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「物質」というものが、本当に「実在」するのか疑問に思っています。

そもそも「物質」とは何かがよくわかりません。例えば、目の前のリンゴは、常識的には「物質」だろうと思います。そして、科学的知見によれば、その物質であるリンゴは、分子の集合であり、分子は素粒子の集合だということになります。しかし、その素粒子は、リンゴのように色が付いてないし、輪郭もはっきりしないし、正確にどこの位置に存在しているかすら確定できないし、波の性質と粒子の性質を併せ持つものと言います。そんな得体の知れないものは、常識的な感覚では想像できません。常識的な感覚では想像できないにも関わらず、何故、それが「実在」すると考えるのでしょうか? 

それは、「素粒子」の振る舞いについて数学的モデルが考えられ、その数学的モデルに基づいて計算した結果が「実験事実」と一致するからではないでしょうか? もし、「素粒子」についての「計算結果」が「実験事実」と一致しなければ、「素粒子」が実在するなどとは考えないのではないでしょうか?

ところで、「実験事実」とは何でしょうか? それは、「観測された現象に関する事実」ではないでしょうか?

このように考えると、以下のような結論になると思います。

この物質世界は「現象の集合」として認知され、その「現象の集合」は「数学的モデル」により説明ができる。

すなわち、この物質世界は現象であって、その現象の背後に現象の原因となる何か、多分一般には「物質」と呼ばれている何か、を想定する必要は全くないのではないでしょうか? 「物質」が実在しているわけではなく、「現象」と「数学モデル」が存在しているだけではないでしょうか? 言い換えれば、「物質」とは「数学モデル」のことではないでしょうか?

A 回答 (50件中21~30件)

お礼文ありがとうございます。



実質的内実と書こうとしたのですが間違えて打ってしまいました。いずれにしろ実質的内実は知りようがないのですが。

>物質」が実在しているわけではなく、「現象」と「数学モデル」が存在しているだけではないでしょうか? 

これは言い換えると、現象は感覚データー(外観)の系列で数学モデルは感覚データーの寄せ集め、ということになるのでしょうかね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>これは言い換えると、現象は感覚データー(外観)の系列で数学モデルは感覚データーの寄せ集め、ということになるのでしょうかね。

「現象」という言葉を、私は「心に映ったイメージ」という意味で考えました(一般的な定義と違うかも知れませんが)。その「心に映ったイメージ」は、一般には、心の外に独立して存在する「物質」の作用によって生まれると考えるのだと思いますが、私は、そのような「物質」というものは実は存在せず、「心に映ったイメージ」が直接「数学モデル」に従って動くだけの話ではないかと思ったのです。

その「数学モデル」はどこに記憶されているのか(PCゲームのアルゴリズムがメモリという物質に記憶されているように)という疑問が沸くかも知れませんが、例えば、通常考えられているように、「心」の外に「物質」があると考えたとしても、物質の間に働く「万有引力」を表す「数式」は「物質的」にはどこにも記憶されていないわけです。「物質」がなくても「数学式」は働くことができるわけです。

お礼日時:2007/02/11 23:36

#28です。

ご返事をありがとうございました。
>もしそうなら、「身」に飲まれた物質である「水」は、いつ「生命力」になるのでしょうか?
:人体の60%ほどは水分らしいので、水は生命力の構成員としての属性を元々持っている、と考えることが可能なように思います。
 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/02/11 23:06

#24です。


『なぜ「物質」なき「出来事」を敢えて考えるかというと、そう考えると、「物質」と「心」を統一的に考えることができると思うからです。』
というご質問の意図に私としては注目しているわけです。

>心身は相互に影響し合って、独立に切り離して考えることはできないという意味でしょうか? そうだとしたら、その通りではないでしょうか。
:心身は元々、生命力という「ひとつのもの」で、その表現形式が二通りあるだけ、という意味です。
「切り離して考えることはできない」というより、「切り離す必要性のないもの」あるいは「切り離すと意味の無くなるもの」と言ったほうがいいかもしれません。

肉体(身)は物質と言わざるを得ないと思いますが、kobareroさんとしては肉体も数学モデルだとおっしゃっていることになると思います。
(#6で述べたように、「物質が数学モデル」というお考えは非常に新鮮で興味深く受け止めています。)
また、心も現象のひとつと捉えることができるでしょうから、そう考えるのは「肉体と心を統一的に考えることができると思うから」ということになると思われます。
このへんに私の理解不足があるのかもしれませんね、おそらく。
それで、肉体と心を統一的に考えるための方法を探るよりは、肉体と心は元々ひとつのものであって、それが時によってはお互いの顔を立て合い拮抗している、と考えることもできるのではないか、ということを述べてきたわけです。

どちらかと言えば、ご指摘のように、
「>リンゴやバナナが数学モデルか実体を伴った物質かには、あまり関心が」ないということになるんでしょうか。
そういうつもりではなかったのですが、横槍的投稿になっていたかもしれないですね。
反省しておきます。
 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>:心身は元々、生命力という「ひとつのもの」で、その表現形式が二通りあるだけ、という意味です。

「心」「身」「物質」と分けて考えると、「心」と「身」は生命力という「ひとつのもの」で、「物質」は生命力のない別のものということでしょうか? もしそうなら、「身」に飲まれた物質である「水」は、いつ「生命力」になるのでしょうか?

お礼日時:2007/02/11 16:23

#8、#13です。


数学モデルの問題点は、それがある特定の数学モデルであるのか、それとも不特定の数学モデル(数学モデル一般)であるのか、はっきりとしていないことです。

特定の数学モデルであるならば、なぜ、その数学モデルでなくてはならないのかを説明できなければなりません。そして、現状では、数学モデルといっても、さまざまなものがあります。超ひも理論やループ量子重力理論など、競合するモデルが複数あります。ですから、どの数学モデルであるかをはっきりといえなくてはなりません。

一方、数学モデル一般であるならば、もちろん、問題はありますが、理解はできますし、おそらくおっしゃっているのは、こちらのことではないかと思っています。

しかし、数学モデル一般であるということは、実は説明力が何もないということになります。これが問題です。なぜこのような現象が生まれるかについて何も教えてくれません。ただ、このことから、説明力がない、換言すれば、どんな説明も可能である、ということがわかり、このことは、まさに数学モデル一般が物質と同じ性質を持っているようにも思えてくるのです。

ただ量と質の問題については、問題にする必要はないと思います。私たちは質を感じますが、量を感じることもできます。数学モデルでも量、質ともに、想定することは可能であると思います。質がわれわれの感じるものとは違ったとしても、それが原因で、質が存在しないということにはならないからです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>超ひも理論やループ量子重力理論など、競合するモデルが複数あります。ですから、どの数学モデルであるかをはっきりといえなくてはなりません。

私が数学モデルに関心を持ったのは、超ひも理論であっても、ループ量子重力理論であっても、結局、数学モデルであるという点です。要するに、物理世界は、具体的にどのような数学モデルになるかは、科学の進歩と共に変わって行くと思いますが、少なくと、数学モデルであり続けるのではないかということです。それともう一つの背景は、物質のミクロの世界にどんどん入り込んでいくと、結局、そこには、日常的な意味での「物質」は存在しないという点です。すなわち、空間に浮遊する「量」しかないということです。

>しかし、数学モデル一般であるということは、実は説明力が何もないということになります。

確かに物理現象の詳細を説明するのが目的なら、数学モデルも特定の具体的なものでないとダメですね。

>数学モデルでも量、質ともに、想定することは可能であると思います。

数学モデルで「質」を想定するというのは、具体的にはどのような場合ですか?

お礼日時:2007/02/11 16:14

どうもお礼文ありがとうございます。



我々が感じる時間、空間(感覚的直観)が持つ連続性が移動、継続する同一不変の物(実体)を産み出すと思うのですが、しかし実体を現象の函数関係に解消するといった機能論的思考は反面、世界の実質意内実を見失う可能性を孕んでいるとも言えるように思います。

こちらこそどうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

機能論的思考の背景には、世界が「精巧な機械」であることの発見があると思います。キリスト教では、神がこの世界を作ったわけですから、この世界は合理的で、人間が理解でき、支配できると考えたのだと思います(キリスト教は科学の母)。一方、世界の「実質的意味内容」という場合の「意味」は、「精巧な機械」としての世界の側にあるのではなく、それを支配しようとしている人間の「心」の側にあるのだと思います。「機械」そのものは、意味的には「中立」ですから、その「機械」が結局「数学モデル」であったとしても、「実質的意味内容」を失うことはないように思います。

お礼日時:2007/02/11 15:54

no22のものです。



例えば、飛ぶ矢を見ていて一瞬目を瞑ったときに(例え感覚データが与えられていなくても)その矢の次の外観をを容易に想像することができます。同様に林檎を見たとき実際には反対側は虫食い状態かもしれないのに完全な一個の林檎を想像してしまいます。
つまり日常生活というのは想像で成り立っているのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

そうですね。例えば、リンゴの生産者の場合は、ちゃんと裏も見て虫食いがないか調べるでしょうが、「生活かっかてる事」以外は、過去の経験から出る「想像」に任せますね。それが、日常生活というものです。

また、矢の生産者が、矢が途中でフラフラしないか必死になって見ているような場合は、矢の生産者は「想像」ではなく、「記憶」に頼っているのだと思います。運動というのは、「記憶」の中にしかないので、本当は時間が物理的に存在しているのかどうか疑わしいです。そういう意味でも、物質世界というのは、実在の世界ではなく、時間・空間含めて、数学モデルそのものではないかと思えてきます。

お礼日時:2007/02/10 23:10

>現代科学が正しいとすれば、物質に「質」がないのは、あまりにも明白な事実で、疑問を投げかける余地はないように思います。


:たしかにおっしゃるとおりなのですが、基本的にはこのような視点が数々の誤謬を招いているような気がします。
「赤いりんご」というものは存在しない、というのは命題として成立するのでしょうが、
りんごというもの(りんごという数学モデルでも良いですが)によって赤いという現象が引き起こされているという事実は否定できないわけです。
なぜバナナが赤く見えないかといえば、「心」の属性ということになるのでしょうが、しかし、同時にバナナにその属性が無いからとも言えるのではないでしょうか。

以下余談を少々。
ご存知かもしれませんが、心身は相互に象徴し合っている、という考え方があります。
デカルトの心身二元論にしても心身間の交流が脳内で行なわれていると捉えていたわけですが、
相互象徴論の骨子は、心身は別物ではなくひとつの生命力の現われにすぎないということです。
本来不可分のものですが、肉体として現われる場合もあるし、心として現われる場合もあります。
不可分のものの拮抗がとれていると快適と感じますし、一方の主張が強すぎるともう一方が盛り返そうとして摩擦が強くなりすぎ、心身のバランスが崩れるというわけです。
精神的な面、あるいは肉体的な面からだけ見て人を判断すると無理が生じるということでもあります。
当たり前のようですが、現実的にはそのような誤った視点で様々な現象を判断する人が多いのが実態でしょう。
余談の方が長くなってしまったようで、またすでにご存知であろう内容を長々と述べてしまい大変失礼しました。
「>そもそも、日常生活は錯覚の中で生きることだと思ってます」
という点は全く同感です。
余談の余談ですが、
生きていることは錯覚、あるいは虚構であるのかもしれませんが、生きていると感じること自体は錯覚と片付けるわけにもいかず、そのへんが・・・、というところでしょうか。
 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>同時にバナナにその属性が無いからとも言えるのではないでしょうか。

”その属性”が「赤い」という意味なら、”その属性”はリンゴにもありません。「赤い」という属性は「心」に属するものだと思います。
恐らく、hakobuluさんは、リンゴやバナナが数学モデルか実体を伴った物質かには、あまり関心がなく、いずれであっても、「心」に違った影響を与えるという意味で、同じことだと考えておられるのではないでしょうか? そのような考えがあっても全然おかしくないです。

>ご存知かもしれませんが、心身は相互に象徴し合っている、という考え方があります。

「象徴」という言葉が具体的に何を意味しているかわかりませんが、要するに、心身は相互に影響し合って、独立に切り離して考えることはできないという意味でしょうか? そうだとしたら、その通りではないでしょうか。  

お礼日時:2007/02/10 22:13

#20さんへのお礼を拝見してご質問の意図がやっとわかったので、改めて私見を述べてみます。


(本当はわかっていないのかもしれませんが)

>なぜ「物質」なき「出来事」を敢えて考えるかというと、そう考えると、「物質」と「心」を統一的に考えることができると思うからです。
:むしろ、物質と現象はお互いを象徴し合っていると考えるほうが科学的なのかもしれません。
つまり、現象を持たない物質はないし、物質に起因しない現象はない。
お互いに補完的拮抗によってそれぞれ成立していると考えることはできないでしょうか。

『>もし、「出来事」の背後に「物質」があると考えると、量しかない「物質」が、どうやって、「心」が感知する「質」に「変換」できるのか、その「量--->質」変換のメカニズムが全くわからなくなってしまいます。』
という点に関しても、
出来事というのは物質の質的面が量的面を押さえて自己主張する現象である。
あるいは、拮抗状態から質的な側に傾く状態である。
と言い換えることもできそうです。

「量--->質」変換がなされるのではなく、「質--->質」と同フィルターを移動するだけで、その質的要素を心が感知すると考えれば矛盾は生じないように思われます。
物質には最初から量も質も備わっており、「>量しかない」という認識に疑問を投げかけてみると、このような視点も可能になるのかなという気はします。
この場合の「物質の質」とは、前回お話した意志とお考えいただいても結構ですし、
突飛ですぎるということであれば、「結果としての意志」というように捉えていただいても結構です。
精神分析の考え方に心身相互象徴論というのがありまして、そこから敷衍した考えなのですが、わずかながらでも思考の参考になれば幸いと思います。
却って邪魔になる?
ご尤も・・・、私も確信のないまま手がかりを得ようとしての回答です。(^^;)
  
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この回答へのお礼

再び、ご回答いただきありがとうございました。

>つまり、現象を持たない物質はないし、物質に起因しない現象はない。

私は、むしろ、「現象」しかないのではないかと思っています。「物質」というのは「現象」を説明するために考え出された「仮想モデル」ではないかと思います。

>出来事というのは物質の質的面が量的面を押さえて自己主張する現象である。

物質に質的な面があるというのは、単純に錯覚だと思います。赤い花の「赤さ」、ウンコの「臭さ」、鶯の「ホーホケキョウ」、砲丸の「重さ」、バットで殴られる「痛さ」.....これらは、いずれも物質の属性ではなく、「心」の属性です。

>物質には最初から量も質も備わっており、「>量しかない」という認識に疑問を投げかけてみると、このような視点も可能になるのかなという気はします。

現代科学が正しいとすれば、物質に「質」がないのは、あまりにも明白な事実で、疑問を投げかける余地はないように思います。例えば、「赤いリンゴ」が「赤い」のは、リンゴが赤いのではないことは確かです。というのは、リンゴは「心」が赤いと感じる波長の電磁波を反射しているだけで、電磁波自体に「赤い」色が付いているわけではないからです。もちろん、日常生活で「リンゴは赤くない」なんて、馬鹿なことを言うつもりはないですよ。そもそも、日常生活は錯覚の中で生きることだと思ってますから。

お礼日時:2007/02/10 12:50

no20のものです。



意識表象である物質の運動と形式的な物質法則が一致すれば良いのですが、分析によって得られた概念と言うのは一個の全体ではなくて次々に視点を取って綜合して行くので蓋然性が重なってゆくんだと思うんですね。

壁にぶつかったという身体と壁との同質性とその感覚は受動的なもので、この受動性が外的物体の実在性という信念に繋がるのではないでしょうか。

これまた見当違いであれば、ゴメンナサイ。
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この回答へのお礼

>壁にぶつかったという身体と壁との同質性とその感覚は受動的なもので、この受動性が外的物体の実在性という信念に繋がるのではないでしょうか。

そうなんですよ。その「同質性」というのが、ポイントだと思います。「心」は、まずは「質」を直観的に感じ取るんですよね。「量」は後から知性が分析的に概念として把握するだけです。だから、「実在感」は「質」が圧倒的に勝っているわけです。

そのため、実際は「心」の外には「量」しかないのに、あたかも「質」が「心」の外にあるかのように錯覚してしまうんだと思います。リンゴが「赤い」のは、本当は、リンゴが「赤い」わけではなく、「心」に映ったリンゴのイメージが「赤い」だけなのに、どうしても、「リンゴ自身」が「赤い」と錯覚してしまうわけです。

お礼日時:2007/02/09 14:44

こんばんは


>物質とは何でしょう
はっきり言ってまだ判っていないのです。なんせすべて人間が考え人間の意識がそれを正しいと言っているだけなのです。
>「物質」とは「数学モデル」のことではないでしょうか?
まさにその通りです。
もうすこし補足しますと例えば壁があるとします、その壁を現象とします、現象ですから嘘かもしれません、なのでためしに体当たりしてみました「痛い!」ぶつかったわけです、何人同じことをしてもやはり目の前には壁が見え体当たりしても通り抜けることが出来ないわけです。よってそこに壁があるという数学的定義が出来るわけです。つまりこの世の中の人間の不特定多数が通り抜けることが出来ないと感じればそこには壁があるわけです。
哲学者で同じことを言っている人がいますね~誰だったか忘れましたが・・・
また、プラトンとアリストテレスのイディオにも通じます。http://www.geocities.jp/sein05_83/platon.html
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>つまりこの世の中の人間の不特定多数が通り抜けることが出来ないと感じればそこには壁があるわけです。

人々の経験をベースに世界モデルを作るということですね。

>また、プラトンとアリストテレスのイディオにも通じます。​

物理現象ならイデアの考えがぴったりな気がするのですが、生物界、人間社会などは、うまく説明できるのかなぁ。馬のイデアや資本主義のイデアなどと言ってみても、どんどん変わっていってしまいそう。プラトンに質問してみたいのですが.....。

お礼日時:2007/02/09 14:28

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