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「物質」というものが、本当に「実在」するのか疑問に思っています。

そもそも「物質」とは何かがよくわかりません。例えば、目の前のリンゴは、常識的には「物質」だろうと思います。そして、科学的知見によれば、その物質であるリンゴは、分子の集合であり、分子は素粒子の集合だということになります。しかし、その素粒子は、リンゴのように色が付いてないし、輪郭もはっきりしないし、正確にどこの位置に存在しているかすら確定できないし、波の性質と粒子の性質を併せ持つものと言います。そんな得体の知れないものは、常識的な感覚では想像できません。常識的な感覚では想像できないにも関わらず、何故、それが「実在」すると考えるのでしょうか? 

それは、「素粒子」の振る舞いについて数学的モデルが考えられ、その数学的モデルに基づいて計算した結果が「実験事実」と一致するからではないでしょうか? もし、「素粒子」についての「計算結果」が「実験事実」と一致しなければ、「素粒子」が実在するなどとは考えないのではないでしょうか?

ところで、「実験事実」とは何でしょうか? それは、「観測された現象に関する事実」ではないでしょうか?

このように考えると、以下のような結論になると思います。

この物質世界は「現象の集合」として認知され、その「現象の集合」は「数学的モデル」により説明ができる。

すなわち、この物質世界は現象であって、その現象の背後に現象の原因となる何か、多分一般には「物質」と呼ばれている何か、を想定する必要は全くないのではないでしょうか? 「物質」が実在しているわけではなく、「現象」と「数学モデル」が存在しているだけではないでしょうか? 言い換えれば、「物質」とは「数学モデル」のことではないでしょうか?

A 回答 (50件中11~20件)

それと追加になりますが、



見るとは色や光を持つことであり、感覚するとは性質をもつこと、

なのかそれとも

赤は感覚ではなく感覚されるものであり、性質は意識の一要素ではなく対象の一特性なのか。

ちなみに後者は現象学的な考え方です。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

>見るとは色や光を持つことであり、感覚するとは性質をもつこと、

「見る」と「感覚する」の「主語」は何でしょうか? 「私」あるいは「心」でしょうか、それとも、「視神経」とか「脳」でしょうか ?

>なのかそれとも、赤は感覚ではなく感覚されるものであり、性質は意識の一要素ではなく対象の一特性なのか。

これは、すごく面白い問題ですね。赤が「感覚されるもの」だとすると、「感覚するもの」が想定されるわけですが、それは、何なんでしょうね。
意識の中で対象と主体が分裂しているということでしょうか? 

一般に「見ている」というのは、実は、「見ている」のではなく「見えている」のだと思います。自分には能動的に「見る」能力はなく、「見ている」と思うのは、実は、単に眼を有る方向に向けて、眼を瞑らず開けているだけのことで、それ以外のことはできない。あとは、受動的に「見える」に任せるだけのように思います。そうすると、「見ている(眼を有る方向に向けている)」のは「私」でも、「見えている」のは、「私」ではなく、もしかすると「自然そのもの」かも知れないと思うことがあります。

補足日時:2007/02/15 22:07
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どうもお礼文ありがとうございます。



私のカン違いみたいですね。
どうも失礼いたしました。

加工と言いましたのは多様な感性界の表象を悟性の形式(カテゴリー)によって統一するという意味で、その加工されたものが現象であるとい思っているのですが。

>、
>「イデア」は「実在」すると考えますか?

いえ、まったく実在すると思っていません。

イデア論というのは実念論(観念実在論)で、観念論であり実在論でもあると思います。

物質がは現象であるというのはまったくそのとおりだと思います。
つまり人間の主観が、まったく無規定な「X」に規定を加えた物であると思います。

その点ではkobareroさんの意見にまったく異論はありません。

ただ物を想定しないで思考するというのは非常に困難です(日常生活では)。

例えば毎日見る顔でもその日その日の顔で系列ではなく、どうしても顔という「物」を想定してしまいます。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

>>「イデア」は「実在」すると考えますか?
>いえ、まったく実在すると思っていません。

そうすると、眼の前の三角定規は「実在している」けれど、三角形は「実在していない」と考えるわけですね。その根拠は、三角定規は五感で直接感知できるけれど、三角形は、五感では直接感知できないからでしょうか? もし、そうなら、三角定規を構成する分子・原子も五感では直接感知できないから、「実在していない」とは考えられないでしょうか?

>ただ物を想定しないで思考するというのは非常に困難です(日常生活では)。

同感です。それは、この世界は「物質」でできているのではなく、”日常的な意味”での「物」で出来ているからだと思います。「物質」と「物」の違いは、例えば、以下のように考えられると思います。

「物質」: 分子、原子、素粒子などから成る構成体。
「物」 : 形、大きさ、重さがあり、五感で直接感知できる対象。「物質」と「物」の最大の違いは、「物質」には「質」がなく、「物」には「質」があることです。そして、「物」に「質」があるということは、「物」が「心」に映る「現象」であることを意味しています。

>例えば毎日見る顔でもその日その日の顔で系列ではなく、どうしても顔という「物」を想定してしまいます。

顔は、正に「物」だと思いますが、”その日その日の顔で系列”というのは、具体的には、どういうことでしょうか?

補足日時:2007/02/15 21:45
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お礼拝見しました。


私も自分のお礼をしなければならないのですが、
興味深いことが書かれており、少し補足します。

「見える」と言うことが理解できないから、物質など無い、ですか。

私も昔少し関心があって、調べましたが、結局解りませんね。
ただ、「アメーバがえさに対して擬足を出す」この表現は大変曖昧ですが、
これがアメーバが、既に、認識と記憶と判断ができる。

上記はまだ本当かどうか確認出来ませんが、肯定的な文章も見かけます。

人間の眼は、進化の最先端ですから、ICチップの様な物です。
人間の眼だけでなく、眼の進化の過程を追われましたか。
私の場合は関心が別の所にありますので、この件は追求しませんでしたが、
昆虫のある種の眼は、像を結ばない凹レンズで出来ています。それでも見えているようです。

眼の無いアメーバが擬足を伸ばす。

見えているのかもしれません。
既に、そのような観点からの研究が終わっているのなら、大変失礼しました。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

>ただ、「アメーバがえさに対して擬足を出す」この表現は大変曖昧ですが、これがアメーバが、既に、認識と記憶と判断ができる。

認識と記憶と判断ができるアメーバは、何かを「感じている」とお考えですか? 認識と記憶と判断を持つだけなら簡単なコンピュータで作った「おもちゃ」でも可能なわけですが、この場合も、その「おもちゃ」は何かを「感じている」と考えますか?

>人間の眼は、進化の最先端ですから、ICチップの様な物です。人間の眼だけでなく、眼の進化の過程を追われましたか。

事故で失明した人が、小型ビデオカメラから出る電気信号を直接脳神経に繋いで視力を得た例をNHKの番組で以前やってました。これをさらに一歩進めて、脳そのものをICチップに置き換えたら、その失明した人は視力を維持できると思いますか?

>昆虫のある種の眼は、像を結ばない凹レンズで出来ています。それでも見えているようです。

「見えている」という言葉は、以下の2通りに解釈される可能性があると思います。

(1)外部から観察できる機能としての「見える」の意味
例えば、像を結ばない凹レンズを持っている昆虫が、エサを取るという事実が観察されたとしても、初めはエサを眼で見て認識したのかどうかわかりません。それで、実験的に昆虫の眼を塞いで光が入らないようにし、それでも、依然としてエサを捕らえることができた場合、「あー、この昆虫は見えているんだ」と判断するかも知れません。このように外部から観察可能な「見える」機能の意味です。

(2)外部から観察できない主観的に「見える」という意味
この「見える」は、昆虫に「心」があって、その「心」に外部世界が見えているかどうかという場合の「見える」の意味です。これは、外部から直接観察できません。

fishbowl66さんが「見えているようです」と言う場合、(1)、(2)のどちらの意味でしょうか?

補足日時:2007/02/15 19:45
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>クオリアという言葉は、通常なら「質」と言うところを、脳の現象から心の現象を説明する必要性から考え出された魔法の言葉ではないかと思います。



まさにその通りでしょう。
脳の現象は意識の隙間の入る余地は無いと、どこぞかの
脳科学者が言っておりました。
まさに水に映る月状態でした。
しかし、とりあえず水に丸いクリアーイエロー
みたいなものが写っているから”これなんて名前にしよう?
そうだクオリアなんてどうだ、”見たいな感じでしょうね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/02/15 19:48

どうもご回答ありがとうございます。



意識表象とは意識に現われるあらゆる対象のことなので意識と捉えていただいてよいのです。想像、思考、意志、等。

神の意志とのはアリストテレス的な第一原因ではなくてプラトンのイデア的な超越者という意味です。

kobareroさんの仰るのを伺っていると、私のカン違いかも知れませんが、数学モデルと言う物が実在していて、それが自己の内に運動の原理を持っていて意識をも産み出すような印象を受けましたので。
数学モデルというのは人間の理性が加工したものであると思うのですが間違いでしょうか。

例えば、毎朝自分の顔を鏡でみていると少しずつ老化していくわけですが、何年かすると、自分の顔という物が変化したと考えるわけです。しかしその老化を数学モデルで表現できるとすれば、自分の顔という物の変化をその外観の系列と数学モデルで置き換えることができるわけです。
しかしその数学モデルと言うのは我々の感覚データーより帰納してしてつくられたものであると思うのですが間違いでしょうか。

すべての現象は数学モデルで説明できるという原理はどのようにして定式化されたのでしょうか。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

>第一原因ではなくてプラトンのイデア的な超越者という意味です。

後の部分とも関連するのですが、「イデア」は「実在」すると考えますか、それとも、「理性」が考え出したものだから「実在」しないと考えますか? 例えば、「三角形のイデア」は理性が考え出したものだから「実在」しないのでしょうか? あるいは、たとえ理性が考え出したとしても、それは、本来イデア界にあったものを「思い出した」だけなのだから「実在」するのでしょうか?

>数学モデルと言う物が実在していて、それが自己の内に運動の原理を持っていて意識をも産み出すような印象を受けましたので。

数学モデルが意識を生み出したのではなく、「意識に映る物質現象の動き(意識そのものではない)」が数学モデルで「直接」説明ができるという意味です。「直接」と断ったのは、「心」の外に「物質」という媒体を想定する必要はないという意味です。例えば、液晶ディスプレイが「意識」に相当するとすれば、「液晶画面に表示される画像」が「意識に映る物質現象」です。そして、数学モデルで言いたいことは、「液晶ディスプレイ」の画面の裏側に何か「物質」というようなものは、実際には存在しないのではないかということです。別な例で言うと、映画を見ていて、スクリーン上で遠方から電車が走って来たとしても、実際にはスクリーンの裏に電車はないのではないかということです。

>数学モデルというのは人間の理性が加工したものであると思うのですが間違いでしょうか。

「加工」という言葉にやや「恣意性」を感じますが、もし、「恣意性」があれば、「数学モデル」と「実際の物理現象」の間に齟齬が生じますから、「数学モデル」としては成り立たなくなります。あくまで実際の物理現象と乖離しないという条件であれば、たとえ、理性が考え出したものであっても、それは、正しく物理現象を説明することができると思います。

>しかしその数学モデルと言うのは我々の感覚データーより帰納してしてつくられたものであると思うのですが間違いでしょうか。

正に、おっしゃるとおりです。

>すべての現象は数学モデルで説明できるという原理はどのようにして定式化されたのでしょうか。

正確に言うと「すべての現象」ではなく、「物質に関わる全ての現象」です。そして、「物質に関わる全ての現象」が数学モデルで説明できるというのは、現代科学が進んでいる方向であり、今のところ、それに対する有力な反論はありません。もちろん、100%正しいという意味ではないです。ただ、現段階では、それ以上に説得力のある説明は見当たらないということです。

補足日時:2007/02/14 15:51
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クオリアというのが有るのですがクオリア=質と考えても良いのではないでしょうか?(他にも有るかもしれませんが)


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%AA% …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>クオリアというのが有るのですがクオリア=質と考えても良いのではないでしょうか?

茂木健一朗さんがクオリアと脳の関係について議論されています。

その中で「内観的に見て私たちの心の中でクオリアが持つ属性と、客観的に見た脳の中の情報処理過程は、密接に関連している。というか、両者は、同じ現象の、表と裏なのである。」とおっしゃっています。

前半の部分は、私も全くそのとおりだと思います。でも、後半の「両者は、同じ現象の、表と裏なのである」は、なぜ、一気にそこへ飛躍するのか理解できません。「密接に関連している」ということと、「同じ現象である」こととは、常に同じとは限らないと思います。水に映る月の影が、水を揺らすと、揺れるからと言って、水と月が同じ現象の裏表だとは言えないと思うのです。

クオリアという言葉は、通常なら「質」と言うところを、脳の現象から心の現象を説明する必要性から考え出された魔法の言葉ではないかと思います。

お礼日時:2007/02/13 16:18

#27です。


1.量=数 質=関数
2.量=粒子 質=力
3.量=単一の粒子の動き 質=複数の粒子の動き
4.量=内部点 質=限界点

以上、量と質を分けてみましたが、いかがでしょう。
どの質の定義も量に置き換わるでしょうか。
2については、力も粒子同士が交換する粒子と考えられています。
3については、複数の粒子の動きは単一粒子の集団で表せそうです。
ですから、2と3は違うような気はします。
残りの1か4が候補について少し考えます。

1.関数は量と量を対応させるという意味で量とは異なる概念だと思います。ただ、関数というものの存在がいえなくても、数学モデルは成り立つかもしれません。
4.限界点(臨界点)は、固体から液体の相転移する温度や、磁石が磁力を失うキュリー点などを考えました。これが、いちばん質に近いものだと思います。ただ、数学モデルでは、このような質の違いが必要でないというならば、それまでです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

なるほど。「質」にも色々な捕らえ方があるんですね。全く思い付きませんでした。

私は「質」を「五感が捕らえているもの」と考えていました。例えば、赤、黄などの「色」、ピアノの音色などの「音」、蜜の香などの「臭い」、つるつるやザラザラの「触感」、甘いや辛いの「味」などです。

「質」という「言葉の定義」が人によって異なると混乱の元ですから、ここでは、「質」という言葉をとりあえず使わずに、私の考えを述べさせていただきたいと思います。

まず、物質世界には、「色」「音」「臭い」「触感」「味」がないということです。しかし、「心」の方には、間違いなくあります。そうすると、疑問が沸きます。「色」「音」「臭い」「触感」「味」を持たない「物質」が、なぜ、「色」「音」「臭い」「触感」「味」を「心」に発生させることができるのかという疑問です。もし、物質世界を数学モデルだと考えると、この問題が解決できます。すなわち、数学モデルは、「物質」に働くのではなく、「心」に直接働くと考えられるからです。

お礼日時:2007/02/12 19:39

お礼文ありがとうございます。



つまりkobareroさんの仰りたいことは実在である数学モデルが物質という現象をうみだしさらに意識表象をもうみだす、ということでしょうか。
そうであるとしたら、さらに二通りの考え方(その数学モデルは現象を超越する原因であるのか、あるいは現象に内在する統一根源的な本質なのか)があると思うのですが、どうも前者のようですね。
とすると、この数学モデルは神の意志と言い換えてもよいのでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>数学モデルが物質という現象をうみだしさらに意識表象をもうみだす、ということでしょうか。

「現象」と「意識表象」の違いをどのように考えておられますか? 「現象」は人間の意識に引っかかる前の客観的なものとお考えでしょうか? そして、その客観的「現象」が「原因」となって、「結果」として意識に「意識表象」が発生する。そんな風なイメージでしょうか?

「意識表象」という言葉は、ちょっと難しくてあまり良くわからないのですが、例えば、同じリンゴを見ても、赤ん坊なら「得たいの知れない赤い部分」という「意識表象」なのが、大人だと「リンゴの通念どおり、リンゴの形をした赤い独立した物体」という「意識表象」として捕らえられる。たとえば、そんな意味合いでしょうか?

「現象」と「意識表象」を以上のように考えたとしたら、私の考えは、「現象」の方は、「現実にどこかに現れている」というようなものではなく、概念的に(アルゴリズム的にと言ったほうがいいかも知れません)存在しているだけだと思います。現実に存在しているのは、「意識表象」だけだと思います。ただ、「意識表象」は、概念的影響を受ける(リンゴとは何かとか、赤いとはどの色のことだとか)ので、何を持って「実在」というかは、難しいところです。

>とすると、この数学モデルは神の意志と言い換えてもよいのでしょうか。

「神」とは何でしょうか? 第一原因のことでしょうか? もし、そうなら、第一原因(神)は存在しないと思います。なぜなら、第一原因の原因が見当たらないからです。

原因はわからないけど、「とにかく今のこの現状をどう説明できるのか?」ということの方が、とりあえず、重要なように思います。

お礼日時:2007/02/12 19:13

>「物質」とは「数学モデル」のことではないでしょうか?


なるほど、段々反論が少なくなって、張り合いが無いですね。

それでは、その仮定をお認め致しましょう。
物質など無いのだと、ところで、それで一体何が変わるのですか。

この哲学は、結局、決定論に行き着くだけのような気がしますが。
自分の質問が文字制限で挫折してしまい、遊びに来ました。
お気に召さねばスルーして下さい。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>物質など無いのだと、ところで、それで一体何が変わるのですか。

子供の頃からずーっと不思議に思っていることがあります。それは、「なぜ、物が見えるのか」ということです。この疑問を投げかけると、100人中99人は、光が目に入って視神経から信号が脳に伝わるからと答えます。でも、それは、「物を見ると、なぜ、ある脳細胞が興奮するのか」の答えにしかなっていません。

結局、物質を想定すると「脳細胞」という物質が興奮することの説明はできますが、「見える」という「ひどく日常的で当たり前なこと」が説明できないのです。こんなに日常的で当たり前の現象が説明できないということは、「物質」という仮説に問題があるのではないかと思ったわけです。

それで、もし、「物質」などというものはなくて、「数学モデル」によって目に見える現象が直接制御されているのだと考えれば、一応説明が成り立ちます。ただ、この場合、その物(現象)を見ているのは一体「誰」なんだという問題は依然残ります。


>この哲学は、結局、決定論に行き着くだけのような気がしますが。

決定論というのは、「何」が決定するという意味ですか? 例えば、100万年後のあらゆる素粒子の位置ですか? もし、そうなら、量子力学の数学モデルでは、素粒子の位置は確率としてしか推定できないから、決定は無理ということになります。アインシュタインは「そんなアホナ」と言ってますが。

お礼日時:2007/02/12 18:45

質問に書かれていることをエレア派のパルメニデスが言っておりました。


「有るものは有る」「有らぬものは無い」という明言があります。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

パルメニデスがなぜ「有るものは有る」「有らぬものは無い」と言ったのかわからなかったので、以下のサイトを見ました。確かに論理的にはそうなんですが、現代科学によると、真空の何もないところから物質と反物質が生まれる場合があると言いますから、「有らぬものは無い」わけでもなさそうです。特に数学モデルで考えると、0=A+(-A)ですから、無から有はいくらでも作れそうな気がして怖いです。

http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/s6.html

また、以下のサイトのように、「運動がない」と言い切るのもすごいですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AB% …

お礼日時:2007/02/12 16:53

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