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歴史上、平清盛は違いましたが武家が政権を取ると幕府を開いていますよね?鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府。では豊臣秀吉は天下を統一したときになぜ幕府を開かなかったのでしょうか?また織田信長が本能寺で討たれず天下を統一していたら幕府を開いていたでしょうか?モンキーパンチさん原作の漫画かアニメかに豊臣幕府というのが出てくるようで、ふと気になったので質問させていただきました。

A 回答 (9件)

天下統一=幕府創設



という図式は、単純には成り立ちません。信長の場合、政治・軍事権を掌握したあと、天皇家の祭祀権も奪おうと時の正親町天皇と対立関係にあり、圧力を掛けていました。信長は自分を神格化して、天皇を自分を崇める祭祀としようとしていたという学説があります。結局どのような形になったかは、明智光秀に打ち滅ぼされてしまったので、闇に葬られた格好です。

秀吉は、もともと農民出身で源氏とも平氏とも関係がありません。最初の姓は寧々の実家の「木下」ですね。信長の直参大名になってから「羽柴」を名乗りましたが、これも織田家譜代の丹羽氏と柴田氏から一字づつもらって作った姓です。

信長と違って秀吉は、その後家康と対立する状況になり、しかも小牧・長久手の戦いで惨敗してしまったので、天皇の権威に飛びついたのです。正親町天皇としても秀吉なら、他の武家勢力から天皇家を守ってくれると判断しました。して、藤原氏がなるべき関白職を秀吉に与えるために、天皇が特別に下賜したのが「豊臣」姓なのです。

正親町天皇が秀吉を信頼していたことは、彼が関白職に就くとほぼ同時に後陽成天皇に譲位したことから裏付けられています。

秀吉が幕府を開かなかったのは、まだ家康の脅威が存在し続け、しかもそれを軍事的に解決するのが難しかったことが関係しています。

小牧・長久手で惨敗した秀吉が、家康をひれ伏させるのに征夷大将軍という武家の棟梁に就いても他の大名たちへの説得力がないのです。直接関白職という朝廷の最高位の位に就き、天皇家の守護者を僭称する方が適切だと判断するのが自然な成り行きだと思います。

実際、関白になってからも家康を恭順させるために旭姫や大政所を人質に送るなど腐心していることからも、相当秀吉は家康にてこずったようです。

まあ何とかして家康を大阪に呼び寄せて、後陽成天皇御臨席の場で関白秀吉に対して、家康が恭順の姿勢を他の大名に示したことで豊臣政権はようやく磐石なものになりました。

結論として、秀吉は天下人として、武家の棟梁としての征夷大将軍よりも、朝廷と日本国全体の守護者としての関白を選んだということになります。
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 No4の方の解答が正確と思います。



 征夷=蝦夷の征服の意味があります。
 征夷大将軍は、元々は東北に住んでいた縄文文化の流れを汲む人々を征服する、関東より東の軍事権を与えられた人のことで、鎌倉幕府さえその成立時点では関東・東北を中心に東日本を支配するだけで、西日本は天皇を頂点とする朝廷の力の強い地域でした。
 承久の乱で、朝廷側が鎌倉幕府を倒そうとして逆に敗れ、その時点で鎌倉幕府が全国統一政権となりました。

 織田信長を取り込もうと、征夷大将軍の位を与えてもよいとの朝廷の内意があったのも、武田家を滅ぼし関東進出してからです。

 源氏姓にする手はいくらでもあったでしょう。別に障害にはなりません。
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ほとんどの皆さんが、



 征夷大将軍になるには源氏でなければならない。

と答えられていますが、これは違うと思います。出典などはわからないのですが、朝廷から羽柴秀吉(=平姓)に対して征夷大将軍になってはどうか、と打診していたようです。

根拠はありませんが、単純に秀吉は朝廷内の極官である関白を目指したと思います。官位を見比べると、征夷大将軍より偉いですからね。

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061496 …
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ご質問のことは、歴史学者の間でも意見が分かれている大きな問題です。

簡単に言うと「秀吉が幕府を開かずに関白として政権を運営した理由は不明」となります。いくつも本が出版されているテーマです。

一般に、「源氏でないと征夷大将軍になって幕府を開けないという観念があった」と言われますが、これは後世の人の考えのようです。平氏と称していた織田信長が、本能寺の変の頃に征夷大将軍になって幕府を開くという噂があったと当時の有力者の日記に書いてある例があったはずです。

この頃、室町幕府の最後の将軍である足利義昭は毛利氏の庇護下にあって依然として征夷大将軍の位にありました。しかし、信長の持つ力をもってすれば、調停に圧力を掛けて義昭の将軍位を剥奪し、自らが将軍になることなどは朝飯前だったでしょう。

秀吉にしても、No5の方が言われるように、平民出身であるのに関白太政大臣になってしまいました。摂関家の生まれでない者が関白になるなど、源氏でない者が征夷大将軍になるより遥かに前代未聞のことですが、実現してしまい、大した抵抗もありませんでした。

私見ですが、武士である秀吉が征夷大将軍になって幕府を開く方が、公家以外が就任した例がない関白になるよりは当時の常識に沿っていたのではないでしょうか。
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織田信長は、征夷大将軍を辞退しています。



豊臣秀吉は、関白を目指します。
しかし、関白も、
源、平、藤、橘の4つの家が重んじられていたので、

藤原前久の猶子(養子)となり、
関白に加え、太政大臣となりました。

その後、藤原前久の娘は天皇に嫁ぎ、
大いに権力を物にします。

これに付いては、
多門院日記でも、「先代未聞ノ事ナリ」と記載されています。

これは、百姓が関白に補任した事についてです。

この事から、
源氏、平家の武家の猶子となれば、
征夷大将軍に就任するのはたやすい事と考えられます。

なぜ、征夷大将軍でなく、
関白、太政大臣であったのか?

理由は、
自分は武家で最も位が高い。
にも関わらず、
どこぞの弱小大名の猶子になる事が出来なかったと言う事でしょう。

徳川、北条、伊達の同盟があり、

臣下の礼をしない状態から、徳川を抱きこみ、臣下の礼をさせ、

惣無事令を無視した北条を攻め、同時に伊達に見方に付かせます。

武家に頼む事を嫌がり、
鎌倉、室町の幕府を良く思わなかったのが原因だと思います。
征夷大将軍は、実力が無くなれば無益な官位。

征夷大将軍の価値より、関白の官位に価値を見出したのかもしれません。
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征夷大将軍になるためには源姓であることよりも、関東を支配しているかどうかが重要な条件でした。


信長は武田氏を滅ぼした時点で北条氏とは対立していませんでしたので、征夷大将軍になる資格はあり、朝廷も任官をひとつの選択肢として提示していたようですが、本能寺で殺されたためどうするつもりだったのかは不明のままです。
秀吉の場合は北条氏を滅ぼすまでは関東に号令することができなかったために征夷大将軍の資格はなく、北条氏を滅ぼした時点では関白(官位としては征夷大将軍よりは数等上)になってしまっていたのでいまさら征夷大将軍になる必要もなかったといえます。
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織田信長は、征夷大将軍になるつもりはありませんでした。


誰かから役職を与えられることで政治力を発揮するつもりがなかったのでしょう。天皇よりも上を狙ったと思います。
将軍になるなら、義昭の後になればよかったわけで。

秀吉も、将軍職には期待していなかったと思います。
藤原家の養子になったり、豊臣家をつくったりして、官位を上げることを目指していましたので。

信長も秀吉も、支持層は同じです。最終的には東アジアの王を目指したと思いますので、幕府は目指さなかったと思います。

家康は関東を地盤にしていましたから、京の天皇の傍らで政治を行うのではなく、頼朝のように京から離れて関東で政治を行おうとした。
結果、将軍職しか選択肢がなかったと思います。
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幕府を開くのは征夷大将軍になる必要があります。



征夷大将軍になるには「源」の性出なければなりません。

平清盛は「平氏」ですよね?

秀吉は織田信長にならって平氏を称していたので、源氏を名乗れず、征夷大将軍になれなかったので、関白になりました。
よって幕府を開くことが出来なかったのです。

足利義昭の養子になって源氏を名乗ろうと画策したようですが、義昭には断られています。
「生まれがわからないものを養子には出来ない」と言われたという説もあります。
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幕府を開くにはいろいろ諸条件があるんですが、その中に「源氏の系統であること」というのがあるんです。


知ってのとおり秀吉は「農民の出」ですのでこれに該当しないため幕府が開けなかったんです。

信長は平家の流れですし、第一「室町幕府をつぶした張本人」ですよ。
頼まれたって開くとは思えません。
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