「みんな教えて! 選手権!!」開催のお知らせ

キリスト教の方でも例えばエホバの証人のような方たちは、この宇宙や人間は、知性を持った存在が創造したものであると考えておられるようです。しかも、そのような方々は、単に宗教上心の平安のために信じているとか、信じた方が幸せだからというのではなく、創造主の存在は絶対的な真実であると考えておられるようです。そういう人たちにお聞きしたいと思っていることがあります。

私はこのような考えは矛盾を内包した考えであるように思えてなりません。どこに矛盾を感じているかと申しますと、この世を知性を持つ存在が作ったのだとしたら、そのような知性を持っているような存在はどうしてできたのか、ということを説明できないからです。

よく聞く説明は、そういう存在は最初から無条件に存在していてそれを信じるのだ、ということですが、これは私は次のような理由で納得できません。このたとえは創造論の説明でよくされるたとえなのですが、時計があったらそれは時計職人が作ったに違いない、という話がありますが、同じようにこの世を創造するような存在は時計などよりはるかに複雑な存在です。そのようなものが最初に無条件に存在したと仮定できるのなら、創造主が作ったのではなく、宇宙や人間だっていきなり出来たと考えてもおかしくありません。私の直感的な理解では(これは多くの理性的な判断力を持つ人も同じような理解であると信じるのですが)ある程度以上に複雑で合目的に作られた仕掛けは、いきなるできあがるということは絶対になく、誰かが作るか進化によってしかできることは無いというものです。この私の直感的を信じるならば、そのような創造主が存在できないということになります。

実際にそのような創造主を信じておられる方がたに、私の感じている矛盾をどう解決するのかをお聞きしたいと思います。

A 回答 (18件中1~10件)

No.9です。



質問者様の他の回答者への補足中に(No,11)
>それはそのとおりです。私だって、「創造主を信じていない人は最後の審判で地獄におちるでしょう」などと言う人がいなければ、ここにこんな書き込みをすることは無かったでしょう。

があるのを見て、ようやく何となくその意図するところが分かりました。

おっしゃりたい事は私にもよく分かります。
私も同じ疑問を持っていますから。

私はキリストとキリスト教を分けて考えています。
私はイエス・キリストを信奉してはいますが、クリスチャンではありません。

現在のキリスト教にはオカシナところが沢山あると思います。
確かに神に対する解釈もそうです。
でも、私は、これは当時の人間の文化的、科学的レベルの限界だと思っています。

おそらく、イエス・キリストは当時に人々のために、一般民衆が理解できるように、分かりやすく色々な例えで啓蒙した社会改革者だったと思います。

当時は、ユダヤ教のドグマ主義によって、民衆の精神ががんじがらめに拘束されており、霊性が窒息寸前だったのを解放しようされたのではないでしょうか。

又、死後の理解が不足していた当時の人々に対し、霊は永遠であること・・さらに生きているうちに善性に目覚め、良いことをすることの大切さや喜びに目覚め、徳を積むことによって穏やかな幸福な魂として、死後の生活の準備をしなさい・・と伝えたのでしょうね。

そしておそらくイエス・キリストの仰った「神」とは人間のような神では無いと思います。
当時の人が人間の形でしか神を理解出来なかったので、今日、まるで王様のように玉座におわします神が一般的になったのではないでしょうか。

真の神とは
圧倒的なエネルギー的存在であり、
宇宙の摂理の創作者であり、
ビッグバンのように自身のエネルギーから全てを生み出した存在・・だろうと思っています。

でも、当時地球が丸いことすら知らなかった人々に一体どれだけのことが理解できたでしょうか。

今イエス・キリストが現れたならば、現代の私たちに、今風に、科学的に「神」を説明してくれるはずです。

もう現代は盲目的に何かを信じることの危険性が証明された時代だと思います(例えばオウム真理教のように)


私は感情はエネルギー的存在だと思っています。
愛、憎しみ、高揚、感謝・・
感情は脳内だけで作られるのではなく、人体のエネルギーフィールドにその大元があると思っています。
この人体エネルギーフィールドに関しては研究している科学者がいますから紹介します。

http://hpcgi1.nifty.com/akashic/patio.cgi?mode=v …
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4309250726.h …

人の感情がエネルギーならば、
最初の創造主のエネルギーに感情が無いとどうして言い切れるでしょうか。
この目に見えない感情のエネルギーこそ全ての源泉かもしれません。
現在私たちが物理学的に確認できるエネルギーはそのほんの一部かもしれません。

濃縮された感情のエネルギー(創造主)があるとき愛(創造の欲求)のエネルギーを膨らませ、終に爆発させたのが宇宙の始まりかもしれません。

創造主は愛(創造欲)により種々のパターンのエネルギーを生み出し、それを慈しむあまり(愛の止めようの無い創造のエネルギー)
生み出したエネルギーが色々な形が取れるようにエネルギーの振動数を細かい微妙なバイブレーションから荒いバイブレーションまで作り出し、
その最も荒い低いバイブレーションにこの物質界が相当しているような気がします。

神はその創造力を次々つぎ込んで、あらゆる法則、摂理を生み出し、さらにもっと自分自身をも創造したい(成長拡大したい)と欲し、あらゆる体験をすることにより、もっと豊かになろうと決意し、あらゆる生物を生み出し、進化させ、体験させ、その体験を死後創造主の元に収集させることによって、どんどん豊かになっていったのではないでしょうか。

勿論証明はできませんが・・
創造主から賜った想像力で描いてみました。
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何故信じられるか?


答え:徹底的に洗脳をされたからです、それだけです。
2000年も昔の人間が考えた事を現代の利口な人間がうまく理屈をつけているのですよ、主がいないとキリスト教は空中分解してしまいます。

難しい理屈は後世のお利口さんが理論化してくれます、創始者が夢にも思わなかったような理屈を。
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#8です。



>そうでしょうか? 「見事に調和した宇宙の運行」というのは具体的にどのようなものでしょうか?

「見事に」とか「調和した」とかの修飾語は主観的な判断になるので、客観的事実だけを述べさせていただきます。

事実1: 地球、月、太陽系の運行は、かなり長期に渡って安定している。
事実2: 地球、月、太陽系は、偶然生成したので、条件によっては生成しなかった可能性もある。
事実3: しかし、地球、月、太陽系は「現に生成しているという事実がある」ので、「偶然と雖も決して生成しない、すなわち、原理的に生成する可能性が全くなかった」のではない。

事実3が最も重要な点と思いますが、何を言いたいのかわかりにくいと思いますので、別の例を挙げます。

例えば、百万個のサイコロを振って、全て「1」が出たら、ひとは非常に起こる確率の低いことが起こったということで、びっくりすると思います。しかし、譬えどんなに確率が低くても、「起こる可能性があることが起こったに過ぎません」ので、ある意味では、必然の結果です。ところが石ころ百万個の場合は、いくら振っても、決して「1」は出ません。「不可能なことは起き得ない」からです。とても当たり前のことです。

地球、月、太陽系の話に戻ると、サイコロに相当するのは「物理法則」です。「物理法則」があるから、どんなに確率が低くても、地球、月、太陽系は生成可能なわけですが、もし、「物理法則」がなければ(上の例で言うと、サイコロがなくて、石ころばかりなら)、決して、生成し得ないわけです。

ところで、その「物理法則」というのは、数学的関数で表現できます。すなわち、この世界は、知的な数学的関数で表現できるような物理法則が支配しているわけです。従って、「この世界は混沌などではなく、知的な秩序がある」ということです。この知的な秩序があるという事実を見て、そこに「創造者」を見る人がいたとしても、それは、特に不思議なことではないように思います。

>私はこれは多世界解釈と人間原理で「創造主」など持ち出さなくても説明できると考えています。

おっしゃる通りだと思います。ただ、だからと言って、逆に「創造主」を持ち出したから、説明ができなくなるということもないように思います。すなわち、「創造主」が創ったんだと言い出す人がいても、それはそれで、一つの考えだと思います(知的な秩序の存在をどう説明するかに対する一つの回答ではあると思います)。

>人間の存在は進化だけでは確率が低すぎると思いますが、これも進化論に「人間原理」を加味して考えれば疑問は消えると思います。

「人間原理」という言葉は始めて聞きましたので、何を意味しているのかわかりませんが、進化論については、「確率が低いことが起こった」ということは、特に驚くべき事ではないように思います。譬えどんなに確率が低くても「起こる可能性があった」という事実の方がはるかに驚くべきことだと思います。従って、キリスト教原理主義者が進化論を認めようとしないのは、不思議です。もしかすると、神をバカにしているのではないかとさえ思います。

というのは、もし、本当に神がいたとしたら、泥から人間を創るなどという下っ端な仕事を神がするはずはないからです。神は黙っていても、勝手に人間ができるようにこの世界システムを設計すると思うからです。

>でも「多世界解釈」と「人間原理」では 10^1230個の宇宙があればどこかに人間のような存在が生まれまると考えます。私には、創造主よりこちらの方がはるかに納得が行きます。

結局、「事実関係」の問題ではなく、「創造主」という言葉によって何を意味するかという言葉の定義の問題のような気がします。例えば、「創造主」という言葉で、人間のように人格を持った「神」のようなものを考えるのであれば、では、その神を創ったのは誰だという話になり、論理的破綻が来そうですが、もし、「創造主」をこの世界の法則だと考えれば、特に問題がないように思います。

ところで、「人間原理」って何ですか? 興味があります。

この回答への補足

10日間も放置して失礼しました。

> ところで、「人間原理」って何ですか? 興味があります。

人間原理というのはGoogleで検索すればたくさんヒットすると思います。

私のつたない言葉で説明しますと、人間が存在しているこの世界はものすごい偶然でうまくいっていることが多すぎるじゃないか、神の力がなければこんな奇跡がおこるはずが無い、と思えることでも、人間によって観察されているということそのものが、その世界の条件を限定しているから、その世界ができるまでにどれほどの奇跡が起こっているとしても驚くには値しない、という考え方です。人間が存在できる確率が10の-100乗としても、その人間によって観察されるということ自体が、その世界はすでに10の-100乗の確率を乗り越えた世界なので、人間の目から観察する世界はものすごい奇跡が起こったかのように見えても、じつは奇跡ではなく、10の100乗回に1回起きることが起こったに過ぎないということです。宇宙に地球のような惑星は10の100乗個も無いんじゃないかと思われるかもしれませんが、多世界解釈を認めれば10の100乗でも10の1000乗でも問題ないわけです。

補足日時:2006/09/24 08:30
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No.13です。


補足をさせて頂きます。

現在の最先端の物理学では、物質の最小単位は、振動するエネルギーである、と言うそうです。

この最小単位のエネルギーが創造主のエネルギーと何らかの関係がある様に思えます。
或いは、創造主のエネルギーのヴァリエーションといえるかもしれません。

物質の最小の単位が振動するエネルギーであるならば、そのエネルギーの振動数を変化させることによって結果的に色々な物質が生まれるのかもしれません。

もしかしたら、この宇宙の全ての物質は同じエネルギーが変化したものかも知れないと思います。
人や動物に感情があるならば、当然、その大元のエネルギーにも感情に変化する要素があるはずです。

私は、この大元のエネルギーそのものが創造主ではないか、と思います。

この世もあの世も含め、全てのエネルギーは全て同じエネルギーのヴァリエーションにしか過ぎない・・・とすれば、
創造主の創造の仕方が理解できると思います。

最初に「光りあれ」と神が言葉を発した・・とありますが、
この解釈からすると、
神は光りなるものを作ろうと意図して、自分自身のエネルギーの振動数を変化させることによって、一瞬にして光を出現させたことになります。

言葉とは意志です。
日本にも古来「言霊、ことだま」というものがあり、言葉には霊(意志)が宿る、と言われています。

この「光あれ!」という神の言葉は神の意志を表していると思います。

神(創造主)は全てのものを一つ一つ創ったのではなく、すべての大元の変化したエネルギーを作り出し、それが神のつくりたもうた自然の摂理によって変化、進化していったのではないでしょうか。

勿論、証明できませんが、何だか一人で納得してしまいました。

この様な想像は如何でしょうか。
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神は完全である。

→神は人間の理解を超えてる。
神は創造の源である。→だから神は宇宙を創造した。

神は完全だから、その神を誰が作ったか問うのはナンセンスです。
何故なら神が何者かに作られたものなら、その神は完全でなくなるからです。

神は完全だから時間を越えて存在してる。
そもそも神が時間を作ったのだから、その前とかその後とかはない。
時間というのは、あくまで、人間的な概念でしかない。

こう言ってもまるで訳がわからないでしょう。
神は人間には到底理解できない不可解な存在なんです。
たとえるなら、動物に人間が理解できないように、人間に神はよく理解できないんです。

あと、宇宙がどのようにできたかは、無神論者にもわからないでしょう。
それは人間の理解を超えた問題だからです。

以上まとめると、宇宙がどのようにできたか?
有神論者→理解不能→神のせいにする(神が全ての矛盾を解決)
無神論者→理解不能→わからない(法則はギリギリ認める)

では、人間は理解不能の神を何故信じるのか?
神の全てを理解できないが、神から人間への働きかけを感じることができるからです。
このために、神が人格神であるという概念が重要になってくるのです。
要するに、神が人間を救う存在であることが、宗教の信者にとって一番重要なんです。
言い換えると、神が宇宙を創造したのが真実でも、神が人間と関わりを持たないなら、
神は人間にとって何の意味もないんです。

なお、宗教学の基本に
人間の理解できる神はほんとうの神ではないというのがあります。
何故なら、神は人間より高次な存在で、人間の理解を超えてるからです。
だから、なんかよくわからないけれど、信じようとなるんです。
そして、健全な信仰には、常に疑問がつきものなんです。

反対に、何の疑問もなく、神について確信を持つと、
恐ろしい行為を神の名にかけてする危険思想に陥りやすいのです。
というのも、神に不可解さ=疑問がなくなると、
神は単なる公式と同じになり、人間の便利な道具に過ぎなくなるからです。
そして、自分達の信じる神が理論的に間違いがないと思うと、
人間はどうしてもその宗教を絶対化しやすいのです。
だから、カルトの特徴は情報の制限なんです。
そううして、現実との矛盾や他者からの批判を封じ込めて、
自分達の宗教の矛盾や間違いを全く認めようとしないのです。

現代の優れた宗教家は、キリスト教信者であれ、自分の信じる宗教に問題意識を持っているものです。信仰というのは、批判的な視点があって、はじめて深化するものなんです。宗教の信者にとって、疑問や葛藤というのはとても大事なんです。
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やはりmoritan2さんといっしょに私ももう一度、


第一原因についての考察をしてみたくなりました。
ちょっと思ったのですが、

・・・0000001111111111・・・
と、
・・・1111111111111111・・・
とでは、
どちらが自然かな?、って思います。
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>「創造主を信じていない人は最後の審判で地獄におちるでしょう」



これはドグマです。言いたい人には言わせておけば良いのです。自分の発言を客観視できていないのですね。

要するに、お子様です。自分が偉くて、相手は下でという傲慢さに気が付かないんですね。

下らないものに、心煩わされてはいけません。

心の年齢が幼い人をまともに相手にする必要はありません。子どもとケンカする人がいないでしょう。それと同じことです。

崇高な生き方に憧れているんでしょうか?

それでは、自分で納得のいく、素晴らしい生き方をされた方を手本にすればいいのではないでしょうか?

何も、昼間から街中でがなり立てている暇人を相手にする必要も無ければ、ネットに持ち込む必要も無いのです。

自分で自分を輝かせる努力をすればそれで良いのです。

その過程で、神という言葉が出てきたら、その段階でまた自分なりに考えたら良いでしょう。

マザーテレサも神という言葉を使っています。

しかし、ご自身が神をドグマだと思うなら、納得いくまで追及されたら良いでしょう。

人様は人様。自分は自分です。相手に自分の希望を押し付けても意味はありません。

人を変える必要はありません。

まず、自分がなりたい自分になれば良いのです。

つまらないドグマに心奪われる必要はありません。
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 いろいろ考えがありますが、二つあります。



1.宇宙が存在する前に神がいて、神が宇宙を創造した
2.宇宙が先に存在し、その後神が産まれた

どちらにせよ、人知を超えています。科学では検証不可能です。

しかし、神の存在を信じる人がいる。

例えば、デカルトの証明があります。

たしか、人間は不完全である

神は完全である

不完全な人間が、神の存在なしに、完全という概念や、全知全能と言う神を観念できるはずがない。

従って、神は存在する

というような、かなり適当な証明で、これに激怒したのが、敬虔さと知性のバランスで有名なパスカルです。

このような、適当な証明(事実、デカルトには神がどうでもいい存在であったと言う裏話があります)に対して、かなり怒り、パンセにもデカルトの悪口が書かれてあります。

どうして信じるのか、それは、人間の知性を遙か超えているものに対して、信じるか信じないかというものです。

他の質問でも、こじ付け的な話をしていますが、神の存在証明など意味がありません。

人間の知性を超えているものに、証明という人間特有な思考が当てはまるとは思えないからです。

従って、後は信じる人は自分の信仰を貫けば良いし、信仰したくない人は信じなければいいだけの話です。

思うに、神とは、論理的に把握できるものではありません。大いなる存在に生かされているという実感を持てるか否かが試金石です。どちらでも、それは各人の自由です。

あとは、品性を持ち、お互いの信条を敬することです。それが文明国というものです。

信仰とは個人的な問題です。

ネットで議論して決着が付くはずがありません。

従って、各人の思考に任せるべきです。人様の生き方に口を挟むことほど意味のないことはありません。

自分の人生をきちんと生きていないから、人の信仰が気になるのです。

そういう自分のあり方を私は、まず反省すべきだと思います。

それが知性、品性というものです。

この回答への補足

> 信仰とは個人的な問題です。
> ネットで議論して決着が付くはずがありません。
> 従って、各人の思考に任せるべきです。人様の生き方に口を挟むことほど意味のないことはありません。
> 自分の人生をきちんと生きていないから、人の信仰が気になるのです。
> そういう自分のあり方を私は、まず反省すべきだと思います。
> それが知性、品性というものです。

それはそのとおりです。私だって、「創造主を信じていない人は最後の審判で地獄におちるでしょう」などと言う人がいなければ、ここにこんな書き込みをすることは無かったでしょう。

補足日時:2006/09/13 23:49
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
補足が説明不足で何を疑問に思っているのかちょっと意味不明でしたので、さらに補足の補足にこの欄を使わせていただきます。ですので、先にお礼を書かせていただきました。

私の疑問の一つは、ものごしもやわらかく人間的にもよい人に上の補足のようなことを言わせるものはなんなのか? ということです。

お礼日時:2006/09/13 23:58

   同様の議論が他でもされていますね。




  *理知ある創造者は自然発生的には存在し得ない。

= 理知ある創造者が存在するためには、理知ある創造者の存在が必要。

= 永遠に「第一原因者」を特定することは出来ない。
   
∴物質宇宙が存在するための、理知ある「原因者」の存在は肯定できない。

   とお考えであると理解させていただいてよろしいでしょか?


   ここでは、議論を二つに分けて考えていただければと思います。

   (1)「複雑で合目的性のある仕掛け」はどのように出来上がるか。 進化かそれとも創造か。

   (2)「創造」であれば、その「原因者」はどのように存在するようになたのか。


   (1)の設問に対する答えを得て、(2)の設問へと進む、この方法を取ることは「創造者を信じる」人たちの思考を理解する助けになると思われます。

   尚、(1)は帰納的に、(2)は演繹的に思考するならこれまで創造者を信じる人と信じない人とに、どの様な溝が存在するかが多少は理解できると思われます。


   

この回答への補足

>   *理知ある創造者は自然発生的には存在し得ない。
> = 理知ある創造者が存在するためには、理知ある創造者の存在が必要。
> = 永遠に「第一原因者」を特定することは出来ない。
> ∴物質宇宙が存在するための、理知ある「原因者」の存在は肯定できない。
>    とお考えであると理解させていただいてよろしいでしょか?

はい、そうです。

補足日時:2006/09/13 23:48
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私は特にクリスチャンというわけではありませんが、


クリスチャンが語る神の中でも
「聖フランシスコの言葉」にいつも圧倒的な感銘を受けます。
以下抜き出してみます。


「太陽の歌」

神よ、造られたすべてのものによって、わたしはあなたを賛美します。

わたしたちの兄弟、太陽によってあなたを賛美します。
太陽は光りをもってわたしたちを照らし、その輝きはあなたの姿を現します。

わたしたちの姉妹、月と星によってあなたを賛美します。
月と星はあなたのけだかさを受けています。

わたしたちの兄弟、風によってあなたを賛美します。
風はいのちのあるものを支えます。

わたしたちの姉妹、水によってあなたを賛美します。
水はわたしたちを清め、力づけます。

わたしたちの兄弟、火によってあなたを賛美します。
火はわたしたちを暖め、よろこばせます。

わたしたちの姉妹、母なる大地によって賛美します。
大地は草や木を育て、みのらせます。

神よ、あなたの愛のためにゆるし合い、
病と苦しみを耐え忍ぶ者によって、わたしはあなたを賛美します。
終わりまで安らかに耐え抜く者は、あなたから永遠の冠を受けます。

わたしたちの姉妹、体の死によって、あなたを賛美します。
この世に生を受けたものは、この姉妹から逃れることはできません。

大罪のうちに死ぬ人は不幸な者です。
神よ、あなたの尊いみ旨を果たして死ぬ人は幸いな者です。
第二の死は、かれを損なうことはありません。

神よ、造られたすべてのものによって、わたしはへりくだってあなたを賛美し、    
感謝します。



「平和を願う祈り」
神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。

憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように    

いさかいのあるところに、赦しを
分裂のあるところに、一致を
迷いのあるところに、信仰を
誤りのあるところに、真理を
絶望のあるところに、希望を
悲しみのあるところに、よろこびを
闇のあるところに、光を

もたらすことができますように、
助け、導いてください。

神よ、わたしに
慰められることよりも、慰めることを
理解されることよりも、理解することを
愛されることよりも、愛することを
望ませてください。

自分を捨てて初めて
自分を見出し
赦してこそゆるされ
死ぬことによってのみ
永遠の生命によみがえることを
深く悟らせてください

http://www.aritearu.com/Influence/Francis/Franci …

如何ですか。
この言葉を読むと聖フランシスコが自然の全て、宇宙の摂理の全てに神を見出していたことが分かります。

一般的に理解されている神・・例え、それが一般的な宗教だろうと、物理学的に科学的に追求した神だろうと・・そんなものをはるかに超えた「摂理としての神」の圧倒的な存在と、その深い理解が信仰という形で表現されていると思います。

私はこの言葉を読むといつも仏教における因果応報論までも感じられてしまいます。

キリスト教といっても本当に人によって色々ですね。
この言葉を読むと神云々の議論自体が空しく感じられてしまうのですが・・。
皆様は如何でしょうか?
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