大学のレポートで『日本の中世都市について知るところを800字以内で述べなさい』っていうのがあるんですが、
わかりません!!
お願いです。詳しい方がいらっしゃったら教えて下さい!
他にもテストとかレポートがたっくさんあって困ってるん
です・・・。
日本の中世都市について教えて下さい!!!
よろしくお願いします☆

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A 回答 (2件)

 丁寧なお礼をどうも。

かえって痛み入ります。

 さて、「城下町」と来ましたか。…実はちょっと、「中世の都市に入れたのはまずかったかな…」と思っていたところなんです。というのは、城下町が「家臣領主の在地性の否定」を象徴する都市の形態である以上、これはやはり「近世の」都市形態と考えるべきなのではないか…と。
 でも、いちばん書きやすい素材であることは事実です。それに、事実、安土桃山時代より前に存在していますから、レポートの題意に背くことにはならないと思います。(提出する相手の先生が、どのくらい厳しく見るかにもよりますが)

 では、盛り込むのにお勧めの論点を。
【絶対外せない】領主でもある家臣の在地性を否定し、統制するための都市であること
 これは既に触れました。このことの実現に必要な前提は、
1.主君である大名の実力が個々の家臣を圧倒していること …つまり、在地小領主の連合体的な性格の勢力ではないこと、です。程度の差は様々ですが、こういう勢力は多数ありました。
2.豊かな生産力を背景に、兵農分離と常備軍の編成が可能になっていること …気候や広い平野、肥沃な土地に恵まれた土地が有利。ただし、それらに恵まれていても在地勢力や郷村一揆が力を蓄えすぎていると、これが障害となって困難になる場合もあり、一概には言えません。
…これら二点です。これらの条件をクリアして、家臣団をゴリゴリに統制するために形成されるのが「城下町」、ということ。
【できれば入れたい】字数的に無理なら省略してもよさそう…2つ
1.「強兵策」の前提となる「富国策」を兼ねていたこと …商工業者の誘致、楽市楽座の実施(信長オリジナルではありません。史料上は六角定頼が最初です)、領域内の関所廃止による流通の効率化・活発化(これも信長オリジナルではありません。発想自体は20年以上も遡る細川政元にすでに見られます)…などによる、領内の経済活性化策。
2.築城法の変化 …天然の要害を生かした「山城」から、都市部・農村部とのアクセス利便を見越した「平城」への移行。防衛も大事だけど、領地支配と経済発展の方がもっと大事、という発想ですね。
【具体例として】有名どころをいくつか。
大内氏の山口、今川氏の府中(駿府)、北条氏の小田原、上杉氏の春日山(直江津)、大友氏の府内(大分)…特に山口などは、応仁の乱以降京都から脱出した文化人を吸収し、文化的にも大変栄えました。

 で、資料ですが、はっきり言って楽勝でしょう。これが「城下町は書きやすい」最大の理由かも。
 まず、高校生向けの教科書や用語集・参考書でも十分です。基本的な「城下町」像は、もうそれだけ確立されているのです。で、ちょっとがんばろうとお思いなら、図書館でも行きましょう。「日本史用語辞典」とか、中央公論社の「日本の歴史」シリーズあたりで、関連するところをチェック! チェック! …これでもう、ばっちぐーでしょ。(死語)

 では、ご健闘をお祈りします。
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この回答へのお礼

☆ありがとうございました☆
本当に助かりました!!!
なんとか合格できてるのでは?と自分では思ってます♪
テストが終わって、カゼをひいてしまし寝込んでしまっていて
お礼を言うのが遅くなってごめんなさい・・・。
気になってはいたんですが、なかなかパソコンに向かえなかっ
たもんで・・・。
本当に助かりました☆感謝してます☆
ありがとうございました!!!

お礼日時:2001/01/15 00:05

 ども、はじめまして。


 えー、800字という字数ですと、日本の中世における都市を総論するのは無理ですね。だいたい「中世」という時代は、日本全国の地域ごとに、事情がモノすごく違うんです。とうてい一言では言えない。的を絞ったほうがいいでしょう。
 とりあえず室町時代に限っていきましょう。都市の種類です。
  1 古代からある政治の中心地
  2 寺社周辺に成立した、いわゆる「門前町」
  3 地方領主(戦国大名を含む)が形成した「城下町」
  4 物流の集散地に形成された都市(流通拠点)
といったあたりが挙げられると思います。
 レポートの題は「中世都市について知るところを…」ですので、1では題意に答えたことにならないでしょうね。2,3,4を狙いましょう。
 まず、2。
 中世の寺社勢力は、江戸時代の、完全に幕府の統制下に置かれた寺社のイメージでははかれません。ビンボーな所も多かったのですが、中には相当の寺社領を有し、一大勢力として自立し、室町幕府や朝廷に影響を与える場合すらありました。
そういう、ある程度実力のある寺社の周辺で形成されたのが「門前町」です。中には商人のスポンサーになる寺社もあって、寺社の保護を受けた商人たちのグループが「座」です。後に六角定頼や織田信長が解体することになる、アレです。これの場合、寺社は商人に寺社領内における独占的営業権を認め、そのかわりにうわまえをハネる、という関係になります。
 これが一般的な姿ですが、少々ユニークなものに、浄土真宗系の「寺内町」があります。初期のものは、戦国時代初期の宗教家・蓮如による布教の足跡に、門徒たちが形成しました。といっても、多くはまだ「都市」と呼べるほどの規模ではありません。が、後に、一向一揆は大きな勢力に成長します。国人・地侍など、「戦国大名未満」の連中は、あるいは自ら浄土真宗門徒となったりしてこれと結び、領地の安泰を図ります。こうした小領主が意図的に形成したのが、戦国時代後期の寺内町です。寺を中心に、運送業・商業・各種製造業の業者ごとに居住地を割り振り、なんだか江戸のミニチュア版みたいな町を作っていたわけです。
大阪の今井・貝塚・富田林・下市・久宝寺などがこれにあたります。
 次に、3。
 これは戦国時代後期から安土・桃山時代(時代区分では近世)にかけて形成されたものでしょう。というのは、中世の封建制度と近世の封建制度の大きな違いは、「領主の在地性の有無」だったりします。つまり、家臣が自ら一定の土地を支配する領主である場合、その土地を守る都合から主君を裏切ることだってあるわけで、そうさせないために人質をとったりしたわけです。でも実際、預けた人質を見捨てて主君に逆らった武将の例は、それこそ数え切れないほどあります。そういう家臣を押さえつける究極の手段が「領地と切り離すこと」だったわけです。支配地と離れた、主君自身の住まう城近くに、妻子ともども住まわせる。ついでに、互いに監視もさせられる。これでもうばっちり。
 ただし、これには主君の力が圧倒的であることが必要条件になります。つまり、いわゆる「天下人」が現れてくる頃に、ぼちぼちできはじめた都市のあり方です。やはりこれは、生産力に富み、兵農分離が進んだ地域で初めて可能になることでしょう。例えば、甲斐・信濃の武田家なんかは家臣の独立性が強かったようです。それぞれの力を合わせればメチャメチャ強かったけど、信玄が死んで、家臣たちがそれぞれの判断をするようになると、もうボロボロになっちゃった。……要するに、こうならないようにするための方策が、「城下町」でした。
 で、4。
 何と言っても、代表は「自治都市・堺」でしょう。最後には信長の軍門に降ったとはいえ、彼も力攻めで踏み潰そうとはせず、一目置かざるを得なかった存在です。これはもう、淀川水系と瀬戸内海が交差する地域にある町だからこそ、そこまで成長できたわけです。いま、「水系」と「海」と言いましたが、江戸時代までの「物流」の主役は「水」だったのです。大きな川が海に流れ込む地点といえば、もうそれだけで都市形成の条件は満たしていると言ってもいいくらい。こういう形の都市葉、全国あちこちにあります。利根川水系とか、和歌山県の紀川流域とか、愛知県の長良川流域とか…。

 さて…どうでしょう? 的が絞れたら、もう少し細かい話や資料の紹介も多少はできると思います。
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この回答へのお礼

本当にどうもありがとうございましたm(_ _)m
感謝感激です☆
こんなに素晴らしい解答が頂けるとは思ってもみなかった
です・・・。
的は3の地方領主が形成した「城下町」に絞らせて頂こう
と思うのですが、本当にまだ細かい話しを教えてくださる
んですか???
またお時間がありましたら、よろしくお願いします☆
本当にこんなにいっぱいありがとうございました!!!

お礼日時:2001/01/06 02:45

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Q中世ヨーロッパの貴族の生活や庶民の暮らしについて

最近中世ヨーロッパに興味を持ち始めた者です。
いくつかわからないことがあるのですが、
・貴族は普段どのような仕事をしていたのでしょうか?
・庶民や商人などは貴族の地位にはなれなかったのでしょうか?
・貴族は再婚や離婚はできたのでしょうか?

・中世ヨーロッパの庶民の暮らしや、
 建築・裁縫(当時の原料が載っていると嬉しいです)が
 書かれているホームページや本がありましたら教えてください。
・もっと勉強したいので、お勧めのホームページや本も教えていただければ嬉しいです。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>「ノートルダムの背むし男」は「ノートルダムの鐘」でしょうか?

「ノートルダムの背むし男」はアンソニー・クイーン、ジーナ・ロロブリッジ主演の50年以上前のハリウッド映画です。
ディズニーの漫画映画のタイトルは「ノートルダムの鐘」です。

その他にも「ロビンフッド」や「ジャンヌダルク」『The Name of the Rose』の映画も中世ヨーロッパが舞台です。
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Name_of_the_Rose_%28film%29

また、ヨーロッパの中世が終わる1517年にはルターの宗教改革がはじまった年でそれから、グーテンベルクの印刷技術により聖書がドイツ語で出版されるなどヨーロッパの歴史上たいへん大きな出来事がありました。
それまでカトリック教会はたいへん多くの献金や巡礼者のもたらすものでたいへん富んでいましたが、ルターの宗教改革により収入はほとんどなくなります。
それまで、カトリック教会は巡礼者を呼ぶために、立派な教会を建て、有名な彫刻家や画家に作品を作らせますが、宗教改革以降、宗教画など
資金不足によりずっと数を減らします。

ドイツでは初夏~秋にかけてあちらこちらの城で中世の生活を体験できる催し物が行なわれます。

参考URL:http://www.ritterturnier.de/

>「ノートルダムの背むし男」は「ノートルダムの鐘」でしょうか?

「ノートルダムの背むし男」はアンソニー・クイーン、ジーナ・ロロブリッジ主演の50年以上前のハリウッド映画です。
ディズニーの漫画映画のタイトルは「ノートルダムの鐘」です。

その他にも「ロビンフッド」や「ジャンヌダルク」『The Name of the Rose』の映画も中世ヨーロッパが舞台です。
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Name_of_the_Rose_%28film%29

また、ヨーロッパの中世が終わる1517年にはルターの宗教改革がはじ...続きを読む

Q日本の中世について教えてください!!!

大学のレポートで『中世の幼児の魔よけのまじないと、その背景について』『中世の「童」の労働とその特質について』という課題が出たのですが調べまくってもわかりませんでした!!!どなたかよく知ってらっしゃる方教えてください!!他にもレポートが5個出ているのではかどらず困っています!!よろしくお願いします!!!

Aベストアンサー

補足説明です。

基本的に理解しておくことは中世においては、日常生活の全てが今日でいう迷信で規制されていたということです。朝起きて寝るまでの間、して良いこと、悪いことと災厄を逃れるための方策が、細かく決められていました。祈祷師が幅を利かせていた時代です。江戸時代になって世の中が落ちついたとき、公家や武家社会に伝わっていた諸行事が庶民層にまで広がり、庶民に受け入れられた行事が今日まで伝えられ各種の祭り、伝統行事として、その起源は忘れられ形式的に、或いは商業主義に乗せられて祝われています。

厄払いは子供や大人の成長の節目、節目に健康を祈願しあらゆる災厄から身を守るために発達した行事です。大人は男性、25歳、42歳、61歳、女性は19歳、33歳、37歳に神社仏閣にお参りし共同社会に厄年であることを告げ何らかのお返し(物やボランティア活動)をする慣わしでした。

昔は子供が無事成長して社会人になれる確率が低く(病気死亡率が高くて)大人の厄除け以上に子供の成長の節目の祝い事が大切にされました。今日まで伝わる主な行事として、端午の節句(五月五日)ひな祭り(三月三日)七五三があります。

端午の節句・・・中国伝来の健康を祈る行事。もともとは年令に関係なく祝われていた。江戸時代に武家社会で男の子の誕生を祝う行事へ発展した。端午の節句に
供えていた菖蒲が尚武(武を重んじること)につながることからといわれる。

ひな祭り(桃の節句)女の子のすこやかな成長と厄除けを願う行事。はじめてのひな祭りには母親の実家から雛人形一式が贈られる慣わしがあった。

七五三・・・子供の成長の節目に、健康と厄除けを願って行われた行事。三歳は男女共に「髪置き」を祝った。昔は病気にかからぬよう幼児は髪を剃っていたが三歳で髪を伸ばして結いなおした。五歳は男児だけが「袴着」を祝い、初めてはかまをつけた。7才は女児の「帯解」の祝い。着物のひもを正式な帯に替えた。七五三の祝いは江戸時代に盛んになった。

現代では昔と違い、生まれてきた子供の何割かが社会人になる前(10代初め)に確実に亡くなるという心配がない代わりに、幼児から大学卒業まで教育が大きな関心事になりました。中世の親が子供の健やかな成長(生き抜くこと)を願って始めたこれらの行事は、厄払いという意義は忘れられ、子供にとって楽しい祭りに過ぎなくなりました。

厄払いや各種の伝統行事についてyahoo,googleなどで検索すれば、詳細が分かります。

補足説明です。

基本的に理解しておくことは中世においては、日常生活の全てが今日でいう迷信で規制されていたということです。朝起きて寝るまでの間、して良いこと、悪いことと災厄を逃れるための方策が、細かく決められていました。祈祷師が幅を利かせていた時代です。江戸時代になって世の中が落ちついたとき、公家や武家社会に伝わっていた諸行事が庶民層にまで広がり、庶民に受け入れられた行事が今日まで伝えられ各種の祭り、伝統行事として、その起源は忘れられ形式的に、或いは商業主義に乗せられて祝...続きを読む

Q中世初頭、ヨーロッパでの庶民の暮らしのわかる本

中世初頭のヨーロッパで、一般階級の庶民はどのようにして(何をして)暮らしていたのでしょうか?

畑作でしょうか?
だとすれば、いったい何を作っていたのでしょうか?

畜産でしょうか?
では、いったい何を育てていたのでしょうか?

村のシステムはどうなっているのでしょうか?

その辺のことが詳しくわかる書籍(小説でも可)をご存知の方がいましたら、是非教えていただきたく思います。

Aベストアンサー

アマゾンにて、
中世ヨーロッパの都市の生活 (講談社学術文庫) 文庫
このシリーズで農村の暮らしなどもあるようですね。

個人的には腰がキュットしている中世欧州の人がきているドレスが好きです。
どうでもいいですねごめんなさい。

Qヨーロッパ中世都市

ヨーロッパの中世都市は不衛生で,トイレがなく,家々は窓からその糞尿を捨てるため,帽子・マント・ハイヒールが必需品だったと聞きました。

具体的には,どのような服装だったでしょうか。
イラストなのが載っているいるwebページがあるいいのですが…

Aベストアンサー

仰るとおり、中世ヨーロッパの都市衛生は酷い状況だったといえます。というか、ヨーロッパに置いて都市衛生というものは社会問題となっていて、産業革命後もこの問題の解決というのは大変だったようです。(生活排水とかですね)ペストなどの流行などからも衛生問題を垣間見ることが出来ます。ちなみに香水の文化もこの問題から生じたものなんですね。
ええと、本題に入りますが、服装としてはヨーロッパのお伽話に出てくるような服装を想像して貰うのが一番良いと思います。特にハーメルンの笛吹きなどはまさにこの時代のお話なので。(まあちょっと派手な色合いですが)帽子をかぶり、マントを羽織り、チュニックのような上着にタイツ、そしてかかとの高いブーツ。まあ職業や身分により違いはありますが。
参考になりそうなHPを紹介しておきます。こちらのリンク集をごらん頂ければ、と思います。海外の資料なども見られるのでご希望に合うんじゃないかと。

参考URL:http://woodruff.press.ne.jp/illusion/index.html

Q中世の教会と世俗的権力

中世の教会と世俗的権力

・中世における教会と世俗的権力との関係
・当時の教会と庶民との関係
・当時の世俗的権力と庶民との関係
・教会がどのようなプロセスを踏んで民間信仰をキリスト教信仰にすげ替えたか(魔女刈りなど)

以上の事柄を、特に12C周辺について知りたいです。

こういったことについて書かれた本をご存知の方、お教えください。

Aベストアンサー

>こういったことについて書かれた本をご存知の方、お教えください。

あまり宗教に対しては詳細ではないのですが、手持ちの本では

甦る中世ヨーロッパ 阿部謹也(箸) 日本エディタースクール出版

第2章 二つの宇宙
第5章 死生観の転換
第6章 富める者と貧しき者

にご質問の内容の記述があります。阿部先生の専門上、北部ヨーロパが中心となりますが。
かいつまんで説明しますと

10世紀当時のヨーロッパではまだ精霊信仰がありました。
そこへキリスト教が入ってくるのですが、当初はなかなか土着信仰が捨てられませんでした。しかし公共福祉という概念が生まれて、福祉の主役が有力者(権力者)から教会が中心に変遷していきます。やがて12世紀ごろから市民の民政の中心が教会になり都市に巨大な教会が設立されるようになっていくのです。
内容は主に当時の庶民の死生観や思想が中心になっています。

ヨーロッパでも地中海周辺はやや事情が異なるのはご存じのことだと思います。

以下の書籍もお薦めです。

中世の星の下で 阿部謹也(箸) 筑摩書房

阿部謹也先生は、中世のドイツを中止とした歴史の第一人者でした。多くに優れた著作、論文を残されています。

>こういったことについて書かれた本をご存知の方、お教えください。

あまり宗教に対しては詳細ではないのですが、手持ちの本では

甦る中世ヨーロッパ 阿部謹也(箸) 日本エディタースクール出版

第2章 二つの宇宙
第5章 死生観の転換
第6章 富める者と貧しき者

にご質問の内容の記述があります。阿部先生の専門上、北部ヨーロパが中心となりますが。
かいつまんで説明しますと

10世紀当時のヨーロッパではまだ精霊信仰がありました。
そこへキリスト教が入ってくるのですが、当初はなかなか土着信仰...続きを読む

Q砦、柵(中世日本史)

本城を中心とした場合、支城、砦、柵の規模の順で本城を防御していたと考えても良いのでしょうか。このうち砦と柵に興味があります。

1・砦、柵は小規模なので本城への敵が迫り来るのを時間稼ぎしようとする目的で作られた(程度)と言えますか?
2・砦、柵には最大どれくらいの守備隊を置いていたのでしょうか?(交戦前と仮定して)
3・中世日本史において頑強に敵に抵抗し、防ぎきった砦、柵はありましたか?

Aベストアンサー

ANo.2のものです。

1 他の役割として国境沿いに配置することによって、隣国の情報収集の最前線として働かせていたりもしたようです。

2 ひとつの戦の例です。たまたま見つけました。
http://www.gld.mmtr.or.jp/~hiroh/rekishi/kinsei/utadu_toride.htm
これによると1500人で大規模な砦であったことが伺えるので、常時はこれよりも少なかったのかもしれません。

もうひとつ。
http://ww36.tiki.ne.jp/~taketyan-512/siro3/aichi.html
場合によっては、本陣として活用された砦などもあるようです。
やはり状況に応じて利用されたと考えるべきでしょう。

3 詳しくはみつけられませんでしたが、小牧長久手で使用された二重堀砦跡(秀吉軍)では、多数の死傷者を出したけれど陥落にはいたっていないようです。下記を参照してみてください。兵士の数などもでてるので参考になるかと。。。
http://www.komaki-aic.ed.jp/bunka/kassup.htm

ANo.2のものです。

1 他の役割として国境沿いに配置することによって、隣国の情報収集の最前線として働かせていたりもしたようです。

2 ひとつの戦の例です。たまたま見つけました。
http://www.gld.mmtr.or.jp/~hiroh/rekishi/kinsei/utadu_toride.htm
これによると1500人で大規模な砦であったことが伺えるので、常時はこれよりも少なかったのかもしれません。

もうひとつ。
http://ww36.tiki.ne.jp/~taketyan-512/siro3/aichi.html
場合によっては、本陣として活用された砦などもあるよう...続きを読む

Q中世の王様や女王様の衣装を探してます。

舞台用に中世の頃の衣装を探しています。王様、女王様、兵士、騎士、庶民などの衣装を扱っているサイトがあったら教えてください。

Aベストアンサー

ここに中世系の衣装や、騎士などのコスチュームが売ってますよ。

参考URL:http://store.yahoo.co.jp/acomes/index.html

Q中世日本の商人・職人の服装(ユニフォーム)について

卒業論文のテーマに、江戸時代の商人や職人など、職業人が着ている服について取り上げたいと思っています。
例えば町火消の装束や商店の奉公人の前掛けなど、各職業にいる人が共通して身に着けているユニフォームについて、機能性や由来などから江戸時代の職業観をしらべてみたい…と考えているのですが、資料の探し方がわかりません。
商人で調べると経済に関する資料が出てき、服装で調べると庶民風俗の資料ばかり出てきます。半年間図書館などで調べたのですが、蔵書検索なども検索ワードが拙いためか上手くヒットしません。

このテーマについて調査したい場合、どのように調べればいいのでしょうか?
お薦めの参考文献があれば教示していただけると有難いですが、資料を探すコツや調査方法のアイディアなどを頂けると助かります。
他力本願な質問で申し訳ないのですが、宜しくお願いいたします。

Aベストアンサー

非常に面白いテーマでの研究ですね。
すでに指導教授から教えていただいていることもあると思いますが、
いくつか論文を書く上での留意点を挙げさせていただきます。

●自分の研究をするまえにしなくてはいけないこと
 1、研究動機を明確にする
   なぜこの研究をしたいのか、何に興味があってこの研究をする
   のか、この研究がこれまでや今後の研究にどのように役立つのか
   文章化することが必要です。
 2、先行研究の整理
   自分より前にユニフォームの研究をしている人がいるなら、
   せっかくの研究も無駄になってしまいます。今何が明らかで、
   何が不明なのかを確認しましょう。

●文献資料の探し方
 1、論文の検索
   書籍(本)の資料からだけですと限界があります。学術雑誌
   に載った論文から参考になるものを探してはどうでしょうか。
   大学の図書館などからも検索できますが、家のパソコンからも
   できます。
   私が利用しているのは『国立国会図書館蔵書検索システム』です。
   (参考URLにリンクしています)
   そのHPの「雑誌記事索引の検索」から、キーワードで論文が
   探せます。あとはその論文が載っている雑誌を図書館で借りれば
   OKです。
 2、他分野からもアプローチしてみる
   質問者様の質問文には「商人で調べると経済に関する資料が出てき、服装で調べると庶民風俗の資料ばかり出てきます」とありますが、
   職業観を探るなら、むしろこの分野にヒントが隠れているのかも
   しれません。服の素材の技術革新で変化が起こったのかもしれま
   せんし、商業の発達で変化が起こったのかも知れません。
   被服史はもちろん、経済史や社会史、幅広く注目されてはどうで
   しょうか。

●論文の書式など整える
  論文の章立てや参考文献の表記法なども留意しましょう。

それと、直接関係ありませんが、質問タイトルに「中世」と
ありますが江戸は近世になります。時代が変わってしまいますので
資料を探す際に注意してください。

これからが卒業論文の正念場です。頑張ってください。

参考URL:http://opac.ndl.go.jp/

非常に面白いテーマでの研究ですね。
すでに指導教授から教えていただいていることもあると思いますが、
いくつか論文を書く上での留意点を挙げさせていただきます。

●自分の研究をするまえにしなくてはいけないこと
 1、研究動機を明確にする
   なぜこの研究をしたいのか、何に興味があってこの研究をする
   のか、この研究がこれまでや今後の研究にどのように役立つのか
   文章化することが必要です。
 2、先行研究の整理
   自分より前にユニフォームの研究をしている人がいるな...続きを読む

Q中世・近世ヨーロッパのデート

中世ヨーロッパ的世界を舞台にしたファンタジー作品などで街を男女がデートするといったシーンが散見されますが、実際の中世・近世ヨーロッパでは街中は生ごみや人糞が散乱し腐乱死体がごろごろ転がっていたと聞きます。そんな中でデートもなにもあったものじゃないと思うのですが、当時の貴族や庶民は一体どのような所でどんなデートをしていたのでしょうか。
調べてもそういった資料は少なく困っております。
くだらない質問かもしれませんが、何卒宜しくお願いいたします。

Aベストアンサー

私が読んだのは小説なので(史実を元にしているし時代考証も行っていると思いますが、フィクション)そのまま信用するわけには行かないと思いますが、No.2さんのお答えの中にある、「庭園で逢引」は出てきましたよ。

イングランドの話ですが、王様が滞在する宮殿は敷地が広く、貴族たちの滞在する館がいくつも建っていて、庭は広いしテニスコートはあるし、抜け道・小道が数多あり、全てを知り尽くしている廷臣はいない、ぐらいの書き方でした。

No.1の方がおっしゃっている馬で遠乗りなのですが、貴族の娘は自由に行動することが出来ず、外出時には従者が必ず付きました。
遠出はもちろん、街を歩くときも。
なので恋人と勝手に逢引するのは難しかったでしょう。
(小説的には、その従者とデキてた話が出てきましたが・・・・)

フランスのほうがイングランドよりも宮廷的恋愛が盛んだったらしい。
ドイツ方面、スペインは厳格そうに描写されていましたが、実際にはどうだったのか・・・・
衣装については、国ごとに派手さ度合い・慎ましさ度合いが違ったようです。

女性の場合、結婚すると恋愛ゲームの仲間入り資格ができました。
結婚するまでは処女でないといけなかったんですね。
処女でなかった人もいるみたいですけど。
厳格な時代そうでいて、街には買春宿がちゃんとありまして、男子はそういうところに行く者もあったらしい。
男のほうが自由だったんですね。
しかし、恋愛結婚しづらく、決められた相手と縁組しなければならなかったのは男も同じです。

庶民の話はちょっとわかりませんが、「一緒にお散歩して何かを見物して、お茶して」みたいなのでなくて、やっぱり「親の目を盗んで密会」だったのだろうと思います。
田舎だと納屋とか畑とか(^^;

私が読んだのは小説なので(史実を元にしているし時代考証も行っていると思いますが、フィクション)そのまま信用するわけには行かないと思いますが、No.2さんのお答えの中にある、「庭園で逢引」は出てきましたよ。

イングランドの話ですが、王様が滞在する宮殿は敷地が広く、貴族たちの滞在する館がいくつも建っていて、庭は広いしテニスコートはあるし、抜け道・小道が数多あり、全てを知り尽くしている廷臣はいない、ぐらいの書き方でした。

No.1の方がおっしゃっている馬で遠乗りなのですが、貴族の娘...続きを読む

Q主に中世日本史での「滅亡」の定義が分かりません

質問です。どうも、中世日本史の「滅亡した」「滅びた」という言葉が、いまいちピンときません。

○戦に負けたりして、領地を追われる
○有力者が討ち取られ、子供が居ない
○有力者が討ち取られ、子供は居るが、もはや実質的にその家の復活は無理

本当に一族全員殺されて滅びてしまうという例もあるかもしれませんが、
多くは「その家が、今までと同じような権威では立ち行かなくなる」「急激に没落する」という感じでいいのでしょうか?

「足利義昭が信長に京都から追放されたところで室町幕府(←時代区分的には)が滅亡」というのを思い浮かべつつ質問しました

Aベストアンサー

>「その家が、今までと同じような権威では立ち行かなくなる」「急激に没落する」という感じでいいのでしょうか?

それでいいと思います。
たとえば、今川家の場合など、今川義元が桶狭間で倒れた後、息子の氏真は武田信玄に掛川城を落とされますが、由緒ある家柄だけに北条や織田などを点々とした後に家康の保護を受け、徳川幕府のもと高家として生き残りますが、一般的には「滅亡」と称されます。
それは、やはり、義元の時のような戦国大名としての権力がなくなったという事で、滅亡となるのだと思います。

ただ足利義昭の室町幕府滅亡に関しては、私も以前から不思議に思っています。
義昭は京都を追放された後も、京都五山の法帖頒布などの将軍としての事務処理などやってましたし、そもそも将軍というものは、天皇によって任じられるもので、天皇から解任されるか、本人が辞任を申し入れるかしないとならないので、一戦国大名のように力が衰えたから滅亡という解釈はできないように思うのです。

だからこそ、信長の後に天下を取った豊臣秀吉は、何とか義昭の養子となって将軍を継ごうとやっきになったのです。
つまり、ここでもまだ、義昭=将軍という解釈が、戦国武将の中にあったという事なのではないか?と思っています。

結局、義昭は、秀吉との養子縁組は断ったものの、領地1万石と引き換えに出家して、天正十六年(1588年)にやっと7将軍職を辞任します。
この時まで、上記の慣例的な将軍の事務処理は全部義昭がやっていたんです。

個人的には、ここで、室町幕府の滅亡だと思うのですが、一般的には、京都を追放された天正元年(1573年)が室町幕府の滅亡とされるので、常々不思議に思っています。

室町幕府に関しては、回答になってませんが、「同じ疑問を持っておられるかたがいた~!」と思って、つい書かせていただきました。

長々とすみませんでした。

>「その家が、今までと同じような権威では立ち行かなくなる」「急激に没落する」という感じでいいのでしょうか?

それでいいと思います。
たとえば、今川家の場合など、今川義元が桶狭間で倒れた後、息子の氏真は武田信玄に掛川城を落とされますが、由緒ある家柄だけに北条や織田などを点々とした後に家康の保護を受け、徳川幕府のもと高家として生き残りますが、一般的には「滅亡」と称されます。
それは、やはり、義元の時のような戦国大名としての権力がなくなったという事で、滅亡となるのだと思います...続きを読む


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