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皇位継承の話で、以前から気になっていたことを思い出しました。

宇多天皇が即位前は臣籍降下していて源氏だったという話があります。
これって、当時は制度上アリとされていたのか、それとも特例中の特
例なのか。当時の実力者である藤原基経の後見という説と、当時の源
氏は王氏(皇族)を構成する一部のようなもので、不可ではないという
説があったと思いますが、宇多天皇は基経の外孫とかでもないし‥ 
釈然としません。
皇子皇女の臣籍降下ラッシュの時代とは言え、誰か一人くらいは居た
と思うのですが。

別の説とかを知っている方、教えて下さい。

A 回答 (4件)

まず、こういう話題は決定的な証拠がないので、所詮、何が最も合理的(に聞こえる)説明か、というレベルにとどまります。

どの理解が絶対に正しいか、というのは無理です。
「宇多天皇は基経の妻のいとこ」というのは、実は私の史料ではトレースできません。事実ではないという意味では全然ないです。当時としては、藤原氏のトップの「妻のいとこ」というのは、『何故そんなに関係の薄い皇族の即位を支持したのか』、と不思議に思うべきものです。(だから、「妻のいとこ」というのは、系図を一生懸命見ないとわからないぐらい、希薄な関係、という事。)また、結婚後、娘を入内させる、というのは、それが可能な地位にある貴族であれば、誰でも望んだ事で、基経と宇多天皇が親密な関係にあった事の根拠にはなりません。即位直後に有名な「阿衡」の紛争が起きた事から、最初から基経と宇多には親近感がなかった、と考える方が普通です。(議論自体は、基経が難癖をつけた、という感じが強いです。)

そして、なによりも、宇多が臣籍降下したのは、光孝の即位後ですから(参考URL)、事前に宇多を後継者にしようとは思っていなかった、と考えるべきでしょう。もし事前に後継者として宇多が決まっていたのなら、臣籍降下させたり、光孝が病気になってから、あわてて臣籍を削って皇籍に戻す意味がありません。光孝が自分の息子をどんどん臣籍降下させたのは、自分の子供から後継天皇を出す気がなかった、と解釈するのが妥当でしょう。

尚、大鏡には、もう一つ、宇多が、即位後、陽成院(元の陽成天皇)の家の近くを通りかかった時、廃帝が「当代は家人にあらずや」と罵倒したという話が残っています。これも積極的に否定する理由はありません。
つまり、「一旦臣籍降下した元皇族が天皇になる事は異例」という認識はあったとは思われます。しかし、それから類推して、事前に合意のようなものがあった、と考えるのは、ちょっと無理だと思います。
基経が確認したところ、光孝の内意は、源定省(=後の宇多)にあるらしいので、基経が、前例はなかったにも関わらず、手続きそのものとしては正当なものを踏んで、立太子→即位となった、という説の方が、合理的だと思います。他に親王としては、陽成の同母弟の貞保親王がいて、母は基経の妹ですから、深い外戚関係にありました。光孝即位の時は、むしろこちらの方が有力候補と目されていたぐらいです。(候補は貞保親王以外にも、皇籍の中に、血統としては当然いました。)
だから、宇多以外に選択肢がなかった訳ではないですが、結果として、宇多になったのを、「後継者難」と考えるべきかどうかは、考え方の問題でしょう。しかし、光孝から宇多への継承時には、陽成の影響力を心配するような状況では全くありませんから、基経が陽成との関係を嫌ったというのは、それ程強い理由とは思えないし、宇多は基経にとっては、外戚関係からして好ましい後継者ではありませんから、基経が自己(=藤原氏)の利益の為に、宇多を押した、という解釈は無理だと思います。

参考URL:http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B1%A7%C2%BF%C5%B7 …
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この回答へのお礼

宇多天皇が臣籍降下したのは光孝天皇の即位後!! 体に激震が走り
ました。(汗;) 光孝天皇は高齢→皇位継承レースから外れていた→
子供は早くに臣籍降下させていた、という思い込みがありました。反
省反省です。そして、私のくだらない感想にもわざわざコメントを下
さり、お手数をお掛けしました。重ねて有難うございます。

実は、昨晩、歴史大好きという同類の家で一杯やっていまして、今回
の話しをしたら、そんな内容の本があったといって貸してくれたのが、
「源氏と日本国王」(講談社現代新書1690)
明日から通勤電車の中で読もうと思っていたのですが、宇多天皇の臣
籍降下が光孝天皇即位後という衝撃の事実をご教授頂き、居てもたま
らず関係部分の拾い読みをしました。(笑)

既にお読みになっていたら、以下は関係部分の要約ですので無視して
下さい。
-------------------------------
・陽成天皇は殺人という天皇にはあってはならない事件を犯し、廃位
 となった。そのあおりで、兄弟である清和天皇の皇子たちも皇位継
 承から外され、後継者不在となった。
・その後、源融の話とか恒貞親王の固辞とかがあり、結局、最長老の
 親王であった光孝天皇が、一代限りの中継ぎとして即位した。
・しかし、正当な皇位継承者が決まらないうちに光孝天皇が危うくな
 り、例外的に臣籍にあった宇多天皇を後継者とした。
・当時は「源氏」はいつでも皇族に復帰できる存在と意識されていた。
・源融が皇位継承から外されたのは臣籍降下だけが理由ではなく、官
 職についたからである。宇多天皇は臣籍降下しても官職についた形
 跡はない。
-------------------------------
光孝天皇さん、高齢なのに、一代限りの中継ぎとして即位したのなら、
さっさと危機管理しろよな、とツッコミたくなりました。(笑)

お礼日時:2007/01/28 16:15

はじめまして、kasaneと申します。


いったんは臣籍降下し源氏を名乗った人物が、何故天皇として即位し得たのか、疑問をお持ちなのですね。
歴史学者・角田文衛氏の論文に
  <尚侍 藤原淑子>(『紫式部とその時代』所収)
  <陽成天皇の退位>(『王朝の映像』所収)
といったものがありますが、簡単に内容を抜粋させていただきますと
 
  陽成朝後期、藤原基経の異母姉妹である淑子は典侍の地位につき、後宮の重鎮として政への影響力も大きかった。彼女は藤原氏宗の妻であったが実子が無く、班子女王(彼女は個人的に淑子と親交があったらしい)と時康親王との間に生まれた定省王を猶子に迎え、可愛がっていた。
基経は外戚ではあったものの、陽成天皇及びその生母・高子とそりが合わず、しばしば対立することがあった。自身の政権安定の為、陽成系を切り捨てる決意をした基経は、淑子を協力者として陰謀を巡らせ、若き天皇を退位に追い込んだのだった。
その直後、基経は皇位継承者選定の席で時康親王を推挙する。それは淑子の要請であった可能性が高い。基経は娘・佳珠子所生の貞辰親王(父親は清和天皇)を擁していたが、上記のような事情から、彼女の希望を一蹴できなかったはずである。淑子が最初から定省を即位させようと目論んでいたかは定かではないものの、時康親王の即位が彼にとって政界で有利に働くと判断したことは間違いないであろう。
淑子は光孝天皇崩御後、定省の即位に当然積極的ではない基経を説得し、娘・温子の入内を条件に(彼女が皇子を生んだ暁には、外祖父として政権を掌握できる)歴史上唯一の臣籍降下経験を持つ天皇が誕生したのである。
彼女は後年、従一位という女官としては空前絶後の位階を宇多天皇から授けられることになる・・・。

という事情であったらしいですね。
不幸な事に、折角入内した温子は皇女一人しか生むことが出来ず、基経と宇多との間には徐々に亀裂が広がっていき、非常に険悪な状況であったらしいです。宇多は自らの意志で醍醐天皇に譲位して院政を行うも、基経の息子・時平に何かと阻まれ、結局は出家の道を選ぶ事になりましたね。それでも御息所や皇女達らと歌合を盛大に行ったりするなど、文化方面での活動は活発でしたし、上皇としてそれなりに権力は保持していたのでしょうね。

まさに<歴史の蔭に女有り>・・・皇后や国母の地位を得なかったとは言え、当時の貴族社会の常識を覆してまで猶子の即位を成し遂げた淑子は、まさに女傑と言っていいのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

関係論文を紹介して頂き、有難うございます。
黒幕は藤原基経ならぬ、その蔭に隠れた内侍淑子という説のようで
すね。
実は私も、ずっと以前に藤原基経後見説に疑問を持ち、自分なりに
調べた時、内侍淑子の夫の藤原氏宗も春宮関係の役職で出自の割に
位も高く、乳母の家か何かで影響力を持ったという仮説で調べたも
のの、そこから先の系譜関係がさっぱり分からず、時代も確か時差
があったりとかで、挫折しました。
ご紹介頂いた内容を拝見する限り、系譜に対するものすごい執着を
持っているあの角田文衛氏にして「宇多天皇は内侍淑子の猶子であ
った」以上の系譜関係が見つからなかった、ということのようです
から、私がジタバタしても分かる訳がないと、妙に得心してしまい
ました。
ただ、藤原基経と内侍淑子が同腹の兄弟姉妹であれば、母系制原理
で家として一体という解釈も成立つのですが‥、まあ、内侍淑子の
母も誰だか分からないので何とも言えませんが‥その辺がちょっと
ひっかかります。
角田文衛氏の著作なら、大きな図書館に行けばあると思うので、今
度探しに行こうと思います。

お礼日時:2007/01/29 15:46

 陽成天皇と藤原基経は叔父甥ですが、そりが合わなかったようです。

基経としては陽成天皇の息のかからない人物を天皇にしたかったのでしょう。
 また、光孝天皇の即位自体も宇多天皇の即位が前提だったのではないでしょうか。宇多天皇は基経の妻のいとこですね。あと、基経の娘の温子が宇多天皇の女御ですが、即位後入内なんですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとう御座いました。(以下は私の単なる感想です)

今までは宇多天皇即位時の一点しか眼中になかったのですが、ANo.1
さんのご回答を拝見してから、自分でも前後に広げて目を向けてみて、
その結果、実は私もなんとなく「光孝天皇の即位自体も宇多天皇の即
位が前提」のようなセットとして考えた方が良いという印象をもちま
した。それが単なる後継者難のための特例なのか? 
今回、ANo.2さんから「基経後見説」の内容をご教授頂きました。も
し藤原基経の強い意思が働いていたのだとしたら、天皇の差し替えだ
けではなく、臣籍降下した源氏の皇位継承もアリとの「前例」を作っ
た、但し最高権力者(藤原氏)の承認があれば、という条件つき(源融
は、同じ基経に却下されている)ということにもなり、非常に興味深い
です。

お礼日時:2007/01/28 09:53

>宇多天皇が即位前は臣籍降下していて源氏だったという話があります



話、というより、『事実』だと思うんですが…。

>当時は制度上アリとされていたのか、それとも特例中の特例なのか。

宇多天皇の1代前の光孝天皇を選ぶ際に、嵯峨天皇の息子で当時左大臣だった源融が、太政大臣基経に「近き皇胤をたづぬれば、融らも侍るは」と自薦したら、基経が「皇胤なれど、姓給てただにつかへて、位に即きし例やある」と言い返して、黙らせた、という話が大鏡に載っています。歴史物語に書いてある事ですが、積極的に否定する理由もありません。いずれにしろ、特例という認識はあったはずです。

宇多即位は、基経が光孝天皇に内意を聞いた所、はっきりとは言わないが、どうやら、源定省(後の宇多)にあるらしい、という事になって、臣籍を削り(親王に戻る)→立太子→光孝死去後即位、という事になりました。手続きとしてはOKです。(勿論、皇籍に誰もいなかった訳ではありません。)仰られるように、基経は外戚関係にないので、積極的に源定省を押す理由はありません。

要するに、明確なルールはないが、非常に珍しい例だった、という事でしょう。手続きとしては皇籍に戻せば、ルールとしてダメというのがない以上は、天皇がそう望めば、出来る事は出来ました。
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この回答へのお礼

回答ありがとう御座いました。(以下は私の単なる感想です)

確認したら、先代光孝天皇がとても高齢という点では異例の即位で、
在位も短く終わることは容易に想定できることから、光孝天皇即位
と源定省の立太子はセットのようなもので、短期間で二代続いて皇
位継承の危機とでもいうべき状況下での特例とも言えそうですね。
臣籍降下しまくって、何のために子供いっぱい作っているのやら‥

桓武天皇の父光仁天皇も高齢で、天武系から天智系うんぬんの話を
よく目にするので、念のために陽成天皇と光孝天皇の関係を系図で
確認してみたら、こちらはそんなに遠くないですね。
陽成天皇の子供も皇統?からは外れていますが、それなりにいるよ
うですね。陽成天皇が暴君で皇位から降ろされたというのが本当な
ら、陽成天皇の子供たちは、成長してから父の事情を聞いて、さぞ
かし腹もたち、ガックリしたでしょうね。

お礼日時:2007/01/27 17:40

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