森蘭丸は信長と夜の相手をしていたと聞いた事があります。他にも遠征に出る武将は女では足手まといになるから小姓と性生活をしていたと聞きます。現在も、もちろんバイセクシャルの人はいるのですが、記録に残るほどオープンで珍しい事ではなかったのでしょうか?できれば庶民レベルまでお教えして頂ければありがたいです。

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A 回答 (21件中1~10件)

少なくとも、信長と乱丸の記述はありません。


現代の腐女子の妄想が、戦国時代まで飛び火した結果です。

信長に関しては寺を焼き払ったり、女子供まで一族を皆殺しにしたり、その所業は伝わっていると思います。
100年以上も殺戮が続いた異常な時代の、異常な性癖だったと理解して下さい。
明日、死ぬかもしれないとなると、(おかしな方向にも)種の保存の法則が働くそうです。
当時の僧は妻をめとることも禁止していたのも理由のひとつでしょう。
江戸時代にも男色があった理由は、売春婦の歌舞伎が禁止され、女人禁制になったからです。
また、どういうわけか、江戸は女の数が極端に少なかったようです。
以下、キリスト教に関する記述が必ず出てきますが、まったく関係ありません。

以上のようなことは一次資料からも分かりますが、大半が妄想です。
当時の文言を正確に読める人は、ここにはいらっしゃらないと思います。
今まで信じられていた史実も新解釈によって変わっていくのですから、
男色の信憑性などきわめて怪しいでしょう。

例外はあれど、人間も普通に異性を好きになるように出来ています。
でなければ、種は絶滅します。
そういった本能まで狂ってしまったのが戦国時代。
江戸は鎖国の平和ボケでしょうか。
話半分で、いいと思いますよ。
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戦国時代はそういったことも普通にあったようですね。


というか、日本ではそういったことも普通であるとの文化があったのでは?
お坊さんも、武将も、町民にも男と寝るような記録は多く残っています。

私が以前読んだ本では戦国時代の男色について、性的な意味合いよりも、身体のつながりを持つことでお互いの信頼感を一層強めたのではないかと書いてありました。
信長は家臣の武将とも寝たことがあったらしく、他の武将がいる前で「こいつと寝た」といい、相手の武将は君主と深い絆で結ばれたことを感動していた、との記述がありました。
(「乙女の日本史」 ・今こそきちんと知りたい「男色の日本史」)
信憑性がある意見なのかは不明ですが。


男性版の春を売る施設なども江戸時代にはあったようです。
また、歌舞伎などでも美しい少年が踊り、僧侶などと同衾していたような記述も多いです。
庶民の記録はあまり知りませんが、武将や僧侶などが男色家であったような記録はけっこういたるところに見受けられます。

いつの間にか同性愛は以上であるとのレッテルを貼られてしまっていますが、日本史を見る限り、男色というのも否定できないものであると思います。
男色が普通に受け入れられていたからこそ、普通に記録にも残っているのではないでしょうか?
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私が聞いた話では、女性が縁起悪いと言われた理由として、生理で出血する=戦場で味方の血が流れるというのがあります。


そのため、興奮の極限にある戦場で精神を鎮めるための性行為としても、女性は同行しなかったのという話です。
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信憑性はあるのですか?そういう話を鵜呑みしてはいけません。


史実が本当であるかは、書物、伝聞、信用があるかですよね。
嘘、偽り平気で流す人もいるのですから、ちゃんと勉強をされてる
人に、お話を聞かれた方が賢明かと思います。
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過去のトピックもどうぞご参考に



平安時代、江戸時代の恋・・・
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa666653.html
武田信玄に限らず・・・
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa609383.html
将軍の横で槍や刀を持っている子供は
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4079996.html
戦国武将の男色史の研究
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4187419.html
男色
http://oshiete.goo.ne.jp/search_goo/?status=sele …

私が知る限りでは平安時代から男色ってあったみたいです。
貴族が若い貴族や少年にそれっぽい目線を向けている描写のある
記録や物語が存在します。
鎌倉時代にはお寺の「お稚児さん」(行儀見習いの男の子・・将来僧になるとは限らない)は、まさにお坊さん達のアイドルでした。

ただその頃実際に行為をしていた
人々がどれくらいいたのかはわかりませんが・・

戦国時代には武将同士が性的関係・恋人?関係にあったことは
随所にうかがわれるようですね。
この武士の傾向は大体江戸時代中頃まで続いたようです。
その後の時代も九州(特に鹿児島あたり)の武士あたりの間では
続くんです。明治以降の中学校(当時は男子校ですね)では
男性同士の同性愛風の関係がありましたが、こうした傾向は
上京した鹿児島武士が持ち込んだとする文章をどこかで読みました。

庶民に関しては江戸時代までそのような関係はなかった とされて
います。農民出身だった秀吉にまったくそんな傾向がなかったことが
根拠となっているようです。
江戸時代になると裕福になった町人に男色の好みが広がりました。
歌舞伎の役者は最初男装した遊女・その後美少年・美青年 と
変わります。いずれも当時の男色を好む時代を反映したものだったのではないでしょうか。「好色」は江戸時代には風流なこと、
色恋を好んだ人のことをいいます。それが男性であれば
女色・男色双方に通じているのが真の「好色」とされていました。
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戦国時代は衆道というものがありました。

いわゆる男色です。
直江兼続などは、美男子で衆道のものなどほうっておかないだろう、などという当時の記述が残っています(直江は男色志向があったという話は聞いたことはありません)。
こういうところからみても、男色というものが一つの性のありかたとして存在していたようです。
まあ、今でも、日本ではまだ異常な考えとありますが、アメリカなどではかなり公然とされてきていたり、要は歴史や文化によって、許容されやすかったり、そうでなかったり、あるのではないでしょうか?

日本では、室町時代あたりから社会がかなり、崩壊して、逆に、人間のありかたは自由なところもあったのだと思います。そういう流れで、性のありかたも開放的になった部分もあるのでしょう。
平安とか鎌倉とか、そういう衆道があったのかは知らないですが。

逆に、戦国後の、徳川の江戸あたりから、自由な表現は規制される傾向になりますし、衆道なども、禁止というか、倫理にそむくという風潮が生まれたのかもしれません。
ちなみに、徳川家康はそういう噂はあまりききませんが、私の知る限り、井伊直政と噂になったことがあります。本多や榊原といった、昔からの譜代をさしおき、井伊が領地を多くもらったからです。
これは、井伊が家康の代わりになる、統治能力をもっていた信頼からくるもののようですが、やっかみもあり男色関係にあるのではといわれたようです。

こう見るように戦国時代は男色は武士の間では一般的にあったもののようです。お坊さんなんかは、稚児といってかわいい男の子を、仕えさせる風習は徒然草何かに見れるので、平安からみられます。
また、現代でも刑務所などでそういった話はことかきませんし、逆にアメリカの女性刑務所では、レズビアン、女性同士が仮でカップルになるのはかなり一般的なようです。これは同姓しかいない社会で、異性を求める欲求を満たすメカニズムなのだと思います。

戦国時代・戦争に女性を連れていくことは聞いたことはありません。
女性がいれば、士気が乱れたり、喧嘩などうちわでもめるような事態になることなども考えられます。

逆に殺人が常の武家社会という特殊な中で、大名が必要とするのは命をかける家来です。命をかけるというのはある意味、究極の愛ですから、
そういう中で、異性を超える関係になったとうのもあるかもしれません。性的志向からくるものも多いかもしれませんが。

ただ、小姓といって側仕えの家来との仲を深める手段として、男色もあったようです。信玄か信長だったと思いますが、そういう関係をもつと、命を賭けて戦う信頼できる家来になるみたいなことを言っていました。
前田利家は信長と関係がありました。信長は昔をしのんで、そういう関係だったなあなどと、手紙を送っているくらいです。

また、男色をしていても、女性も愛する今で言うとバイセクシャルとなるのでしょうが、大名の多くは女性とも関係を持つのは当然でした。子孫が必要ですから。

ただ、上杉謙信は、毘沙門天を崇拝し、女性と関係をもたなかったといわれています。これは当時としてはかなり異様にうつったと思います。
ただ、逆にそういう神性を利用した面もあるでしょうし、心底、宗教的な人物だったようにも思います。義や誠実さを大切にする珍しい大名でした。
戦国時代は親子供で殺し合うのも常だったわけで、謙信も骨肉の争いで憂き目を見てますし、そういう中で、子孫を残さないとか、そういう境地に向かったのでしょうか?
エリザベスは処女王とよばれ男性と関係をもたなかったといわれますが、実際は家臣と関係があったようです。ただ、その噂は人民などから慕われるカリスマ性になったわけです。
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すべて説ですので鵜呑みに信じてはだめですよ。

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生死を賭けた合戦に臨むにあたっては、縁起を担ぐので、「三日間は清浄潔斎、妻妾と合宿すべからず。

軍の障碍は女人との交わりに過ぎたる禁忌なし」と『兵将陣訓要略抄』にあります。実際どこまで守られたかは判りませんが、女と寝ることは禁忌でしたので、必然的に男妾を伴ったようです。小姓とはいっても美男の優男とは限らず、上杉謙信の相手役直江兼続などは、勇猛な武将でした。上杉謙信は女嫌いで、むしろ兼続の相手役だったとも。

一休さんも6歳で安国寺に童行(ずんなん)として預けられます。童行、喝食(かっしき)、稚児(ちご)は、夜伽の相手をさせられる童子のことです。水上勉も著書『一休』の中で、自分も相国寺に入れられ、先輩雲水の夜伽をさせられた経験を語っています。

一休の詩集『狂雲集』の中には、「淫乱天然少年を愛す」など、衆道を詠んだ詩が数点あり、男色がごく自然のこととして受け入れられていたことが読み取れます。
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男色………という考え方は、なんとあの弘法大師が持ってきた文化だそうです。


唐から直輸入、なんでも「おかま」というのはサンスクリット語で「カーマ=愛欲・業」を覚えてきたから……らしい。
なので、男色は大体奈良時代から合ったと考えてもいいでしょう。

信長のお稚児さんは、蘭丸だけではなく沢山いました。
あの前田利家も、なんと信長の小姓上がりなんです!
武田信玄は、家臣の美男子に「浮気してごめんよ~」とラブレターを送ったことで有名です。
歌舞伎も、作ったのは出雲の阿国という女性ですが、
前髪をそり落としていない少年達が演じる若衆歌舞伎というものも後に出て来まして(遊女達が演じる女歌舞伎が禁じられた後ですが)、これも風俗を乱す、という理由で禁じられました。
この時、まだ舞台に上がれない若衆達をとくに陰間、といいます。
彼らは男娼であり、舞台裾で買われたり、また彼らを集めた「陰間茶屋」という料理屋もあったりします。(ここでももちろん……)
この陰間達が生まれたのは江戸です。陰間は男子の相手ばかりというわけではなく、女子の相手もします。
また、「稚児」というのもありました。寺に入れられて、僧の身の回りの世話だけでなく
女犯がタブーな僧達の夜のお供もしてました。

なんというか、日本の男色が普通に受け入れられていた、ということがわかります。
男色は、主従関係を表しています。「死んでもお仕えする」武士と武士の約束、契りです。
質問者さんのいうように、遠征では女は足手まといになるばかりか、穢れた生き物です。
こういう考え方から、男色は女と交わるよりも崇高な考えで、ごく当たり前のことでした。
なので、男色趣味がない秀吉は、周りから白眼視されていたようです。



最盛期などの詳しい歴史は参考URLどうぞ………

参考URL:http://park11.wakwak.com/~siori/dansyoku.html
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 武士の世界ではありましたが、庶民レベルではなかったようなのです。

証拠に農民から太閤様になった豊臣秀吉はまったくそんな事はありませんでした。

 ですから女性としか関係を持たない秀吉は特別だったのですね。
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・私はリンゴが好きだ。
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とか。

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武将・大名と小姓との間で性的関係があることは事実で誰も否定する事は出来ないでしょう。
そういった内容の事が書かれた文書も残っています。
ただ、全ての大名・小姓の関係がそうであった訳ではありません。
    小姓というとスグ美しい少年を思い浮かべますが妻子の居る小姓等も
    いるようです。
    桶狭間の戦の折に信長に従っていた小姓六人のうち、岩室長門守と
    加藤弥三郎ですが加藤は岩室の婿となったと書かれています。
    岩室は翌年亡くなっていますから(まさか一歳の嫁は娶らぬ思います
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    伺えます。

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各地を監察したり通知を出して回ったり、訪問者の応対をしていますから、かなり
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野戦などはありませんから屋敷に帰れば自由に正室側室と遊べたはずかと。
20人以上も子を作るほど励んでいる事ですし。

小姓との間に男色関係があったとすれば、もっと若い頃の事ではなかったかと
思っております。

武将・大名と小姓との間で性的関係があることは事実で誰も否定する事は出来ないでしょう。
そういった内容の事が書かれた文書も残っています。
ただ、全ての大名・小姓の関係がそうであった訳ではありません。
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Aベストアンサー

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(どちらも武力・戦略に長けその者に実力があるならば身分の高さや引くさは関係なく登用する。が、自分が天下を取る為には反抗する者などへは手段を選ばない残酷さがある。個人的には信長は曹操の生まれ変わりではないかなと思ってしまう。)

・劉備玄徳≒豊臣秀吉
これは反感を買うかも知れませね(^^ゞ
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となると残るは
・孫権≒徳川家康?かなとなるのですがこれは無理があるので却下(笑)

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皆さんの「この三国志武将は戦国武将のこれに似ている」というのをあれば聞かせて下さい。

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 孫権(呉)→毛利家。天下第二位の領土を誇りながら、創業者が亡くなってしまうと守りに入る。土地が豊かなので積極的に領土を広げようという野心はないけれど、相手に攻めてこられると必死で戦う。
 劉備 →斎藤道三。そこらあたりをうろうろしてるあいだにいつの間にかそこそこの領土の主になってしまう。でも後がつづかない。
 諸葛亮 →真田幸村か石田三成。落目の主家を裏切れないいい人。軍略よりも内政に秀でていた点は三成に似るか。最後やぶれかぶれになってしまうのも似ている。

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以下のURLを参考にしてみてください。

  http://web.kyoto-inet.or.jp/org/kanpo/3W/sinkin.html

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余りに話が長すぎて、内容が分かりにくかったでしょうかね?
全体を読んでくださいね。

いいですか、実際にはリガは攻略されてません。

ナポレオンの主攻撃の矛先はこちらには向きませんでした。
しかしもしあなたが言うように、最初からペテルブルグを攻撃するつもりで、
リガを攻略してペテルブルグに進んだとしても、
時間的に無理があって、モスクワに進んだ場合と同様に結果にしかならないということを
”仮定”を使って説明したわけです。
わかっていただけるでしょうか? 前の投稿も読み返してみてください。


実際にはロシア軍の増援の到着で攻略を諦め、封鎖を続けて挙句に、撤退です。

マクドナルの軍団の兵力は約3万1千名。
エッセンのリガ守備隊は初め1万2千名、10月にフィンランド軍団の来援があって2万7千まで増加します。
加えて海上にイギリスの戦列艦18隻、河には砲艦21隻以上があって完全包囲を困難にしていました。

4万というのはどこの数字でしょうか? 間違いでょう。
ロシア軍は規格よりも大きい第25師団(軍団規模)、フィンランド軍団の二個師団しかないので、4万になることは絶対ないです。
ロシア軍の編成だと概略で、師団が6千、軍団が1万2千ぐらいです。


ポメラニアはスウェーデン領とプロシア領の二つがあります。
スウェーデン領なのはリューゲン島のある方です。
1807年にもフランス軍に一回占領されましたが、翌年に関係改善されて返還されています。
そして1812年に再度占領されるのです。

ナポレオンは最初、第二次ポーランド戦役と号してこのロシア戦役を始めたので、
リガ攻略の意思はありましたし、リトアニアの解放という政治的意図は明らかでした。

ただし結果的にはナポレオンはスモレンスク街道を急進することを選び、ロシア軍も第一西軍と第二西軍を合流させたので、野戦軍撃滅という目の前の最優先課題にとりくむことになったわけです。
だからマクドナルの消極性もあって、結果的にリガは封鎖になったというだけです。

現実的に考えて、ペテルブルグ方向にはそれほどのチャンスはなかったでしょう。
敵の主力を無視して自由にさせるわけにはいかないですし、ペテルブルク方向にはヴィトゲンシュタインの1個軍団があるだけです。
逆にクツーゾフ統合西軍は歩兵と騎兵をあわせて11個軍団もあるわけで、どっちを狙うべきかは明らかでしょう。
サン=シールやウディノの軍団があったので、それでヴィトゲンシュタインを追いかけてもよかったわけですが、補給線の維持につかっただけになりました。

イギリス軍は地上部隊が数個大隊ありましたが、分断の必要があるほどではないですし、オランダ戦線と違って海から直接支援を受けていたわけではないので、海側に追い詰めてもあまり意味はないでしょう。
むしろ南方ウクライナ方面が穀倉地なわけですから、あっちを分断したほうが論理的です。

余りに話が長すぎて、内容が分かりにくかったでしょうかね?
全体を読んでくださいね。

いいですか、実際にはリガは攻略されてません。

ナポレオンの主攻撃の矛先はこちらには向きませんでした。
しかしもしあなたが言うように、最初からペテルブルグを攻撃するつもりで、
リガを攻略してペテルブルグに進んだとしても、
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こんにちは、
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こんにちわ
このたび、とある事情でしらべている事があるのですが、
(1)戦国武将で
(2)三文字で
(3)三文字目が「ん」で終わる
呼び名(通称でも名前でも)の武将をさがしています。
※たとえば「さこん」(島左近)のような

ほかにいますでしょうか?

Aベストアンサー

通称でもよいというならば、以下の官職であった(私称を含む)武将ならば、そのように呼ばれていたと思います。

・左近大夫、将監(さこん)---島清興、滝川一益、立花宗茂
・右近大夫、将監(うこん)---松倉重信、高山重友
・備前守(びぜん)---浅井長政、甘利虎泰
・豊前守(ぶぜん)---河田長親、毛利勝永
・肥前守(ひぜん)---河尻秀隆、東郷重位


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