど、何か素晴らしいものを手に入れたような、なんとも言えない今の気持ちを色んな人に伝えたいんです。今までに感じたことないような何かが、僕の心の中にあるんです。こんな気持ちは初めてです。

>今まで、こういう話が通じた人というのは、質問者さんはじめ、不思議なことに皆、ギターを弾く人なんですよね・・・。

そうなんですか?でも、もっと深く言うと、ギターを弾く人ではなくて、「ギターを愛する人」じゃないですか?「俺はギターうまいんだぜ!だから聞けよ!」とかいう人ではなくて、「耳よりも心に語りかける音を奏でられる人」をギターは求めているのかもしれません。心に語りかけられる人にはこういう話が通じるのではないでしょうか?(自分が心に語りかけられる人間であると言っているわけではありませんよ)

お礼日時:2005/12/10 00:39

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