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源義経が頼朝から逃げているとき、新潟にも行ったのですか?
新潟の『新飯田村』というのは義経が付けた村の名前だというのをご存知の方、いますか?

A 回答 (3件)

「吾妻鑑」に義経は風聞によると、伊勢、美濃を経て奥州に逃れた、と書かれているのが唯一のもので、その後は地方の伝説によるしかありません。

   延暦寺、興福寺など寺院が、義経の逃亡に協力していたので、加賀白山経由が定説で、その後永平寺へ向かった、との説もありますが、探索の的の寺にはいかないでしょう。   従って内陸でなく北陸道を行ったと考えられ、新潟経由と思います。 
村上市には義経一行逗留の伝説があります。
安宅の関は通ったかも知れませんが、勧進帳のような話はなく、中国の古事を元にした「義経記」の創作と言われています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
とりあえず、新潟を通った可能性は高そうですね。

お礼日時:2006/08/08 12:31

義経一行が、安宅関の辺りから「源頼朝が支配する関東地方を通らずに」奥州平泉に行こうとすれば、可能性のあるルートは、



「新潟市・長岡市の辺りから、磐越西線の通っているようなルートで会津地方に出て、次いで奥州街道を北上する」(戊辰戦争の時に、長岡藩と会津藩が連絡に使用したルート)

「新潟市の辺りからさらに北上し、海岸伝いに山形県の庄内地方に出て、最上川沿いを遡って新庄市か山形市の辺りまで行き、奥羽山脈を越えて奥州街道に出る」(越後の上杉家が、出羽の庄内地方を征服したときのルート)

と言ったルートと思われます。どちらでも、新潟市の辺りを通るでしょう。いずれも楽な道ではないですが、通行可能です。

この時代、越後国の中心部は今の上越市の辺りでした。普通の旅人なら、この辺から南に下がって信濃川・千曲川沿いに飯山市の辺りを通って長野市の辺りに出て、さらに軽井沢の辺りで碓氷峠を越えて群馬県に出て、群馬県→栃木県と関東平野の北の方を通って奥州街道に出る方が楽です。ただ、これは源頼朝の勢力圏を通るので無理でしょう。

なお、「義経一行がどのルートで平泉に到達したか」は伝えられていないと記憶します。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
義経は色んな伝説がありすぎてこまりますね;;

お礼日時:2006/08/07 23:39

新飯田村については知りませんが。



勧進帳で有名な安宅関は石川県小松市の近くにあるそうですから、新潟を通って平泉に行った可能性はゼロではないでしょうね。ただ、安宅関を通過した話が実話だとしてですが。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
やっぱり新飯田の話はマイナーなんですね。。

お礼日時:2006/08/07 23:38

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