ショボ短歌会

大河ドラマで本能寺の変をやっていましたね。昔TVで見たのですが、本能寺の変は、実は徳川家康と羽柴秀吉の共謀による暗殺であったと。そして実行犯の明智光秀は徳川家に入り、優遇されたと。
(その証拠に、光秀の首を秀吉は確認もしなかった、2代3代将軍の名前には光秀の字がつけられている、日光には明智平という地名まである、、、)

この説というのは、日本史学的にどういう位置づけ(立場)なのですか?やはり異端説??それとも実は史実に近いと思われているのでしょうか・・・

※こういう話題好きなので、その他にもあったら教えて下さい。。(長篠の3段程度の火縄銃隊では、実は騎馬隊が来る前に充填できなかったとか・・・)

A 回答 (65件中21~30件)

教えてgooトゥデイから誘導されてきました。


7年前の質問、しかも質問した方は退会済みということなんですが、
まだ回答して自説を披露していいということなんでしょうね。

7年前からならその後新たな発見もあります。
例えば本能寺が実は堅牢な要塞だったということも最近明らかになったはず。
さて井沢元彦さんの説ですが天智天皇は実は暗殺されたという説があります。
この根拠のひとつとして京都の南のほう、山城地方に天皇塚という塚があり
天智天皇の墓だったという伝承があるという話を取材されています。
人のうわさというのは1300年経っても消えることがないという一例だと
思います。
もし本能寺の変が豊臣秀吉の謀略だったとか、明智軍は救援に向かったのだと
すると必ずそれをうかがわせる噂が残ったはずです。当時の世の中では
軍勢は見れば何軍か分かるようになっていたはずですし、また当時の京都は
既に都会で人口もかなり多かった。しかし一般的にそのような流言の
類は記録されていないし、光秀三日天下と言われるように光秀に対して
好意的ではない。ということは当時の庶民の間でこれは光秀の暴走による
事件だったと理解されているということです。なので表面的に見える
秀吉、家康が関与した事象は存在しなかったと思います。

朝廷の陰謀だったとするのが物語的には面白いと思いますが、私はやはり
偶発説、たまたまその瞬間、信長の回りに軍勢がなく、明智軍だけが
京都に出撃できる位置にいたという偶然が光秀に魔ををささせたのだと
思います。

赤穂藩主の浅野匠守が刃傷に及んだのは鬱積したものはあったが、事件
そのものはその日の天候と松の廊下の光線の具合が誘発した偶発的な
事件だというメンタルヘルス面の要素を加味した説があります。

歴史には偶然が起こしたものというのはいくつもあると思っています。
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歴史好きです



取りあえず徳川家康の関与は無いと思います

信長が本能寺で遣られた時点で
家康は大阪に滞在していました

家康が命からがら尾張に帰って光秀討伐しようとした時すでに

 秀吉の中国大帰えしで光秀は終わってます

この時点で秀吉の天下です
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No,43yoosieさん



>光秀はあっさり安土城にあっさり入城できたっけ?

光秀は、6月5日~8日、安土城に入城していますよ。
6月2日、本能寺の変その日のうちに安土に入ったという説もあります。

>その前に安土城は焼かれていると思うけど
>なぜ反乱軍を鎮圧した正規軍が入城するのに
>焼く必要があるんだろうね。

安土城が燃えたのは、山崎の戦の後、6月15日~16日にかけてです。
安土城には光秀の光秀の女婿、明智秀満が守っていましたが、
山崎の戦の結果を知り、城を放棄し坂本城に移ります。
その残党狩りのどさくさで、織田信孝が城下に火を放ったのが
延焼したという説がありますが、何か違う意味があったような気がします。
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>>No.42さんへ


秀吉の手の内の者って誰?
それに、信長が少人数で入京するとも限らなかった訳で
それこそ報伝達手段も発達してなかったんなら
単騎で入京したのが分かってからじゃ遅いんじゃ?
そこがはっきりしないとすべて妄想になってしまうよ
あと、光秀はあっさり安土城にあっさり入城できたっけ?
その前に安土城は焼かれていると思うけど
なぜ反乱軍を鎮圧した正規軍が入城するのに
焼く必要があるんだろうね。
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はじめまして!楽しく拝見しました。


何の根拠もなく、自説を披露しちゃいます(笑)
私は秀吉の陰謀説なんです。
実は本能寺で信長を暗殺したのは、秀吉の手の者だった。
何故なら、信長を手勢のみで本能寺におびき寄せたのは、
他ならぬ秀吉。備中高松城を攻めていた秀吉は、自軍のみで
攻略可能にもかかわらず、援軍を要請した。
それに呼応した信長が、わずかな手勢のみで出陣したのは、
光秀の軍を伴うからである。
このとき既に、秀吉は毛利と休戦のお膳立てをしていた。
だからこそ、あの中国大返しが実現できたのです。

信長と同じく毛利攻めのために出陣していた光秀軍は、
本能寺の信長が攻められているのを知り、救出に向かいます。
そのときの言葉が「敵は本能寺にあり」なのです。
光秀の1万3000もの兵が、何の抵抗も受けずに京に入れたのは、
光秀軍が救援隊であったからであり、また本能寺の変の後、
光秀が安土城に無血入城できたのも、信長の死を報告に行ったまで。
また細川幽斎に宛てた手紙の中で50~100日もすれば畿内も落ち着く
ので、自分は引退する、などと書いたのも、自分が信長暗殺の
当事者ではないから、なのです。

その当時は、まだ情報伝達手段も発達しておらず、
謀反の張本人秀吉は、救援に向かった光秀の軍を、
後から反乱軍にでっち上げたのではないでしょうか。
それだけに、真実が伝播する前に光秀を殺害し、
間違った情報を正当化する必要があったのです。
そして、信長は、朝廷、臣下の各武将、その他
圧倒的多数のものに恐れられ、いずれ排除されるべき
と考えられていたために、多少の疑惑はあったとしても、
概ね歓迎された、というようなことなのではないでしょうか。
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>こういう話題好きなので、その他にもあったら教えて下さい。



の部分だと、

http://www.amazon.co.jp/review/product/408720225 …

本能寺の変の黒幕はイエズス会 という説。
南蛮勢力によって起こったという説です。


他に、歴史の教科書とは違う説だと、明治維新はあるフランス革命を裏で指揮したある秘密結社が起こしたという説。

http://www.amazon.co.jp/review/product/410414605 …

http://www.amazon.co.jp/%E3%81%82%E3%82%84%E3%81 …

どれも確証に至る証拠は無く推論ですが、内容は面白いですよ。
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(1)信長は謀略で殺されたのか―本能寺の変・謀略説を嗤う


(2)「本能寺の変」本当の謎
(3)真説 本能寺
黒幕説を否定し、単独犯説の元になった本だ
しかしこれらや既存の仮説には致命的欠陥がある。『世界史の常識の欠如』つまり『朝廷』を一勢力として捉えている点だ。そこであえて新説を述べる

それは『摂関家黒幕説』だ
実際に『朝廷』と書かれた部分を、
I天皇と親王 (信長と同盟関係)
II主流派摂関家 (最初から反信長派)
III非主流派摂関家 (近衛前久など。対主流派対策として信長に接近、のちに裏で主流派と手を組む)
IV他の公家 (日和見)
この4勢力に分割して読み替えるといい。すんなり読めることに驚くと思う

しかも黒幕説反証のすべてが逆転する
(反証1)謀反計画を隠し続けることは不可能
 (逆転解)第一次謀反事件は未遂。それが佐久間親子追放だ。しかし全貌解明は出来なかった。『~変』は元々この謀反計画の一部だった
(反証2)~変の直前で家臣全員の説得は不可能
 (逆転解)首謀者は家臣全員だった。光秀は妻子を人質にされた。信長の遺体消失も説明がつく
(反証3)吉田兼見の日記で「謀反」とあるのは、朝廷と対立関係になかった証拠
 (逆転解)天皇と同盟関係にあった信長を殺したのだから、「謀反」である
まだほかにもあるが、それらすべての反証が無効化し、「単独犯説」などの既存の仮説にあった矛盾が完全消滅する

最後に三言
「無罪の人(天皇と親王)の無罪の証拠を挙げ、犯罪者を含む勢力全体(朝廷)を無罪とすれば、いかなる凶悪犯罪者(摂関家)でも無罪の証拠をでっち上げることが出来る」
「信長が死んだとき、摂関家は大宴会を開き、天皇は絶望して倒れ、親王は光秀らと対立したことは歴史的事実」
 自説を長々と解説してすみません。
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公家黒幕説が多いみたいですが、当時天皇の権威なんて歯牙にもかけられていませんでした


天皇が葬式も出せずに遺体が腐ったまま置かれていたのは有名な話です
天皇家でさえそうなのでえすから、当時の公家のくらしなどは悲惨でした
(後の秀吉も天皇の権威を演出するのに四苦八苦しています)
そんな状況の中、いち早く天皇の権威を復活させようとしたのが信長です
事実、信長が京都に入ってからは天皇の暮らしぶりは、かなり良くなっています
そのような、信長を公家が打つでしょうか?
天皇家を信長がないがしろにした、と言われていますが
信長以前、足利の頃にはすでに天皇家はないがしろにされていたのですから
信長がないがしろにしたと言って、憤る必要は無いはず
そてどころか、復活させた大恩人です
以上のことからも公家陰謀説は妄想です
徳川家康と羽柴秀吉の共謀による暗殺説、これは過去ログにもあるよう
話にもなりません
足利将軍黒幕説もありますが、当時、将軍は毛利家の庇護を受けていました
足利が黒幕であれば、当然毛利は光秀の謀反は事前に知っていたはずです
となると、秀吉を追撃こそすれ和睦するなど考えられないことです。
実際の所は、よく言われているように本能寺の変は光秀のノイローゼによる結果と見るのが1番自然だと思います
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長宗我部黒幕説も聞いたことがあります。



光秀は信長暗殺後は織田の家臣とは敵対することになりますから、織田と敵対する他大名とは友好関係を築く必要があります。光秀と信頼の深かった他大名と言えば、長宗我部元親です。もともと、長宗我部と織田は友好関係にあり、長宗我部との織田側の窓口役が光秀でした。元親の息子の信親の「信」の字は他ならぬ信長の「信」から取ったものです。そのくらい織田と長宗我部は友好関係にありました。ですが、織田と三好が親密になるにつれて、三好家と敵対する長宗我部の存在が織田には疎ましく、1582年ついに長宗我部討伐の軍勢が四国へ向かいます。そして、同年6月、光秀謀反の本能寺の変へ突入していきます。その後、長宗我部は伊予へ進行し、1585年、四国統一を成し遂げたが、同年、既に近畿北陸を平定していた秀吉と対立、ジリ貧、降伏へと向かいます。
光秀は、謀反前には、既に西側諸国(毛利や長宗我部)と結んでいた可能性が大いに高いと言えます。
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NO.35の人が言ってる事って本当なの?


本当だとしたらすげーことだけど。
個人的には過去の事なんて結局分からないと思う。
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