あなたの習慣について教えてください!!

 現在、堂々と、躊躇いも無く脳死移植が行なわれていますが、脳死は、人の「死」なのでしょうか?
 人が死んでもいないのなら、臓器を取ってしまって死に至らしめることは、殺人とならないのでしょうか?
 人命尊重という観点から矛盾していないのでしょうか?
 移植されて、助かれば、他の犠牲はどうでもいいのでしょうか?
 誰も、移植されて、その臓器提供者に感謝されている様子が見受けられないのですが、手術した医者には感謝して、なぜ犠牲者・提供者に追善回向されないのでしょうか?

A 回答 (11件中1~10件)

 「脳死」は、判定が正確に行われていれば、間違いなく回復することはありえませんので、「生物学的な死」です。



 臓器移植者にへの情報が限定されるのは、医療上の「守秘義務」が絡んでいるからです。

この回答への補足

 私は、「脳死」を直ちには人の死だとは思いません。
 というのは、「脳死」を人の死だと認める理由としては、脳死状態から回復する人がいない、ということが最大の理由だと思います。脳死状態から回復した人がいなくて、脳死になれば必ず死亡に至る、ということで、脳死の段階で、死亡ということにしてしまうのですが、しかし、その時点で死亡しているわけではないと思います。現実に、その人の身体の各器官は、まだ活動しているわけですから。
 とくに仏法においては、我々の生命の中に、 「八葉の白蓮華」がある、と説かれた文や、あるいは、「九識心王真如(くしきしんのうしんにょ)の都」という、日蓮大聖人のお言葉があります。
 これは、いろいろな経典・経文から推して見ていけば、八葉の白蓮華が心中にあるというふうに云われているのは、具体的に何をさしているかというと、心臓のことなんですね。その心臓のところに、我々の命を司っている大きな力があることを、八葉の白蓮華があるとか、九識心王真如の都といわれているわけです。
 たしかに「脳」は大切なもので、その人間の個性・人格を決めているものですが、人間が生存して活動していくのを支えている大きな力は、心臓にもあるわけです。
 そうやって考えてみた時に、脳死状態になっていても、心臓が活動している以上、その人が完全に死亡したと断定することは、私は、仏法上できないと思います。
 脳死になれば、必ず死亡する、回復はしない、という事実は、認めなければいけないと思います。しかし、脳死になった時点で、もう死亡してしまった、としてしまうことは、少し危険が過ぎることだと思うのです。
 それからもう一つ、仏法においては、人が息を引き取った後、要するに心臓が止まって、脈拍も停止した時、死んでから数刻は、その人の生命は、そこに留まっているということが云われています。したがって、亡くなってから数刻の間は、周囲の話し声が聞こえている場合があるし、それから、亡くなった側の意識としては、神経がものすごく過敏な状態になって、皮膚の上の方まで神経が集まってきている、だから、小さなものを、遺体の上に落としただけでも、重い石をドスンと落とされたような苦しみを感じるので、息を引き取った後も、遺体にはむやみにさわってはいけない、ということが云われているのです。
 心臓が停止したという場合でも、なお仏法においては、その人の意識がそこに留まっている、ということを尊重して、単なる物として扱わないように、と云っているわけです。
 そこまで考えますと、やはり、脳死をもって死亡と扱ってしまうことは、危険なことだと思います。
 それから、現実に臨死体験をした人がいます。臨死体験をして、いったん呼吸や脈拍が停止した状態から生き返ってきた人達がいます。脳死になって生き返ってきた人がいないといっても、それは近年の限られた実験の中での話であって、現実に、死亡して脈も止まって、丸一日たってから生き返ってきた、などという人も、過去の歴史の中ではいるわけです。
 その人が脳死状態であったかどうかは分かりませんが、いったん、死亡だと認定されていて、それから何時間後とか、一日後とかに蘇生してきた人達が現実に世の中にたくさんいて、その人達が語っているところでは、死亡宣告をされた後も、どうやら、本当に意識が残っているようです。自分が死んだ後、周りの人達が嘆き悲しんでいる声がはっきり聞こえていただとか、解剖しようという話が聞こえてきたとか、恐ろしい話があります。
 こうしたことから考えても、仏法で云われているように、死亡してから数刻の間は、意識がまだ留まっている、ということは、本当のことであります。
 だとすれば、医学的に、これが死亡だと思えても、本人の意識が、まだそこに留まっている時に、目を切り取りましょうか、肝臓を取り出しましょうか、というのは、きわめて残酷な話ではないかと思います。ただ、本人が希望して、自分の臓器を提供したい、というのなら話は別ですが。
 でも、こういうことを知らないために承諾している人もいるのではないでしょうか。

補足日時:2002/02/01 22:21
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この回答へのお礼

有り難う御座いました。

お礼日時:2002/02/01 22:48

「脳死」を認めない方に、逆に質問したいですね。


何故「心臓死」だけが、「死」の定義だと思うのかと。
と言いましても、逆質問をするつもりは有りません。
つまり、私は「脳死」のみが完全な「死」の定義だと思っているからです。

「AKasama58」さんがお答えになっているように、
回復することは有り得ない「生物学的な死」です。

参考URL
「脳死の概念と定義」

参考URL:http://plaza17.mbn.or.jp/~shinkoro/ECS2.html
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この回答へのお礼

有り難う御座いました。

お礼日時:2002/02/01 22:48

脳死は人の死です。

生物学的観点から言っても、回復することはあり得ません。
それは間違いないことです。
であれば、まだ生きている人たちに、臓器を移植するのは間違っていることではないように思います。

移植された人が、臓器提供者に感謝している様子が見受けられないと書かれていますが、
本来、移植された人には臓器提供者に関する情報はいっさい明らかにされません。
直接その人の遺族のところへ行って感謝するようなことは不可能です。
移植された人は当然臓器提供者に感謝しているのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

有り難う御座いました。

お礼日時:2002/02/01 22:49

現在はドナーカードで、自分で臓器を提供するかどうか意思表示ができます。


前の方の通り、脳死判定が正確に行われていることが前提ですが、倫理的には問題ないのではないでしょうか?

また、移植を受けた人が、提供者が誰か解ってしまうと、お礼として物品を渡すことも充分にあり得るでしょうし、もしかしたら遺族から物品の強要をうけることもあり得るでしょう。

心の中では提供者に感謝しつつも、特定されない方が良いのではないかと思います。
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この回答へのお礼

有り難う御座いました。

お礼日時:2002/02/01 22:50

>>臓器提供者に感謝されている様子が見受けられない


・・・どうして感謝してないって言いきれるの?
いたとしても一部の人間だけかも知れませんよ。
それに自分が死んでも、誰かのためになれる・・・
なんて、すばらしいじゃないですか。

ちなみに、何にも考えられない・・・動けない・・・
それって死んでいると同じことじゃないのかな?
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この回答へのお礼

有り難う御座いました。

お礼日時:2002/02/01 22:52

私は医学者でもないので脳死が人の死であると言えるのか否かはわかりません。


しかし、自発呼吸がない・刺激に対する反応がないなど回復しないことが自明な場合、それは人の死を意味しているのだと私は考えています。

>人が死んでもいないのなら、臓器を取ってしまって死に至らしめることは、殺人とならないのでしょうか?
臓器移植は臓器を取ってしまって死に至らしめるのではなく、死にいたってしまったので臓器を取る行為であるはずです。というよりそうでなければなりません。
もし臓器を取るために死に至らしめ(殺され)たらこれはあってはならないことであると思います。

>移植されて、助かれば、他の犠牲はどうでもいいのでしょうか?
もう助からない・もう元には戻らないのならば、私は臓器提供をしてもいいと思います。これは私だけではないと思います。

少しこのの例は極端ですが参考になると思いますので参考URLをご覧下さい。

参考URL:http://www.v-net.ne.jp/~pikaia/index.html
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この回答へのお礼

有り難う御座いました。

お礼日時:2002/02/01 22:52

ひとつ重要な事が抜けていると思うので、書きます。



現在、臓器提供意思があって初めて脳死は死と認められます。
臓器提供意思のない方の脳死は法律上の死ではありません。


>現在、堂々と、躊躇いも無く脳死移植が行なわれていますが
脳死を死とするかどうかについては、長年議論されてきて、
それの結論として、現在の状況があるのですから、考えうる
ことの多くは語られたと思います。
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この回答へのお礼

有り難う御座いました。

お礼日時:2002/02/01 22:53

人が死んでもいないのなら、臓器を取ってしまって死に至らしめることは、殺人とならないのでしょうか?>


#7の方が書かれているように、法律的には「臓器移植法」が平成9年に施行されて解決されています。

参考URL:http://www.medi-net.or.jp/tcnet/DATA/law.html
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この回答へのお礼

有り難う御座いました。

お礼日時:2002/02/02 21:26

個人の主義主張として、脳死が死であるとか脳死は死ではないとか・・・移植医療は許されるかという意見をもつことは自由です。


しかし是か非かということになれば、個人の意見で決まるものではなく国の中にあっては法律で決められます。宗教では決まりません。結論からいえば『是』です。少なくとも日本国民であれば法律は遵守しなければいけないからです。

私の主義を開陳すれば

脳死は死でもあるし生でもある(移植を望む許す人には死であり、認めない希望しない人には生である※)
私は臓器移植を認めない
私は献血/輸血も臓器移植と考える

というものです。
もちろんドナーカードなど持っていません。
献血だってしませんし輸血も受けないでしょう。
自分の子供が臓器移植を必要としたらこの信念は揺らぐかもしれないけれど。

しかし今の自分は臓器移植の手術は『仕事として』するんですよ。これを矛盾しているとは感じません。
患者さんに輸血もします。献血の啓蒙もします。
それも矛盾しているとは思いません。
だってそれは日本の国の中で認められていることだから。
自分の仕事だからです。
まあ私は手術しかしませんから感謝されることもないんですけれどね・・・。

人命の尊重は行われています。
それぞれの死生観は犯さないような配慮が為されていますからね。(※に明らかです)
確かに感謝していることはあまり表には出てきません。
今ここに生きていることへの喜びをあらわすのに精一杯だからでしょう。しかしそれが感謝していないという証拠になるんですか?
移植されたレシピエントがドナーに対して行えるのは1通の手紙だけです(厳密に言えば遺族ですが・・)その中は多くの感謝の言葉や遺族をねぎらう言葉に埋め尽くされています。1通しか送れないのは、それも規則で決まっているからです。

私はこの問題が議論し尽くされたとは考えません。少なくとも一部の医療識者と政治家、民間運動によって「移植医療をしたいがために」押し切って可決された感が強いからです。日本人の死生観はヨーロッパ人のそれとは異なります。長年それこそ伝統として根付いたものです。それは実際に医療の現場にいればわかることです。しかしそれを全く無視してこの法律は通ってしまった…その結果をよくも悪くも享受するのは日本国民全体です。何がおこるかはわかりません。いいことばかりおこるとも限らないのです。そういった矛盾は少なからず秘められていると思います。

それでも是が非かと問われれば・・・
『是』です。

この回答への補足

臓器を売るということがあったかと思います。
病院側が出所を明確にしない限り、闇であっても臓器移植が可能なのでしょ。
この法案を通したかった人達は、名声欲が強かったと聞いております。それまで、移植手術は諸外国で高額にもかかわらずされておりました。移植を望まれる方達、周囲も、それだけ生きたい、生かせたいという思いが強かったのだと思います。道義的には、賛成できるものではありません。
病は、とくに不治の病は宿業によるとされております。
移植しても、また違う病を併発する場合もあることでしょう。

 仏法においては、病の起こる原因を、大きく二種に分けている。それは、インドの竜樹の著『大智度論』に、
 「病に二種あり。先世の行業報ゆるが故に、種々の病を得。今世に冷熱の風発するが故に、また種々の病を得」
とあるように、過去世に作った業の果報として起こる病気と、今世におけるさまざまな原因によって起こる病・・・の二種である。
 しかして、後者は、今世に病因がある故に、比較的、治しやすい(前者に較べて)が、前者は、病因が過去世にあるために弁え難く、また今世まで引きずってくるほど深い業である故に、なかなか治すことができない、とされている。
 ここで、”業病”についてだが、業病とは、過去に自分がなした誤った行ない・発言・思考などが、悪因となって生命に刻みつけられ(悪業)、それが現世に果報となって、起きてくる諸病のことである。
 そのなかにも、むろん業の軽重によって、やや軽い業病から甚重な業病まで、種々あるが、なかんずく、正しい仏法に背いたが故の業病こそ、もっとも甚重で治し難い病であるといわれる。だが、
 「業病最も治し難し。将又業病に軽有り重有り、多少定まらず。就中法華誹謗の業病最第一なり。神農・黄帝・華佗・扁鵲も手を拱き、持水・流水・耆婆・維摩も口を閉づ。但釈尊一仏の妙経の良薬に限って之を治す」
いかに治し難い業病であっても、正しい仏法の信仰によれば、必ず治すことができる、というのである(ましてや、それより軽い業病については、なおのことである)。
 それは、我々の生命の奥深くに、過去からの業が蓄積されているのだが、正しい仏法を信仰すれば、そのさらに一重深い最深層に仏界が開顕される。しかして、仏界に具わる浄化作用によって、それより浅い処に蓄積されている悪業を、徐々に消滅させていくことができるので、医学で見離された不治の業病すら治していけるのである。

補足日時:2002/02/02 21:38
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この回答へのお礼

有り難う御座いました。

お礼日時:2002/02/02 21:38

なにをもって「脳死」と判断するかですね。


脳死移植技術の進んでいる米国では.「脳死」と診断されて臓器摘出中に意識が回復したなんて.事もあったようです。
現在の日本の脳死判定では.意図的に脳細胞に負荷をかけて死ぬように仕向けてから.他の検査を行っているとも取れる内容がありますから。
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この回答へのお礼

有り難う御座いました。
いつでも、医師側の倫理問題は尽きないようです。移植手術により名声を得たいとする向きが、事実、あったようです。

お礼日時:2002/02/04 12:09

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