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源氏物語などを読むと、
平安時代の貴族の一般的な乗り物は牛車のようです。
どうして馬車を利用しないのでしょうか?
牛など遅すぎますし、よだればかりたらしていて美的ではないです。
当時の馬にパワーがなかったのでしょうか?

よろしくお願いします。

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A 回答 (10件)

まず、現在「馬」と聞いて思い浮かべるサラブレッドは、昔の日本にはいませんでした。


昔はもっとずんぐりした馬でした。
昔の武士が乗っていたのは、そういうずんぐりした馬だったのです。
でも、パワーはすごいですよ。
力仕事をさせるための馬ですから。
今でも、北海道のどこかでその馬を使った馬そりレースをやっています。

それでは素人ながら質問にお答えさせていただきます。

牛車と馬車のスピードの違いですが、確かに舗装した平坦な道路で競争したら、馬車の方が速いだろうと思います。

でも、昔の道は未舗装なんですよ。
よく映画なんかで、馬車がすごいスピードで走るシーンがありますが、実際に未舗装の道であんなふうに馬車を走らせるのはほぼ無理だろうと思います。
あっという間に車輪がこわれるんじゃないでしょうか。車輪は木製ですよ。
車輪が壊れなくても、乗っている人は天井やら壁やらにぶつかってあざだらけになると思いますよ。
乗っている人がゆったりあざを作らずにのるのなら、牛が引いても馬が引いても速度的には変わらなかったのではないでしょうか?

それと、もう一つ重要なことは、
貴族は先を急いでせかせかしたりしないものです。
牛が引こうが馬が引こうが、ゆったり優雅に移動できればいいのです。

そういう意味で、馬の荒っぽい動きより、牛のゆったりした動きの方が、平安貴族の美意識に合っていたのかもしれませんね。

あと、質問者さん、牛を引っ張ったことありますか?
すごい力ですよ。
日本では、ほんの数十年前まで、牛に農機具を引かせて畑や田んぼを耕していたんですよ。
昔は農家には必ず牛がいて、農作業をしたり荷物を運んだりして活躍していました。今のトラクター・トラック・乗用車、全ての役をしていたんですね。
牛は、農家の何より大切な財産だったし、今でも世界各地の農地で働いています。
パワー的には昔の馬にもまったく劣らないのではないのでしょうか。

というわけです。
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 NO.6です。

蛇足ですが
 なぜ馬が時として暴れることがあるか、考えてみました。
 牛も馬もウンと遠い昔は、同根でもっと小さい生き物だったらしいです。小さいと小さな肉食獣にも襲われて、食べられてしまいますので、進化の過程で大型化してきました。
 そして、肉食獣に襲われたとき、走って逃げる方に進化したのが馬で、角でもって肉食獣に対抗しようとしたのが牛だと思います。
 アフリカの水牛は、ライオンの1頭や2頭くらいに襲われても、角でライオンを追い払います。
 シマウマは走って逃げることにより、自らの生命を守ります。
 ですから、牛は結構強い動物で、精神的にも馬に比べ、少々のことには動じない性質があり、馬は気が小さく、少しのことにも驚きやすい動物なんだと想像できます。
 
 そんなようなことから、安全重視で、牛が平安貴族の自家用車の牽引に採用されたのかも知れません。
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日本には”せん馬”つまり去勢馬の文化が伝来しなかった(あるいは定着しなかった)ので、車をひかすには危険きわまりない存在であった、馬が。

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牛が神様の使いであった事、また、馬は鬼畜が食う物だったのではないでしょうか?


夜、鬼が馬を食いに来ても困ります。^_^;

乗り心地としては、牛が良いと思います。

耕運でも、
当時は馬よりも牛のパワーを使ったようです。
また、牛は鼻輪で子供の言う事も聞きます。

馬は難しいらしいです。
馬糞はすごいし、道の掃除が大変です。

死角(真後ろ)ここに来ると無意識に危険を排除しようとします。
犬にほえられると暴走します。

走る=防御なんです。

馬は速度(軍用)
牛は力(仕事用)

どうでしょうか?^_^;
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まず、既に指摘のあるように、国内の馬は使役に適した大きさではなかったことがあります。



次に、牛車の方が構造が簡単なこともあるでしょう、牛は肩の部分の骨が出ているので、そこに引っかける枠さえ作れば簡単に荷を引かせることが出来ます。
ところが馬は、身体の構造上、どうしても皮のハーネスとそれにあった引き棒がが必要です、馬車は技術的には牛車より格段に複雑なのです。
世界の多くの地域で使役動物としてまず牛や水牛が使われたのはここにあると思います。肩に棒を引っかけて鋤を引かせるような使い方から牛車までは遠くありません。
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 昔の馬は小さかったようです。

江戸時代までは。
 明治に入ってから、これではいけないということで、馬匹改良のため外国産の大柄な馬を移入しました。大砲や輜重車を引っ張る挽馬として、あるいは騎兵の乗馬としては、今までの国産馬ではダメだと陸軍の上層部が判断したんですね。
 日本の西南端の与那国島に、与那国馬という小型の馬が今でもいます。これなんかが、畠山重忠の故事に言われているような、昔の日本の馬に近かったんではないでしょうか。でも畠山重忠がいかに大力無双でボブサップをしのぐ怪力の持ち主でも、担ぐのは無理で、昔の物語は誇張が過ぎます。
 小柄だが粗食に耐えスタミナもあったらしいです。
 さて、当時の牛ですが、現在の日本の闘牛に使われているあんな大型のものではなく、もっと小さかったんじゃないでしょうか。

 戦後の一時期までは、牛も馬も荷物の運搬に使われていました。前輪に飛行機の車輪を転用していた荷車があったのを覚えています。もちろん未舗装のガタゴト道をいくわけなんですが、積荷の量は牛馬互角、速度は馬が優勢であったような気がします。
 ただ馬が暴れて、馬方のおじさんが抑えるのに苦労していたのを覚えています(去勢馬ですが)。
 本当に怒らすと牛の方が怖いのですが、そういうのを見たことがありません。
 農家のおじさんの話では、牛馬に鋤(すき)をひかせて田畑を耕すとき、馬のほうが速いがスキ方が浅い、牛はその逆と聞いた事があります。
 
 天皇陛下が皇太子時代のご成婚のときのパレードは馬車でした。今の皇太子様のときにも、馬車のパレードが見られると楽しみにしていたのですが、自動車でしたので、すこしがっかりしました。当時、皇居の中で馬を訓練していたのを知っていましたので、てっきり馬車だと思っていたのですが。
 自動車になったわけは不測の事態が起きたとき、テロ、暴漢の襲い掛かり、馬が暴れる、などということがあったら困るからということらしいです。

 以上のようなことから、平安貴族は道中を急ぐわけでもなし、安全第一で、ゆったりとした牛車にしたのではないでしょうか。

 
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平家物語に源義経のヒヨドリ越えの奇襲の際、畠山重忠(だったか)が馬を背負って崖を下ったことが書いてあります


当時の馬は大男ならば背負えるくらい小さかったのでしょう

サラブレッドが日本に来たのは明治時代のはずです
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質問者さまの提示する、パワーが無かった説を支持します。


まず、当時の馬は、現在私たちが目にする馬より、格段に小さかったのです。
競馬馬であるサラブレット種を10とすると、6~7くらいな感じでしょうか。
戦闘用にモンゴル種の馬が入ってきたのが、源平の頃といいますから、それ以前の日本の原種の馬は、小さくて、パワーが無かったのだと、思います。
牛車の取り入れは、中国からだと思われます。
動きは、多少優雅なような、気がしないでもありません。
馬車に比べて、酔いやすかったという記述が、残っています。
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馬が小さくてひけないという事かと思います。



http://www.ni.bekkoame.ne.jp/potos/amagimi.htm

平安時代の一場面ですけど、馬の高さは120cmほどで、現在で言えば遊園地で子供が引き馬でのるポニーほどですから、馬車は無理だったのでしょう。
貴族の牛車は4人乗りで、かなり重いため、牛がゆっくり引くのが精々で、その牛にしても今の牛からするとかなり小柄ですから、速くは無いと思います。
乗馬ということはやっていたようで、馬が献上されたとか馬に乗ったなどの文献はあり、急ぐときは馬に乗って出かけたのかも知れません。
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身分の高い人のみ、牛車に乗って、徒歩のお供が付くから、遅くないとまずいのだと思う。


せいぜい京都の盆地の平らなところの移動にしか使わなかっただろうから、高速で長距離の移動ではないだろうし。
馬車で馬が暴走しちゃったらお供は誰も追いつけない。
牛でも暴走するんではないかとは思うけれど。
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Qなぜ、日本人は馬車を使わなかったのですか?是非、教えていただけないでしょうか?。

 西洋や中国では、何千年も前かから馬車が使われてたのに対して日本では明治時代になってからやっと馬車がつかわれるようになりましたよね?
 牛車でなく馬車があれば便利高速手段となったと思うのですが。
 なぜ日本では馬は武士や馬借、馬の背に荷物を乗せて使われることまでしかなっかったのかとても不思議なのですが、そのことについて調べていますがなかなか答えに辿りつけません(ToT)そのことでプレゼンをやるひが近づいてのですかこのままだと、ぜんぜん満足のいくプレゼンができないので、どなたかお答えいただけないでしょうか?
 また日本では手紙も馬を使わず、飛脚を使っていたのかも調べてるですが、そちらのほうもお教え願えないでしょうか?

Aベストアンサー

 以下はわたしが書いたものの抜粋です。テーマが少し違うため直接お役に立たないとは思いますが、もともととても長いものですので、ヒントになりそうなところだけをブツブツと切り取ったものをご回答として。。。
 
1.世界史から見た「車」

●紀元前1595年、ヒッタイトの軍勢が古代バビロンを攻略し占領した。この戦いでは木製の車輪を持ち2頭の馬に引かれた戦車が登場している。この時代に戦車として応用されていたくらいだから、一般の物資運送用には、さらに古くから「車」は存在していたであろう。
●ほぼ起元の頃に当たる古代ローマの時代にも一頭の馬に引かせた戦車(チャリオット・シャリオ)が戦争で使用されていたし、カルタゴの名将ハンニバルのアルプス越えや敗走のシーンにも戦車は登場する。古代ローマと言えば勇壮な戦車競争があるが、ローマ人はエトルリア人からこれを教わったという。
●10世紀以降の頃、わが国では「源氏物語」が書かれた時代、ヨーロッパの主要都市では馬に引かせる荷車が広く普及している。パリではゴミや水を道路に投げ捨て、これを豚が処理していたという。ここに荷車が通るから、道路は年中ヌタヌタ状態で悪臭もひどかったという。それが理由で、やがて道路には側溝と歩道が作られ、次第に石材で舗装されるようになり、さらに大規模な暗渠が整備されることとなった。
●1200年のハンザ同盟の頃のドイツ、わが国では平清盛全盛の時代、ここにも馬車が活躍している。1618年に起こった三十年戦争では人も乗る幌馬車が活躍している。
●18世紀から19世紀、イギリスで起こった産業革命では輸送力が大きく貢献している。また、乗用の辻馬車が生まれ、炭鉱の坑内でもトロッコが活躍している。これらはディッケンスはじめ多くの文学にも登場する。
●1818年、独立間もないアメリカで、開拓民のために土地を給付する法律が施行されて、民衆は新天地を求めて西へ西へと移動を始めた。2頭または4頭の馬に引かせる幌馬車や4頭の馬に引かせる駅馬車(ステージコーチ)などは西部劇でもなじみ深い。

2.日本史から見た「車」

●古墳時代の出土品のなかに円形で、中央に穴があり、穴から外周に向けで多数の線を刻んだものがある。これが「車輪」を模したものか、あるいは宗教的な宝具なのかは不明。
●奈良朝の時代(6~8世紀頃)、唐からさまざまな文化文明が流入している。「車輪」や「車」の概念もまたあったと思われるが記録に乏しい。
●平安時代(10世紀頃)、牛車(ぎっしゃ・御所車)が見られる。平治物語絵巻「六波羅行幸巻」にはこの牛車が克明に描かれているが、一部を鉄などで補強した直径の大きな車輪に特徴があり、ここに当時の「車」が置かれた環境を見て取れる。
●天正20年(1592)、秀吉が朝鮮に出兵した時代、大坂城の火薬庫に多数の荷車に積んだ火薬が搬入されたという記録がある。特に大坂、堺などでの荷車の普及は顕著というが、その姿は不明。
●天文、元亀(16世紀頃)から始まったいわゆる戦国時代、たしかに「車」に関する記述は少ない。まして「乗用」ともなるとまったく見当たらない。少ないこともまた、その理由の推測と考証の足がかりとなる。
●文久2年(1862)に発生した生麦事件に対してイギリスへの賠償が行われることになり、イギリス軍艦パ-ル号に積み込まれる賠償金を運ぶ多数の「大八車」の絵が1963年9月12日号のイラストレイテッド・ロンドン・ニューズ紙に掲載されている。

3.構造と機能から見たわが国の「車」(あまり関係ないので1項のみ)

●路面からのショックを吸収するサスペンションバネの概念の遅れもまた、乗用の「車」の普及度の低さに関係しているかもしれない。とかくのんびりと進む牛車(御所車)の場合はともかく、バネを介在させない「車」では今日の舗装路でも、とても長時間は乗っていられたものではない。

4.中世までの環境から見たわが国の「車」

●これまでに述べたように、「車」というものは、過去、人の力、あるいは家畜の力を利用して運行できるものでなくてはならなかったし、また、その車輪の仕様や車体の寸法が当時の道路事情に合致していなくては利用度が低かったはずである。
●馬は長距離に適しているし歩行速度も速い。その点、牛は長距離には適さないし、その速度も遅いが、根気が良く、短距離かつ長時間の労役には適していた。いわば高回転高トルク型エンジンに似た馬の特性、低速トルクの高いエンジンに似た牛ということになろうか。
●戦国の世には、長距離に及ぶ街道はまだ完全に整備されてはいなかった。
●多くの軍勢は表立って街道筋を通ることを避け、山野を横切ることで、その実勢力を傍の目から隠し、同時に移動距離を縮めていた。そして戦場となるのは自然のままの原野である。このような戦術と環境では「車」は利用度が低かったはずである。
●馬、れん台、輿、駕籠などはこの点、地形やその他の環境に対して対応性と踏破性が高い。
●当時の道路事情といえば、例えば大坂、江戸、京など大都市の市中においてはかなり整備されていたはずである。しかし、ヨーロッパと異なって舗装が遅れたわが国では、一旦雨が降れば車輪がスタック(頓挫)して、そこから引き出すのにさぞかし難渋したことであろう。
●当時の都市計画から見ると、例えば大坂や堺、江戸などでは市中に物資運搬用の船が往来できる堀や運河を縦横にめぐらせることに重点が置かれていた。「車」の積載量に比較するとまさに桁違いに運搬効率の高い船への依存度が高かったからであろうし、大八車などは近距離用として副次的に使用されていたと考えられる。
●中距離、遠距離まで大八車などが引き回されることは、一部の地域や方角を除いて少なかったものと考えられる。一方、乗用ともなると、近距離なら駕籠や馬の方が地形や道幅に左右されない分だけ有利で、利用度の高さで勝っていたはずであり、ここにも乗用の「車」の普及が遅れた理由があるのではないだろうか。
●堀や運河、川などの多い大都市では当然のことながら橋が掛けられている。当時の木橋ではアーチ型に構造材を組み合わせていたことを考えに入れなくてはならない。万一、橋の上り勾配で力負けして「車」が止まってしまうと、「転がり抵抗」も加わって、再度発進させることには大変な労力を要する。坂の多い地域もまたしかりである。物資運搬用の大八車なら丁稚などに手伝わせることもあったであろうが、このような環境においては人力はもとより、牛馬を使う「車」が乗用の営業運行にまで発展しなかった理由がここにもありそうである。
●都市間の移動となると、とかく問題となるのが箱根、山科といった山道、峠道、そして、当時は橋がなかった一級クラスの河川であったろう。たとえ大名行列といえども、そして大人数のお供がいるにしても、「車」はとかく不便であったに違いない。ここでも駕籠、馬、れん台の方が利用度の高さではるかに勝っている。
●当時の街道を考えてみるにつけ、現存する旧東海道(横浜市戸塚区、保土ヶ谷区内)の道路の幅員の狭さに驚かされる。車幅1700ミリの5ナンバー車が一台やっと通過出来る程度の道幅であり、大八車などが頻繁に往来するにはあまりにも狭い。

 以下はわたしが書いたものの抜粋です。テーマが少し違うため直接お役に立たないとは思いますが、もともととても長いものですので、ヒントになりそうなところだけをブツブツと切り取ったものをご回答として。。。
 
1.世界史から見た「車」

●紀元前1595年、ヒッタイトの軍勢が古代バビロンを攻略し占領した。この戦いでは木製の車輪を持ち2頭の馬に引かれた戦車が登場している。この時代に戦車として応用されていたくらいだから、一般の物資運送用には、さらに古くから「車」は存在していたであろう。
...続きを読む

Q牛車について教えて下さい

いつもお世話になっています。
趣味で拙い小説を書いているのですが、
登場人物の一人を牛車で登場させたいのです。
(平安貴族なんかが使った、豪華な感じの)
記憶でなんとかなるだろうと思ったのですが、
やっぱり間違えたら嫌なので、
正しいかどうか聞きたいのですが。

簡単でいいので、皆様の知識を分けて頂けないでしょうか。

・牛は黒い牛ですよね?(なぜかそういう記憶が...)
・引っ張ってる車の上に乗ってるのは「輿(こし)?」
・輿に掛かっているのは「御簾(みす)」?←すだれみたいなやつ
・牛は従者が引っ張っている?
・速度はまさに牛歩、かなりゆっくりである?
・乗り降りのときは、輿ごといったん下に降ろす?

と、このくらいなのですが、できれば参考画像なんかの
載っているHPなど教えていただけるとうれしいのですが。
よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

>>・牛は黒い牛ですよね?(なぜかそういう記憶が...)
茶色い牛もいます。
まちがっても白黒まだらはいませんが(^_^;)

>>・引っ張ってる車の上に乗ってるのは「輿(こし)?」
輿は前後に轅を付けて人が担ぐ乗り物で、牛車とは違うものですが、貴人が乗る部分の構造は網代輿とよばれる輿と同じ形ですね。

>>・輿に掛かっているのは「御簾(みす)」?←すだれみたいなやつ
そうです。

>>・牛は従者が引っ張っている?
引っ張るというか、禦しています。
絵巻などを見ると、口環につけた綱を引いている場合もあれば、牛の脇に侍して鞭でせき立てている絵もありますね。

>>・速度はまさに牛歩、かなりゆっくりである?
まあ、人の歩く速さくらいだったようです。

>>・乗り降りのときは、輿ごといったん下に降ろす?
いえ、榻(シジ)とよばれる持ち運べる踏み台を付けて、乗車は後ろから、降車は牛を轅から外してから前からおこないました。

>>できれば参考画像なんかの載っているHPなど教えていただけるとうれしいのですが。

http://www.nighthawks.com/gissha.htm
http://www.office.pref.iwate.jp/~hp0909/seika/kouzou/kouzou.htm
http://www.cave.co.jp/arcade/guwange/enemy/enemy.html
http://www.din.or.jp/~kaokao/ken/sec4/rm1/p702e.htm
http://www.din.or.jp/~kaokao/ken/sec4/rm5/p1109e.htm

参考URL:http://www.nighthawks.com/gissha.htm , http://www.office.pref.iwate.jp/~hp0909/seika/kouzou/kouzou.htm , http://www.cave

>>・牛は黒い牛ですよね?(なぜかそういう記憶が...)
茶色い牛もいます。
まちがっても白黒まだらはいませんが(^_^;)

>>・引っ張ってる車の上に乗ってるのは「輿(こし)?」
輿は前後に轅を付けて人が担ぐ乗り物で、牛車とは違うものですが、貴人が乗る部分の構造は網代輿とよばれる輿と同じ形ですね。

>>・輿に掛かっているのは「御簾(みす)」?←すだれみたいなやつ
そうです。

>>・牛は従者が引っ張っている?
引っ張るというか、禦しています。
絵巻などを見ると、口環につけた綱を引いて...続きを読む

Q平安時代の一般人について

「平安時代」というと、
私の中では貴族のお姫さまや花合わせ薫物合わせといった雅なお遊び、
あとは和歌くらいしか思い浮かばず、平民の様子がまったく想像できないんですが、
誰もがこんな優雅な暮らしをしていたはずがありませんよね?
平安の平民たちはどんな暮らしをしていたんでしょうか。
いろいろ検索にかけてみましたが、貴族の生活ばかりが出てきます。
平民の生活というと範囲が広すぎて知っていても答えづらいと思うので、
特に気になるところを。

1.平民の職業ではどんなものがあったのか。
  中でも若い女性はどんな仕事を持っていたか。

2.街中にはどんな店があったのか。出店のようなものはあったのか。

3.一般人と貴族が交流することはあったのか。
  貴族を街で見かけても話しかけることはできなかったのか。
  よくある「身分の差の恋」などはなかったのか。

4.貴族のように教養を備えていない人は、和歌を詠むこともなかったのか。

5.女性(女の子)の着物は髪型以外江戸時代の町娘と同じようなものなのか。

6.平民は年貢の取立てや貧しい食事になんとか耐えて生活していたのか。

質問が多すぎてすみません。
レポートなどの資料にしたいわけでなく、まったくの興味本位ですが、
どれかひとつでもいいので、平安時代に詳しい方の回答を得られると嬉しいです。

「平安時代」というと、
私の中では貴族のお姫さまや花合わせ薫物合わせといった雅なお遊び、
あとは和歌くらいしか思い浮かばず、平民の様子がまったく想像できないんですが、
誰もがこんな優雅な暮らしをしていたはずがありませんよね?
平安の平民たちはどんな暮らしをしていたんでしょうか。
いろいろ検索にかけてみましたが、貴族の生活ばかりが出てきます。
平民の生活というと範囲が広すぎて知っていても答えづらいと思うので、
特に気になるところを。

1.平民の職業ではどんなものがあったの...続きを読む

Aベストアンサー

1.
いろんな職業があったと思われます。当時はある程度の自給自足をしていたとはいうものの、都市部の人ではすべて自分たちでまかなえていたとは思えません。特に工業では、紙、陶器、武器、などのいろんな職工がいたようです。
女性にも職業があったことが予想できます。「振り売り」といわれる行商、機織、海女、白拍子のような芸能関係など、女性ができそうなものは何でもあったと思われます。専業もいたでしょうし、家事・育児・手伝いの傍らだったりもしたでしょう。また、古今東西、富裕な家のメイドは当たり前ですし、男女の仲を取り持つ「仲人」とか「仲媒」といった特殊な職業も文献に見られます。こんなものまであったのですから、衣食住に関するさまざまな職の基本はすでにこの頃にもあったことがうかがえます。
今昔物語などを読むと、たいそう活発な女性が多くいることから、そんなに窮屈な身分制度に押し込められていたわけではなく、わりと社会に出て元気だったようです。

2.
平安京には東西に市が設けられていました。このことから、全国に店はあっただろうと推測できます。ただし、商流の多くは「振り売り」という行商です。明治・江戸時代まで商業の中心はこの「振り売り」です。

3.
あったと思います。直感的にも、今ほど自由さはないにせよ、今も昔も、男女の仲が身分で隔てられるとは思われません。
たとえば、源氏物語の夕顔は貴族とはいえません。通っていた愛人の家の隣に、たまたまあったあばら家に住んでいただけです(実は友人のもと愛人だったわけですが)。逆に貴族の女に下衆の男を紹介する、ということもあったようです。こんなことの手引をやっていたのが、前述の「仲人」「仲媒」といわれる人達(主に女性)だったわけです。源氏物語や伊勢物語でも明示はされていませんが、たくさん出てくる仲介している女のなかには、職にしていたものも含まれていると思います。下女のサイドビジネスでもあったかもしれません。

4.
没落貴族もたくさんいましたし、そのひとたちの影響うけたりして、下々の方へも少しは広まっていたと思います。

5.
もちろん多少違いますが、庶民の服の基本は昭和時代までほとんど変わっていません。変わっているのはブルジョワジーやプチプルジョワジー以上の階級です。
ちなみに土間&高床の住居も、ふすまや障子がふえたくらいで基本は、昭和までほとんど変化していません。

6.
年貢の取立てよりも、自然との闘いと村・部落クラスの行政官の不法徴収・不法雑役などが厳しかったと思います。年貢は貨幣でもありませんし、農民は米だけしか作らなかったわけではなく、実際は野菜や雑穀、油、織物などで自足したり商売していたりして、それほど苦しくはなかったと思います。生活が破綻してしまうくらい苦しくなる原因の多くは自然だったでしょうね。

1.
いろんな職業があったと思われます。当時はある程度の自給自足をしていたとはいうものの、都市部の人ではすべて自分たちでまかなえていたとは思えません。特に工業では、紙、陶器、武器、などのいろんな職工がいたようです。
女性にも職業があったことが予想できます。「振り売り」といわれる行商、機織、海女、白拍子のような芸能関係など、女性ができそうなものは何でもあったと思われます。専業もいたでしょうし、家事・育児・手伝いの傍らだったりもしたでしょう。また、古今東西、富裕な家のメイドは...続きを読む

Q牛車っていつごろなくなったの?

平安時代、光源氏が乗っていたような牛車はいつごろまで使われていたのでしょうか?
農民や商人が牛に引かせた荷車ではなく、貴人の乗り物としての牛車です。
武士は馬や駕篭に乗っていたイメージがありますが、実際のところはどうだったのでしょう。
また京の都以外の土地では牛車は使われていなかったような気がしますが、そのあたりもどうなのでしょう。
貴族たちは鎖国が解かれて、馬車や自動車が登場するまでは牛車をつかっていたのでしょうか。
それともやはり駕篭を使っていたのでしょうか。

Aベストアンサー

>牛車はいつごろまで使われていたのでしょうか?

室町幕府(家光は記録がありますが)義政まででしよう。
将軍といっても、参内する時は牛車だったようです。
道路事情が悪い地方では、牛車に代わって「輿」に乗っていました。
木製タイヤで牛が引ける牛車は、地方では使い物になりません。

>武士は馬や駕篭に乗っていたイメージがありますが、実際のところはどうだったのでしょう。

平家の棟梁・源氏の棟梁又は将軍は(参内の場合)畿内までは「馬」「輿」「籠」に乗り、畿内からは牛車でした。
その家臣は、馬・徒歩です。
やはり道路事情と、スピードが原因でしよう。
(馬と言っても、サラブレッドでなく日本馬です)

>京の都以外の土地では牛車は使われていなかったような気がしますが、そのあたりもどうなのでしょう。

先に述べた通り、道路事情その他で牛車は使っていなかったようです。
ただ、応仁の乱を避け、領地の四国・宿毛に逃れた「一条家」は、京文化を懐かしんだのか、館を御所と命名し、地名を京風に改めました。飾りだったのか牛車もあったようです。大文字焼きもありますよ。^^;
公家文化に憧れていた、駿河の今川家も同様です。
確かな事は、実用的でなかった事ですね。
一条家では、戦国大名化し、馬に乗って戦い、滅んでいます。
お歯黒武将である今川家は、輿と馬を使っていたようです。
(史実では、乗馬の方が多いです)

>貴族たちは鎖国が解かれて、馬車や自動車が登場するまでは牛車をつかっていたのでしょうか。

幕藩体制になると、天皇家・公家は自前の収入が無くなります。
幕府から毎年「10万石が支給され、うち3万石が天皇家、残りが公家」です。
牛車自体の運営費にも困っていたようですね。
基本的に、天皇家・公家は「御所近辺」を出る事はありません。
牛車を使う機会は、少なかったようです。
幕末、孝明天皇は幼い皇太子(明治天皇)の手を引いて、町の駄菓子屋でお菓子を買ったとの記録があります。
公式行事以外は、徒歩なんでしよう。

>牛車はいつごろまで使われていたのでしょうか?

室町幕府(家光は記録がありますが)義政まででしよう。
将軍といっても、参内する時は牛車だったようです。
道路事情が悪い地方では、牛車に代わって「輿」に乗っていました。
木製タイヤで牛が引ける牛車は、地方では使い物になりません。

>武士は馬や駕篭に乗っていたイメージがありますが、実際のところはどうだったのでしょう。

平家の棟梁・源氏の棟梁又は将軍は(参内の場合)畿内までは「馬」「輿」「籠」に乗り、畿内からは牛車でした。
...続きを読む

Q魚をすくう網について質問です。(正式名称がわかりません・・・)

魚をすくう網について質問です。(正式名称がわかりません・・・)

写真の網を探しています。

サイズは全体の縦の長さが約33センチで、持ち手の部分が約19センチ
網の部分は横(真ん中)約15センチ、縦14センチです。
網の深さ(?)は約7センチ程度です。

特徴は網と金属(網部分の周り)をビニールで一緒にコーティング?してあります。
お魚を傷つけない為なんでしょうね。

金魚屋さんや熱帯魚屋さんでよく見かける目の細かい網ではなく
網目も少し大きめです。

買った本人はどこで買ったのか全く覚えていないそうです。
良く行くお店などは探したり電話で問い合わせたり、インターネットで
探したりもしましたが、見つける事が出来ませんでした。

何故、この網なのかと言うと、金属と網を一緒に包んでくれているこのビニールと
網の浅さがとても使い易いのです。
この2点がポイントです。

この網が何処で販売してるか、もしくは販売元はわかりませんか?
神奈川県在住ですが、出かけた先で買ったりもするので関東で買ったのかもわかりません。

宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

ディスカスの飼育、繁殖暦25年以上の者です。掬うのは金魚ですか、熱帯魚ですかいずれにしても私自身は大事な愛魚ほど網は使用せず手で掬います。理由は網は見た目滑らかに見えますが実は魚にとっては有刺鉄線で掬われてるのと同じだと行き着けの観賞魚店の店主に言われたからです。確かに網を使用しなくなってから皮膚のトラブルは皆無で治療薬の使用頻度が減ったので、その分新たな魚体を購入する分に回せました。求めてる回答と違いごめんなさい。

Q江戸時代に車(車輪)を使う乗り物が発達しなかったのはなぜ?

明治になって人力車が普及するまで、身分の高い人の乗り物は駕籠だったと理解しています。

駕籠は担ぐ人も大変だし、乗っている人も楽ではなかったと思うのですが、なぜ車(車輪)を使う乗り物が発達しなかったのか、不思議です。

江戸時代でも荷物を運ぶのには大八車などがありましたし、さらに古い時代には貴族は牛車に乗っていた時代もありました。
ですから、車輪を使う技術を当時の日本人が知らなかったわけではなさそうです。
しかし、なぜか、人を乗せる乗り物には車輪の付いたものは現れませんでした。
これは何か、理由があったのでしょうか?

Aベストアンサー

ついでにですが、何故日本では馬車が発達しなかったか考えてみました。
当初馬の「去勢」が一般的ではなく、操るのに難しいといった理由かな、と思ったのですが、どうもこれも政策的なもので、幕府の物資運送を担当する「馬方」や「船方」の権益を保護するため,幕府が街道筋での車両の使用を厳しく制限したことによるようです。
その為、こうした規制の無い戦国時代には「荷車」といい、馬が2輪の車をひいて軍事物資を運んでいるようです。
4輪の馬車が使われるようになったのは明治時代からで、実は私も昭和30年頃、家の前を馬が材木を載せた馬車をひいて通るのを見ておりました。
一応政令指定都市のど真中ですが、昭和30年代は馬が都心を通るのも珍しくなかったのですね。

Q日本の乗り物の歴史について質問です!

日本では、馬車からリニアモーターカーまでいろんな乗り物が使われてきたと思いますが、
・日本の乗り物の進化の流れ
・それぞれの乗り物がいつごろ使われていたか
を教えて下さい!!!困っています(´;Д;`)
お願いします!!!!!

Aベストアンサー

 宿題なら自分で調べたほうがいいと思いますが(笑)

まずは 人でしょうね。おんぶとかです。騎馬戦のような感じだったかもしれません。
有力者が奴隷(奴婢)にさせたのでしょう。

 次に馬や牛にそのまま乗ったと思います。

 舟の簡単なもの・・・初期は大きな木を繰り抜いただけのものだったでしょうが、これも歴史書に残る以前からあるものと思われます。舟についてはその後、いかだや櫂を使うもの、帆船、蒸気船などと変化しました。

 次は人力で担ぐ輿や駕籠。この手は近代まで・・・現在も観光地などで見られますね。

 平安時代には牛車が登場します。平安時代の女子が自分の旦那さんに自分のところに泊まってもらえるように、玄関に牛の好物の塩を盛った・・・現在でも飲食店の玄関先で盛り塩は見られます。

 その次に馬車でしょう。馬車も今でも見ることができます。

 明治時代に入って陸蒸気・・・蒸気機関車が走り出します。これも現在も走っているところがありますが、ほぼ昭和40年台で終わりました。

 明治時代には自転車も・・・今のようなものではなく、最近小さな子どもたちに自転車の乗り方を早く習得させるために、足でけってバランスを取り走るものがありますが、ああいうものですね。

 自動車が日本出始めて作られたのが1904年だそうです、。ということは輸入されたのはそれ以前ですね。

 ライト兄弟が有人飛行機を飛ばすことに成功したのが1903年だそうです。

 まだ続けます?(笑)

 とりあえず、人力による輿や駕籠、牛車や馬車、繰り抜き舟やいかだや帆船など、現在も一般的ではないにせよ残っています。

 宿題なら自分で調べたほうがいいと思いますが(笑)

まずは 人でしょうね。おんぶとかです。騎馬戦のような感じだったかもしれません。
有力者が奴隷(奴婢)にさせたのでしょう。

 次に馬や牛にそのまま乗ったと思います。

 舟の簡単なもの・・・初期は大きな木を繰り抜いただけのものだったでしょうが、これも歴史書に残る以前からあるものと思われます。舟についてはその後、いかだや櫂を使うもの、帆船、蒸気船などと変化しました。

 次は人力で担ぐ輿や駕籠。この手は近代まで・・・現在も観光地な...続きを読む

Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

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朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む

Q平安時代の寝殿造り.....冬はどうやって寒さをしのいだのでしょうか?

寝殿造りと呼ばれている建物は廊下をはさんで部屋にすだれ(みす?)や屏風が
あるくらいで、特に戸になる物は無い様に思うのですが、
冬はどうやって寒さをしのいだのでしょうか?
やはり着物を重ねる事でしのいだのでしょうか。

仮に火鉢などを部屋に置いてもかなりの寒さだったと思います。
さらに雨風が廊下から吹き付けば、濡れてしまったり....。

平安時代に限らず、現代から見ると昔の家は不思議ですね。

無知ゆえわかにくい質問ですが当時の暮らしぶりがとても気になります。
なにかお知りの事があったら教えてください。
宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

「家のつくりようは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比わろき住居は、堪へ難き事なり」これは鎌倉時代の終わり1330年ごろに兼好法師が「徒然草」に書いた、日本の気候風土と住まいについて書いた有名な一説です。

寝殿造(しんでんづくり)は、夏向けの建物です。そのかわり装束は冬向けに作られたといわれます。
寒さを凌ぐために、重ね着を着れるだけ着たでしょうし、綿衣(わたぎぬ)という真綿(まわた)を袷(あわせ)の中に入れた今でいう綿入れのような冬着もありました。舶来の毛皮などもありました。

几帳、屏風、衝立、襖は寝殿造りの内部の調度品のなかにあって日本独自のものとして生まれ、これが工夫されて、間仕切りの少ない寝殿造りの防寒、機密性を保つ為に作られたものと考えられているそうです。

部屋は帳(とばり)を引きつめて、炭櫃(すびつ)や火桶(ひおけ)を部屋に集めてがんがん焚けば、それなりにしのげたようです。

火桶(ひおけ)・火櫃(ひびつ)・炭櫃(すびつ)
木をくり抜いて金属製のおとしを入れ、その中に灰を入れ、炭火を焚いて暖を取る暖房機具。主に桐の木で作られる。炭への灰のかけ具合で暖かさを調整する。本来は円筒形のものを火桶、方形のものを火櫃と呼んでいたが早くから混同していたらしい。炭櫃は方形で脚のあるもの。または、据え付けの大きな角火鉢のこと。

建物の風雨を防ぐ物としては、格子(こうし)、蔀(しとみ)妻戸(つまど)等がありました。

   http://www.iz2.or.jp/kizoku/chodo.html

「家のつくりようは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比わろき住居は、堪へ難き事なり」これは鎌倉時代の終わり1330年ごろに兼好法師が「徒然草」に書いた、日本の気候風土と住まいについて書いた有名な一説です。

寝殿造(しんでんづくり)は、夏向けの建物です。そのかわり装束は冬向けに作られたといわれます。
寒さを凌ぐために、重ね着を着れるだけ着たでしょうし、綿衣(わたぎぬ)という真綿(まわた)を袷(あわせ)の中に入れた今でいう綿入れのような冬着もありました。舶来の...続きを読む

Q【平安貴族】牛車の下簾とはなんに使うものなのでしょうか?用途についてで

【平安貴族】牛車の下簾とはなんに使うものなのでしょうか?用途についてです。ネットで検索すれば何なのかは分かりますが、なんのためにあるのでしょうか?
ただのかざりとか、位を表すとかだけなのでしょうか?

Aベストアンサー

「簾」ではなくて「下簾」ですよね?

「下簾」は、ただのかざりとか、位を表すとかだけ…とは言い難いですね。

また、「この『車』の場合にはこの『簾』を使う。この『簾』の場合はこの『下簾』を使う」というカンジの決まりごとがありましたから、「下簾」によって身分や位を表わす…ということはないです。

「下簾」は、「簾」の内側に取り付けられましたが、「簾」は「竹」が材料です(「蘇芳簾」は赤色に染めた竹。「青簾」は染めていないそのままの竹)。
それを糸で編んで、縁をつけてあるだけなので「メッシュ」になっています。

「目隠し」「人目を遮る」だけが目的ならば、「メッシュ」の「簾」でも、十分とは言えないまでも事足りたと思います。
結構細かく編んであるんですよ。
でも、「メッシュ」だと「風通しがいい」んですよね。

ですが、牛車の「屋形」は、オールシーズンタイプなんです。
ですから、「メッシュ」の「簾」だけでは、季節によっては「涼しすぎ」たりするんですよね。
はい、「下簾」には、「風よけ」「寒さ対策」の意味もありました。

インターネットで調べられたのでしたら、「出衣(いだしぎぬ)」、「出車(いだしぐるま)」という言葉が引っ掛かってきませんでしたか?

「下簾」は、この「出衣」「出車」とも関係があるんです。

女性が牛車に乗る場合、これを「女車(おんなぐるま)」と言ったのですが、「簾」の下から衣などを出すこと(出衣、出車をしていること)で、「女車」と判別していたんですよ。
「屋形」から衣を出す前に、まず「下簾」を「簾」から外へ出し、それから衣(袖とか裾)を出します。

ですから、「車に女性が乗っていることを表す」目的でも使われたということです。
尤も、男性が、「お忍び」で出掛ける際、「女車」に「見せかけるため」にも用いられたようです。

「下簾」というと、私は『源氏物語』の「葵」の巻を連想してしまいます。

弘徽殿大后所生の女三の宮が、新たに賀茂の斎院に選ばれ、その御禊の日のお話です。
特別の宣旨により、光源氏も馬に乗って、供奉の列に加わっています。
その晴れ姿を見物に出かけた、葵の上と六条御息所の、いわゆる「車争い」の場面です。

げに 常よりも好みととのへたる車どもの 我も我もと乗りこぼれたる下簾の隙間どもも さらぬ顔なれど ほほ笑みつつ後目にとどめたまふもあり

という文章もあります。
この「下簾」は、「出衣の下簾」です。

ちなみに、賀茂祭の当日は、光源氏は若紫と車に同乗して祭り見物に出かけますが、その時については

人と相ひ乗りて 簾をだに上げたまはぬを 心やましう思ふ人多かり

という描写があります。こちらは「簾」ですね。

「簾」ではなくて「下簾」ですよね?

「下簾」は、ただのかざりとか、位を表すとかだけ…とは言い難いですね。

また、「この『車』の場合にはこの『簾』を使う。この『簾』の場合はこの『下簾』を使う」というカンジの決まりごとがありましたから、「下簾」によって身分や位を表わす…ということはないです。

「下簾」は、「簾」の内側に取り付けられましたが、「簾」は「竹」が材料です(「蘇芳簾」は赤色に染めた竹。「青簾」は染めていないそのままの竹)。
それを糸で編んで、縁をつけてあるだけなので「メッ...続きを読む


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