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「物質」というものが、本当に「実在」するのか疑問に思っています。

そもそも「物質」とは何かがよくわかりません。例えば、目の前のリンゴは、常識的には「物質」だろうと思います。そして、科学的知見によれば、その物質であるリンゴは、分子の集合であり、分子は素粒子の集合だということになります。しかし、その素粒子は、リンゴのように色が付いてないし、輪郭もはっきりしないし、正確にどこの位置に存在しているかすら確定できないし、波の性質と粒子の性質を併せ持つものと言います。そんな得体の知れないものは、常識的な感覚では想像できません。常識的な感覚では想像できないにも関わらず、何故、それが「実在」すると考えるのでしょうか? 

それは、「素粒子」の振る舞いについて数学的モデルが考えられ、その数学的モデルに基づいて計算した結果が「実験事実」と一致するからではないでしょうか? もし、「素粒子」についての「計算結果」が「実験事実」と一致しなければ、「素粒子」が実在するなどとは考えないのではないでしょうか?

ところで、「実験事実」とは何でしょうか? それは、「観測された現象に関する事実」ではないでしょうか?

このように考えると、以下のような結論になると思います。

この物質世界は「現象の集合」として認知され、その「現象の集合」は「数学的モデル」により説明ができる。

すなわち、この物質世界は現象であって、その現象の背後に現象の原因となる何か、多分一般には「物質」と呼ばれている何か、を想定する必要は全くないのではないでしょうか? 「物質」が実在しているわけではなく、「現象」と「数学モデル」が存在しているだけではないでしょうか? 言い換えれば、「物質」とは「数学モデル」のことではないでしょうか?

A 回答 (50件中41~50件)

#5で回答したものです。


「物理的世界の実在は、人の肉体的 “苦” の存在のみによって確証される」 と申し上げたのですが、それに対して、「夢の中で苦痛を感じるのは何故か」 とのご指摘ですが、
実は、夢の中で肉体的苦痛は存在できないことが、すでに確認されています。すなわち夢の中で、瞬間的に苦痛のイメージが生じることがあっても、それが継続して夢の中で存在することは有り得ないと言われています。 何故なら、もしその様なことが起こったなら、生理的生存本能により目が覚めてしまうからです。 生物の、苦痛を忌避する本能により、苦痛を感じたままで夢の中に留止まろうとしないのは当然かもしれません。
しかし、この現実の世界では、たとえば、猛烈な歯痛が生じても、我々はそれから逃れるすべは有りません。いつまでも、いつまでのその苦痛は続きます。 (その苦痛から逃れ得るのは、死によって、この現実の世界から本人が消滅した時ですが。歯医者で治療してもらえる可能性のない北海のエスキモーは、その歯痛から逃れるために銃で自分の頭を打ち抜いてしまうことがあるそうです。)

世界の実相が苦であるとき、喜びや笑いによって、世界の実体を感知し得ないものか、とのご感想も、喜びや笑いは(物理的)実在ではない、ということでしょうか。苦は、物理的肉体の損壊によって必然的に生じますが、喜びや笑いは、そのような物理的世界の外にあるものと見なされるます。釈迦は、喜びや快楽は、煩悩として退けても、苦のみは世界の実体を示すものとして説かれたのもそれなりの理由があったような気がします。
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この回答へのお礼

ていねいなご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/02/03 22:43

お騒がせの○○です。



kobarero様、悪い風邪に罹ってしまいましたか。

物質が無かったら、現象はどこから生まれるのですか。

量子の問題は、莫大な量、ちりも積もれば、と言うことです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>kobarero様、悪い風邪に罹ってしまいましたか。

幸い、風邪には罹ってませんが、つまらぬことに金がかかって困ってまぁーす。

>物質が無かったら、現象はどこから生まれるのですか。

えっ!? 「現象」という結果には、必ず、「物質」という原因があるはずだという意味ですか? もしそうなら、「物質」という結果には、どういう原因があるのでしょうか?

>量子の問題は、莫大な量、ちりも積もれば、と言うことです。

量子は「量」しか持ってないんです。「質」は持ってないんです。別に語呂合わせのつもりではないですよ。「質」は「量」が「心」と相互作用したときに、初めて現れるんです。ちりが千切れても積もっても、「物質」が「量子」の集合である以上、「物質」は「量」でしかないのです。だから、「物質」は「数学モデル」ではないかと思うのです。

お礼日時:2007/02/03 10:33

夢と現実の区別をすることはできないことかもしれません。



でも、この夢と現実を区別することのできるものが「物質」という考えではないでしょうか。つまり、夢には物質に対応するものがないのに、感覚が起こったりするのに対して、現実には物質に対応するものが存在して、だから、感覚が起こっているのだ、と考えることができます。このようにして夢と現実の区別が可能になるのです。

物質の代わりに数学モデルを導入するのも一つの手ではあると思います。ただし、数学モデルによって、夢と現実の区別ができないでしょう。数学モデルは、あらゆる可能性をつくることができるために、どれが現実であってもよくなってしまい、これがまさに現実であるということを主張できなくなってしまうことになると思われます。現実と同じくらい確かな可能性で、夢や空想の世界というものが考えられてしまうわけです。



しかし、夢と現実を区別できてしまうという前提が間違っている可能性は十分にあります。ですから、物質というものを考える必要はないかもしれません。ただ数学的モデルによって、完全に「物質」を消滅させることもできないように思います。それは、今まで、物質というものを考えることによって、うまく説明がついていたわけで、その考えにも慣れていたわけです。それに数学的モデルということ自体、何かをモデル(模倣)したものであり、何をモデル化したかといえば、それは「物質」世界だったのではないでしょうか。モデルの対象を失えば、モデル自身の意味もなくなってしまうように思われます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>夢には物質に対応するものがないのに、感覚が起こったりするのに対して、現実には物質に対応するものが存在して、

「夢には物質に対応するものがない」と判断するのは夢を見ている本人ではなく、夢を見ている人を見ている人ですね。夢を見ている人は、「対応する物質がない」と気づくことはできないと思います。同様に、人類全員が現実という「夢」を見ているのだと考えれば、実際には「物質」がなくても、「物質」があると考えるのではないでしょうか?

>数学モデルによって、夢と現実の区別ができないでしょう。

夢と現実の区別ができるかできないかは、数学モデルか物質かの違いではなく、現実にいる人が夢を見ている人を見ることができるかどうかにかかっていると思います。上述のように、人類全員が「現実」という「夢」を見ていた場合には、数学モデルと物質の区別は付かないのではないでしょうか? 現に、「現実」の中に生きている(と信じている)我々人類にとって、「素粒子の振る舞い」は「数学モデル」によってのみ表現されていて、それ以外の表現方法を持っていないと思います。

>それに数学的モデルということ自体、何かをモデル(模倣)したものであり、何をモデル化したかといえば、それは「物質」世界だったのではないでしょうか。

例えば、パソコンの画面上にボールが飛び跳ねるように見えるプログラムがあって、そのプログラムのアルゴリズムが数学の式で表現されているとします。この場合、数学の式(数学モデル)が画面上のボールの動きを模倣したと言えるでしょうか? 飛び跳ねるボールの方が数学の式に従って動いていると考える方が妥当ではないでしょうか? 「現実世界」の場合は、人類が数学の式を書いたわけではないですが、「自然」が書いた「数学の式」を発見したと考えれば筋が通るように思います。

お礼日時:2007/02/02 23:35

#6です。

ご返事ありがとうございます。
1、>「存在は保存と安定の拮抗によって成立している」
・この場合の「存在」というのは、「存在一般」ですか、それとも、ある特定の個物の「存在」ですか?
:両方のつもりです。

2、>「そこに厳然とあるもの」ではなく、「偶々あるもの」という視点に立ちやすいということです。
・これは、「物事は常に変化して留まることがない」という意味と同じですか?
:「物がある」ということは「あろうとする意志」が働いていると言って差し支えないと思いますが、
それだけではなく、「無くなろうとする意志」も同時に働いていて、その拮抗によって初めて「その物」として存在している、という意味です。
つまり、「俺はリンゴだ。文句あるか。」といったような主張はできないという意味で「偶々」という言葉を使いました。

3、>>「物質が実在するのは、現象が拮抗している状態である」
・ここで、「物質」とは何ですか? 「現象」との違いは何ですか?
:カントによると現象とは物質自体であるということになるらしいですが、私は難しいことはわかりません。
視認できるものとそうでないものとの違い、ぐらいにしか捉えていません。
物質の作用結果が現象、といったようなイメージでしょうか。
何かが融合して煙が上がったとすれば、
「何か」や「煙」は物質で「煙が上がる」のが現象、といったように単純な認識です。
 
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この回答へのお礼

>両方のつもりです。

保存と安定というのは親戚関係だと思っていました。拮抗することもあるんですね。

>「物がある」ということは「あろうとする意志」が働いていると言って差し支えないと思いますが、

「物に意志がある」というのはユニークな考え方ですね。

>物質の作用結果が現象、といったようなイメージでしょうか。

やはり、現象の背後に、その原因となる「物質」があるという考えですね。私は「物質」というものは、実は存在していなくて、その代わりに「現象」に直接働きかけるルールが存在しているのではないかという「変な」考え方に取り付かれています。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/02/02 22:47

>「物質」とは「数学モデル」のことではないでしょうか


:「数学モデル」の意味が良くわからないので漠然とではありますが、非常に興味深い視点と感じました。

また、『>この物質世界は「現象の集合」として認知』されるという点も面白いと思います。
やや飛躍するかもしれませんが、
「存在は保存と安定の拮抗によって成立している」という考えに通底するものがあるような気がするからです。
ご存知かもしれませんが、
保存とはある現象を創造・維持しようとする力であり、
安定とは現象の破壊・原点回帰を意味します。
これらの拮抗によってあらゆる存在が成立していると考えることによって、存在そのものに対する視点が変わってくるでしょう。
「そこに厳然とあるもの」ではなく、「偶々あるもの」という視点に立ちやすいということです。
「生の本能、死の本能」という考え方も、単に精神分析上の方法論としてだけではなく、生命というもの、また物質(あるいは存在)に関する解釈をする上でも有効なように思っています。

共感できる見解だと感じますが、私としては、
「物質が実在するのは、現象が拮抗している状態である」
と表現したいところです。

>常識的な感覚では想像できないにも関わらず、何故、それが「実在」すると考えるのでしょうか? 
:考える人本人が拮抗の結果として存在しているにも拘わらず、そのことに気付いていないため、
物質に対しても同様に「一意に実在している」と無意識的に認識するからでしょう。
>多分一般には「物質」と呼ばれている何か、を想定する必要は全くないのではないでしょうか? 
:必要性というより便宜性によるものではないかと思います。
ただ、便宜性にすぎない認識を真実と思い込むことによる誤謬は物質に限らず現出していると言えるような気はします。
 

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

透明なガラスドアに額をぶつけて痛い思いをしたから、そこにガラスドアが実在していると考えるのは、全く妥当な判断だと思います。

私が疑問に思うのは、「ガラスドア=物質」という考え方です。一言で「ガラスドアが実在している」と言っても、以下の2つの意味が考えられると思います。(1)の場合は問題ないですが、(2)の場合(通常はこちらの意味で考えられると思いますが)、疑問が沸きます。

(1)ガラスドアのイメージが実在している。
(2)ガラスドアという物質が実在している。

(1)の場合のガラスドアは、心に現れている「ガラスドアの像」と考えられます。(2)の場合のガラスドアは、物質である「ガラスドア」が心の外部に実体として存在していて、その実体が原因となって心に「ガラスドアの像」を作っていると考えられます。

なぜ、心の外部に物質と言う実体を想定しないといけないのでしょうか? 心に現れている「ガラスドアの像」が直接、痛みの原因と考えては何故いけないのでしょうか?

これに対する典型的な反論は、「じゃ、心に現れていないものは存在しないとでも言うのか?」というものだと思います。私の答えは、以下の通りです。

「心に現れていないものも存在するが、存在しているのは「物質」ではなく、イメージの働き方に関する「ルール」ではないかと思います。所謂「物質」と言われているものは、人々の心に「イメージ」がどのように現れるかに関するルールの束ではないかと思います。そのルールの中には、「心」が眠っているとき、あるいは、「心」が関心を向けていないときは「イメージ」は現れないというものも含まれますし、人々の「心」の間には、共有領域(所謂客観的世界)と個別領域(所謂主観世界)も含まれます。

かなり変な考え方だとは思いますが、逆に、心の外に「物質」という実体があって、それが「痛い」という感覚の原因だと考える場合には、夢の中で「痛かった」り、足が「重くて」なかなか走れなかったりする経験をどう説明するのでしょうか? 常識的には、脳細胞(という物質)が心にイメージを作り出していると考えるんでしょうね。でも、これについて、私は疑問がありますが.....。

>話は飛びますが、釈迦は、弟子から、「世界の実相は何か」 と尋ねられたとき、ただひと言 「苦である」 と答えたそうです。

話はそれますが、「喜び」や「楽しさ」や「笑い」は、何故、世界の実体を示してくれないと考えるのでしょうかね。 というのは、やはり、「喜び」の中にあるときこそこの世界の存在のありがたさをしみじみ感じると思うのですが。

補足日時:2007/02/02 13:16
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この回答へのお礼

大変申し訳ありません。#5の方への補足を間違って、hakobuluさんの補足のところに入れてしまいました。

ご回答ありがとうございました。いくつか、逆に質問があります。

>「存在は保存と安定の拮抗によって成立している」

この場合の「存在」というのは、「存在一般」ですか、それとも、ある特定の個物の「存在」ですか?

>「そこに厳然とあるもの」ではなく、「偶々あるもの」という視点に立ちやすいということです。

これは、「物事は常に変化して留まることがない」という意味と同じですか?

>「物質が実在するのは、現象が拮抗している状態である」

ここで、「物質」とは何ですか? 「現象」との違いは何ですか?

お礼日時:2007/02/02 13:29

以前、現在のように自動ドアがまだ普及していなかった頃、私は買物に出かけた店の入口の透明なガラスドアに何度か額をぶつけたことがあります。


もちろん、額に強い衝撃力を受けなければ、私はそこにガラスのドアがあることさえ気がつかなかったでしょう。しかし、その力を受けた後は、もはやそこには、ガラスドアが実体として存在するものか否か、その議論自体が無意味です。
この世界で、物質の存在を否定できなくするもの、それは、我々の肉体に働きかける物質の力、言い換えれば、その力による肉体の変形(額に生じるコブ)が引き起こす苦痛によってではないでしょうか。
もちろん、我々の肉体の延長とも考えられる各種実験器具によって、ある対象の力(質量)を検出することも可能ですが、しかし、最終的には、その力が我々に苦痛を与え得るものであることによってのみ、その対象の実在を (これはバーチャルでないと) 確信できるのではないでしょうか。

話は飛びますが、釈迦は、弟子から、「世界の実相は何か」 と尋ねられたとき、ただひと言 「苦である」 と答えたそうです。苦のみが、物質を含めた世界の実体を我々に知らしめてくれる唯一のものなのではないでしょうか。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

透明なガラスドアに額をぶつけて痛い思いをしたから、そこにガラスドアが実在していると考えるのは、全く妥当な判断だと思います。

私が疑問に思うのは、「ガラスドア=物質」という考え方です。一言で「ガラスドアが実在している」と言っても、以下の2つの意味が考えられると思います。(1)の場合は問題ないですが、(2)の場合(通常はこちらの意味で考えられると思いますが)、疑問が沸きます。

(1)ガラスドアのイメージが実在している。
(2)ガラスドアという物質が実在している。

(1)の場合のガラスドアは、心に現れている「ガラスドアの像」と考えられます。(2)の場合のガラスドアは、物質である「ガラスドア」が心の外部に実体として存在していて、その実体が原因となって心に「ガラスドアの像」を作っていると考えられます。

なぜ、心の外部に物質と言う実体を想定しないといけないのでしょうか? 心に現れている「ガラスドアの像」が直接、痛みの原因と考えては何故いけないのでしょうか?

これに対する典型的な反論は、「じゃ、心に現れていないものは存在しないとでも言うのか?」というものだと思います。

これに対する私の答えは、以下の通りです。

「心に現れていないものも存在するが、存在しているのは「物質」ではなく、イメージの働き方に関する「ルール」ではないかと思います。所謂「物質」と言われているものは、人々の心に「イメージ」がどのように現れるかに関するルールの束ではないかと思います。そのルールの中には、「心」が眠っているとき、あるいは、「心」が関心を向けていないときは「イメージ」は現れないというものも含まれますし、人々の「心」の間には、共有領域(所謂客観的世界)と個別領域(所謂主観世界)も含まれます。

かなり変な考え方だとは思いますが、逆に、心の外に「物質」という実体があって、それが「痛い」という感覚の原因だと考える場合には、夢の中で「痛かった」り、足が「重くて」なかなか走れなかったりする経験をどう説明するのでしょうか? 常識的には、脳細胞(という物質)が心にイメージを作り出していると考えるんでしょうね。でも、これについて、私は疑問がありますが.....。

>話は飛びますが、釈迦は、弟子から、「世界の実相は何か」 と尋ねられたとき、ただひと言 「苦である」 と答えたそうです。

話はそれますが、「喜び」や「楽しさ」や「笑い」は、何故、世界の実体を示してくれないと考えるのでしょうかね。 というのは、やはり、「喜び」の中にあるときこそこの世界の存在のありがたさをしみじみ感じると思うのですが。

補足日時:2007/02/02 13:18
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「正 法 眼 蔵-道元」  によると、



全世界にはよそから入って来たものは何もない。
全世界には一塵といえども、
新たに改めて受け取るものはないからである。
それは個々の有ではない。
すべては総合されているからである。
それは始まりが無い有ではない、
何ものもすべてはそれぞれ何ものとして在るからだ。

それはある時に始めて生ずる有ではない、
何ものもすべてはそれぞれ何ものとして在るからだ
(是什麼物恁麼来(シシモブツインモライ))。
それはある時に始めて生ずる有ではない、
移ろう時も万象の去来も常に変ることがないからである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

人間を含め物体であるところの肉体(形)を持つものは
時間軸上(参考質問:「時間軸の幅」http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1781738.html
では渾然一体の有でも無でもない(?)ビッグバン以前の状態で
時間が進むのではなく、物質が時間軸を光速で移動しているという見解があります。
その事を実感することはありませんが、一つの仮説として、
物質の全ては点又は線の二次元の存在であり分離してはいないもの。

にも関わらず、精神(を持つもの)は!
想像力を糧に幅や広がり持てるので何次元にでも(過去から未来へ、面から立体へ)飛躍させており
そうすることで分離したものの見方も出来ていて、
「私はリンゴを食べたい」と言っているようです。

「実在」については、色々考えてはいるのですが、難しいです。
実在はあたかも確認したかのような自己満足を得るもの以外にありません。

いやしかし、物理は(も)全然解りません!!。
頭の具合は常に不調なので(照笑)アテに全くなりませんが、
無理やり色んな見解を統合させてみた独り言のようなものです。
意味がやはり不明なら、飛ばしてください。
御気に為さらぬよう…(口癖になってしまった)。
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この回答へのお礼

大変面白いご回答ありがとうございました。

>是什麼物恁麼来

関係ないんですが、昔の偉い人は、中国語でものを考えていたんですね。

>時間軸上(参考質問:「時間軸の幅」​http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1781738.html​)

質問が面白いので、回答してしまいました。物理のカテなのに、皆さんの回答が意外に哲学っぽくて感心しました。

>時間が進むのではなく、物質が時間軸を光速で移動しているという見解があります。

私は、精神の中に記憶が蓄積されていく感覚が、「時間」のイメージを生み出すのであり、精神の外部に「時間」が客観的に存在するのではないような気がします。

>物質の全ては点又は線の二次元の存在であり分離してはいないもの。

そうですよね。そして、その考え方を延長すると、次元という考え方そのものが必要なくなるように思います。例えば、「2次元世界の人間」についての話をすると、「それは、思考の遊びであって、2次元世界にモノが存在することは不可能だ」と言う人がいます。何故なら、2次元は3次元方向の厚さがゼロだから存在できないというのです。もし、この考え方が妥当だとすると、「3次元世界の我々」も存在できないことになります。何故なら、3次元は4次元方向の厚さがゼロだからです。ということで、物質がN次元空間に存在するという考え方自体がおかしいように思います。

>「私はリンゴを食べたい」と言っているようです。

本来「リンゴが食べたい」だけだったのが、社会を構成する必要性から、「私が」が付加され、あたかも「私」という独立固体があるかのように錯覚するようになったのではないかと思います。本来、「私」も「あなた」も「梅干し」も「穴熊」も互いに相互作用する全体を構成している要因だったように思います。

お礼日時:2007/02/02 13:57

↓一読の価値アリ(量子について)


「シュレディンガーの猫の核心」が核心をついていない理由
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20060618/1 …
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この回答へのお礼

>「一切の「もの」が存在しないだけでなく、一切の「こと」も存在しない」

「もの」が存在しないのはわかりましたが、「こと」も存在しないというのは、今ひとつピンと来ませんでした。

でも、おもしろいサイト、ありがとうございました。

お礼日時:2007/02/01 19:55

色不異空 空不異色 色即是空 空即是色

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/02/01 19:50

あなたはリンゴを見ていると思っているかもしれません。


しかし、それは光線の反射を網膜が野神経へ伝えているだけの
ことであり、実際にそこにリンゴがあるかどうかはわかりません。
ここに錯覚や誤解ということがあります。
同様に、夜の闇の中で、「実際に」そこにリンゴがあったとしても
あなたはリンゴの存在を認識できません。
すべてはあなたの脳の問題です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

脳は物質ですから、電磁波によって、視神経や脳細胞が刺激されるだけで、色は見えないと思います。

お礼日時:2007/02/01 19:49
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