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先日、さんまの出ていた特番で数年後には鎖国が教科書から消えると言っている人がいました。我々の学んだ歴史では出島でのみの外交という知識でしたので、全てがひっくり返る意見で衝撃的でした。ですが私なりに調べていたのですが、「渡辺華山の描いた「鷹見泉石」は西洋画の技法で描かれている」ぐらいしか手がかりがありません。
どなたが根拠もしくは真実を知っている方がいたらおねがいします。

A 回答 (6件)

現在の感覚での鎖国という概念と、当時の行われた政策とのギャップがあるからです。



現代のアジアでもブータンやネパールは鎖国政策をしていました。このときの鎖国政策は、国境の封鎖・為替の停止・情報の遮断が主な政策になります。

江戸時代の鎖国政策では、中国(清朝)や朝鮮との通交・通商はほぼすべて行われていましたし、カソリックではない西欧諸国(オランダだけですが)との通商・通交も行われていましたし、金銀などの通貨も日本から流出しています。
また、カソリック教義以外の天文学や数学などの知識を取得することは、特に禁止されていませんでした。(しかし現代では有りませんから、その知識を持っているのは一部の知識層だけでしたが)

ですので、鎖国政策と呼ばれるものにほとんど該当しないのではないか、と言われているのです。

日本が、他のアジア諸国と違い幕末・明治期に植民地にならなかったのは、特に知識的な禁止政策が取られず、各藩が独自に見聞を広めたためとも言われています。
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徳川幕府・八代将軍の吉宗は享保の改革で幕政の建て直しをおこなっています。

 その一つに洋書の輸入を一部解禁しています。 これにより、蘭学が国内に興隆するのです。 

吉宗が松平頼方として、まだ紀州藩の藩主であった頃、長崎で学問を修めた学者を城内に召して、積極的に西洋の学問に耳を傾けてたりしています。 その内容も物理学、熱力学といった当時の最新の分野にも及んでいます。 

こういった世界最新の学問の素養が土台となって、数々の倹約令や改革が推進され、大岡忠相などの俊英の登用に結びついているのです。 

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D% …
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あと海外への窓口としては松前藩を通した山靼貿易があります。

つまり長崎を初め、対馬の朝鮮ルート、薩摩の琉球ルートと合わせ4つの窓口があったと言うことです。
ちなみに「鎖国」という言葉は長崎の阿蘭陀通詞、志筑忠雄(中野柳圃)(1760~1806)の造語です。
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国交があったのは朝鮮と琉球、国交がなく通商をしていたのが清国とオランダです。

蘭画は平賀源内が長崎で学んで小田野直武に伝えたもので、他に亜欧堂田善も西洋式で描いています。
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鎖国という単語の登場は幕末になってからのようです。


江戸幕府はオランダ・清朝・李氏朝鮮・琉球(島津家の支配下だが国際的には独立国)と国交があり、国を閉ざしているという認識は、当時はなかったでしょう。
幕府が徹底したのは、私貿易(特に大名)とキリスト教の禁止です。
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「鎖国」という言葉が間違ってると言いたいのだと思います。


ただしくは「海禁」が正解です。というのが河合敦さんの持論

渡辺崋山だって長崎に行ったことがあります。
その際に西洋画の勉強した可能性もあります。
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