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「物質」というものが、本当に「実在」するのか疑問に思っています。

そもそも「物質」とは何かがよくわかりません。例えば、目の前のリンゴは、常識的には「物質」だろうと思います。そして、科学的知見によれば、その物質であるリンゴは、分子の集合であり、分子は素粒子の集合だということになります。しかし、その素粒子は、リンゴのように色が付いてないし、輪郭もはっきりしないし、正確にどこの位置に存在しているかすら確定できないし、波の性質と粒子の性質を併せ持つものと言います。そんな得体の知れないものは、常識的な感覚では想像できません。常識的な感覚では想像できないにも関わらず、何故、それが「実在」すると考えるのでしょうか? 

それは、「素粒子」の振る舞いについて数学的モデルが考えられ、その数学的モデルに基づいて計算した結果が「実験事実」と一致するからではないでしょうか? もし、「素粒子」についての「計算結果」が「実験事実」と一致しなければ、「素粒子」が実在するなどとは考えないのではないでしょうか?

ところで、「実験事実」とは何でしょうか? それは、「観測された現象に関する事実」ではないでしょうか?

このように考えると、以下のような結論になると思います。

この物質世界は「現象の集合」として認知され、その「現象の集合」は「数学的モデル」により説明ができる。

すなわち、この物質世界は現象であって、その現象の背後に現象の原因となる何か、多分一般には「物質」と呼ばれている何か、を想定する必要は全くないのではないでしょうか? 「物質」が実在しているわけではなく、「現象」と「数学モデル」が存在しているだけではないでしょうか? 言い換えれば、「物質」とは「数学モデル」のことではないでしょうか?

A 回答 (50件中31~40件)

こんにちは。



物質とその運動を出来事とその起こるプロセスと考えるのであれば時空という概念は不必要で、同一不変の物質が移動・継続するという考えは無意味になるでしょう。しかし時空は人間の感覚的直観の形式なので飛ぶ矢はやはり飛ぶ矢に見えるのでしょう。

見当違いであればゴメンナサイ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

多分おっしゃっていることと同じではないかと思うのですが、この世の現象は、全て「物質」なき「出来事」ではないかと思います。物理学は電子現象や原子現象という「出来事」が、相互にどのような関係で動いているかを数学的に説明しているのではないでしょうか?なぜ、敢えて「物質」という概念を持ち出す必要があるのかが、よくわからないのです。飛ぶ矢についても、やはり、飛ぶ矢の背後に何らかの「物質」があるのではなくて、単に「飛ぶ矢」という出来事があるだけではないかと思うのですが。

常識的には、「物質」というものが「現象」の背後にあると考えるのだと思います。でも、常識に反して、なぜ「物質」なき「出来事」を敢えて考えるかというと、そう考えると、「物質」と「心」を統一的に考えることができると思うからです。もし、「出来事」の背後に「物質」があると考えると、量しかない「物質」が、どうやって、「心」が感知する「質」に「変換」できるのか、その「量--->質」変換のメカニズムが全くわからなくなってしまいます。

お礼日時:2007/02/08 23:38

物質と考えた概念は、人間の創り出したものに過ぎないのだと思います。

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この回答へのお礼

物質の概念は、その客観性と一方的強制力において、物質以外の概念とは一線を画していると思いますが、そこが大変興味深いです。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/02/08 09:15

>たとえ話では、月に人を送ることはできません。



高校の物理あたりでは、距離の2乗の式で惑星の
運動が簡単に計算できるようなことが書いてありますが、
実際はそうじゃないんです。
 
 アポロ11号なども、大きな六文儀を積んでいて、
星の位置を確認しながら飛行していました。

 つまり宇宙船ですら、大航海時代の帆船同様、
現在位置を確認しつつある程度、感で飛んでいるんです。

>現象と数学的モデルが一対一の対応関係にあることを実証した結果だと思います。

 相対性理論だと、力は空間の歪みで表現できるいとして
いるし、量子力学がだと力は粒子が飛んで行って伝えて
いるというモデルで考えていて、力を表す数学的モデルも
一対一の関係にはなっていません。

>「心」と「物質」は全く次元の異なったものですから、
>いくら調べても「心」を説明することはできないと思います。

 心は説明できないものなのに、「物質」とは全く次元の異なったもの
と断言するのは、単なる主観で、そう私は信じているという
「信仰」の一種です。

 信仰を優先するなら、いくら客観的に科学的証明がされても、
「私は信じない」で終わってしまいますし、理性を基本とする
哲学的思考を基本としている科学を持ち出す意味がありません。

>「物質」は「量」の世界であり、

 古代ギリシャの人たちは、運動量などという概念を使わず
こんなふうに説明していました。宇宙は1つの大きな
動物であり、人間が自分の意思で手足を動かすように、
宇宙という動物は、自分の内部を物質を動かしている。

 運動にパターンがある場合があるのは、宇宙という動物の性格が
現れているだけだと。

 1つの現象を表現するのに、数学的モデルが複数存在していて
このモデルで全てを表現できるというものはまだありません。
 数式を用いた現代科学の手法では、予想しきれない
部分が沢山あるわけで、これは宇宙という動物の気まぐれの
部分かもしれないんです。
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この回答へのお礼

お考えはよくわかりました。ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/02/07 09:08

>「物質」って何でしょう?



質量があり、その存在が確認できるものです。


>「現象」って何でしょう?

 例えば、質量から発生する重力や
物質の放つ光。


>「一定の性質」を持った「量」だけです。それは、例えば、電磁波や磁界のようなものです。

 物質に限定すると、その量は「質量」に限定されると思います。
電磁波、或いは光は質量を持っていないので、物質ではあり
ませんが、運動量を持っているので、物質にあたると力や
エネルギーを物質に与えます。
 電子と電子の間に働くクーロン力は、光子が伝えています。
光(電磁波)は重力と同じで、力を伝える役割をしますが、
物質ではありません。

 人間は、力の発生という「現象」通じて「物質」の存在を
知るというのが現在の解釈で、現象は「数学のモデル」で表現
できるというのが現在の解釈ですが、これは16世紀ころからの
ヨーロッパの思想(ヨハネスケプラー、ニュートンなど)で、
少なくとも古代ギリシャの人たちはそうは考えておらず、
数学モデルで捕らえきるかどうかも決定的なことではありません。

>要するに、物質世界というのは、様々な「量」が浮遊しながら相互作用する真空の空間です。

 「量」と「数的的モデル」で考えるというのは、近代の思想で、
1つのたとえ話に過ぎません。

 今の日本の教育では、例えば投げ上げた石が落ちてくるのは
重力という力が働いていて、その力は距離の2乗で働き、
石の描く曲線は放物線という、円錐の断面を表現する
数学的曲線だと教えているわけですが、力という現象が
あると言ったのは、17世紀のローバート・フックや
ニュートンで、紀元前のギリシャの自然哲学(フィジック)では、
物体の運動の説明に、力という現象の概念や、数学を使って
いませんでした。近代物理の教育しか受けていない多くの日本人に
とっては、力と数式なしの運動の説明など想像できないものと思い
ますが。
要は、数学を使わない説明では、当然、「量」も出てきません。
数学を使った説明も、正しいかどうかはまだ分からないんです。

でも数学を使った現代物理の思想を信じる限り、「心」も結局
物質と現象でしかありません。心も測定器の一種という解釈が成り立ち
と思います。

>そもそも「物質世界」という空っぽの空間が「心」の外に存在していると敢えて考える必要があるのかという疑問が新たに沸いて来ます。

 現代物理学は、質量のある物質と、現象である重力や光を
同一の現象の変化の1つに過ぎないと捉えています。
 
 相対性理論によれば重力は空間の歪みであり、
電磁気学によれば光(電磁波)は、空間の振動と
考えられるので、「現象」とは空間の変動、或いは「空間その
もの」と考えられます。

 ところが、核分裂反応のように、物質が電磁波(ガンマ線)に
変わってしまう現象もあることから、存在している物質と、
力(重力、クーロン力<光>)と言う現象で捉えられている空間の変動、或いは空間そのものは基本的には同じものの裏表のような
関係が考えられるんです。

この回答への補足

大変興味深く読ませていただきました。ご回答ありがとうございました。

いくつか疑問があります。

>「量」と「数的的モデル」で考えるというのは、近代の思想で、1つのたとえ話に過ぎません。

たとえ話ではなく、現象と数学的モデルが一対一の対応関係にあることを実証した結果だと思います。たとえ話では、月に人を送ることはできません。もっとも、月に人を送ったというのはウソだと言う人もいますが...。

>数学を使った説明も、正しいかどうかはまだ分からないんです。

数学を使った説明が正しくなければ、日食を予測できないのではないでしょうか?

>でも数学を使った現代物理の思想を信じる限り、「心」も結局、物質と現象でしかありません。

「心」と「物質」は全く次元の異なったものですから、「物質」(あるいは、その構造物である「脳」)をいくら調べても「心」を説明することはできないと思います。「物質」は「量」の世界であり、「心」は「質」の世界です。「量」から「質」への変換がどのように行われているかについて、現代科学が解明することは、原理的に不可能だと思います。

補足日時:2007/02/06 16:58
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オカルト的な話になるんですがね、


物質の現像ってのがあるらしいです。
そしてそれは人間の思考内容を織り成す素材と全く
同じ素材によって、織り成されているらしいです。
感覚世界の事物は現像の濃縮されたもので、
それゆえ思考しつつ事物を理解できるのだそうです。
人間が事物についての思考内容を作るということは、
彼の内面がこの事物の感覚的形式からその現像へ
向きを変えたということだそうです。

詳しくはルドルフシュタイナーの神智学って本にのってます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

「思考」という現象には、とても興味があります。
「思考」は「感覚世界」と「内面世界」のどちらにも属さず、中に浮いているということになるのでしょうか? 「思考」しているのは「誰」なんでしょうね。 「私」でしょうか、それとも、「自然」でしょうか。不思議です。

お礼日時:2007/02/05 21:42

時間も空間も無限ではないでしょう。


時間や空間の果てには、時間でも空間でもないものが存在(?)するのではないでしょうか。
時間の果てはビッグバン以前、または遥か未来。
空間(マクロ)の果ては宇宙の向こう側。
空間(ミクロ)の果ては素粒子近辺なのではないですか?

だから素粒子は時間にも空間にも制約されないのでは?そんな素粒子と物質を関連付けるのは無理があると思います。

1メートルの素粒子が発見されれば別ですが…。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

時間や空間が本当に存在するのか、よくわかりません。
我々は物理空間に住んでいるのではなく、実は、論理空間に住んでいるのではないでしょうか?

お礼日時:2007/02/05 21:37

セル・オートマトンというものをご存知でしょうか



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AB% …

うまくセルの動作規則を作ればすれば、これで小さな宇宙をシミュレーションできます。この中に自分を複製するパターンも作れます。適度な乱数を使えば進化もできるはずです。進化の結果高度な情報処理能力を持ってそのうちに意識を持つかもしれません。この世界の中では、各セルの状態を記憶しているメモリが物質の実体です。

じつはこの宇宙もだれかが作ったセルオートマトンかもしれませんよ。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AB% …
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この回答へのお礼

セル・オートマトンっておもしろそうですね。ありがとうございました。

セル・オートマトンと精神をどうやって連結するのか、そこが難しいところです。

お礼日時:2007/02/05 21:33

#8です。


画面上のボールは確かに数式で動いているとしてよいことにしましょう。それでは、その画面そのものは、それまでもが数式で動いているということになるのでしょうか。あるいは、数式を操っている人までもが数式で動いているということになるのでしょうか。

「万物は数である」とはピタゴラスが言ったようですが、万物(物質)は数(数学モデル)によって規定されている、という意味にとらえることもできなくないと思います。そして、また、現象は物質によって決定されるということも定義としてあると思います。ですから、「数学モデル→物質→現象」という構図ができて、中間項である物質は、便宜上なくてもよいということなら、「数学モデル→現象」という構図になり、その通りかもしれません。ただ、このショートカットが妥当かどうかは不確かなことです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

「数学モデル→物質→現象」が妥当か、「数学モデル→現象」が妥当かは、ひとえに「物質」とは何かにかかっていると思います。

現代科学では、結局のところ、「物質」、すなわち、物質の究極である「素粒子」の中に、「素材」のような「質」的なものを発見できていないと思います。要するに「物質」の中には「量」しか見出していないと思います。そうであるなら、「物質空間」=「数学空間」と考えても矛盾は起こらないのではないでしょうか。

>あるいは、数式を操っている人までもが数式で動いているということになるのでしょうか。

人の「心」に「外界」として映っている部分は所謂「物理空間(客観世界)」ですから、これは、自分の身体も含めて数式で動いていると思いますが、「心」の「主観的部分」は数式で動いているのではないと思います。

お礼日時:2007/02/04 21:15

>えっ!? 「現象」という結果には、必ず、「物質」という原因があるはずだという意味ですか?



 物質とその運動がないと、現象や空間は存在していないのと
同じになるんです。

 例えば、右回転という現象を考えて下さい。
太陽系の自転を例にすると、例えばこんな感じです。

 太陽の自転が右回転に見える方向から見ると、
地球は右回転している・・・と言えるわけです。

 もし、この宇宙に、他の恒星や惑星がなく、
物質としては自転する地球だけだったとしましょう。
右、左の回転は定義できず、周囲に比較対象物が
ないことから、回転という現象そのものが
確認できないかもしれない。

 回転していれば、遠心力で回転が確認できそうですが、
遠心力という現象そのものも何か回転する実験装置
で確認しなければなりません。実験装置は、固定された
回転軸という物質に対し、回転する円盤といった物質の
運動の組み合わせになるでしょうから、ここでも
比較できる2個以上の物質の存在が、回転という
現象を決めていることになります。

 その、「自然」が書いた「数学の式」というものがある
にしても、そこから定義された現象が存在するためには、
まず物質が存在していないと駄目なんです。

 パソコンの画面上にボールが飛び跳ねるように見えるプログラムの
例で言うと、プログラムはまず画面上に適当に原点という
「存在」を決め、それに対して運動するボールという「存在」
を決め、その相対的な位置関係を、原点を画面上で固定した
まま数式で計算したとおりにボールを移動させますよね。

 まず存在ありきで、観測できる存在とは物質に他ならないわけ
ですから、存在なくして現象は存在できない、もしくは
確認できないんです。

 運動を計算するプログラムの結果も、原点と運動する
質点と結び付けないと単なる数字の羅列で意味をなしません。

この回答への補足

そうですね、おっしゃることは、常識的判断としては全くその通りだと思います。

ただ、ここは、一応哲学のカテなので、その常識を疑ってみてもいいのかなと思い、質問させていただきました。常識の目的は、日常生活を実務的に生きることですから、「物質」が「現象」を生み出しているんだという理解でOKだと思います。でも、もう少し、掘り下げて考えてみると、「物質」って何でしょう? 「現象」って何でしょう?

「物質」とは、常識的には固体や液体や気体のように、一定の広がりと質を伴った「素材」から出来ているものではないでしょうか? 例えば、自動車は鉄やプラスチックやガラスなどの「素材」でできていて、プラスチックは分子という「素材」でできていて、分子は原子という「素材」でできていて、原子はいくつかの素粒子という「素材」でできていると考えられます。

そして、問題はその素粒子はどんな「素材」でできているかということです。答えは、素粒子はいかなる「素材」も含んでいないということです。素粒子が存在する位置には、いかなる「素材」も存在しないのです。では、何が存在するかというと、「一定の性質」を持った「量」だけです。それは、例えば、電磁波や磁界のようなものです。

要するに、物質世界というのは、様々な「量」が浮遊しながら相互作用する真空の空間です。「量」だけで、「質」も「素材」もないからっぽの空間です。ここで、大疑問が沸いてきます。「量」でしかない物質世界の物質が、何故、我々には、「現象」として、「目に見えるイメージ」として現れてくるのでしょうか? 答えは、一つしか思い当たりません。それは、我々の「心」が物質世界に浮遊する「量」を「質」に変換しているのではないかということです。

そうだとすると、そもそも「物質世界」という空っぽの空間が「心」の外に存在していると敢えて考える必要があるのかという疑問が新たに沸いて来ます。

「量」しか存在しない空っぽの空間だったら、それは、もう、「数学モデル」ではないのかと思うのです。「数学モデル」が直接「心」と相互作用して、「量<-->質」変換をしているのではないかと思うのです。

まぁー、かなり乱暴な説明ですが、こんな感じの疑問を持っていますので、よろしくお願いします。

補足日時:2007/02/04 20:49
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成るほど、鋭い切り替えし。


風邪をひいているのは、私の方かも、若干微熱が。
将来、質の問題は量の問題に還元できのでは、
と、考えているのですが、
現在、私にはとても説明できる自信も有りません。
参考ページを上げておきますが、正直よく解りませんね。

私たちの現象は、物質と記憶の混合物。
「数学モデル」は不得手ですので、後は見学ですね。
お薬を頂いて、速く寝ましょう。

参考URL:http://www.s-yamaga.jp/nanimono/uchu/busshitsu-1 …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>参考ページを上げておきますが、正直よく解りませんね。

#3の方が引用されているサイトは、わかりにくいことを、すごくわかりやすく書いてあり、参考になりましたよ。

お礼日時:2007/02/04 19:35

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