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「物質」というものが、本当に「実在」するのか疑問に思っています。

そもそも「物質」とは何かがよくわかりません。例えば、目の前のリンゴは、常識的には「物質」だろうと思います。そして、科学的知見によれば、その物質であるリンゴは、分子の集合であり、分子は素粒子の集合だということになります。しかし、その素粒子は、リンゴのように色が付いてないし、輪郭もはっきりしないし、正確にどこの位置に存在しているかすら確定できないし、波の性質と粒子の性質を併せ持つものと言います。そんな得体の知れないものは、常識的な感覚では想像できません。常識的な感覚では想像できないにも関わらず、何故、それが「実在」すると考えるのでしょうか? 

それは、「素粒子」の振る舞いについて数学的モデルが考えられ、その数学的モデルに基づいて計算した結果が「実験事実」と一致するからではないでしょうか? もし、「素粒子」についての「計算結果」が「実験事実」と一致しなければ、「素粒子」が実在するなどとは考えないのではないでしょうか?

ところで、「実験事実」とは何でしょうか? それは、「観測された現象に関する事実」ではないでしょうか?

このように考えると、以下のような結論になると思います。

この物質世界は「現象の集合」として認知され、その「現象の集合」は「数学的モデル」により説明ができる。

すなわち、この物質世界は現象であって、その現象の背後に現象の原因となる何か、多分一般には「物質」と呼ばれている何か、を想定する必要は全くないのではないでしょうか? 「物質」が実在しているわけではなく、「現象」と「数学モデル」が存在しているだけではないでしょうか? 言い換えれば、「物質」とは「数学モデル」のことではないでしょうか?

A 回答 (50件中1~10件)

どうもお礼文ありがとうございます。



>すなわち、「花が咲いている」事とか「花が花瓶にさしてある」事とかの「主語・述語」形式の「事」としてしか実在できないのではないでしょうか。だから、感覚的存在者は「物」ではなく「事」ではないかと思い始めました。

そうですね。認識というのは二項的な判断の形(主語ー述語)をとりますので、作用、所作、状態、様相、性質、関係といった連続的な過程において生じると言っていいかもしれませんね。

ベルグソンの言うイマージュはたんに心的なものではなく物的な性格をも持っているようですね。ベルグソンにとっては宇宙全体がイマージュで、その宇宙全体は決定論的で因果律に従って変化しますが、身体と呼ばれるイマージュは特殊で、宇宙の決定性の中に必然的に入れられているのではなくて、宇宙つまり外の世界に対して非決定性を持っている、すなわち身体は行動の中心である、と。

>人間の場合は、生物として行動を起こすためだけではなく、「物」と離れて様々な思念を付加するように思います。芸術や文学の活動などをみると、表象は、存在にたくさん色々なものを付け加えているように思うのですが。

そうですね、私もそう思います。ベルグソンは、一つの事物を詳細に知覚すればするほどそのものに対する行動はより正確、確実性を増すといった意味合いで言っているようですね。

私も今読書中ですが、ベルグソンの言う持続の緊張、というのもなかなか難しいですね。
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この回答へのお礼

たびたび、ご回答をいただきありがとうございます。
大変良いヒントになり、色々と考えるきっかけになりました。

お礼日時:2007/03/04 12:53

No.3です。


再度「分裂勘違い君劇場」から紹介させていただきます。
『意識の謎を解いてみました』
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20070204/1 …

この回答への補足

大変おもしろいサイトをご紹介いただいき、ありがとうございました。論理展開が明瞭で大変わかりやすいです。

それで、ちょっと考えてみました。「分裂勘違い君劇場」の説明は「意識の外に客観的物理世界がある」ことが前提になっているわけですが、その場合、どうしてもうまく説明できないのは、<もし、世界の真の構造が(2)だとしたら、確かに「なぜ、いくらニューロンを解析しても、「赤いという感覚それ自体が見あたらないのだろう?」>という疑問に対する答えです。

説明では、科学は「~という物理現象」は記述できても、「~という感覚」は直接記述することはできないのだと結論付けていますが、それでは、疑問に対する答えになっていないように思います。これは、むしろ、「世界の真の構造が(2)だ」という仮説がおかしいのではないかと思います。そうすると、残る仮説は、「世界の真の構造が(1)だ」ということになるわけですが、この場合、また、別の疑問が沸いてきます。

それは、<「感覚も意識もある人間」である人間Bの脳内のニューロンの活動は、「感覚や意識のない人間」人間Aのニューロンの活動と、全く同じです。>という話ですが、これは、「意識の外に客観的物理世界がある」という前提に立つと全くその通りだと思います。ところが、この場合は、2つの疑問があります。

一つは、もし、そうだとすると、そもそも、「意識はあってもなくても同じこと」、すなわち、「意識というものは本来必要ないけど、理由なく、おまけで付いているもの」ということになります。これは、とりあえずおかしいです。でも、「いくらおかしくたって、この世界はそもそも何の意味が無くたって存在しているのだから、意識だって何の意味がなくて存在しててもいいじゃないか」と言われれば、全くその通りです。だから、論理的におかしいわけではないのです。

もう一つの疑問は、「ニューロンに電気インパルスが流れる」という具体的なイメージがあたかも客観的にあるという前提に立っていることです。というのは、「赤いという感覚」が心の中にしかないように、「脳」や「ニューロン」の具体的な色や大きさや形も心の中にしかないはずだと思うからです。

結局、そもそもの疑問に戻ってしまうのですが、実際に存在しているのは、心に感じ取られる「現象そのもの」だけと考えてはなぜいけないのかということです。すなわち、なぜ、現象の裏に「物質」という客観的存在を仮定しないといけないのかということです。

補足日時:2007/03/03 00:12
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ベルクソンについてお悩みのようで


その件についてだけ、まぁ私も詳しくありませんが。
最初の疑問は、ベルクソンが常識に帰る事を強調します。
ある意味、素朴実在論に近いと思います。
眼を開ければ見え、眼を閉じれば見えなくなる物、です。

真ん中の部分は、何かの誤解です。
「物質と記憶」の結語は
精神はその栄養源である知覚を物質から借り、その自由を刻印した運動の姿で物質に返すのである。」返します。

最後の部分は、私見ですが、
ベルクソンの説ではなく、ギブソン辺りの考えと混同しています。
脳の中に記憶が無いということを、ベルクソンは障害の臨床的な経験から導き出しています。

不明な点があれば補足下さい、最も答えられるかどうか判りませんが。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
ベルクソン、あらためて読んでみます。

お礼日時:2007/02/24 21:26

一つだけ言える事は


我々人間が感じている物質は確実に存在することです。
しかし、その物質が100%イデアと同じ形をしているか
というと違う可能性があるということです。
これは、誰もが納得できる事実だと思います。
多分われわれは認識の変化そのものの妥当性を科学に求めて
いるのでないでしょうか?
その妥当一致性そのものの基本と応用が数学だと思われます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/02/24 21:23

どうもお礼文ありがとうございます。



こちらの方がたいへん参考になります。
物事の物と物質(matter)はご指摘どおりで、前者は自己同一的な対象あるいは存在者を一般的に、不定に、漠然と指示する語ですね。花というもの、家というもの、のような感覚的存在者、法というもの、価値というもの、のような非感覚的存在者など。

われわれは物質的存在者を等質的計量可能なものとして取り扱いますね。つまり量的なものへと還元します。質といったものが問題となる場合もありますが、しかしそれは意識的内面性において見られる純粋な質ではなく、量へと還元されうる質です。例えばこのパソコンは質が良いという場合に、その質の良さを判断する基準となるものは、「五年間故障しない」といった計量された時間性です。
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この回答へのお礼

また、ヒントになりました。ご回答ありがとうございました。

>花というもの、家というもの、のような感覚的存在者、法というもの、価値というもの、のような非感覚的存在者など。

「花」ではなく、「花というもの」と書かれていたので、気が付いたのですが、「物」というのは単独では存在できない。かならず、具体的な情況の中で情況と一体化してしか存在できない。すなわち、「物」は「事」としてしか実在できないのではないかということです。「花」は何もない空間にポカンと浮かぶことはできない。実在するためには、必ず、具体的な時空間の中に、ある具体的な様態で存在するしかない。すなわち、「花が咲いている」事とか「花が花瓶にさしてある」事とかの「主語・述語」形式の「事」としてしか実在できないのではないでしょうか。だから、感覚的存在者は「物」ではなく「事」ではないかと思い始めました。

>しかしそれは意識的内面性において見られる純粋な質ではなく、量へと還元されうる質です。

そうですよね。そして、「量」とか「五年間故障しない」とかいうのは、概念上の存在ということになってしまいますよね。「三角形の内角の和は180度だ」というのと同じようなレベルで。逆に、具体的であるためには、「質」でなければならないと同時に「事」でもなければならない。そんな感じがしてきました。

お礼日時:2007/02/24 21:22

追加になりますが。



ベルグソンの考えなんですが、表象というのは存在に何かが加わって生じた物ではなくて、逆に存在はその一部を失うことによって表象になる、という意味は、すべての事物は宇宙の全体と相関的であり、その全体からその一部だけを切り取って、浮かび上がらせたもの、それがそのものの表象であり知覚であるといってます。そのものを特に意識に取り入れるために、それ以外のものから意識をはずすことによってそのものの知覚すなわち表象がうまれるのである、と。

なるほど。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

>ベルグソンの考えなんですが、表象というのは存在に何かが加わって生じた物ではなくて、逆に存在はその一部を失うことによって表象になる

ベルクソンの場合、宇宙、物質界、身体、脳、脳神経など全てイマージュなんですよね。イマージュというと何か特別なもののような気がしますが、英語にするとイメージですから、日本語だと「心像」となり、そうすると、「イマージュ」は、結局「表象」のことではないかと思ってしまいます。ところが、ベルクソンは「イマージュの表象」という言い方をしてますから、どうもそうではないらしい。ベルクソンの言う「イマージュ」とは一体何なんでしょう。結局、我々が日常生活で使う「物」に一番近いような気もしますが...。

ところで、ベルクソンが「表象というのは存在に何かが加わって生じた物ではなくて、逆に存在はその一部を失う」と言うとき、その裏には、知性は「行動に必要なもの」だけを感知するということがあるのでしょうか? すなわち、知性の目的は、外から入って来た刺激に対して、生物として行動を起こすために必要なものだけを感知する。だから、それ以外のものは捨てられるというような意味でしょうか? 私が疑問に思うのは、それは、むしろ下等な生物の場合の話であって、人間の場合は、生物として行動を起こすためだけではなく、「物」と離れて様々な思念を付加するように思います。芸術や文学の活動などをみると、表象は、存在にたくさん色々なものを付け加えているように思うのですが。

ベルクソンの考えでもう一つ不思議に思うことがあります。それは、「脳にはこの世界のイマージュは入らない。だから、人の記憶は脳の中にはない。」というものです。理由は、この世界のイマージュの方が脳のイマージュよりはるかに大きいからというのですが、それは、ビデオカメラで野球場や夜の星空を撮れるわけがないと言うのと同じで、何かな変な感じがします。

補足日時:2007/02/20 23:15
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誤字か多くてすいません。



肢空間⇒視空間

資格作用⇒視覚作用

決定されるという図ずつによって⇒事実によって

四角作用⇒視覚作用

たいへん失礼いたしました。
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どうもお礼文ありがとうございます。



>「見る」と「感覚する」の「主語」は何でしょうか? 「私」あるいは「心」でしょうか、それとも、「視神経」とか「脳」でしょうか ?

自分を自覚すると自分が対象化されてしまうので統一性が失われて明晰な観念がもてなくなると思います。。だから「反省されていない自分」といったところでしょうかね。

あるいはラッセル流に言うと、「私は物理的対象を見るのではなく、物理的対象が私の脳が存在する場所に与える効果を見るのである。」といったところでしょぷかね。
さらにラッセルはこう続けています。
「肢空間と物理的空間の間の相関は、私のいろいろな資格作用が、ある物理的対象によってそれぞれ全面的に決定されるのではなく、部分的には中間に介在する媒介物によっても決定されるという図ずつによって、近似的であるにすぎない。さらに、物理的対象に対する四角作用の関係は私たちの感覚は多かれ少なかれぼんやりしているから、一対多であって、一対一でない。」

>これは、すごく面白い問題ですね。赤が「感覚されるもの」だとすると、「感覚するもの」が想定されるわけですが、それは、何なんでしょうね。
意識の中で対象と主体が分裂しているということでしょうか? 

そうですね、意識に内在化された意味、ということですかね。
非実在的な焼失することのない物でしょうか。


>顔は、正に「物」だと思いますが、”その日その日の顔で系列”というのは、具体的には、どういうことでしょうか?

どうも説明が下手くそなのと誤字が多くてご迷惑をおかけいたします。

顔で系列、ではなくて顔の系列でした。

点というように感覚のデーターの系列定義することによって数学的に扱うという意味です。

参考になりますでしょうか。

この回答への補足

色々考えるきっかけになりました。ご回答ありがとうございました。

>自分を自覚すると自分が対象化されてしまうので統一性が失われて明晰な観念がもてなくなると思います。。だから「反省されていない自分」といったところでしょうかね。

「反省されていない自分」とは「無意識」? 「見えているけど、見てはいない」。例えば、本を読んでいるときの紙の表面。ご飯を食べているときの自分の指。犬や猫は反省しないんでしょね。人間はなぜ反省するのか。本能に頼らず、自覚して考えろと自然が圧力かけているのか。

#40の「(1)見るとは色や光を持つことであり、感覚するとは性質をもつこと、なのかそれとも、(2)赤は感覚ではなく感覚されるものであり、性質は意識の一要素ではなく対象の一特性なのか。」ですが、結局、(1)は「見ていること」に無自覚、(2)は「見ていること」を自覚している状態ではないでしょうか。例えば、犬、猫、ロボット、また、人間でも対象に意識が向いていない時などは(1)で、人間が意識的に見ているときは(2)ではないでしょうか。

>「私は物理的対象を見るのではなく、物理的対象が私の脳が存在する場所に与える効果を見るのである。」

「物理的対象」--->「脳内の物理的変化(効果)」--->「見える」 ということですから、現在の科学の見方と全く同じですね。

>「物理的対象に対する四角作用の関係は私たちの感覚は多かれ少なかれぼんやりしているから、一対多であって、一対一でない。」

「一対多」というと感覚の方が元の物理的対象より情報的には豊富と言うことになりますが、例えば、リンゴを見ていて、最初は「ただのリンゴ」だと思っていたのが、良く見ると「虫が喰っていた」とわかった場合などは、最初は「一対0.7」かも知れません。さらに、その後、そのリンゴの表面を仔細に観察すれば、次々と新しい事実がわかると思いますが、そうすると、常に「一対一未満」になるような気もします。

一方、物理的対象は「量」しか持っていないのに、視覚像は「質」を持っているわけですから、明らかに視覚像の方が情報は豊富と言うこともできます。ただし、この場合は、「視覚像」は、「物理的対象」が持っていなかった「情報(質)」を追加したわけですから、それを「一対多」と言ってよいのか、ちょっと疑問です。

>そうですね、意識に内在化された意味、ということですかね。非実在的な焼失することのない物でしょうか。

私が「感覚するもの」と書いたのは、「感覚されるもの」に対して、「感覚されるもの」を対象として見る「主体」という意味で書いたのですが、もし、「主体」が受身的存在なら、「感覚されるもの」の方が「主体」になってしまいますね。言葉の表現が難しいです。いずれにしても、対象と主体の2つに分離された情況を考える必要がありそうだということです。意識と物質が分裂しているだけでなく、意識の中でさらに主体と対象が分裂していることになりそうです。

>点というように感覚のデーターの系列定義することによって数学的に扱うという意味です。
「物」という言葉を辞書でひくと、「形のある物体をはじめとして、存在の感知できる対象」と書いてありました。前半の「物体」というのはトートロジーのような気もしますが、後半の「存在の感知できる対象」が一般的に我々が「物」と言っているもののように思います。特に「対象」という言葉が本質を表しているように思います。日常生活で「物」というのは、まさに、そのような「対象」であって、決して、「原子分子の集合体としての物質」ではないと思います。すなわち、「対象」は「意識の対象」であり、むしろ、「イメージ」に近いのではないでしょうか? 「イメージ」というと視覚像を思い浮かべるかも知れませんが、もう少し広く五感を通して”具体的に”感じ取られる「心像」です。

そして、数学的というのは、そのように”具体的に”感じ取られる「イメージ(日々、年を取っていく自分の顔など)」の運動を説明する「原理」が数学的という意味です。「原理」ですから、その存在形態は、「三角形」というイデアが存在するのと同じ意味での存在です。三角定規が存在するという意味での存在ではありません。

補足日時:2007/02/19 20:56
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エネルギーだけが存在します。



物質は、そのひとつの姿。

物質はありません。

ヒントは、私たち体もまた物質だからです。それを裏を返せば解かります。

あまりにも私たちは、私たちの常識の中だけを生きてしまっているのです。

私たちは、当たり前すぎて考えない、その外側から見る目をあまり多くの時間持ちません。

しかしそこにこそカラクリの入り口があるのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/02/16 16:22

補足、拝見しました。


困りましたね、私は、見える事に関しては追求していないのです。
見えるということは、行動のための準備としてある、それで十分です。

アメーバの話は、擬足が本当に見えて出しているのか、
或いは、やたらと擬足を出して、偶々当りなのか、生物学を調べれば答えは有りそうです。
つまり、対象が有る事から始めるのか、対象など無いとしてしまうのかです。

私としましては、「物質など無い」と言う仮定の道を進まれるより、
「物質が有る」と言う仮定の上で、見えることの始まりを考察されることをお願いしたい。
それなら、生命進化の過程で、眼と言う器官がどのように進化したのか、
外部環境の変化、例えば、海から陸へ上る事によって、どう進化するのか、
いろいろな方法が有りそうな気がします、私には出来ませんので、
kobarero様に、是非追求して欲しいと、お願いしているわけです。

その様な訳で、補足の内容に関して、一つ一つお答えすることは差し控えておきます。
別の質問になってしまう、と言う事で、ご理解下さい。
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この回答へのお礼

了解しました。

たびたびお付き合いいただき、ありがとうございました。

お礼日時:2007/02/16 16:21
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